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第20話「明日の履歴」

 目覚ましが鳴る三秒前に、目が覚めた。


 なんとなく。


 手を伸ばす。


 三。


 二。


 一。


 ピピピピ。


「……あ」


 止めた。


 透明な右腕の中で、黒い一滴がこめかみの近くまで上がっている。


 昨日、「おかえり」と言われた。


 覚えのない帰還。


 覚えのない昔のわたし。


 でも朝になれば、少しどうでもよくなっていた。


 仕事がある。


 お腹も空いた。


 それより。


「今日、卵のやつ食べたい」


 そう思った。


 なぜか、とても。



---


第一章「落ちるよ」


 厨房では、流焔ちゃんがソース瓶を三本抱えていた。


「輪廻ちゃん、どれ使う?」


「黄色」


「即答かよ」


「卵に合いそう」


「今日は卵なんだ?」


「うん」


 流焔ちゃんが黄色い瓶を投げた。


 受け取ろうとして、


「それ、落ちるよ」


 口が先に動いた。


「は?」


 瓶はまだ流焔ちゃんの手にある。


 次の瞬間。


 棚の角に肘が当たった。


「あっ」


 赤い瓶が滑った。


 わたしは手を伸ばした。


 掴む。


 床まで、あと十センチ。


「……おお」


 流焔ちゃんが目を丸くした。


「なんでわかった?」


「わかんない」


「見えてた?」


「まだ落ちてなかった」


「じゃあ勘?」


「たぶん」


 黄色い瓶を受け取る。


 胸の奥が、少しだけざらついた。


 透明な腕を見る。


 一本の細い線が光っている。


 そこでは、


 赤い瓶が床へ落ちていた。


 割れていた。


 ソースが飛び散っていた。


 流焔ちゃんが笑っていた。


『うわ、秩序ちゃんに殺される』


 まだ起きていない。


 もう、


 起きなかった。


「……流焔ちゃん」


「あ?」


「今、赤いの割った?」


「割ってねえよ。お前が取っただろ」


「そっか」


 線の中では、


 割れている。



---


第二章「掃除しなくていい」


 秩序ちゃんに見せた。


「これは、いつの記録ですか?」


「知らない」


「輪廻さんが取得した履歴でしょう?」


「うん」


「では、発生時刻は?」


「今くらい」


 秩序ちゃんが黙った。


 床を見る。


 赤い瓶は無傷。


 流焔ちゃんが棚へ戻した。


「記録上の事象と、現在の事象が一致していません」


「わたしが取ったから」


「なら、履歴として残るべきなのはこちらです」


 秩序ちゃんがわたしの腕を指した。


 実際、別の線ができていた。


 赤い瓶を掴む。


 割れない。


 それが今の履歴。


 そのすぐ隣に、


 割れた履歴。


 二本。


「どっちが本物?」


「現在確認できるのはこちらです」


 秩序ちゃんは、割れなかった方を示した。


「じゃあ、こっちは?」


「わかりません」


「消す?」


「触らないでください」


 もう触っていた。


「あ」


「輪廻さん!」


 割れた方の線が、指先から腕の奥へ走った。


 一瞬だけ、


 匂いがした。


 甘辛いソース。


 床に散ったガラス。


 流焔ちゃんの笑い声。


 それから、


 雑巾を持ったわたし。


『掃除しとく』


 知っている。


 やった覚えはない。


 なのに、


 雑巾の重さまで知っている。


「……掃除しなくていいんだ」


「はい?」


「今日は割れなかったから」


 秩序ちゃんが何も言わなかった。



---


第三章「卵」


 昼休み。


 卵を焼いた。


 別に特別な卵じゃない。


 少し半熟。


 黄色いソース。


 パティ。


 チーズ。


 バンズ。


 作っている途中で、幽玄ちゃんが来た。


「……それ」


「食べる?」


「……いらない」


「おいしいよ、たぶん」


「……そうじゃなくて」


 幽玄ちゃんはバーガーを見ていた。


「……前にも作った?」


「今日初めて」


「……ほんと?」


「うん」


 ひっくり返す。


 卵の端が少し破れた。


「失敗」


 笑って、


 そのまま挟んだ。


 幽玄ちゃんは笑わなかった。


「……輪廻ちゃん」


「うん?」


「……それ、前にも破れてた」


 手が止まった。


「見えるの?」


「……少し」


 透明な右腕を見る。


 また線がある。


 卵。


 黄色いソース。


 同じ位置で破れた白身。


 同じバーガー。


 でも、


 その線の中のわたしは、


 食べていなかった。


 完成したバーガーを、


 誰かに渡している。


 顔は見えない。


