10. 救済
死体はいつも重かった。
死体を担ぐことは、生者に対するそれとは全く違った。自分からしがみついてもくれないし、こちらが歩きやすいようにもしてくれない。話しかけても言葉は返ってこない。麻袋に入った死体は生者に無い冷たさをレイドの体にしみこませた。
見つけたときにはまだ息がある者も、わずかではあるが存在した。しかし、すでに死の臭いが彼らからはにじみ出ていた。レイドは彼らに水を飲ませ、背負って町まで戻る。彼らはほとんど何も言わない。小さくうめくか、消えそうな声で感謝の言葉を述べることが稀にある程度だ。そして彼らは気付くと息絶えている。最期の言葉も無く、苦しむ様子も無く、いつの間にか死体になっている。レイドは死体を背中から下ろし、黙祷し、真新しい麻袋に入れて、それを担ぎ上げる。その重さに心を痛めながら、また帰り道を歩いた。
人が死ぬというのは、こうもあっけないものなのか。死体を前にして、レイドはそう思った。積み重ねられた日々や、これから進む道は、こうも簡単に崩れ去ってしまうのだ。昨日まで笑っていた顔は色を失い、風に揺れていた髪は黒い泥にまみれ、いつか握り合った手はおかしな向きに曲がっていた。レイドは彼女の前に膝をついて、その小さな亡骸を見下ろしていた。細かい雨粒が絶え間なく降り続いていた。
死体は動かなかった。名を呼んでも動かない。ゆっくりと振り向いた後に咲く笑顔はそこには無い。死は突然に彼女をはるか遠く、手の届かないところへと連れて行ってしまった。
レイドは少女を抱き起こした。その体は軽く、肌は白かった。雨に濡れてくすんだ色になった髪は額や頬に貼りつき、その先は黒い泥に汚されていた。彼女の背中から微かな温もりを感じたが、冷たい雨がそれを急速に奪っていった。わずかに開いた唇の奥は深い闇だ。閉じられたまぶたは開かない。頬は美しくも思える白だ。手は力なく泥の中に沈んでいる。
空を見上げると、灰色の雲が厚く空を覆っていた。透明な雨粒が顔に降りかかる中、レイドは目を見開いて、うごめく雲を見つめていた。
何も見えない。
◇ ◇ ◇
あの夜以来、二人は屋上に集まって一緒に星を眺めるようになった。待ち合わせなどをしたことは無かった。そこに行けば相手はいる。そこで待てばいずれ来る。曇りの日でも、レイドは毎日のように屋上に行った。あの少女――ミラは必ずそこにいた。
ミラは雨の日でも屋上に来ていた。大雨の日に、嫌な予感がしてそこに向かうと、彼女はやはり雨の下でベンチに座っていた。レイドはあわてて彼女を屋内に戻し、雨の日は来なくてもいいと教えた。彼女はにこにこしながら「あめも、きもちいい」と言っていた。彼女はそれから数日、何も言わなかったが明らかに体調を崩していた。それに懲りたのか、彼女が雨の日に屋上に来ることはなくなった。
ミラと会うのはいつも夜だった。彼女は他の子供たちとは別の場所で生活しているらしかった。たまに昼に見かけることがあったが、声をかけるとすぐに逃げ出してしまった。その理由も問いただせないまま、レイドは彼女と夜にだけ会う生活を続けていた。やがてそのことも気にならなくなってきた。夜になれば、彼女にはちゃんと会える。それだけで十分だった。
レイドは星を見ながら、できる限り話をした。会話もうまくできない彼女のためだ。おそらく普段から人と話をする機会も無いのだろうと思っていた。
星座の並びやそれにまつわる話をよくしていた。レイドは星の本に書いてあることを端から端まで覚えて、ミラに伝えた。ちゃんと理解しているのかはわからなかったが、彼女はいつも静かに聞いていた。
