11. 死者
「外の世界に出たい」
いつものようにミラと星を見ていた夜に、レイドはそうこぼした。
「そと?」とミラは首をかしげて言った。
「うん。この塀の外」とレイドは言った。「こんな場所から抜け出して、心配しなきゃいけないことも何もなくて。それでぼーっと星を眺めたい」
ミラはしばらく黙って空を仰いでいた。彼女が何を思っているのか、レイドにはわからなかった。未知の可能性に期待しているようでもあり、同時にひどく悲しげでもあった。
「なにがあるかな。そと」とミラは言った。
「うーん。町……とか?」とレイドは言った。
「あとは?」
「えっと……そうだ、空があるよ」レイドは空を指さした。「こんな狭い空じゃない。もっと大きくて、星だってずっと綺麗に見える」
「いいね。きれいなほし」
ミラの目がわずかに輝いた。それでもまだどこかに愁いの光があった。
「なあ、いつか二人でここを出ないか?」とレイドは言った。「二人で外に出て、こんなふうに星を見ようよ。もっと大きな空を」
ミラは口元に笑みを浮かべながら、小さくうなずいた。とても悲しい目をしていた。
「ずっとこうしていたいんだ。時が止まって、今がいつまでも続けばいいって、いつも思うよ。外に出ても、俺が守るから。だから……」
レイドはのどがつまって言葉を止めた。つないだ手から伝わる力が強くなった。
「どうして、泣くんだよ……」
ミラの目から涙が落ちた。レイドもうつむいて涙を流した。
それは叶わない夢だった。外とつながる唯一の扉は特殊な施錠がされているし、高い塀はとてもよじ登れそうにない。あと半年もしないうちに、レイドは帝国の兵となりどこかに飛ばされる。そのときミラがどうなるかもわからない。自分たちは家畜と同じだ、とレイドは思った。勝手に飼われ、勝手に売り飛ばされる。そこに家畜本人の意思など介入する隙は無い。できることは一つ。己の悲運に涙することだけ、だ。
ミラはむせび泣くレイドの手を持ち上げ、両手で包むように握った。
「ありがとう」とミラは言った。「わたし、うれしい」
レイドは顔を上げ、彼女を見つめた。その悲しみと慈愛に満ちた赤い瞳を見つめた。
「ごめん。俺、何の力にもなってやれない。君のために何もしてやれない」
こみ上げる涙を止めることができなかった。自分の無力さが悔しかった。守らなければならないのに。小さいままの体で、言葉もろくに知らないこの少女を。
「だいじょうぶ」とミラは言った。「うれしいよ。そう、いってくれて」
レイドはうなだれながら、ただ謝ることしかできなかった。
◇ ◇ ◇
この世を去る直前のイノシシは、いつも具合が悪そうだった。訓練に参加することもできず、講義では机に突っ伏して顔を伏せたまま動かなかった。目は虚ろで、たまに誰かに話しかけられても気付いていないようだった。見かねたレイドが医務室に連れて行ったときも、彼は何が起こっているのか理解していないようだった。
「どうしてこんなになるまで放っておいたの」とユノは鋭い声を出した。
レイドにできることはうつむくことだけだった。
「あんたがあのときちゃんと言ってれば、こうなるのも防げたんじゃないの? 違う?」
言えば本当に対処してくれていたのか、という言葉をレイドは飲みこんだ。見て見ぬふりをしたのは自分も同じだった。
返事をしようとしないレイドにユノは舌打ちをして、ばたばたとベッドを整えはじめた。「とにかく、ルーク呼んで来なさい。せめてそれくらいはしてちょうだい」
レイドは言われるがままに引き返した。罪の意識は体が押しつぶされそうに思えるほどふくらんでいた。何度もその場に座りこんでしまいそうになりながら、レイドはルークの前までたどり着いた。
「なんだよ」ルークはレイドをにらみながら言った。
「医務室まで来いってさ」
「はあ? どうして俺が――」
「わかってんだろ。いいから行くぞ」
「お前に命令される筋合いは無いな」とルークは嘲笑うように言った。「結局はお前も傍観してたんだろ? そんなんじゃ俺と変わらない。止めなかったお前も、共犯者だ」
