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第27話「それ、わたしに返して」


 左手が、字を覚えた。


 朝。


 冷蔵庫に貼ったメモを見る。


『たまご 6』


 昨日、わたしが書いた字。


 その下に、小さく。


『あか』


「……書いた?」


 左手を見る。


 知らない。


 少なくとも、わたしは書いていない。


 ペンを持たせる。


「もう一回」


 左手は動かない。


「赤」


 動かない。


「黄色」


 ぴく。


「そこ反応するんだ」


 ペンを置いた。


 メモの『あか』は、少し震えていた。


 昨日の注文票の字より下手だった。


 でも。


 読めた。


「覚えたんだ」


 左手の人差し指が、メモを一度叩いた。


◇


「自発的な筆記ですか」


「たぶん」


「輪廻さんが睡眠中に書いた可能性は」


「ある」


「帰還側が書いた可能性は」


「ある」


「左腕単独で書いた可能性は」


「ある」


 秩序ちゃんが黙る。


「全部あるね」


「嬉しそうに言わないでください」


「選べないから」


「選ぶ必要はありません。現時点では」


 メモを透明な袋に入れる。


「保管します」


「冷蔵庫の卵、六個なのに」


「別の紙に書いてください」


「めんどくさい」


「証拠を献立表にしないでください」


 流焔ちゃんが横から袋を覗いた。


「字、かわいいじゃん」


「下手だよ」


「お前の字より読める」


「返して」


「何を?」


「今の言葉」


「無理」


◇


 昼。


 昨日来た客が、また来た。


 赤いソースを追加した人。


「昨日のやつ、もう一回できます?」


「赤いの?」


「そう、それ」


「できる」


 注文票を書く。


 左手が先に赤いソースへ伸びた。


 今度は合っている。


「覚えてた」


「何がです?」


「こっちの話」


 客は首を傾げた。


 バーガーを作る。


 包む。


 左手は昨日覚えた折り方を使った。


 わたしは別の角を押さえる。


 もう速さを競わない。


 客へ渡す。


「昨日より早いですね」


「覚えたから」


 左手が、包み紙の端を一度だけ撫でた。


 客が帰ったあと。


「役に立ったね」


 左手に言う。


 指が一度、曲がった。


「でも、返さないよ」


 今度は動かなかった。


◇


 午後。


 左手が、急に熱くなった。


 火傷みたいな熱じゃない。


 血が一気に集まったみたいな熱。


「……来た」


 掌に文字が浮かんだ。


 インクじゃない。


 皮膚の下から、黒い線が寄ってくる。


『返却』


「直接書くのやだな」


 秩序ちゃんを呼ぶ。


 約束だから。


「触らないでください」


「触ってない」


「ご自身の手なので、既に触れています」


「難しいね」


 黒い文字が増える。


『返却』


『不足』


『左腕』


 そこで止まった。


「不足してるの、そっち?」


 返事はない。


 幽玄ちゃんが厨房へ入ってきた。


 左腕を見る。


「……今日は、近い」


「何が?」


「……返してって言ってる方」


「怒ってる?」


「……違う」


 幽玄ちゃんは少し考えた。


「……困ってる」


 わたしは左手を見る。


「そっか」


 昨日より、ちょっと困った。


 敵なら嫌だと言えばよかった。


 困ってるなら。


「何に使うの?」


 掌の文字が崩れた。


 黒い線が組み直される。


『持てない』


「何を?」


 次の文字。


『右手』


「……右手?」


 自分の右手を見る。


 ちゃんとある。


 透明なところに、黒い一滴もある。


 幽玄ちゃんが息を止めた。


「……違う」


「何が?」


「……輪廻ちゃんの右手じゃない」


 わたしの左側。


 何もない空間を見る。


「……向こうに、右手だけある」


◇


 見えないものを説明してもらった。


 幽玄ちゃんには。


 わたしの左隣に、右手が見えるらしい。


 白い手。


 第21話で肩を掴んだものと同じかは、わからない。


 そこは秩序ちゃんがすぐ止めた。


「同一と断定しません」


「うん」


「形状が似ている、までです」


「うん」


「輪廻さん、聞いていますか」


「聞いてる」


 左隣を見る。


 何もない。


「右手だけで何してるの?」


