9. 光
話が飛んでいるところがありますが、3~5話の冒頭部とリンクしているので、そちらをご参照ください。
いつも、選択肢は無かった。どこかに投げ出されることがわかっても、それを防ぐ道は無い。気付いたときには、すべてが手遅れだった。そんな状況を生み出した自分を呪いながら、なんとか受け身をとって、傷を最小限にする努力をすることしかできない。ずっと、その連続だった。
「初めまして。俺の名前はアイクだ」
長身の男はそう言って手を差し出した。レイドはおずおずとその手を握った。
「凍死寸前だったと聞いたが、もう体は大丈夫か?」とアイクは言った。
「……おかげさまで」
「そうか。それはよかった」
アイクは大きく息を吸って、それを全身に行きわたらせようとしているかのように、数秒息を止めた。
「これから言うことを、落ち着いて聞いてほしい」とアイクは言った。「お前が今までいた場所は、帝国の実験施設だ。他にも同じような場所はあるが、そこでは人体実験がされていた」
レイドは肩にかけられた毛布の端を握りしめた。体は冷えきっていたのに、手が汗ばむのを感じた。
「“凶星”の話は聞いたな? あれを使った人体実験だ。異能を持つ人間を人工的に作り出すために、身寄りのない子供を使って行われた悪魔の実験だ。お前はその被験者だった」
レイドはアイクの目を見つめた。「あんたも、赤い目をしてる」
「ああ、そうだ。俺も同じだよ。赤い目の悪魔だ」
アイクはほのかに湯気が立つ茶を差し出した。レイドは一口だけそれを飲んだ。
「ここがどこかはわかるな? お前は革命軍に保護された」アイクは自分の茶をすすった。「これから、お前には俺たちに協力してもらう。申し訳ない話ではあるが、お前にはそれしか無いんだ」
彼の言うことの意味はわかっていた。異能を持つ上に、帝国の思想に染まった人間は生かしておけないのだろう。生きるためには、彼らに魂を売らなければならない。
レイドは首を縦には振らなかった。
「どうした? お前の返事が欲しい」とアイクは言った。
茶から昇る湯気の白い粒子を眺めたまま、レイドは黙っていた。
「生きたいなら、一度うなずけばいい。それだけだ。それとも、帝国に忠誠を誓ったまま死にたいか?」
「……わからないんだ」
「わからない?」
「帝国も、革命軍も、どうなったっていい。戦争がしたいなら勝手にすればいい」
アイクは組んだ指を組み替えながら、黙って聞いていた。
レイドは続けた。「あんたらの仲間にならなかったらどうなるのかはわかってる。でも、それもどうでもいいように思えるんだ。俺の頭、おかしくなったのかな。このまま生きてたってしょうがない、って考えてるんだよ。やっぱりおかしいのかな」
喉がつまって、声が震えだした。加えて、頭が熱っぽくなるのを感じた。自分が良くないことを言っているのはわかっていたが、止めようという気も起らなかった。
「なあ、どうして俺を助けたんだよ。あのまま放っておいてくれれば、俺は死ねたのに。凍えてでも、飢えてでも、身を投げてでも……」目頭が熱くなり、軽くしゃくりあげた。「どうして俺だけ生きてるんだよ。これじゃ意味が無いんだ。俺だけが外に出てもだめなんだ。なんで、俺だけが……」
レイドは毛布に顔をうずめて泣き出した。命を救われた立場にありながら、こんなことを言うのは間違っている。そんなことはわかっていた。しかし、もう全部どうでもよくなっていた。どこかに身を投げ出して横になり、そのまま蒸発するようにこの世から消えてしまいたかった。悲しみが体を蝕み、胸を突き破って飛び出してきそうに思えた。むしろそうしてほしいとすら思えた。早くこの胸を裂いて、苦しみから解放してほしかった。しかし、当然そんなことは起こるはずがなかった。悲哀は心を壊さないぎりぎりの痛みでレイドを苦しめ続けた。
アイクは終始黙ったまま、毛布の中で肩を震わせる少年を見下ろしていた。
「どうしてあいつ死んじゃったんだよ。あいつ、何も悪いことしてないじゃないか。バケモノってけなされて、殴られもして。それでも一言も文句言わないで、じっとこらえて生きてたのに。なんであいつが死ななきゃならないんだ」
