第15話「使ったことのないもの」
昨日、知らないパーツが落ちていた。
透明だった。
形は、腕に近い。
でも腕ではない。
指があるような、ないような。
骨も見える。
でも、骨なのかどうかもわからない。
中には黒いものが一滴だけ入っている。
動いてはいない。
でも、見ていると少しだけ位置が変わったような気がする。
ラベルはない。
「……これ、なんだろ」
幽玄ちゃんが後ろから見た。
「……わからない」
「珍しいね」
「……珍しい」
万寿ちゃんも来た。
見た。
触らなかった。
「……美しいわ」
「やっぱり?」
「……でも、これは死体のパーツじゃない」
「そうなの?」
「……わからない。でも、普通の残留がない」
「残留がない?」
「……うん」
それは少し変だった。
輪廻が今まで使ってきたパーツには、だいたい何かがいた。
料理をしていた誰か。
植物。
呪詛。
食材。
世界線。
夢幻ちゃんの幻覚。
何かが残っていた。
でも、この透明なものには何もない。
空っぽだった。
……いや。
黒い一滴だけがあった。
---
第一章「どっちにする?」
◆朝の実験室
秩序ちゃんが来た。
透明なパーツを見つけたことを伝えた。
秩序ちゃんは、かなり長い間黙っていた。
「……発見場所は?」
「昨日の夜。キッチン」
「誰が置いたかは?」
「わからない」
「保管記録は?」
「ない」
「製造記録は?」
「ない」
「廃棄記録は?」
「ない」
「……」
秩序ちゃんが端末を操作する。
「M社の正式な部品番号が存在しません」
「じゃあ、使えない?」
「原則としては、使用禁止です」
「原則?」
「出所不明。規格不明。安全性不明。人体への適合性も不明です」
秩序ちゃんは透明なパーツを見る。
「……使わない方がいいでしょう」
その横に、標準型の予備パーツが置かれた。
「こちらなら使用記録があります。安全性も確認済みです」
並べられた。
標準型。
透明なもの。
「輪廻さん」
「うん」
「選んでください」
「え?」
「今すぐ交換する必要はありません。ただ、今後必要になった場合の候補として」
秩序ちゃんは言った。
「標準型を使用するか、不明パーツを保留するか」
「保留?」
「使わないという選択です」
わたしは二つを見た。
標準型。
普通。
安全。
使ったことがある種類。
透明なもの。
危ない。
何なのかわからない。
使ったことがない。
少し考えた。
「こっち」
透明なパーツを指した。
秩序ちゃんが止まった。
「……こちらを?」
「うん」
「理由を確認しても?」
「まだ使ったことないから」
万寿ちゃんが少し笑った。
幽玄ちゃんは黙っている。
秩序ちゃんだけが困った顔をした。
「……輪廻さん」
「うん」
「それは、第14話以前のあなたなら選ばなかった可能性があります」
「そう?」
「危険性が不明です」
「うん」
「安全な代替品があります」
「うん」
「それでも?」
「うん」
透明なパーツを見る。
「せっかく、誰かがここに置いたんだから」
秩序ちゃんが黙った。
「……誰かが置いたと確定してはいません」
「でも、棚から落ちてきた」
「それだけでは因果関係は——」
「じゃあ、誰が置いたかわかんないもの」
少し考える。
「使わないで終わるの、もったいない」
秩序ちゃんはしばらくわたしを見ていた。
「……今回は、あなたの判断として記録します」
「うん」
透明なパーツを手に取った。
冷たくなかった。
むしろ少しだけ温かかった。
「これ、使えるかな」
幽玄ちゃんが言った。
「……たぶん」
「たぶんか」
「……私も、今日はそれしか言えない」
---
第二章「透明な手」
◆午後
結局、透明なパーツは右腕になった。
身体に接続した瞬間、何かが変わった。
痛くはない。
重くもない。
動かせる。
指も動く。
普通の腕と変わらない。
ただ——
透けていた。
「……見える」
皮膚の向こうが見える。
骨。
血管。
神経。
筋肉。
でも、それだけではなかった。
右腕を通して、キッチンのものが少し違って見えた。
包丁。
フライパン。
作業台。
パティ。
全部に、薄い線がついている。
「……何これ」
幽玄ちゃんが近づいた。
「……線?」
「うん」
「……どんな線?」
「使った跡みたいな」
包丁を持った。
すると、透明な腕の中に線が一本増えた。
昨日。
その前。
もっと前。
誰かが使った。
