12. 悪魔
「どうした。もう終わりか?」
アイクは木刀を下ろして、額の汗をぬぐった。
「もう無理」レイドはあえぎながら尻もちをついた。「ああもう。今日も一本も取れなかった」
「いや、今日はなかなか良かったぞ。何度かヒヤッとした」
「本当に? じゃあ明日は絶対決めてやる」
「それなら明日からは本気を出そう」アイクは涼しい顔で言った。
「やめてくれえ」レイドは地面にあおむけに倒れた。
青い空が目の前に広がっていた。魂が吸いこまれていきそうな深い青だ。遠くの山脈まで続く広大な空を、鳶がゆっくりと旋回している。
横になっていると、どこかから野次が飛んできた。アイクとの訓練は、暇人たちのいい見世物になっていた。さながら小さな闘技場だ。勝敗は決まっているが。裏で賭けをしている者もいた。いつもレイドに賭けている男は今日もビール抜きだ。
「わかった。あんたの異能」レイドは寝ころんだまま言った。「そのめちゃくちゃ強いのは異能のせいだろう。俺にバレないようにちょこちょこ使ってるんだ。じゃないと説明がつかない。強すぎる」
「なるほど。そうかもしれないな」アイクは薄笑いを浮かべた。
レイドは腕で反動をつけて体を起こした。アイクは落ちていた木刀を拾い上げ、「先に戻ってるぞ」と言い残すと、木刀の汚れをふき取りながら去っていった。まだ野次は止まなかった。
体の土ぼこりを払いながら立ち上がると、腕があざだらけになっていることに気付いた。あざができることは珍しくはないが、ここまでひどくやられたのは初めてだった。
レイドはしばらくあざと土で奇妙な色合いになった腕を眺めていた。雨の音が聞こえた気がした。しかし、よく聞くとそれは木の葉のざわめきだった。レイドは頭を振って、アイクの背中を追いかけた。
◇ ◇ ◇
扉を叩く音がした。今度はさっきよりも強く。
筋肉が石になったかのように固くこわばっていて、体を起こすだけで全身が痛んだ。何日も続いた行軍のせいだ。レイドは扉の向こうに聞こえるのも構わずうめき声を上げ、ふらふらと扉のほうへ向かった。取っ手に手をかけようとしたとき、扉は勢いよく開き、レイドは頭を打ちつけた。
「ああ、悪い」とレオンは言った。近づいてくる物音が聞こえないはずがないから、おそらくわざとだろう。「ちょっと頼みたいことがある。ついてきてくれ」
「昨日言ってた指令ですか?」とレイドは尋ねた。
お前の過去を話してほしい。レオンは昨夜、そう言っていた。新しい指令を出す前に、お前についてもっと知っておきたい。過去を知れば、お前について理解することが易しくなる、と。レイドは事実だけを淡々と話した。ミラのことも「エリナとそっくりな少女と親しかったが、彼女は自殺した」という程度にしか話さなかった。その一方で、帝国への不信感を募らせていることは匂わせておいた。レオンが欲しがっている話はそれだろうと思ったからだった。
「それとは別件だ」とレオンは言った。「まあ、少し関わってはいるが。今すぐ出られるか?」
今すぐ出るぞ、とその顔は言っていた。レイドは手早く着替えだけを済ませて部屋を出た。レオンの後ろを歩きながら、不自然に飛び跳ねた寝癖を直そうと奮闘した。
レオンはごつごつと重い靴音を鳴らしながら、朝日が射す廊下を進んだ。
「お前がいた部屋は、俺が住んでたところだ」歩きながらレオンは言った。「アイクと二人で住んでた。ちょうどお前とリオみたいなもんだ。アイクから聞いてたか?」
レイドはいささか驚いた。「いえ。アイクがここの出身なのは聞いていましたが、兵長と古くからの知り合いだとは……」
「そうか。まあ、あいつは自分のことを話したがらない奴だったからなあ」
レオンは窓の外に目をやった。その後ろ姿がアイクのものと一瞬重なって見えた。
「そういえば、どうしてここが革命軍の基地になってるんですか? 元々は帝国の施設だったのに」レイドも窓の外を見ながら尋ねた。
「ん? 知らないのか?」
「は、はい。施設を出てからずっと田舎にいたので」
「田舎者でも知ってそうなものだけどなあ」レオンの言葉には、おそらく悪意は無かった。「まあ、そういうものか。俺も興味が無ければ知ろうとも思わないからな」
二つの足音が階段に響き渡った。