レイドの口はそれ以上の言葉を出せなくなった。暖炉の火の光がいやにまぶしく、冬の冷たい空気が全身を突き刺してくるように思えた。レイドは身を守るように体を丸めて、むせび泣くことしかできなかった。
机の上のカップが持ち上げられ、また置かれる音がした。次いで、静かに息を吸う音。
「お前に何があったのかは、俺は知らない。だから、お前が生きるべきだったか否かは、俺にはわからない」とアイクは言った。「だが、これは断言しよう。お前はこれから生きていくべきだ。生き延びたなら、その命を捨てるな」
屋根から雪が落ちる重い音がした。その衝撃はカップの中の茶色の水面を揺らした。
「死んだ者の分まで、なんてことを言いたいんじゃない」とアイクは言った。「生きる意味が見つからないなら、見つかるまで生きればいい。理不尽なことはいくらでもある。悲しむことしかできないこともな。だが、とにかく生きてみろ。どうにもならない泥沼の中に、何かが見つかるかもしれないと思いながら、手を突っこみ続けろ。きっと何も見つからないだろう。生きるっていうのは、そういうものだ。お前に起こったことも、そういうどうにもならないことの一つかもしれない。
だが、諦めてはいけない。生きることだけは諦めるな。陳腐な気休めにしか聞こえないかもしれないが、いつかその泥沼の中から、きっと何かを見つけ出すことができる。そのときに役に立つのが、何度も泥をさらった経験だったりする。その中に居続けるのはとても苦しいだろうし、どうしようもなく歪められてしまうこともあるかもしれない。もし逃げられるのなら、それも正しい選択ではある。ただ、死の道にだけは逃げてはいけない。絶対にな」
レイドはアイクの顔を見た。彼の表情は穏やかだったが、その赤い目には強い光が宿っていた。彼もまた、彼の言う泥沼の中にいる。そしてその中に沈みそうになりながら、必死で何かを探しているのだ。
その日、初めて自分で選択をした。
生きていく、という選択だ。
◇ ◇ ◇
あそこで見る風景は、いつも四角かった。二階建ての二つの建物をぐるりと囲んで、高い塀がそびえ立っていた。建物の一番高い所に行っても、見える景色は四角く切り取られた空ばかりだった。陽が射していてもなぜか薄暗く、塀の中には常に重い空気がただよっていた。
レイドは物心ついたときから、ずっとその塀の中で暮らしていた。それ以前の記憶は無かった。おそらく、そこにいたほとんどの子供たちもそうだっただろう。後から聞かされた話では、そこは帝国が運営している孤児院であるらしかった。もっと後から聞かされた話では、そこで帝国が孤児を使って人体実験をしていたそうだった。それでも、レイドは一定の感謝の気持ちを持ち続けていた。たとえ自分が実験に使われていようと、拾われていなければ、こうして生きていることもできなかっただろうからだ。
塀の中は文字通り閉じられた世界だった。それも、かなりひどくだ。そこには閉じられた世界に特有のものが多くあった。団結力や絆といった、言葉にすると美しいものだ。
閉じられた世界では“普通”でないものが忌み嫌われる。多数であることが正義だった。一度“普通”でなくなった者は、もうそこには戻れなかった。そうさせないことが“普通”だったからだ。
異能のことを知った日、レイドは普通であることから足を踏み外した。レイドの常人には無い視力は、周囲も薄々その異常さに感づいていたものの、気に留める者は多くなかった。しかし、異能を持たない者という事実は、レイドを決定的に普通からふるい落とす要因となった。
何もかもがひっくり返ったその日に、あの少女は現れた。彼女もまた、異常な人間だった。
「なあ、あの女の子のことなんだけど」
ある夜、リオはレイドのベッドで横になったまま話した。同室で暮らす彼だけは、変わらず接してくれていた。
「誰のこと? 女の子ならここには十五人もいるじゃないか」とレイドは言った。
「ほら、あの、ながーい金髪の。名前わからないんだけど」
「ああ、あの子か」