「話をすりかえんな、卑怯者。そんなことはわかってるよ。俺とお前は同罪だ。これ聞いて知らん顔してる連中もな」レイドはルークの腕を強くつかんだ。「今から罪滅ぼしするんだよ。さっさとついて来い」
「罪滅ぼしだあ? おー、かっこいいねえ。正義のヒーロー気取りか?」
レイドはルークに殴りかかった。しかし、同時にルークはそばにあった椅子を足でひょいと持ち上げて、レイドに叩きつけた。拳は空を切り、レイドは床に倒れこんだ。椅子が転がる音と、数人の甲高い悲鳴が部屋に響きわたった。
「先に手を出したのはお前だからな。俺は身を守ろうとしてるだけだ。これって罪には問われないよなあ」
ルークはゆっくりと歩み寄ってきた。レイドは身構えようとしたが、うまく起き上がれなかった。さっきの椅子がまともに頭に当たり、視界が揺れていた。重い靴の音が近づいてくる。
「何してるの。やめなさい」
鋭い声が二人の間に割って入った。大きく開いた扉の前に立つユノの後ろには、ふらふらと揺れているイノシシがいた。ユノは彼に肩を貸しながら、彼の座席まで連れて行った。
「本当に大丈夫なの? 無理しないで、休んだほうが……」
「いえ、大丈夫です」イノシシはぼそぼそとそう言った。
イノシシは乱れた座席の列にようやく気付いたのか、ユノを押しのけるようにしてレイドのもとに歩いてきた。
レイドの視線がイノシシのものとぴたりと合った。焦点が合わないその目は間違いなく自分を見ているとレイドは感じた。彼の切れた唇が何かを言おうとゆっくりと開いた。
そのとき、イノシシの体がぐらりと傾いた。彼の全身から力が抜け、目がぐるりとどこかを向き、ゆっくりと床に崩れ落ちていくのを、レイドはただ見ていることしかできなかった。背中と両腕の肌が一気に粟立つのを感じた。彼は何人もの人間に取り囲まれ、どこかに連れて行かれた。それから少しして、彼が死んでしまったことが伝えられた。
彼の死があってから、レイドは屋上に足が向かなくなった。鉛のような思いが心に重くぶら下がり、息をつくのにも体中の力を振り絞らなければならないような気分だった。こんな状態でミラと会っても彼女に悪いだけだ。そう思いながら、たった一人で待つ彼女の姿を思い浮かべて、せめて何か言うべきだったと後悔していた。しかし彼女を探す気にもならず、その自分の身勝手さに嫌気がさした。レイドは無気力と自己嫌悪に板挟みにされていた。
気付けば四日が過ぎていた。
レイドは窓から夕陽に染まる白い塀を見つめていた。部屋に残った数人の女の子の甲高い声が不快に頭に響いた。
ミラは今日も待ち続けるのだろうか。遠くに見えるあの屋上に目をやった。灰色のベンチの背もたれが見える。まだ誰も座っていない。陽が沈めば、きっとそこには小さな影が現れる。気の毒な少女が、一人きりで空を仰ぐ。胸が締めつけられ、レイドはうなだれた。背後で盛り上がりを増す声がいやに大きく聞こえた。レイドは叫びたい衝動を抑えるのに必死で、彼女たちの声がぴたりと止んだのにも、誰かが歩み寄ってきていたのにも気付かなかった。
何かが左手に触れた。温かい感触。重いまぶたを上げると、白い小さな手が、レイドの左手を握っていた。ミラは無言で手を引いた。有無を言わさぬ力があった。レイドは引かれるままに彼女についていった。行き先はすぐにわかった。二人は狭い階段を上り、すっかり見慣れた扉を開け、自然とベンチに並んで座った。
空に夜はまだ来なかった。ミラはレイドの左手を強く握ったまま、沈んだ表情で目を伏せていた。彼女は何も言わなかった。何かを待っているようにも見えた。彼女が待っているのが自分の言葉かもしれないと思いつつも、レイドは言うべき言葉を見つけられずにいた。頭に深い霧が立ちこめているようで、うまくものを考えられなかった。左手から伝わる確かな温もりだけに、すがりつくように意識を集中させた。