「ここで昔、暴動があったんだ。洗脳……教育がちゃんとされなかったんだな。俺とアイクもそれに参加した。暴動はかなりの規模になった。帝国の連中は異能に関する専門家の集まりとはいえ、普通の人間だ。俺たちがここを占拠するのに、半日もかからなかった。俺たちの要求はただ一つ。自由だ。もちろん、そんなものが認められるわけがない。俺たちの間でもいろいろもめたよ。俺たちの結びつきなんて『外に出たい』だけだったからな。過激な奴が捕虜を全員殺そうとしたり、裏切りが出たり……ああ、話がそれたな。結局、その騒ぎを嗅ぎつけてきた革命軍に声をかけられてな。そこで真っ二つだ。革命軍に入る者と、あくまで自由を求める者。まあ自由って言っても、革命軍と帝国、両方のお尋ね者だ。長生きはできてないだろうな。それについてもエリナともめたんだが――」
「エリナ?」突然出てきたその名前に、レイドは驚いた。「彼女も関わってるんですか?」
「ああ。あいつもここの出身だからな」
レイドが続きを聞き出そうとしたとき、レオンはポケットから鍵束を取り出した。
「さて、ここだな」
そこはリオがいる部屋の前だった。
「頼みたいことって、リオですか?」とレイドは尋ねた。
「違う。こっちだ」レオンは向かいの部屋の錠を開けながら言った。「帝国の研究員らしいが、情報を出す代わりにお前に会わせろと言うんだ。いい度胸だよ」
「俺に?」
錠が開く重い音がして、扉がゆっくり開いた。小さなベッドに女が腰かけている。
「連れて来たぞ。こいつに間違いないな」とレオンは言った。
女と目が合った。レイドは一瞬息が止まった。
「久しぶりね」と女――ユノは言った。
「ユノ? どうしてここに……」
「この女が自分から来たんだ」とレオンは言った。彼は扉を静かに閉めると、そばにあった椅子を彼女の前に持ってきて座った。「約束は果たした。情報を出してもらおうか」
「その前に、二人で話をさせてくれない?」とユノは言った。
「おい、ふざけるなよ。こいつを連れて来たら話をするって言っただろ」
「私は彼と話がしたいって言ったの」
「お前、自分の立場がわかってないようだな」
「わかってないのはどちらかしら。私しか情報を引き出せる相手はいないのに」
「吐かせようと思えば手段は選ばないって言ってるんだ」
二人はにらみあって動かなかった。張りつめた空気に、レイドは息をのんだ。
折れたのはレオンだった。彼はため息をついて立ち上がると、鍵束から一つを外してレイドに投げた。
「話が終わったら俺の部屋に。昨日来たからわかるよな?」レオンはそう言うと、ユノに鋭い視線を送った。「お前のわがままを聞いてやるのもこれで最後だ。次は無いぞ」
レオンが去ってからも、レイドは鍵を手に立ち尽くしていた。自分の立場を思い知らされた。懐かしい顔を前に、どこか浮ついていた自分を認めざるを得なかった。リオも、ユノも、今は敵でしかなく、その命綱の少なくとも一つの端を握っているのは自分だった。
「座ったら?」とユノは肩をすくめて言った。
胸の中で不快なしこりが転がるのを感じながら、レイドは勧められるままに椅子に腰かけた。
「邪魔が入ったけど、改めて――」ユノはレイドの肩越しに扉をちらりと見た。「久しぶりね。元気にしてた?」
「生きてはいるよ」レイドは素っ気なく答えた。
「へそ曲がりな答えね。あなたらしいけど」
「あんたも思ったより元気そうだ」
「いつこの頭が体から離れるかわからないけどね」
ユノは力なく笑った。しかし、その言葉には強がりとは違う印象を受けた。むしろその逆のような気もした。笑みには余裕すら見える。レイドは頭を振って、邪推を振り払った。この女はいつもこうじゃないか。何があっても、腰をすえて物事を見下ろしている。
「どうしてここに?」とレイドは尋ねた。
「あそこでいろいろあってね。機密持ち出しやら何やらで、帝国に追われることになったの。それで、ここに来たのよ。身の安全と、持ち出したものとを交換でね」
「要するに、帝国を売ったんだな」
「そうね。まあ、それはあなたも似たようなものでしょ」
レイドは肩をすくめた。
「あの子が死んだのは知ってる?」とユノは言った。