レイドは彼女を初めて見た日のことを思い出した。三年ほど前のことだ。雨が激しく、良くない思い出のある日だった。
「あの子がどうかしたのか?」とレイドは尋ねた。
「最近、変な噂が流れてるんだ。まあどれもくだらない話なんだけどな」
「どんな?」
「人造人間だとか、実は操り人形だとか、そういうの」
「なんだよ、それ」
レイドはあきれ顔だったが、リオは勢いよく体を起こして話を続けた。少しだけ目が輝いているようにも見えた。
「噂自体はつまらないんだけどな、考えてみると、あいつ普通じゃないんだよ」
レイドは「普通」という言葉にぴくりと反応したが、リオはその様子には気付いていないようだった。
「あいつ、ここに来てから何年も経ってるだろ。それなのに、全然変わらないんだよ。背だって大きくなってないし、顔立ちも変わらない。他の子はみんな少しずつでも変わってるだろ。昔のままのほうが良かったのもいるけど、それは置いといて。あいつだけ子供のままなんだよ。不思議だろ?」
「よく見てるな。もしかして気があるのか?」とレイドは冷やかした。どうにか話題を変えられないかと考えていた。
「そんなわけないだろ。それに、今のも聞いた話だからな」
「聞いた? 誰に?」
リオは少しためらってから、口を開いた。「ルークだよ。あいつがみんなに言いふらしてるんだ」
その頃は、夜に一人で外を歩いて、四角い夜空を見上げるのが習慣になっていた。最初は意味も無く外を歩いていただけだったが、ある日、星空の魅力にとりつかれた。星を見上げている瞬間だけは、塀の中の世界から抜け出して、空高くから地上を見下ろしているような気分になれた。レイドは塀の外の世界に思いを馳せた。ある時は森だった。またある時は海の真ん中だった。川が流れていたり、大きな火山があったりもした。そんなふうに空想しながら、レイドは空を見上げた。
レイドは図書室の誰も入らないような場所から星座の本を引っぱり出して、見える範囲の星を片っ端から覚えた。それは何の役にも立たなかった。それで誰かに認められるわけでも、成績が良くなるわけでもなかった。しかしそれは初めて自分から何かを学んだことだったし、少なくとも塀の中では誰にも手をつけられていない場所だった。レイドは次第に星の世界にのめりこんでいった。
あの日も、そうやって一人で空を見上げていた。雲も無く、透きとおる闇が星の色を鮮やかに引き立てている、綺麗な星空だった。
どこかから、低い笑い声が聞こえた。レイドの心にさっと雲がさした。この声には聞き覚えがある。ルークの取り巻きの声だ。
レイドはとっさに彼らの姿を探した。思い返せばただの笑い声一つだったが、なぜだか妙な胸騒ぎがしていた。建物の形状と配置のせいで死角が多く、レイドは曲がりくねった道をぐるぐると回らなければならなかった。彼らは人の目につきにくい場所を選ぶだろうと思い、いくつか見当をつけて順に回った。空振りに終わるたび、レイドは頭をかきむしって焦りを強くした。
気持ちを落ち着けるために空を仰ごうとしたとき、窓ガラスに何かが映ったことに気が付いた。はっとして目を凝らすと、ガラスに反射した人影が、さらにレイドが見ているガラスに反射して映し出されていた。見える後頭部はルークのものだとひと目でわかった。さらにその奥にいる小さな人影――。
レイドは気付くと駆け出していた。ガラスが見せた光景がどこにつながっているのか、急いで頭の中で地図を組み立てながら、息を切らせて走り続けていた。どうして自分はこんなに必死になっているんだろう。そんな考えが頭をよぎったが、すぐにどうやって最短距離で目的地までたどりつくかという考えに置き換わっていた。
低い声がかすかに聞こえ、何かが弾けるような音があった。レイドは足を速めた。そしてまた笑い声が聞こえた。
角を曲がると、誰かが声を上げた。ルークの取り巻き二人と、あの少女が、目を見張ってこちらを見ていた。少女の肘からにじむ血を見て、レイドは自分の頭に血が上っていくのを感じた。少女の前に立っているルークがゆっくりと振り向き、顔をしかめた。
「お前ら、何してる」
レイドは自分の声にこもった怒気の強さに一瞬戸惑った。