「ねえ」やがてミラは言った。「ほし、きれいだよ」
穏やかな表情のミラの視線を追うと、天の川が四角形の空を横切っていた。無数に輝く星々はこの日も綺麗だった。誰が苦しもうとも、誰が死のうとも、彼らはいつも同じ光を地上に降り注いでいた。
「ごめん。何日もここに来なくて」とレイドは言った。
「きにしないで」ミラは小さく足を揺らしながら言った。「ひとりは、ちょっとさびしかった。でもいいよ。きょうはきた」
「無理矢理連れて来たんじゃないか」
レイドが笑うと、ミラもつられて笑った。しかしその笑いも、イノシシのことが頭をかすめた瞬間にどこかへ消えてしまった。
ミラはレイドの顔を横目で見ると、いつものように空を仰いだ。握った手の力がわずかに強くなった。だいじょうぶ。そんな言葉が、その手からは伝わってくるようだった。
「ここで死人が出たんだ」レイドは気付くとそう言っていた。これを話したところで彼女が喜ぶわけがないと思いながらも、誰かに洗いざらい話してしまいたい衝動が、言葉を続けさせた。話すのにふさわしい相手は、もう彼女しかいなかった。「もう知ってるかな。ルークと一緒にいた、太ってるほうの奴だ。俺が君を助けたあの日を境に、あいつもルークに狙われるようになったんだ。それで、この前とうとう死んだ。死なせたのはルークってことになって、あいつは処分を受けて今どこかに閉じこめられてるよ」
ミラは黙ったまま、穏やかな表情で星を見つめていた。彼女は多くのことを知らなくても、何か大切なことを知っているようにレイドには思えた。
「あいつに助けてくれって言われたんだ」レイドはそう言いながら、自分がイノシシに言い放った言葉を思い出していた。「でも、俺はあいつを助けなかった。いろいろ理由をつけて、結局は他の奴らと同じで、見ないふりしてたんだ。自分だけは勇敢なんだって思ってたよ。だけど、あいつが死んでようやく気付いた。俺も弱くて卑怯だったんだって。
いつもあいつの声が聞こえるんだ。どうして助けてくれなかった、って。死んでからは毎晩夢に出る。この屋上で、あいつは俺の胸ぐらをつかんで問い詰めるんだ。どうして見捨てた。そう繰り返して、うずくまって泣き出すんだ。俺は何もできない。慰めることも、殴り飛ばすこともできない。ただあいつの泣きわめく声を聞いて、目が覚めるのを待ってるんだ。どうすれば良かったんだろうな。俺、あいつが許せなかったんだよ。君に散々ひどいことをして、それを悪いことだとも思わずに、いざ自分がその立場になると助けてくれだなんて。俺はあいつを許しちゃいけないと思った。君にしたことの罰を受けさせるべきだと思ったんだ。でも、それが本当に正しかったのか、あいつが死んでからわからなくなった。あいつは悪いことをしたし、俺はそれを許せない。だけど、俺はあいつを救うべきだった。君のためにも、そうするべきだった。そんな気がしてならないんだ」
ミラは目を閉じていた。レイドは横目でその顔を見下ろしていた。肩が少し軽くなった気がした。しかし、重荷を下ろしたあとには空しさが広がった。こんなこと、もうどうにもならないのに。どうにもならなくても、またそれを背負わなければならないのだ。
深呼吸の小さな音があり、ミラはゆっくりと目を開いた。
「やさしいね」とミラは言った。
「優しくなんかないよ」レイドは本心からそう言った。
「ううん。やさしいよ」ミラはそう言って微笑んだ。「やさしすぎるくらい」
穏やかな夜の風が吹いていた。珍しく涼やかな風だ。高い塀の中には季節を感じられるものは空気と星しか無かった。もうすぐ秋が来る。風も星もそう教えてくれていた。
「星、綺麗だ」とレイドはつぶやいた。
「そうだね」とミラもつぶやいた。
レイドはあることを思いついた。そして深く考えないまま、それを口にしてしまった。
「もうこんな季節か。明け方になれば、あの星が見られるかもしれない」
ミラは弾かれたようにレイドのほうを見た。レイドはその勢いに驚いて身を縮ませた。