「知ってるよ」レイドは自分の体温がわずかに上がるのを感じた。「あそこを出ていく直前に、目の前で見たから」
「一応言っておくけど、あの子が死んだのは、あんたのせいじゃないからね」
「大丈夫」レイドはそう言いながら、ユノは決して「亡くなった」とは言わないだろうと考えていた。「それで、話って何だ?」
窓から射す日光がいやにまぶしく、レイドは目を細めて外を見た。深い谷の向こうにひしめきあう家屋の間に、断頭台が見えた。
「あなたの異能について話があるの」ユノもその断頭台を見ていた。
「なるほどね」レオンは皿に盛った大きな肉を部屋の隅に持って行った。そこには一羽の鷹がいた。その鷹はレイドをじっとにらみながら差し出された肉をついばんだ。「やっぱり見込み通りだな。お前になら任せても良さそうだ」
黒猫が足元にやってきて、レイドの足にすり寄った。頭をなでてやると、目を細めて喉を鳴らした。
「俺に何をさせようとしてるんですか?」とレイドは尋ねた。
「うーん。その前に、お前の新しいパートナーを紹介しよう」
「なかなか本題に着かないですね」
「悪いな。これで最後だ」
鷹は十分に腹を満たしたのか、頭を上げて小さく翼を広げた。レオンは中途半端に残った肉をその場に置いて、レイドの前に座った。黒猫がレイドの膝に乗ってきた。
「それで、新しいパートナーって?」
「ああ、ここにいる二人がそうだ。ええと、シュウとハナだ」
レイドは部屋の中を見わたした。レイドとレオンの他には誰もいない。
「どこに?」
「そこ」レオンはレイドの膝の上を指さした。
レイドは膝の上で寝転がる黒猫を見た。
「まさか、この猫が?」
「そうだよ」どこかから声が聞こえた。少年のような声だった。「ボクはシュウ。よろしくね」
レイドは驚いて立ち上がった。黒猫は短く鳴いてテーブルの上に着地した。彼は目を合わせなかったが、その目は鮮やかな赤色をしていた。
「猫がしゃべった」何を当たり前のことを言っている? いや、当たり前じゃない。レイドの頭は混乱していた。
「正確にはしゃべったんじゃなくて、心に直接触れてるんだ」少年の声は言った。黒猫は猫の声で鳴いてみせた。
「じゃあ、もう一人が……」
レイドは部屋の隅にたたずむ鷹を見た。その目もまた赤かった。
「異能を持った動物だ」とレオンは言った。「凶星の力からか、知能が発達していて人語を理解できるらしい。鳥のほうは話せないが、猫は心に触れる異能を使って会話ができる。どちらもユノが連れて来たんだ」
「こんな研究もしてたのか」
「人間よりも成功率はずっと低いらしいな。俺もこいつら以外には知らない」
レイドは二匹の異能使いを眺めた。目が赤いことを除けば、いたって普通の猫と鷹だ。
「猫は心に触れる能力で、鳥は何です?」
「ハナは、そうだな……刃、とでも言おうか」レオンは指を立てて物を斬るまねをした。「凶星の力で刃を作るんだ。こいつが厄介でな、ほとんど目に見えない上に鋭い切れ味でやたらめったら切りつけるんだ。俺でも手に負えない。頼むから怒らせないでくれよ」
ハナの周囲の空気がわずかに揺らいだのが見えた。おそらく異能を見せてくれたのだろう。確かに厄介な異能だ、とレイドは思った。レイドの視力をもってしても、それをはっきりと見ることができないのだから。
「それで、こいつらを連れて、俺は何をすればいいんですか?」
レオンはシュウの頭を荒っぽくなでた。彼は少し嫌がっていた。
「潜入だよ」とレオンは言った。「帝都に潜りこんでほしいんだ」
レイドが荷物をまとめていると、シュウと共に疲れた様子のエリナがやってきた。
「アイクさん、いますか?」エリナはそう言いながら扉の陰から顔を出した。腕の中の猫は挨拶代わりに鳴いた。
「いないけど、どうした?」
「探してるんですが、どこにもいなくて。行き先、知りませんか?」
「わからないな。そもそも、ここに来てから一度も顔を合わせてないんだ」
エリナは低くうなって何か考えこんでいた。レイドは足元に寄ってきたシュウを抱き上げた。さっきもそうだったが、この猫は全く目を合わせようとしない。
「もし会ったら伝えようか」とレイドは言った。
「いえ、たいしたことじゃないんです」エリナはあわてたように言った。「それより、荷物なんてまとめて、どうしたんですか? 私たちの出発はまだですよ」