「よう、レイド」とルークは言った。いつものように、少し首を曲げて見下すようにしながら。「邪魔するなよ。俺たちは仲良く遊んでただけだ」
腹の底から熱いものが突き上げてきた。しかしそれは怒りだけではなかった。それには自らを奮い立たせるような力があった。こんなに強い感情が芽生えたのは初めてだった。レイドはその感情のままに体を動かしていた。レイドは何か言ったが、自分でもその言葉は耳に入っていなかった。
向かってくる取り巻きの一人の少年――彼は以前イノシシと呼ばれていた――を、受け流すようにかわして地面に転がした。つい最近習った体術だ。心が興奮していき、同時に頭が冷静になっていくのを感じた。そうだ。落ち着いていれば勝てない相手じゃない。みんながふざけあっている間、訓練だけは真剣にやっていたんだから。
続いてやってくる取り巻きのもう一人の腕をかわし、その脚を蹴りはらった。彼もまた背中から地面に落ちた。
レイドは小さい体を活かして、するりと彼らの脇を抜けて、体勢を崩させては地面に押し倒した。殴ったり蹴ったりといった直接的なことはあまりしなかった。力の強い彼らにはさほど効果は無いだろうし、そもそも彼らを傷つけようとは思っていなかった。ただ時間を稼げばいい。少女が逃げるための時間を。
しかし、その時間稼ぎも長くは続かなかった。ルークの拳が脇腹に命中し、ひるんだ隙に背中を蹴られ、レイドは地面に伏した。もう抵抗の余地は無かった。レイドは三人の年上の少年たちに立てなくなるまで痛めつけられた。最後には無理矢理立たされて、腹を膝で蹴り上げられた。
どうやら彼らはもう少女に対する興味を失ったようだった。レイドはそれで満足だった。俺の勝ちだ。意識が朦朧とする中、腹の底でそうつぶやいた。
「それでこいつの目を刺せ」
そんな言葉が聞こえた。薄く目を開けると、赤黒いものが目の前にあった。目がかすむ。かすかに熱気が伝わってきた。よく見るとそれは赤熱した刃物のようなものだった。
それを持つイノシシの顔を見て、レイドは目を見開いた。彼は泣いていた。小刻みに震える刃とレイドの顔を交互に見ながら、その太った少年は涙を流していた。
レイドは彼の目を見返した。彼の目には恐怖がありありと見えた。他人を深く傷つけなければならない恐怖と、自分が傷つけられることへの恐怖。おそらくずっと前からその二つはせめぎあっていたのだろう。たった今、それが外からも明らかに見えるほどに大きくなっただけのことだ。
レイドは事の成り行きを見守ることしかできなかった。レイドの心情もイノシシのそれとほとんど同じだった。自分が傷つくことは怖かった。きっと助けを乞うようなことを言えばイノシシは自分を救うだろう。しかしそれは彼がもっとひどい目に遭うこととの抱き合わせだった。レイドもまたどちらかを選べずに黙っていた。そしてこの状況を動かす義務を負ったイノシシにただ同情していた。
しかし、動いたのは二人のうちのどちらでもなかった。イノシシの背後でルークが大きく顔を歪めると、彼はイノシシの背中を蹴り飛ばした。不意をつかれたイノシシはレイドの上に覆いかぶさるように倒れた。左目に焼けつく鋭い痛みが走った。レイドは目を押さえて地面にうずくまった。声を押し殺して激しい痛みに耐えながら、遠ざかる足音を聞いていた。
「あの子、人形って呼ばれてたわ。たぶん、誰も本当の名前を知らないんじゃないかしら」
レイドは少女が走り去った方向に進んだ。普段はあまり足を踏み入れない場所だった。夜の闇も相まって、そこは全く知らない場所のように思えた。全身の痛みに耐えながら、レイドは足を動かした。
人形、とレイドは頭の中で繰り返していた。繰り返すたびに、その冷たい響きに悪寒が走った。ここに来てからの三年間を、彼女はどんな気持ちで過ごしていたのだろう。名も呼ばれず、疎まれ、虐げられながら。
廊下の角を曲がると、狭い上り階段が目の前に現れた。わずかに明るく浮かび上がるように見えたその階段に、レイドは吸いこまれるように足を向けた。今までこんな階段があることは知らなかった。ひやりとした空気が上から流れてきた。レイドは無意識に息を止めながら歩を進めた。