「ほんとう?」ミラは目を輝かせて言った。
「うん。本当、だけど」レイドは彼女の目に宿る熱意にたじろいだ。
「みよう」
「え?」
「みたい。あのほし」
「ここで朝まで待って?」
「うん。みようよ」
「それ、俺もいなきゃだめかな……」
ミラは首をかしげた。その目は「とうぜん」と語っていた。レイドは小さくため息をついた。困ったことにはなったが、内心嬉しくもあった。子供らしくはしゃぐ彼女の姿は最近では珍しかった。
「わかった」とレイドは言った。「あれを見るまで付き合うよ。昨日までのお詫びだ」
ミラはにっこりと笑った。喜びだけが作る、純粋な笑顔だった。
「今日も朝帰りか?」
二段ベッドの上から、ため息まじりのリオの声が聞こえた。
「うん。まあね」レイドは適当に返事をしながら、下段に寝そべった。
「ほどほどにしとけよ。ルークがいなくて浮足立つのもわかるけどさ」
「うん」
「またユノに叩き起こされる未来が見えるな。最近ただでさえ機嫌悪いのに、油を注がないでくれよ」
「今日までにするよ。あの子も満足したみたいだし」
レイドは少しでも眠ろうと毛布をかぶって目を閉じた。寝不足の日々が続いていて、頭も体もすぐに眠りに落ちようとしていた。
リオが体を動かす気配がした。
「俺さ、あと一週間でここを出ることになった」とリオは静かに言った。
霧のように立ちこめていた眠気が引いていった。しかし頭は空回りを続け、彼の言葉を頭の中で何度も繰り返すばかりだった。
「お前ともあと一週間でお別れだよ」リオは確かめるようにそう言った。彼自身にも実感のわかないことなのかもしれない。
「ここではお前が一番早いのか」
「ああ。みんなぼちぼち出ていくみたいだよ」
「そっか」
重い沈黙があった。窓から射す朝の光は、日光が直接入るわけでもないのに妙にまぶしかった。
「おめでとう。向こうでも頑張れよ」ようやくレイドはそう言った。
「ああ。お前もな」
「うん」
会話はそこで途絶えた。続けなければいけないという気持ちも無かった。それはリオも同じだろうとレイドは感じた。
同室の友人とはいえ、思い返せば彼と言葉を交わすことは多くなかった。顔を合わせれば簡単な挨拶をする程度だ。おはよう。おはよう。おやすみ。おやすみ。交わした言葉の多くはそれだけだった。
ここで別れるわけではないが、これが二人でちゃんと話す最後の機会になるかもしれないと、レイドは薄々感じていた。それでも、これ以上言うべきことは無いように思えた。薄情ではあるが、それはもう仕方ないことだった。無理な会話を続けるほうが、相手にも悪い。きっとリオもそう思っているだろう。
レイドは朝日から逃れるように毛布を頭からかぶった。点呼の時間にリオに毛布をはぎ取られるまで、じっと目を閉じて眠りを待ち続けていた。
ルークが戻ってきたときには、季節は冬に足を踏み入れていて、塀の中に残っている子供の数は半分以下になっていた。空白ばかりが目立つ日々に溶けこむように、彼は戻ってきてすぐはずっとぼんやりと静かに暮らしていた。彼の異様な雰囲気に周囲は少なからず困惑していたが、変わりゆく日常や取り残された不安、未来への期待に誰もが心を奪われていたため、波乱を起こさない彼はほとんど存在しないかの如く扱われていた。
レイドはまだ塀の中にいた。“能無し”の行く先は決まらず、巣立つ友人の背中を、仲間――戦闘にも研究にも利用できない微弱な異能しか手にできなかった者も数人いた――と共に見送っていた。
ミラもまた、そこに残っていた。もっとも、彼女は元から扱いが違うのだから、出ていかないのは不思議ではなかった。ただ、なぜいるのかもレイドにはわからなかったが。
彼女はときどき見慣れない人物と歩いていた。それは彼女を初めて見たときに一緒にいた太った男のようだった。以前見たときと同じように、彼女は男の後ろをうつむいたまま歩いていた。顔にはあまり感情が現れていなかったが、少なくとも楽しそうなものではなかった。男のことについて尋ねても、彼女は「ときどきくるの」としか言わなかった。レイドはそのことについてそれ以上は尋ねなかった。話すことを拒むような空気が彼女から伝わってきたからだった。
