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スターゲイザー  作者: ミズノハル
第一章 赤い目の悪魔
13/29

13. 道化

 落下する夢を見たことがある。

 一度は、エリナの護衛の任務に出る前夜。もう一度は、あの施設から脱走した日。


 海を見たことなど無かったのに、その夢は海の上で始まる。深い青に沈んでいく空を、夕焼けの名残を残した赤い雲が揃ってどこかへ向かっている。空はゆっくりと回転して、背中に強い衝撃を受ける。海水が体を取り巻き、その深みに引きずりこみ、口の中にまで押し寄せる。体が言うことを聞かない。疲労からか、凍えからか、指一本動かすことができない。これは夢のはずなのに、息が苦しかった。ほのかに赤い水面の光が薄らいでいく。闇の中に沈んでいく。

 左手に温もりを感じる。

 ミラ? 無意識にそうつぶやく。

 闇の中に浮かぶ細い腕。左手を包みこむ小さな手。決意の光が宿る赤い瞳。

 体に回された腕から、確かな温もりが伝わる。こんなに温かいものがあったなんて。消えかけた光が近付いてくる。夜の闇にも、海の闇にも呑まれずに残った、小さな光。

 君は誰だ? すぐそばにある赤い目に、そう問いたかった。



 海が見える。

 ベンチが小さくきしむ音がした。ミラが足を揺らすからだ。

「夕焼け、きれいだね」

 水平線に沈みゆく夕日が、すべてを赤く染め上げていた。青かった空も、弾ける波も、白かった砂浜も、それらを見つめる少女の瞳も。


 違う。

 目の前に白い壁がちらついた。海も、夕日も、見えるはずがない。

 地面に置いた手のひらから伝わる砂の感触。違う。木の感触だ。何度も座った、あのベンチの感触。

 夕焼けに染まる空。違う。瞬く星々。ミラと見上げた透きとおった星空。

 少女の顔が白くかすむ。

 君は誰だ?



  ◇ ◇ ◇



 それまで見ていたものがあまりに速すぎたからか、レイドは自分がゆっくりと落ちているかのように感じた。しかし炎や橋の残骸は急速に遠ざかっていき、三人は世界のねじれたひずみのような崖の間を落下していった。

 エリナを守らなければ。レイドはとっさにそう考えた。しかしその考えもすぐに打ち消された。谷底のとげとげしい木々や岩が迫ってくる。誰かを守るどころの騒ぎではない。落下を止めることもできそうにない。その間にも地上の光は遠ざかっていく。避けようのない死が腕をつかもうとしていた。レイドはきつく目を閉じた。そうすることで助かる確率はゼロから上がるわけではなかったが、そうせずにはいられなかった。


 衝撃は、羽毛に似た感触だった。ふわりと小さな抵抗があり、しかし体をしっかりと支える強さがある。羽毛の海の中にいるような、心地良い感覚。あまりにも大きな痛みは痛みと感じられないことがあると、どこかで教わった気がする。それとも、もう自分は死んでしまったのだろうか。それなら良かった。あの高さから落ちた苦痛を感じることがなかったのだから。

 声が聞こえる。あの声に似ている。いつでも聞きたいと願う少女の声。でも、これは違う。これはもっとはっきりした話し方だ。

「レイドさん?」

「気を失っているのかもしれない。まあ、あの高さから落ちたんだから無理もない」


 何かがおかしい。そう感じて、レイドは目を開いた。切り立った岩壁と、針葉樹の葉、はるか上に見える地上の光。耳元で水の流れる音がする。羽毛のような感触はまだある。

 三人の体は腰ほどの高さで宙に浮かんでいた。谷底に転がる岩の間、透きとおった水が流れる沢の真上で、何かに包まれているようにまとまって静止している。

 何が起こった? 生きているのか? 頭がゆっくりと働きはじめた瞬間、三人は浅い沢の中に落ちた。冷たすぎる水が全身を濡らした。エリナが控えめな悲鳴を上げた。


「みんな、無事かい?」沢から上がりながらヴァンが尋ねた。

「私は言うまでも無く」とエリナが言った。

「俺も大丈夫ですが……」レイドは周囲を見わたした。「どうして助かったんだ?」

「風が受け止めてくれた、とでも言うべきかな」

 林の陰で何かが動いた。誰かが木の後ろに隠れている。

「出てきなよ。命の恩人を悪いようにはしない」

 ヴァンの言葉に、木陰の人間はしばらくためらった後に顔を出した。乱れた髪が汗の浮いた白い額に貼りついていた。

「リオ、だったっけ? 話は聞いてるよ。風の異能使いか。面白い能力だね」ヴァンの左手は腰に差した剣の(つば)に触れていた。

「それはどうも」リオは肩で息をしながら歩いてきた。「本当に敵意が無いなら、その武器に添えてる手を離してくれないか。こっちは見ての通り丸腰だし、俺もそちらをどうかしようとは思っていない」