何度も使った。
包丁の履歴みたいだった。
「……これ、記録?」
万寿ちゃんが興味深そうに見た。
「……たぶん」
「記憶ではない?」
「……違うと思う」
「どうして?」
「……思い出せないから」
確かに。
わたしには包丁を使った記憶しかない。
でも透明な腕には、
もっと前の使用痕跡が見える。
自分の記憶じゃない。
誰かの記憶でもない。
ただ、
使われた。
という事実だけが残っている。
万寿ちゃんが少し黙った。
「……これは、面白いわ」
「そう?」
「ええ」
「何が?」
「記憶を保存しているわけではない」
万寿ちゃんが透明な腕を見る。
「……履歴を保存している」
---
◆夕方の問題
その日の仕込みで、パティを二つ並べた。
A。
第88世界線。
いつものもの。
B。
第27世界線残滓。
昨日、わたしを殺したもの。
秩序ちゃんから使用停止と言われている。
だから本来なら、Bは使わない。
でも透明な腕で触れると、違いが見えた。
Aには、たくさんの線がある。
料理。
運搬。
保存。
提供。
食べられた痕跡。
何度も何度も繰り返されている。
Bには——
線がなかった。
「……あれ?」
昨日、わたしを殺したはずなのに。
何もない。
使われた履歴がない。
世界線残滓バーガーなのに。
透明な腕には、
「使われたことがない」
としか見えない。
「……これ、おかしい」
幽玄ちゃんが見た。
「……何が?」
「昨日、わたし死んだよね」
「……死んだ」
「じゃあ、このパティは昨日わたしを殺した」
「……うん」
「でも、ここには何もない」
透明な腕を見た。
黒い一滴が少し動いた。
「……じゃあ」
少し考える。
「昨日死んだのは、このパティじゃないのかな」
幽玄ちゃんが黙った。
「……どういう意味?」
「わからない」
それだけだった。
---
第三章「選んだもの」
◆夜
仕込みが終わった。
透明な腕は普通に動く。
でも、見えるものが少し増えた。
使われたものには履歴がある。
使われていないものには、履歴がない。
ただそれだけ。
便利なのかどうかは、まだわからない。
でも一つだけ気になる。
黒い一滴。
腕の中にある。
透明な腕を光にかざした。
黒い一滴が少し動く。
右。
左。
また戻る。
「……これ何?」
幽玄ちゃんが見た。
「……わからない」
「今日それ何回目?」
「……たぶん、三回目」
少し笑った。
「幽玄ちゃん、今日はわからない日だね」
「……そうかもしれない」
そのとき、万寿ちゃんが来た。
「輪廻」
「うん」
「その腕、怖くない?」
「少し」
「……それでも使うの?」
「うん」
「どうして?」
少し考えた。
昨日までなら、
「新しいから」
だった。
今日は違った。
「もう使ったから」
万寿ちゃんが黙った。
「……使ってみたから、もうちょっと知りたい」
それだけだった。
透明な腕を見た。
「最初は、使ったことがないから選んだ」
「ええ」
「今は、使ったことがあるから使ってる」
「……それは同じ選び方じゃないわね」
「そう?」
「ええ」
万寿ちゃんが少し笑った。
「昨日は未知を選んだ」
「今日は?」
「……経験を選んだ」
その言葉を聞いた。
少しだけ考えた。
「じゃあ、明日はまた変わるかも」
「……そうでしょうね」
それでいいと思った。
---
◆帰り道
廊下を歩いていた。
透明な右腕を見る。
線がある。
たくさんある。
昨日までなら見えなかったもの。
使ったこと。
使われたこと。
残ったこと。
消えたこと。
そういうものが、薄い線になっている。
後ろを見る。
誰もいない。
でも気配はある。
昨日より近い。
「……ねえ」
幽玄ちゃんが隣にいる。
「うん」
「この腕、誰が置いたのかな」
「……わからない」
「わからないけど」
少し考えた。
「使ってよかったね」
幽玄ちゃんが黙る。
「……そう思う?」
「うん」
「……危ないかもしれない」
「そうかも」
「変なものかもしれない」
「そうかも」
「壊れるかもしれない」
「そうかも」
少し歩く。
「でも」
透明な右腕を見る。
「使ってみないと、わかんないから」
幽玄ちゃんが前を見た。
「……そうだね」
---
エピローグ「黒い一滴」
夜。
眠る前に、透明な腕を見た。
黒い一滴が動いた。
今日はもう、動かないと思っていた。
でも、
ぽつ。
と落ちた。
透明な腕の中を、黒いものが一滴だけ流れる。