ある夜、レイドはいつものように細い階段を上り、屋上に出た。ミラはまだ来ていなかった。レイドは一人でベンチに座り、彼女を待った。
吐く息が一瞬だけ白くなるのが見えた。空には薄く灰色の雲がかかっていて、その向こう側であの星が弱々しく瞬いていた。光の強さが周期的に変わるあの星は、もう少しで普通の人間には見えなくなる。ミラの悲しげな顔が頭に浮かんで、心が痛んだ。また来年だね、と自分はきっと告げるだろう。その来年に、自分はいない。彼女は一人であの星を見つめているだろう。自分はどうなっているだろうか。使い捨ての駒として死地に向かわされるかもしれない。敵の攻撃に怯えながら身を隠し、星を見ることなど忘れているかもしれない。もうすでにどこかで死んでいるかもしでない。背中が寒くなり、レイドは身震いした。
扉が開く音がして、レイドはそちらに目を向けた。そこにはミラが立っていたが、彼女の様子が明らかにおかしいことにすぐに気付いた。レイドは彼女に駆け寄った。
「どうしたんだ。こんな……」
ミラの体にはいくつもの殴られた跡があった。彼女は今までに無いほどひどく痛めつけられていた。レイドは言葉を失った。彼女の姿が死の直前のイノシシと重なり、レイドは少女を抱き上げると医務室へ急いだ。
「ちょっと、いきなりどうしたの」
血相を変えてやってきたレイドにユノは驚いていた。しかしその腕の中にいるミラを見ると、彼女は背筋を伸ばして的確に行動を始めた。
「大丈夫だよな?」レイドの問いはほとんど願望だった。
「ええ。けっこうひどい怪我だけど、意識ははっきりしてる」ユノはレイドの顔をちらりと見た。「少なくとも、死ぬことはないと思うわ」
レイドはそれを聞くと踵を返した。
「まって」ミラが消えそうな声で言った。
「あんた、この子置いてどこに行くのよ」とユノも言った。
レイドは振り返らず、廊下の奥の闇を見つめていた。
「すぐに戻る」レイドはそれだけ言って部屋を後にした。
レイドが勢いよく部屋の扉を開けたときも、ルークは焦点の合わない目をどこかに向けていた。歩み寄ったレイドが肩をつかんだとき、彼は初めて訪問者に気付いたようだった。
「お前、ミラに何をした」
虚ろな目は何も言わない。
レイドは服の襟をつかんで、ルークを床に引き倒した。
「今度こそあいつに頭を下げてもらうからな。引きずってでも連れて行くぞ」
ルークは煙が昇るようにゆらりと立ち上がった。伏せていた目を上げたとき、その目には深い憎悪の光が宿っていた。それに一瞬たじろいだレイドは、彼の拳に顔面を打ちぬかれた。レイドは廊下まで転がった。立ち上がろうとするレイドの脇腹をルークは思いきり蹴り上げた。目の前がさっと暗くなった。
「お前とあのバケモノのせいだ。こんなことになったのは、お前らのせいだからな」
上から何かが叩きつけられた。一瞬見えたそれは椅子だった。壊れて原型がわからない木材になっても、ルークはそれを振り下ろし続けた。殺される。そんな言葉がレイドの頭をよぎった。
「やめなさい」低い声と足音が廊下に響いた。
かけつけた数人の男たちにルークは取り押さえられた。レイドは誰かに抱き起されて医務室に運ばれた。
彼らはミラが暴行を受けていたときは何をしていたんだ。レイドは憤りを感じながら、ふらつく足で医務室へと歩いた。
「本当にすぐ戻ってきたのね」
ユノの皮肉を聞き流しながら、レイドはカーテンの向こうにいるはずのミラを見ていた。
「もう寝たわよ」とユノは言った。「かなり無理してあんたのところまで行ったみたい。あんたたち馬鹿よ。互いのために無茶なことして、心配も迷惑もかけて」
レイドは腕にあてがわれた添え木とそれを巻く包帯を眺めていた。
「ルーク、どうなるのかな」とレイドは言った。
「どうって?」