レイドは猫をなでる手を止めた。
「聞かされてないみたいだ」とシュウの声。
「俺、こいつとハナと一緒に、帝都に行くように言われたんだ」
「どういうこと?」エリナは独り言のようにそう言った。
「兵長にさっき呼び出された。すぐにでも出発してくれって……」
エリナの顔の戸惑いは、しだいに怒りに変わっていった。
「ちょっと文句言ってきますね」
彼女はそう言い残して駆け出した。シュウはそれを追いかけたが、彼だけがすぐに戻ってきた。
「どうしたんだ、あいつ」
「わかんない。聞く耳持たず、だったよ」シュウはあきれたように言った。「エリナの心は落ち着いてるように見えて、底のほうでずっと激しく動いてるんだ。ときどきそれが表に出る。今はなんだか焦ってるような気がする」
「そんなことまでわかるのか」
「それだけしかわからない、かな。何を考えているのか、具体的なことまでは読めないんだ」
俺の心はどうだ? そう口に出しそうになり、その言葉を飲み込んだ。なんとなく、恐ろしいものを見ることになりそうな気がした。しかしその感情の動きも彼には見破られていた。
「そういう気持ちになるのはわかるよ。みんな同じだからね。でも、自分の心について知ることは、あまり良いこととは思わないな」シュウは自分の手をなめながら言った。「そころで、エリナはどうするの? 誰がどう見てもあれは怒ってたよね」
エリナに詰め寄られるレオンの姿を思い浮かべた。彼はどうもあの少女には弱いような印象を受けた。尻に敷かれている、という表現が妙にしっくりきた。
「様子を見に行こうか。いろいろ変更が出てきそうだし」
シュウはうなずいて、レイドの後ろを静かについてきた。
階段にさしかかったときだった。上からやってきた男に気付かず、レイドは正面からぶつかった。
「すみません」レイドはあわてて脇によけた。
「いや、こちらこそ悪いね」男はレイドに微笑みかけると、その横を通り抜けた。
男は全身を覆い隠す黒いマントに身を包み、左目を眼帯で隠していた。大きな傷跡が眼帯に隠れきれずにあらわになっている。一瞬しか見えなかったが、残った右目の瞳は鮮やかな赤色をしていた。
シュウは踊り場の隅で男をにらみつけていた。
レイドが男の背中を見つめていると、男は立ち止まって、くるりと振り返った。
「そうだ。君、ここに詳しいかい? ちょっと案内をお願いしたいんだが」
早く行こう、というシュウの声が聞こえたが、レイドは耳を貸さなかった。
「詳しくはないですが、少しなら。どこに行きたいんですか?」
「ここに帝国の研究者が捕まってると聞いた。その人のところまで連れて行ってほしい」
十中八九ユノのことだ。レイドはうなずいた。
「ありがとう。よろしく頼むよ」
頭上で猫が鳴いた。
「エリナはどうするんだよ」シュウの苛立った声が聞こえた。
「悪い。先に行っててくれないか」
レイドが階段の上を見上げて言うと、彼は不機嫌そうな鳴き声を上げて去った。
「今のが異能を使う猫かい?」
「はい。あの研究者が連れて来たそうです」
「なるほど。あれが……」
「こっちです。行きましょう」
レイドが階段を下りると、男は少し遅れてついてきた。
「そういえば、自己紹介がまだだったね。僕の名前はヴァンだ。よろしく」
「レイドです。ヴァンさんはどうしてここに?」レイドは後ろを何度か振り返りながら話した。「見たところ、革命軍の人じゃなさそうだ」
ヴァンはマントから突き出たものに手を添えている。腰に差したそれは剣だと思われた。全体の形はわからないが、わずかに反ったその形も、控えめに施された装飾も、見慣れないものだった。
「そう言う君も、既定の服装ではないようだけど」とヴァンは言った。
「俺は任務の関係で、身分を隠して行動しなければならなくて」とレイドは言った。「それで、あなたは?」
「僕は傭兵をやっていてね。革命軍に雇われたんだ。基本的に中立なんだけど、今回は知り合いに頼まれてね」
「傭兵?」
レイドはヴァンの赤い目を見た。それは間違いなく異能を持つ者の目だった。“赤い目の悪魔”は帝国によって作り出された人間だ。それが帝国にも革命軍にも寄らない立場にあることが不思議だった。どちらにも属さないことは、どちらからも追われることを意味するのだと思っていた。アイクも以前、そう匂わせていた。