「……誰?」


 線を追った。


 その瞬間、


 映像が途切れた。


「また空白」


 幽玄ちゃんは、わたしではなく背後を見ている。


「何かいる?」


「……いる」


「昔のわたし?」


「……」


「幽玄ちゃん?」


「……今日は、違う」


 小さく答えた。


「何が?」


「……後ろじゃない」


 幽玄ちゃんが、


 わたしの前を見た。



---


第四章「次に言うこと」


 卵バーガーを持ったまま、厨房へ戻った。


 秩序ちゃんがこちらへ歩いてくる。


 その瞬間。


 知った。


 次に言うことを。


「輪廻さん。そのバーガーを一度、こちらへ」


 同時に、


 わたしも口を動かした。


「そのバーガーを一度、こちらへ」


 秩序ちゃんが止まった。


「……なぜ、私の発言を?」


「知ってた」


「聞こえていましたか?」


「まだ言ってなかった」


 秩序ちゃんの表情が変わる。


「次は?」


「え?」


「私が次に何を言うかわかりますか」


 待つ。


 何も来ない。


「わかんない」


「では、先ほどだけ?」


「うん」


 ほっとした。


 その直後。


 頭の奥に、


 短い声がした。


『床を見る』


「……?」


 床を見た。


 何もない。


 秩序ちゃんも視線を落とす。


「何か?」


「わかんない」


 カチ。


 頭上で音がした。


 照明固定具の一本が外れた。


「秩序ちゃん!」


 手を引く。


 照明が落ちた。


 作業台を直撃した。


 金属音。


 破片。


 卵バーガーが潰れた。


 数秒、


 誰も動かなかった。


「……輪廻さん」


「うん」


「なぜ気づきました?」


「わかんない」


 嘘じゃない。


 わからない。


 でも。


 透明な右腕を見る。


 そこには、


 わたしが秩序ちゃんを引かなかった履歴があった。


 落ちる照明。


 砕ける作業台。


 そして、


 その下にいる秩序ちゃん。


 線はそこで途切れていた。


 喉が動かなかった。


「……これ」


 初めて、


 見たくないと思った。



---


第五章「消さないで」


「消せる?」


 わたしは聞いた。


 秩序ちゃんが破損箇所を固定しながら振り返る。


「何をですか?」


「この線」


「現時点では方法が不明です」


「そっか」


 腕を服で隠した。


 見えなくなった。


 それだけで少し楽だった。


 幽玄ちゃんが近くに来る。


「……輪廻ちゃん」


「今日は見ない」


「……うん」


「知らない方がいいやつもあるね」


「……ある」


 少し黙ってから、幽玄ちゃんが言った。


「……でも、消さないで」


「なんで?」


「……それがなかったら」


 幽玄ちゃんは壊れた照明を見る。


「……今の方も、なかったかもしれない」


 わたしは服の上から右腕を押さえた。


 嫌な履歴。


 起きなかったこと。


 見たくないもの。


 でも、


 それを見たから、


 秩序ちゃんを引いた。


「ずるいね」


「……何が?」


「起きなかったのに、役に立つ」


 幽玄ちゃんは少しだけ頷いた。



---


第六章「日付」


 帰る前。


 秩序ちゃんが、割れた瓶の履歴と照明の履歴を照合していた。


「輪廻さん」


「うん」


「一つだけ確認してください」


「何?」


 端末を見る。


 二つの存在しない履歴。


 赤い瓶。


 落下した照明。


 どちらにも、


 時刻がついていた。


「時刻、あるんだ」


「はい」


「今日?」


「日付だけが異なります」


 表示を見る。


 数字を読む。


 もう一度読む。


「……明日?」


「はい」


「でも、起きたの今日だよ」


「正確には」


 秩序ちゃんが言葉を切った。


「起きなかった事象です」


 わたしは画面を見た。


 明日。


 明日の履歴。


 今日起きなかったこと。


 胸の奥にいた黒い一滴が、


 また動いた。


 今度は頭へではない。


 透明な腕の中を、


 ゆっくり、


 指先へ戻っていく。


 その先に、


 新しい線が浮かんだ。


 まだ何も映っていない。


 日付だけ。


 二日後。


 その下に、


 一言。


輪廻 未帰還


 秩序ちゃんが息を止めた。


 わたしは、


 しばらくそれを見ていた。


「……未帰還って」


 昨日の声を思い出す。


 おかえり。


 透明な指先を握る。


「帰らないわたしも、いるんだ」


 黒い一滴が、


 線の中へ沈んだ。

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