「また牢屋?」
「牢屋というか……まあ、また処分を受けるでしょうね」
ユノは手早く包帯を巻き終えると、その腕を軽くはたいた。レイドは思わずうめいた。
「何するんだよ」
「どこまでお人よしなのよ、あんた」
「何の話?」
「ルークに悪いことしたな、って顔してるわよ」
レイドはさっと顔を背けた。
「まあ、喧嘩売ったあんたも悪いけど」とユノは言った。「ルークは自業自得よ。罰を受けるようなことをしたのは事実なんだから」
「だけど――」
「もう寝なさい。私ももう仕事終わりにしたいから。今日はここに泊まってもいいわよ。いろいろ置いてあるから、何かあったら勝手に使って」
ユノは手際よく道具を片付け、鍵束をレイドに手渡した。
「あんまり女の子に心配させちゃだめよ」
彼女はそう言い残すと、部屋を後にした。
その夜はなかなか寝つけなかった。折れた右腕が鈍く痛み、熱を持っていた。夜中にレイドはとうとうこらえきれなくなり、ベッドから出て腕を冷やせそうなものを探した。
窓から青白い月の光が射していた。レイドはそれを頼りに医務室の中を探し回った。閉じられたカーテンの向こうから、寝返りの音と、その拍子に口から漏れた小さな声が聞こえた。レイドは呼吸の音にすら気を遣いながら、布巾を水で濡らして腕に巻きつけた。十分ではないが、それで少しはましになった。
そのとき、カーテンが静かに開き、ミラがその隙間から顔を出した。
「レイド? どうしたの?」
「あ、ごめん。うるさかったか」
「けが、してる?」
ミラは目を丸くして駆け寄ってきた。レイドはあわてて腕を隠した。
「たいした怪我じゃないよ。ちょっと階段で転んだだけで……」
「うそ」
ミラに腕をつかまれ、レイドは小さく悲鳴を上げた。
「ご、ごめんなさい」彼女はすぐに手を引っこめた。
「大丈夫だよ。気にしないで」レイドは笑おうとしたが、口元をひきつらせるような表情しかできなかった。
「やっぱり、けが、してる」
「だから、階段で転んだって」
「わたしのせい?」
ミラは今にも泣きだしてしまいそうな顔をしていた。普段ならあわてているところだが、そのときのレイドの頭は妙に冷めていた。
彼女の顔の青いあざを見て、レイドは深い無力感に襲われた。冷たい水の底に沈んでいくような感覚だった。結局のところ、彼女には何もしてやれないのだ。理不尽な暴力から守ってやることも、そんな環境から逃がしてやることもできない。救おうとすればするほど、彼女は傷ついてしまう。
「違うよ」とレイドは静かに言った。「これは自業自得だ」
「ねた?」
カーテンの向こうから、ミラの声が聞こえた。眠りかけていたレイドは体を伸ばして目を覚まそうとした。
「起きてるよ」レイドはなんとかそう言った。
「いたくない?」
「大丈夫。もう痛くない」
長い沈黙があった。レイドは眠ってしまわないように、腕の痛みに意識を集中した。
「ごめんなさい」とミラは言った。「わたしのせいで、レイドがけがした。めいわく、かけた。ごめんなさい。もう、だいじょうぶ。わたしはきにしないで。むちゃ、しないで」
満月が塀の上に浮かんでいた。月光にかき消されそうに思えるほど、ミラの声はか細いものだった。
私のせい。迷惑。ごめんなさい。
その言葉がこだまのように頭の中を反響していた。彼女の言葉の中で、それらだけは明瞭な響きを持っていた。彼女がその言葉を繰り返し浴びせられ、言わせられる光景が頭に浮かんだ。いつか見た、太った男と彼女が一緒にいた光景と、それは重なった。
氷の刃で胸がえぐられたような気分だった。彼女の生きる世界は、どれほど切ないのだろう。リオの言葉、ユノの憐れむような視線、太った男の怒声、誰かの意地の悪そうな笑み。そんなものが次々と頭に浮かんだ。誰も存在を認めない。誰も受け入れようとしない。そんな世界は、どれほど苦しいのだろう。
「二人で出よう」
「え?」
「外の世界に出よう」レイドはゆっくりと言った。「二人でここから抜け出そう。必ず。君を一人にはさせない」
