第22話「受け取るって言ってない」
白い手が、わたしの右肩を掴んだ。
痛くはなかった。
冷たくもない。
ただ、ないはずの指が急に戻ってきたみたいに、肩の奥がむずむずした。
「……あ」
白い手の手首から先が、少しずつ見えてくる。
手首。
腕。
肘の手前。
わたしの肩の断面と、ぴったり同じ高さまで来た。
近づく。
身体の方が先に反応した。
肩の縁に、細い線が浮かぶ。
いつもパーツを替えるときに出る線。
「待って」
半歩、下がった。
白い腕が止まった。
「まだ、受け取るって言ってない」
誰も動かなかった。
白い手だけが、肩の前で開いたまま浮いていた。
◇
「現状を固定します。誰も触れないでください」
秩序ちゃんが端末を持ち上げた。
「触んな。俺っちが先に見る」
流焔ちゃんが横から手を出す。
「流焔さんもです」
「なんで俺っちだけ名指しなんだよ」
「触ろうとしているからです」
「まだ触ってねえ」
「その手を戻してください」
流焔ちゃんが渋々引っ込めた。
「わたしは?」
「輪廻さんも触れないでください」
「わたしの腕かもしれないのに?」
「だからです」
「そっか」
床には、昨日破られた紙の欠片がまだ透明袋に入れて残されている。
新しい紙はない。
でも、最初の紙の日付は今日だった。
『右腕 返却済』
『受領者 輪廻』
返却済。
受領者。
「返したのは、わかる」
白い手を見る。
「でも、わたしまだもらってない」
秩序ちゃんが端末へ入力する指を止めた。
「その認識を基準にします」
「うん」
「記録上の『受領済み』とは一致しません」
「じゃあ記録が間違ってる」
「現時点では、その可能性を除外しません」
「難しい言い方」
「輪廻さんが簡単すぎるのです」
白い手の小指が、少しだけ浮いた。
わたしと同じ。
◇
昼まで、右腕なしで働いた。
白い手は厨房の端にいた。
何にもつながっていないのに落ちない。
トレーの上へ置こうとしたら、そこから五センチくらい上で止まった。
「置けないんだ」
「……置かれてるんじゃない」
幽玄ちゃんが少し離れたところから見ている。
「じゃあ何してるの?」
「……待ってる」
「何を?」
幽玄ちゃんは答えなかった。
白い手へ近づこうともしない。
わたしは片手で箱を組んだ。
昨日より速い。
慣れた。
最後の爪だけうまく入らない。
「ん」
押す。
外れる。
もう一回。
白い手が動いた。
箱へ向かって。
「勝手にやらないで」
止まった。
指先が箱のすぐ横で止まる。
「……聞いてる」
幽玄ちゃんが言った。
「そうみたい」
わたしは左手で箱を押した。
今度は閉じた。
「できた」
白い手は動かなかった。
少しだけ、かわいそうに見えた。
気のせいかもしれない。
◇
休憩に入る前、流焔ちゃんが白い手の前へしゃがんだ。
「なあ。お前、燃える?」
「試さないで」
「聞いただけだって」
「火、出そうとしてた」
「出してねえよ」
指先に小さい炎がついていた。
「出てる」
「これは癖」
「便利な癖だね」
「輪廻ちゃんに言われたくねえ」
白い手が、流焔ちゃんから少し離れた。
「逃げた」
「チッ。ちゃんと見えてんじゃねえか」
「何が?」
「危ねえやつ」
「流焔ちゃんのこと?」
「お前、片手でも口は元気だな」
ちょっと笑った。
白い手の指が、一度だけ曲がった。
笑ったのかは、わからない。
◇
夕方。
白い手はまだ待っていた。
何度か動いた。
でも、わたしが「待って」と言うと止まった。
昨日みたいに先回りもしない。
わたしが落としたスプーンも拾わなかった。
床に落ちて、カラン、と鳴った。
「拾ってくれてもよかったのに」
白い手は動かない。
「……わがまま」
幽玄ちゃんが言った。
「わたしが?」
「……うん」
「そうかも」
スプーンを拾う。
洗う。
戻す。
それから、白い手の前へ行った。
「戻りたい?」
動かない。
「わたしの右腕に」
小指が少し浮いた。
「それ、返事?」
わからない。
だから今度は、自分の方を考えた。
右腕は欲しい。
片手は不便。
箱も遅い。
扉も開けづらい。
それに、この手は知っている。
わたしと同じ持ち方。
同じ癖。
たぶん、知らないことも知っている。
でも。
「昨日のわたしに返すんじゃなくて」
肩の袖をまくった。
「今日のわたしが、もらう」
白い手は動かない。
待っている。
わたしから肩を近づけた。
「受け取る」
その瞬間だけ、厨房の音が遠くなった。
肩の線が開く。
白い腕が触れる。
ぴたり。
継ぎ目が閉じた。
指先まで、一気に感覚が通った。
「……ある」
右手を開く。
閉じる。
もう一度開く。
今度は勝手に動かなかった。
わたしが動かした分だけ動く。
白かった皮膚の下へ、細い線が何本も浮かんだ。
やがて腕全体が、前と同じように透けた。
黒い一滴も戻っている。
「おかえり」
言ってみた。
右手は何も答えなかった。
でも、それでよかった。
◇
閉店後。
秩序ちゃんが最初の紙を見せた。
『右腕 返却済』
『受領者 輪廻』
下に、時刻が増えていた。
わたしが「受け取る」と言った時刻。
「今になった」
「はい」
「じゃあ、これで合ったね」
「この記録については」
「ほかは?」
秩序ちゃんが黙った。
透明な右腕を見る。
古い線。
昨日の線。
そして、今日の日付。
『輪廻 未帰還』
まだ残っている。
「今日だね」
「はい」
「じゃあ帰る」
「……今ですか?」
「うん」
「その記録を否定するために?」
「それもある」
上着を取る。
「あと、眠い」
◇
部屋の扉を開けた。
右手で。
ちゃんと開いた。
中へ入る。
照明をつける。
靴を脱ぐ。
扉を閉める。
「ただいま」
返事はない。
壁の入退室端末が短く鳴った。
『入室 輪廻』
透明な右腕を見る。
今日の日付。
その下の文字だけは、変わっていなかった。
『輪廻 未帰還』