たくさんの星のことを知っても、彼女が一番好んだのはあの星だった。彼女はいつもあの星を見ていた。四角形の空の外に消えてしまっても、彼女はしばらく消えた先を眺めていた。季節がひとまわりして、明け方にあの星を見ることができるかもしれないと教えたとき、レイドは朝まで付き合わされることになった。結局それが見えたのは数日後だったが、白んだ空にかすかに見えるそれを見つけたときの彼女の目の輝きを見たとき、それまでに抱いていた後悔などは一片も残らず消え去っていた。レイドは眠気で半分目を閉じながらも頬をゆるませ、彼女の横顔と、ベンチからぶら下がった小さな足を眺めていた。
イノシシが声をかけてきたのは、レイドがミラを助けてから半年が経った頃だった。長い冬が終わり、徐々に寒さが薄らいできていた。レイドは一人で机に突っ伏して窓の外を眺めていた。殺風景な中庭だった。レイドは汚れた石畳の道を目でたどっていた。あの日、ミラが通った道だった。
背後で扉が開く音がした。レイドは肩越しにそちらに目をやった。そこにいたのはイノシシだった。
あの一件を境に、彼に大きな変化があった。しかし、それは決していい変化とは言い切れなかった。ルークがレイドに絡んでくるとき、彼が姿を見せなくなった。ミラに対しても――レイドはたびたびそれを見つけては止めていた――いるのはイノシシを除いた二人だけだった。彼はレイドやミラと言葉を交わすことも無く、かと言って暴力をふるうことも無く、全くの無関心を装っていた。そしてある日、彼は全身あざだらけになり、目を背けたくなるほど顔を腫らして現れた。彼はルークの新たな標的になっていたのだと、レイドはそのとき初めて気付いた。その頃には、抵抗するレイドと、その邪魔の入るミラに彼らが手を出すことは少なくなっていた。無抵抗の太った少年はそのしわ寄せを受けた。痛々しい姿の彼にレイドは声をかけようかと思ったが、かける言葉が見つからなかった。加えてレイドは自分とミラを守ることで精いっぱいだった。結局、互いに何も言えないままで半年が過ぎた。
イノシシは敷居の上に立って、じっとレイドを見つめていた。彼はいつもはすぐに目をそらしてしまうが、そのときは違った。レイドも目をそらすことができずに、彼を見つめ返していた。体にあざができるようになってからは濁って平坦に見えた目が、少しだけ生気を取り戻しているように見えた。
「ちょっといいか」とイノシシは言った。声がかすれて、彼は小さく咳払いをした。「話したいことがあるんだ」
「いいよ。見ての通り暇だし」とレイドは言った。
イノシシはレイドの横の椅子に座った。こうして見ると、昔と比べてやせたように思えた。やせたと言うよりも小さくなった気がするとレイドは思い直した。
「目の傷だけど、本当にごめん」とイノシシは自分のにぎりしめた拳を見つめて言った。
「ああ、これか。たいした傷じゃないから、気にすんなよ。結局、ルークにやられたようなものだし」レイドは努めて明るい声を出した。「それよりも、お前は大丈夫か? 最近、俺よりずっとひどい目に遭ってるみたいだけど」
「そのことなんだけど……」
イノシシはきつく歯を食いしばったかと思うと、自分の椅子を跳ね飛ばしてその場に手をつき、鈍い音を立てて床に頭を打ちつけた。あまりに突然のことだったため、彼が頭を下げているのだと理解するまで数秒を要した。
「お前、何やって――」
「お願いだ。俺を助けてくれ」イノシシは額を床につけたまま言った。「今までやってきたことは謝る。全部悪かったと思ってる。だから、頼むよ。もう限界なんだ。このままだと、俺、どうなるかわからない。いつか死ぬかもしれない。あいつら、やることが段々ひどくなってくんだ。今だって歩くのがやっとなんだ。訓練休んできたんだよ」
「わかった。わかったから、とりあえず顔を上げてくれ」
