第23話「右手だけ、おかえり」
朝。
右手で扉を開けた。
ピッ。
『入室 輪廻』
「うん」
昨日と同じ。
部屋の中にいるのに、透明な右腕にはまだ残っている。
『輪廻 未帰還』
「おはよう」
言ってみる。
右手は返事をしない。
昨日、自分で受け取った手。
握る。
開く。
わたしが動かした分だけ動く。
「今日もわたし」
それでいいと思った。
洗面台へ行く。
蛇口をひねる。
水が右手へ当たった。
冷たい。
左手にもかける。
同じくらい冷たい。
顔を洗おうとして。
鏡の下に、小さな表示があることに気づいた。
昨日まではなかった。
『帰還 1/7』
「……七?」
◇
「触らないでください」
「もう触った」
「何をですか」
「顔」
「表示をです」
「それは触ってない」
秩序ちゃんが、少しだけ息を吐いた。
朝の厨房。
鉄板では流焔ちゃんが卵を焼いている。
油のはぜる音の向こうで、秩序ちゃんはわたしの右腕を端末にかざした。
短い電子音。
『照合対象 輪廻』
「合ってる」
「待ってください」
次に左手。
ピッ。
『照合対象 構成部品:現行』
「……」
「わたしじゃない?」
「そういう結論にはまだ進みません」
「でも右手はわたし」
「表示上は」
「左手は部品」
「表示上は」
「顔は?」
「輪廻さん」
「表示は?」
「調べません」
「なんで?」
「今、必要がありません」
流焔ちゃんが鉄板から顔だけ向けた。
「ビビってんの?」
「必要がないと言っています」
「秩序ちゃん、ちょっと怖いんだ」
「輪廻さん」
「はい」
「面白がらないでください」
「ちょっとだけ」
「やめてください」
卵の黄身が割れた。
「あっ」
流焔ちゃんが固まる。
「流焔ちゃん、失敗」
「うるせえ! お前らが変な話してっからだろ!」
少し笑った。
右手も、ちゃんと口元を隠した。
わたしがそうしたかったから。
◇
七。
秩序ちゃんは、そこだけ先に調べた。
「輪廻さんの現在の身体構成数と一致します」
「七個?」
「大分類では」
頭。
胴。
右腕。
左腕。
右脚。
左脚。
それから、内部中枢。
「いっぱい替えたからね」
「正確な交換履歴はもっと細分化されています」
「じゃあ、七個帰ったらどうなる?」
「それを確認するために交換する、という提案なら却下します」
「まだ言ってない」
「言いそうな顔でした」
「わたし、そんな顔ある?」
「あります」
横から幽玄ちゃんが、わたしの右肩を見た。
「……一つだけ、違う」
「何が?」
「……右手」
「帰ってきたから?」
「……ううん」
幽玄ちゃんの視線が、右手から肩の継ぎ目へ移る。
「……前より、遠い」
「ついてるよ」
「……輪廻ちゃんからじゃない」
そこで黙った。
聞こうと思った。
でも、やめた。
幽玄ちゃんが言わないときは、言わない方にも理由がある。
「そっか」
「……うん」
◇
昼。
右手はよく働いた。
バンズを押さえる。
紙を折る。
トレーを持つ。
昨日までと違って先回りしない。
わたしが動かす。
だから、気にしないことにした。
卵のバーガーを一つ作った。
黄色いソース。
「今日は破れなかった」
「何が?」
流焔ちゃんが覗く。
「卵」
「それ普通だろ」
「前は破れた」
「じゃ成長したんじゃね?」
「卵が?」
「お前がだよ!」
バーガーを持ち上げる。
右の小指が、少し浮いた。
まただ。
でも。
今日は気づいた。
「待って」
「今度は何だよ」
小指を下ろす。
もう一度持つ。
今度は浮かせない。
「持てる」
「そりゃ持てるだろ」
「違う持ち方でも」
「……お前、今日ずっとそんな感じ?」
「たぶん」
「めんどくせえな」
「うん」
「そこは否定しろよ」
バーガーを一口食べた。
黄身が垂れた。
右手の親指につく。
舐めようとして、やめる。
布巾で拭いた。
別に理由はない。