この隻眼の男は、一体何者なのだろう。レイドがその黒ずくめの男に畏怖に似た恐れを抱きはじめたとき、何かが崩れるような轟音と共に、足元が大きく揺れた。二人はさっとその場にしゃがみこんだ。遠くでガラスが割れる音がした。ヴァンがゆっくりと剣の柄に手を伸ばした。
静まり返ると、二人は階段を駆け上がった。廊下にはガラスの破片が散らばっていて、薄いカーテンが外からの風ではためいていた。
「ずいぶんすっきりしたじゃないか」窓の外を見たヴァンは言った。
レイドはその光景を見て息をのんだ。
「橋が無い……」
目の前の崖にかかっていたはずの橋が消えていた。巨大な橋はその両端だけを残して、谷の下に落ちてしまっていた。
「さっき、どこかで爆発があったね。橋の他にも壊されたんじゃないかな」ヴァンは冷静にそう言った。
「爆発?」
「うん。確か、銃火器をためこんでたはずだ。そこをやられたのかもしれない」
さらりと放たれたヴァンの言葉を飲み込むのに苦労していると、階段から足音が近付いてきた。
「レイドさん、無事ですか?」エリナは肩で息をして駆け寄ってきた。
「あ、ああ。俺は大丈夫だけど」レイドは窓の外に目を戻した。「状況は良くなさそうだな」
「全然良くないですよ。火事になってるんです。早く外に逃げないと」
「木造だからすぐに火の手が回るだろうね」ヴァンは他人事のようにつぶやいた。
「のんきなこと言ってないで、早く」
エリナは窓から外に飛び出して、少しでも建物から離れようと、谷のほうへ駆けた。二人もすぐにそれを追った。
視界の端を何かがかすめるように動いた。走りながら目をやると、高速で動き回る二つの影がぶつかったり離れたりしながら、大きな炎の前で踊っていた。レイドは一瞬それが何であるかわからなかった。目で追うことはできても、理解がそれに追いつかなかった。
二つの影は人間だった。片方は大きな剣を振り回し、もう片方は二本の剣でその猛攻をしのいでいた。目の前の光景に思考回路の焦点が合ってきた。その影の正体はアイクとレオンだった。彼らの動きは人間が為せるようなものではなかった。レイドが一つ呼吸をする毎に、彼らの間に十の火花が散った。
赤い目の悪魔。その言葉が頭に浮かんだ。
「あれは……?」エリナは崩れた橋の前で立ちつくし、二人の闘いを見ていた。
「アイクとレオンだ」レイドも驚きのあまり、見たままを言葉にすることしかできなかった。あれはアイクとレオンだ。人間じゃない。あれは悪魔だ。
瓦礫の上に着地したレオンの体がぐらりと傾いた。レオンはすぐに体勢を立て直したが、そのわずかな隙――普通の人間の速度でならとても隙とは呼べないような素早い身のこなしだったが――をアイクは見逃さなかった。彼の剣の重々しい一撃は、それを防ごうとした二本の剣や周囲の瓦礫もろとも、レオンを炎の中へ吹き飛ばした。
「レオン!」
エリナが叫ぶと、わずかな間があり、アイクがこちらを見た。そしてゆっくりと剣を構えた。実際は、その動きはレイドの体が反応する余地が無いくらいに速かった。ただ今まで見た動きがあまりにも速すぎた。
アイクは文字通り飛んできた。光と音の速さの差を感じるほどの距離をたった一歩で詰めた。その接近と共に自分とエリナに振り下ろされる剣の切っ先を見つめながら、レイドはほとんど何もできなかった。避けられない。できたのはそう考えることだけだった。
黒い物が目の前に現れた。規則正しく並ぶ布の繊維。うねって幾つもの流れを作る毛髪。そして、空間が切り取られたようにすら見えるほどに黒い、細長い何か。光沢も無い、ほんのひと欠片の色も無い、すべての光を吸い尽くす真の黒だ。緩やかに湾曲したそれは刃のようだった。それを手にしているのはヴァンだ。彼はレイドの目の前で、アイクの剣を受け止めていた。
しかしその一撃はあまりに重かった。ヴァンの体は背後の二人を巻き込みながら弾き飛ばされた。そしてそのすぐ後ろには、深い谷が大きな口を開いていた。レイドは自分がその中にゆっくりと吸いこまれていくのを感じながら、冷たく光るアイクの赤い目を見つめていた。