そして止まった。
指先。
人差し指の先。
そこに小さな文字が浮かんだ。
文字というより、
傷だった。
でも読めた。
たった三文字。
「つぎへ」
「……?」
誰が書いたのかわからない。
いつ書かれたのかもわからない。
透明な腕を見た。
少し考えた。
「……次って何?」
返事はない。
後ろにも誰もいない。
でも、後ろから小さく音がした。
コン。
コン。
コン。
フライパンを叩く音。
ずっと前から知っている音。
わたしは少しだけ振り返りそうになった。
でも、やめた。
「……明日でいいや」
布団に入った。
透明な腕を枕元に置く。
明日。
何が起きるかはわからない。
でも今日は、
自分で選んだ。
それだけは覚えている。
前が広い。
今日は、
自分で広げた。
──────────────────
◇クルー視点モノローグ——秩序——正式記録
輪廻さんが、初めて明確にパーツを選択した。
標準型と未知型。
安全性が確認されたものと、出所不明のもの。
合理的な選択なら、標準型でしょう。
しかし輪廻さんは未知型を選んだ。
理由は、
「まだ使ったことがないから」。
この時点では、単なる好奇心とも解釈できます。
しかし、その後の発言には変化があった。
「もう使ったから」
同じ未知型に対する評価が、使用経験によって変化している。
これは重要です。
輪廻さんは、単純に新しいものを好んでいるわけではない。
未知であることを評価する場合と、
経験したことを評価する場合がある。
判断基準そのものが変化した。
今回の判断は、LOCALではなくSESSION程度の変化として記録します。
長期的な傾向とはまだ認定しません。
ただし——
輪廻さんが今後、
「一度使ったものをどう評価するか」
については観測価値があります。
追記。
透明パーツには正式な製造記録がありません。
それにもかかわらず、
輪廻さんが選択した後、
使用履歴が発生しました。
つまり、
「誰かが置いたから履歴がある」
のではなく、
「輪廻さんが使ったことで、履歴が発生した」
可能性があります。
それなら、このパーツの出所を調べるより先に、
輪廻さんが何を使ったのかを記録する必要があります。
……順番が逆かもしれません。
──────────────────
◇クルー視点モノローグ——幽玄——観察記録
透明な腕には、過去がない。
正確には、
過去の「記憶」がない。
でも、使ったという履歴は残る。
今日、輪廻が使った。
だから、今日から線ができた。
それは少し変だった。
輪廻はいつも、
過去を受け取っていると思っていた。
でも今日は違った。
輪廻自身が、
新しい過去を作った。
選んで。
使って。
残した。
だから——
輪廻の後ろにあるものが増えるのは、
死んだからだけではないのかもしれない。
生きている間にも、
輪廻は後ろを作っている。
……後ろ、気をつけて。
今日の後ろには、
輪廻自身が置いたものが一つある。
──────────────────
◇クルー視点モノローグ——万寿——記録・私的追記
私は「保存」が好き。
死んだものを残す。
記録する。
忘れないようにする。
でも輪廻は違う。
今日、輪廻はまだ存在しなかった履歴を作った。
透明なパーツには何もなかった。
だからこそ、輪廻が使ったことで初めて、
「輪廻が使った」
という事実が残った。
保存されるものは、
死んだものだけではないのかもしれない。
生きている最中にも、保存は始まっている。
……美しいわ。
ただ一つ。
あの黒い一滴が何なのか。
それだけは、まだわからない。
そして私は、
わからないものが輪廻の中にあることを、
少し嬉しく思っている。
──────────────────
◇クルー視点モノローグ——輪廻——夜の記録
今日は、自分で選んだ。
標準の方もあった。
透明な方は、危ないかもしれなかった。
でも、使ったことがなかった。
だから選んだ。
使ってみたら、変なものだった。
でも、ちょっと面白かった。
明日どうなるかはわからない。
壊れるかもしれない。
戻すかもしれない。
また別のものにするかもしれない。
そのときは、そのとき考える。
今日はもう寝る。
透明な腕は、少しだけ光ってる。
黒い一滴は動かない。
たぶん。
……たぶんだけど。
前が広い。
今日は、
自分で選んだから。