 幽玄ちゃんが見る。


「……持とうとしてる」


「何を?」


「……自分を」


 少し変だった。


 だから笑った。


「無理じゃん」


「……うん」


「手だけで手を持てないよ」


 左手が強く握られた。


 痛い。


「痛い痛い」


 開かない。


「わかった。困ってるのはわかった」


 やっと開く。


 掌に新しい文字。


『七』


 七つ。


 帰還。


 全部戻せば、同じになる。


 前に入ってきた記憶を思い出した。


 でも。


 それが本当の過去かは、まだわからない。


「七個揃えたい?」


 文字は消えた。


◇


 休憩室で考えた。


 返したくない。


 でも、向こうが困っている。


 二つとも本当だった。


 流焔ちゃんがポテトを一本取る。


「半分だけ貸したら?」


「腕を?」


「知らんけど」


「縦に?」


「怖えよ!」


「じゃ横?」


「切るな!」


 ポテトを取られた。


「食うなよ俺っちの」


「考えた分」


「何の料金だよ」


 もう一本取る。


 左手でも一本取った。


 二本。


「……貸す」


「マジで?」


「腕じゃなくて」


 左手のポテトを見る。


「できること」


◇


 厨房へ戻った。


 幽玄ちゃんに、見えない右手の位置を教えてもらう。


「ここ?」


「……もう少し左」


「ここ」


「……そこ」


 左手を伸ばす。


 何もない空間。


「一回だけ」


 言う。


「左腕はあげない」


 掌を開く。


「でも、持ちたいものがあるなら手伝う」


 何も起きない。


 十秒。


 二十秒。


 左手が、わたしの意思とは別に少し上がった。


 幽玄ちゃんが目を細める。


「……触った」


「何に?」


「……右手」


 わたしには見えない。


 でも。


 左の掌に、指が一本乗った感じがした。


 冷たい。


 軽い。


 右手なのに。


 左手で、その見えない指を握る。


「これなら?」


 頭の中へ、知らない感覚が来た。


 握られている。


 同時に。


 握っている。


「……両方わかる」


 幽玄ちゃんが小さく頷く。


「……向こうも」


「向こうも?」


「……握られてるの、わかってる」


 左手を離そうとした。


 見えない右手が、離さなかった。


「一回だけって言った」


 離れない。


「終わり」


 まだ。


「返して」


 その瞬間。


 ぱっと離れた。


 左手が戻る。


 自分の胸へ当たる。


「……返した」


 幽玄ちゃんが言った。


「うん」


 今度は。


 わたしが言った『返して』で。


◇


 閉店後。


 端末は鳴らなかった。


 誰も見に行かなかった。


 わたしは左手で冷蔵庫のメモを書き直した。


『たまご 4』


 朝は六個。


 二個使った。


 その下に。


 少し迷ってから書く。


『あか』


 左手が勝手に動いた。


 横に一文字。


『おぼえた』


「長いの書けるじゃん」


 もう動かない。


「昨日より上手」


 左手を開く。


 掌の『返却』は消えていた。


 代わりに、小さな黒い線が一本だけ残っている。


 指の付け根から、手首まで。


 端末が。


 離れた事務所で、一度だけ鳴った。


 秩序ちゃんが見に行く。


 戻ってきた。


「輪廻さん」


「何?」


「帰還数は変化していません」


「三?」


「三です」


「そっか」


「ただし、一項目追加されています」


 紙を渡される。


 そこには。


『左腕 帰還拒否』


 その下。


『機能貸与 成立』


 さらに。


『所有権 未移動』


 左手を見る。


「所有って、誰の?」


「記載がありません」


「じゃあ、まだ決めなくていいね」


「そうですね」


 紙を畳む。


 ポケットへ入れた。


 左手が、その上を軽く叩いた。


 一回。


「今日のこと?」


 もう一回。


「覚えた?」


 もう一回。


 三回。


「……どれ」


 返事はない。


 でも。


 冷蔵庫には、わたしが書かなかった文字が残っている。


『おぼえた』


 帰ってくるものだけが、増えているんじゃなかった。


 こっちから渡したものも。


 向こうに、残り始めていた。

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