やったことのない方をやりたかった。
透明な腕の中で、黒い一滴が動いた。
古い線ではない。
今日できたばかりの線へ。
◇
午後三時十二分。
店の入退室端末が鳴った。
誰も扉を通っていない。
ピッ。
『帰還 輪廻』
全員の手が止まった。
「来た?」
流焔ちゃんが扉を見る。
「誰もいません」
秩序ちゃんが端末へ走る。
わたしは動かなかった。
右手だけが、熱かった。
鉄板の近くにいたからだと思った。
でも左手は熱くない。
「輪廻さん」
「うん」
「右腕を見せてください」
袖をまくる。
透明な腕。
線が一本、増えている。
『帰還 2/7』
「二つになった」
「何が帰還したのですか」
「わからない」
「交換は?」
「してない」
「欠損は?」
「ない」
「何か受け取りましたか」
「バーガー」
「それ以外です」
「ない」
幽玄ちゃんが、わたしを見ていなかった。
床を見ている。
わたしの足元。
「……影」
見下ろす。
照明は真上。
わたしの影が床へ落ちている。
右腕の影。
左腕の影。
胴。
脚。
その中に。
右腕が二本あった。
一つは、わたしと同じ動き。
もう一つは。
少し遅れて動いた。
「増えた?」
「……戻った」
幽玄ちゃんが言った。
右手を上げる。
影の右手も上がる。
もう一本は、遅れて上がる。
指が開いた。
わたしは開いていない。
掌をこちらへ向ける。
床の上の黒い掌。
そこに白い文字が浮かんだ。
『右腕 帰還済』
その下。
『次回 頭部』
「……」
流焔ちゃんの炎が消えた。
秩序ちゃんが一歩前へ出る。
「交換は禁止します」
「うん」
「何があってもです」
「うん」
「輪廻さん自身の判断でも、です」
そこで、少し考えた。
「それはやだ」
「輪廻さん」
「わたしが決める」
「今は安全側へ」
「安全でも」
右手を握る。
「わたしの身体だから」
秩序ちゃんは何か言いかけた。
やめた。
「……では」
端末を下ろす。
「交換を行う前に、必ず私へ知らせてください」
「うん。それならいい」
約束した。
◇
閉店後。
帰る前に、入退室端末の前へ立った。
「実験?」
流焔ちゃんが聞く。
「帰るだけ」
「俺っちも見る」
「帰らないの?」
「見てから帰る」
秩序ちゃんもいる。
幽玄ちゃんも、少し離れている。
扉を開ける。
外へ出る。
ピッ。
『退室 構成部品:現行』
扉が閉じる。
三人がガラス越しに見える。
もう一度、右手で開けた。
ピッ。
『入室 輪廻』
「やっぱり」
秩序ちゃんの顔が変わった。
「何?」
「もう一度。今度は左手で開けてください」
外へ出る。
左手で扉を押す。
ピッ。
『入室 構成部品:現行』
右手。
『入室 輪廻』
左手。
『入室 構成部品:現行』
流焔ちゃんが頭を掻いた。
「端末が壊れてんじゃねえの?」
「その可能性も確認します」
「でも」
わたしは右手を見る。
「これだけ、わたしなんだね」
「表示上は、です」
「うん」
昨日、わたしはこの手を受け取った。
今日のわたしが。
なのに、記録の方は。
受け取ったわたしより、受け取られた手を輪廻と呼んでいる。
「変なの」
右手で左手を握った。
「わたしは、こっちもわたしなのに」
端末が鳴った。
誰も触っていない。
ピッ。
新しい表示。
『照合規則更新』
その下。
『帰還対象:輪廻』
『現行個体:受領者』
秩序ちゃんが息を止めた。
幽玄ちゃんが、わたしではなく右手を見る。
流焔ちゃんが端末へ近づこうとして、途中で止まった。
わたしはもう一度、左手を握った。
「受領者」
声に出す。
嫌な言葉ではなかった。
でも。
「それ、名前じゃないね」
右腕の黒い一滴が、ゆっくり肩へ上がった。
首の方へ。
次は頭部。
床の影に、二本目の右手がある。
その手だけが、わたしより先に。
自分の頭を指さした。