彼女を救えるのは自分だけだ。驕りではない。彼女が頼れる人間は、彼女に手を差し伸べられる人間は、もう自分しかいないのだ。これは決意だった。彼女はいつでも手を握ってくれた。温もりを欲する手を満たして、迷う手を引いてくれた。その恩は返さなければならない。彼女は生きる力を貸してくれたのだから。
ミラは声を上げて泣き出した。彼女が泣くことは少なくなかったが、こんなに激しく泣くのは初めてだった。彼女の声は生きていた。昼間に見せる無感情な目より、夜空を仰ぐ横顔よりもずっと、その声は彼女の命を感じさせた。
月が隠れても、空が白んでも、彼女は泣き続けていた。
誰かが肩を叩いた。レイドは眠気から抜け出せず、返事の代わりに短くうなって、寝返りをうった。同時に、腕に痛みが走り、レイドは思わず飛び起きた。包帯が巻かれた右腕が目に入り、小さくため息をついた。
「おはよう。ようやくお目覚めね」
ベッドのそばには、昨日とほとんど同じ服装のユノが立っていた。彼女はいつ見ても一定の調子を保っていた。変化というものがほとんど感じられない。彼女を見ていると、時間の感覚が狂うような気分がする。どれが昨日で、どれが先月で、どれがさっきなのか、わからなくなってしまうのだ。レイドは寝ぼけた頭を必死に動かしながら考えた。腕を治療されたのが昨日で、今は一夜明けた朝だ。いつの間にか眠ってしまったらしい。
ユノの後ろ、昨夜ミラが寝ていたベッドのカーテンは半分開いていた。ミラの姿は無い。まるで元からいなかったかのように、ベッドはきれいに整えられている。
「ミラはどこに?」とレイドは尋ねた。
「ん? あんた知ってるんじゃないの?」
「知らないよ」
「私が来たときからいなかったのよ。あの子、どこに行ったのかしら」ユノはあまり興味が無さそうな口調でそう言った。
窓の外は、この季節には珍しく雨が降っていた。霧のような雨は風景を白く霞ませ、その寒々しさを際立たせていた。ミラを初めて見た日のことを思い出した。あの日も雨が降っていた。
遠くで何かが動いた。あの屋上に小さな人影がある。薄い金色の長い髪。それは間違いなくミラだった。
彼女は柵に手をかけた。レイドは彼女の顔を見ることができなかった。見てはいけない。本能がそう言っている。しかしその光景から目が離せないまま、彼女がゆっくりと柵をよじ登っていくのを、レイドはただ見ていた。激しい動悸がしていた。
細かい雨粒が、灰色の空からゆっくりと降下する。それと同じ速度で、小さな体は落ちていく。静かな雨の音だけが聞こえた。レイドは声を上げることも、目をそらすこともできず、黒い泥が小さくはねるまで、少女の姿をじっと見つめていた。彼女は動かなかった。レイドも凍りついたかのように動けなかった。雨粒だけが休むことなく降り続けていた。
「ねえ、どうしたのよ」
ユノの手が肩に触れた瞬間、レイドは我に返り、彼女の制止を振り切って医務室を飛び出した。右腕をどこかにぶつけても構わず走った。頭の中は真っ白だった。レイドは自分の荒い息遣いと規則的な足音だけを聞きながら走り続けた。
雨は冷たく体を濡らした。空気は重く土の匂いが立ちこめていた。レイドは泥をはねながら、息も絶え絶えに少女のもとへ向かった。黒い泥の中に彼女はいた。彼女の金色の髪は暗く沈んだ灰色のように見え、広がりゆく血すら黒く見えた。彼女は動かなかった。その光景は墨だけで描かれた絵画のようだった。
「どうして」レイドは自分がそう言っていることに気付いた。その言葉だけを何度も繰り返していた。やがてその声は言葉の形を無くし、レイドは少女の亡骸の前に崩れるように座りこんだ。
レイドはミラの体を抱き起こした。その体は軽かった。彼女の腕や背中の柔らかい感触が、濡れたシャツを通して伝わってきた。かすかに残った体温が、彼女がつい先程まで生きていたことを示していた。同時に、その命の灯がもう消えてしまったことも思い知らされた。