階段の先の扉は半分ほど開いていて、薄い光が階段に細く伸びていた。レイドは扉をそっと開いた。夜の涼しい風が吹いていた。そこは屋上だった。柵で囲まれた空間の片隅に、色褪せたベンチが一つ置かれていた。それに座る小さな背中にレイドは歩み寄った。彼女は背もたれに寄りかかって空を見上げていた。彼女は無表情で星を見つめていたが、その目はかすかに輝いて見えた。
「星を見てるの?」とレイドは話しかけた。
少女はぼんやりとした顔でレイドに目を向けると、弾かれたように立ち上がり、レイドの横をすり抜けて逃げようとした。レイドはとっさに彼女の左手をつかんだ。彼女は怯えた目を向けた。
「大丈夫」とレイドはとっさに言った。「大丈夫だよ。俺は君の味方だから」
二人の視線がからみあった。レイドは瞳の中心をしっかりと見すえた。吸いこまれそうなほどに綺麗な、真紅の世界だった。いつも愁いを帯びているその目の奥には、途方もなく激しいものが渦まいていた。レイドは目が離せなかった。離してはいけないと感じていた。
少女の肩の力がふっと抜けるのを感じた。彼女はほんの少し頬を赤らめながら、握られた手を見た。
「もしよかったら、一緒に見ようよ」気付くとレイドはそう口走っていた。
少女は一瞬驚いたような顔をしたが、すぐに小さくうなずいた。
ベンチは小さくきしみながら、二人の体を受け入れた。そして二人は並んで星空を見上げた。満天の星が二人を迎えていた。その間も手はつないだままだった。少女の手は痩せて少し骨ばっていたが、そこには柔らかさと確かな温かさがあった。
「あれ」と少女は言った。彼女は細い腕を伸ばして、空の一点を指差した。「あれ、なに」
レイドは頭を彼女のほうへ傾けて、その指先が示す道を追った。彼女が指す辺りには、赤い星が瞬いていた。他よりも少し明るい星ではあったが、とりたてて見るほどの星でもないように思えた。
「あれが気になるの?」とレイドは尋ねた。
少女は小さくうなずいた。
レイドは再び空を見つめた。瞬く星と、記憶の中の星座の図とを照らし合わせた。彼女が指した赤い星の名前はすぐには思い出せなかった。喉元まで出かかっているのに、その名前ははっきりとした形でつかめなかった。少女が自分を見つめていることに気付いて、レイドは記憶の中にある本のページをめくる手を速めた。
不思議な子だ、とレイドは思った。あんな星に興味を示すなんて。他に目立つ星がたくさんあるというのに。
そのとき、一つの名前がぱっと思い浮かんだ。思い出した。間違いない、あの星だ。
「ミラ。あの星の名前は、ミラだ」とレイドは言った。「変光星っていう、光の強さが変わる星なんだ。不思議なもの、って意味の名前なんだ」
「へん、ふしぎ……?」
少女はきょとんとした顔をした。レイドはそこで初めて彼女が言葉を理解しきれていないことに気付いた。
「ミラ」とレイドは言い、星を指さした。
「みら」と少女は繰り返した。
「そう。あの星の、名前は、ミラ」
「なまえ、ミラ」
レイドがうなずくと、少女は満足そうに微笑んでその星を見つめた。本当に理解したのだろうかと不安になりながらも、レイドも空を見上げた。彼女が満足したのなら、それでいいように思えた。
少女の横顔を見て気持ちが安らいでいる自分にレイドは気付いた。つないだ手から伝わる温もりが、いつも冷たい風が吹き抜ける胸の隙間を満たしていくような気がした。今まで感じたことの無いこの気持ちがどんなものか、レイドにはわからなかった。ただ、自分がこの少女を求めていることだけははっきりと感じた。
彼女に聞かなければならないことがあったのを、レイドはふと思い出した。
「そうだ、名前を教えてくれないか」
少女はレイドの目を見て、小さく首をかしげた。
「なまえ、ミラ」
「君の名前だよ」とレイドは笑いながら言った。
彼女は微笑んで、また空を見上げた。床に届かない足は楽しそうに揺れていた。
「わたしの、なまえ。ミラ」
レイドは少女と同じ名前の星を見つめた。彼女が気に入ったのなら、それでいい。