レイドはイノシシの体を起こした。彼の顔は悲痛に歪んでいた。すがるような目を向けられ、レイドは思わず目をそらした。
同情してはいけない、とレイドは自分に言い聞かせた。今は誰かに手を貸す余裕は無い。それに、こいつは自業自得じゃないか。今までミラや俺にしてきたことが、罰としてはね返ってきてるだけだ。このままその罰を受ければいい。
レイドが横目でイノシシの様子をうかがうと、彼はレイドの腕にしがみついてきた。しかし、レイドはそれを拒絶することができずにいた。助けを求めなければならなくなるまで追い詰められた彼を見捨てることは、見て見ぬふりをしてきた周囲の人間と同類になることを意味する。レイドは動けなかった。自分の身がかわいいだけではない。それよりもずっと、彼を助けることでミラに降りかかる悪意が増えてしまうことを恐れていた。
「頼む。頼むよ。もうお前しかいないんだ……」イノシシはかすれた声で言った。「もうすぐ、俺たち外に出られるだろ? 俺の配属先はルークとは違うみたいなんだ。だから、それまででいい。あと半年だけでいいんだ」
レイドの気持ちは傾きはじめていた。彼を救うことは、ミラや自分の状況に良い影響は与えないだろう。しかし、それは劇的に悪くなるというものでもない。ミラには申し訳ないことではあるが、彼のために少し辛抱してもらおう。レイドはそう考えていた。
「なあ、頼むよ。少しだけでもいい。力を貸してくれ。あんな女のことなんて放っといてさ」
イノシシのその言葉を聞いた瞬間、レイドは彼の手を振り払って、胸ぐらをつかんで床に押し倒していた。彼の顔にははっきりと恐怖が刻まれていた。
「お前……あんな女っていうのは、ミラのことか? 今までのこと全部謝るっていうのは、俺にしてきたことだけか?」とレイドは言った。「ふざけるなよ。あいつはバケモノだから何してもいいってことか? お前ら、頭おかしいんじゃねえのか? あいつは確かにみんなと違うところがあるよ。でもあいつだって、みんなと同じように心を持ってるんだ。嬉しかったら笑って、悲しかったら泣くんだ。星を見て喜んで、痛みがあれば苦しむ、普通の人間なんだよ。体がずっとあのままだって、うまくしゃべれなくたって、俺たちと同じようにものを感じてるんだ。どうして、そんなひどいことができるんだよ。信じられない。お前らどうかしてる」
振り捨てるようにイノシシから手を離すと、彼は腰を抜かしたのか、椅子を倒しながらじたばたと床の上でもがいた。レイドはそこで初めて自分が泣いていることに気付いた。荒っぽく涙を拭うと、レイドは足元で震えているイノシシを見下ろした。
「安心しろよ。何もしないから」とレイドは冷たく言い放った。「もう何もしない。お前がどうなろうが、俺は何もしない。ルークがいなくなるまでの残りの半年、一人で生きていくといい。地獄でミラに詫びるんだな」
イノシシはやっと立ち上がって、ふらつきながら逃げるように部屋から出ていった。レイドはその後姿を見送ると、大きなため息をついて椅子に腰かけた。
ルークがミラやレイドに暴力を振るおうとすることは、それからほとんど無くなった。彼の狙いは一つに絞られていた。それまで無抵抗だったイノシシが反抗したことが、ルークの怒りに火をつけた。イノシシは本当に歩くことさえ困難になった。あれほど無関心だった周囲も、さすがに彼を気にするようになっていた。それでも、誰も表立っては彼を助けなかった。
自分がしたことが正しかったのか、レイドはいつも悩んでいた。イノシシの顔を見るたびに罪の意識に沈み、ミラの顔を見るたびにそこから救われた。喜ばしいことを喜びきれず、かわいそうなものをかわいそうと思いきれないまま、毎日を過ごしていた。
イノシシが死んだのは、そんな日々が数か月続いた頃だった。