雲がそのまま落ちてきたような雨だった。レイドは空を見上げた。灰色の世界はどこまでも続いていた。このまま地上のすべてを呑みこんで、この霧雨のように細かく裂いてはくれないだろうか。姿を変え続けるお前たちのように、この胸の痛みも元の形を忘れられるまで、その大きなうねりの中に流させてはくれないだろうか。そう雲に願った。しかし冷たい雨はレイドの体を震わせ、ミラの死を完全なものへと成していった。彼らはただ背中を押している。生者も死者も隔てなく、それら自身の方向へと。そこには慈悲も願望も無い。抗いようもなく自分と目の前の少女が引き離されていくのを、レイドは感じていた。何もかも、もう手遅れなのだ。
レイドがミラの亡骸を地面に寝かせたときだった。
「レイド。こっち」
声が聞こえた。今、最も聞きたいと思っている声だ。目の前の少女は身動き一つしない。レイドは周囲を見回して声の主を探した。やはり二人の他には誰の姿も無かったし、声は間違いなくミラのものだった。幻聴だったのだろうか、とレイドは思いはじめた。
「こっちだよ」
再び聞こえた声と共に、一瞬だけミラの後姿が現れた。肩越しにこちらをのぞき見ながら、後ろで手を組んで歩いていた。レイドはその幻影がいた場所と、目の前の彼女の亡骸とを交互に見比べた。やがてレイドはふらふらと立ち上がり、幻影が歩いて行った先へと向かった。そうせずにはいられなかった。
ミラの幻影は明滅を繰り返しながら、雨の中を進んでいった。彼女は明らかにレイドをどこかへ導こうとしていた。彼女を追ううちに、レイドはその行き先に気付きはじめていた。鼓動の音がどんどん大きくなっていった。
彼女が立ち止まったのは、大きな扉の前だった。外へとつながる唯一の扉だ。
「ミラ、何を……」
鋼鉄の扉にぶら下がった大きな錠前にミラは手をかざした。すると、弾けるような音と共に錠前の一部が消滅し、錠前は重い音を立てて地面に落ちた。ミラはレイドの左の手を取って微笑みかけると、その手を引いて細く開いた扉の間を通り抜けた。体を包む空気が変わるのがわかった。
そこは深い森だった。海でも草原でもない。いつか頭に描いた風景のどれとも一致しない、鬱蒼とした森林だった。森を突き抜ける踏み固められた道を、レイドは走った。立ち並ぶ木々はその腕をところ狭しと伸ばし、灰色の空を黒く埋め尽くしていた。黒く太い幹の一つ一つがじっとこちらを見ているように感じた。レイドは足元だけを見つめて走った。
前方から何かが近付く音がした。ミラが森の中に入るのを見て、レイドは彼女を追った。ほどなく、大きな馬車ががたがたと揺れながら走り去った。
まずいな、とレイドは思った。馬車が向かう先はきっとあの施設だ。あれが着けば必ず扉の異変に気付かれる。脱走が発覚するのは時間の問題だ。
レイドはミラに話しかけようと顔を上げた。しかし彼女の姿はどこにも見当たらなかった。声も聞こえない。不安や焦燥が腹の底からせり上がってきた。彼女はどこに行った? その答えは知っていた。彼女は塀の中だ。俺はミラの冷たくなった体に触れたじゃないか。そして彼女を置き去りにして、一人でのうのうと逃げ出した。目の前に現れたあれは幻影だった。自分で自分に見せた勝手な影を追いかけて、俺はあの子を見捨てたんじゃないか。
レイドは叫びだしそうになった。すぐにでも塀の中に戻ろうと足が浮きかけた。しかし歯を食いしばってそれをこらえた。ミラは死んだ。それはもう動かしようのない事実だ。ここで戻ってどうする。彼女を救うことなど、もう叶わないのだ。塀の中で待っているのは縛られた未来と埋めようのない空白だけだ。しかし、このまま逃げることが許されるのだろうか。俺は俺を許すことができるだろうか。ミラのいない世界で、彼女を守れなかった俺を。
ミラがいないのなら、いっそ――。
その後のことは、ほとんど覚えていなかった。施設を脱走してから半日ほど経った頃、どこかの崖の下で、レイドは偵察していた革命軍の構成員に救助された。