「失礼。癖なんだ」ヴァンはそう言って両手を上げた。


 リオは大きなため息をついて、三人の前に腰掛けた。

「お前が助けたのか?」とレイドはおそるおそる尋ねた。

「ああ、そうだよ」

「どうして?」レイドは思わずそう言っていた。

「どうして、だって? 変なことを聞くんだな」リオは笑った。「たぶん三人とも、帝国としては目の上の(こぶ)なんだろうとは思ってたけど……気付いたら助けてたよ」

「手錠はどうしたんだい?」ヴァンはリオの自由な手元を指さした。「異能を封じる拘束具を君はつけてたはずだけど」

「爆発があった後、ユノが来て外していったんだ。あいつがどうして鍵を持ってたかまではわからない」

「ユノ?」

「拘束されてる帝国の研究者です」レイドが説明した。

「その女はどこに?」ヴァンの目つきがわずかに変わった。

「さあ。すぐに出ていったよ」リオは崖の上を見た。「でも、遠くには行ってないだろうな。あそこはもう出入りができない。俺たちみたいに飛び降りでもしなければ」

 ヴァンはきつく唇を結んで橋の残骸を見つめた。彼の心が乱れている様はどことなくエリナのそれと似ていた。


 彼は一つ息をついて、リオに向き直った。

「まあ、礼を言うよ。助けてくれてありがとう」

「どういたしまして。それで、これからどうするんだ?」とリオは言った。「俺をまた捕まえるか?」

「それはまた後で考えよう。今は……そうだな。とりあえずレオンと話がしたいが」

 最後に見たレオンの姿は、アイクの一撃により炎に飲まれたものだ。

「なんとか上に戻れないかな。なあ、リオ。僕たちを上に飛ばせないか?」

「今はとても」リオは首を振った。「あの手錠、異能を封じると言うよりも、力を吸い尽くすと言ったほうが正しい。あんたらを助けるのにもかなり無理をしたんだ。試してみてもいいが、きっと途中で力尽きて、今度こそぺしゃんこだろうな」

「時間はかかりますが、歩いて戻りましょう。この谷を抜ければ、山を回り込んで戻れるはずです」とエリナは言った。

「時間が……」ヴァンはもどかしそうに崖の上に何度も目をやった。「わかった。そうしよう。確実に戻るのが一番だね」


 ヴァンが歩きはじめたとき、レイドは何か予感のようなものを感じた。ときどき嗅ぎつける死の臭いにも似ていた。もっと最近、同じようなものを感じたことがある。

「待って」とレイドは言った。「あいつだ。シュウ――猫の異能使いだ。あいつが接触を図ってる」

「レイド、聞こえる?」幼さの抜けない少年の声がした。シュウの心の声だ。「そっちは大丈夫? 今から向かうよ」

「こっちは問題ない。だから、上に残っててくれないか? 上の様子を伝えてほしいんだ」

「上は……もう落ち着いた。これ以上の動きは無いと思う。降りてもいいかい? ここからだと、ちょっと遠すぎるんだ」

「わかった。待ってるよ」

「彼は何て?」とヴァンが尋ねた。

「上は落ち着いたから、すぐに降りてくるそうです」

 岩壁の間に射しこむ光の中を、小さな影が降りてくるのが見えた。シュウは若い鷹――ハナに体をつかまれながら、ゆっくりと降りてきた。

「すごい高さだ。よく無事だったね」黒猫は崩れ落ちた橋の残骸に乗って言った。

「リオが助けてくれたんだ」

 レイドが手で示すと、シュウは尻尾をくるりと動かした。相変わらず、誰の目も見ようとしない。


「それで、上はどうなってるんだい?」とヴァンが尋ねた。

「ねえ、レイド」黒猫はレイドの胸元のあたりを見ていた。「ボクは基本的に一対一でしか対話ができない。それで、ボクはこの中では君としか心の接触をしたくない。だから君には僕の代わりに話してほしい。申し訳ないけど、それを伝えてくれないかな」

 レイドは彼の言葉に戸惑ったが、言われるがままに他の三人に伝えた。注意して見るまでもなく、彼らの顔には不満の色が広がった。

「信用されてない、ってことでいいのかな?」とヴァンは言った。

「ごめん。今はそうするしかないんだ」レイドは復唱した。

「まあ、いいさ。とにかく上の様子を話してくれないか?」

 シュウは猫独特の神経質さをその身にまといながら、尻尾をぴたりと体につけていた。


「とりあえず、今わかってる被害の状況だけど、けが人は少ないみたいだ。多くが帝都に進軍した後だし、壊されたのも要塞側だけだから。でも、生産が間に合わなくてこれから持って行くはずだった銃火器が、全部火の中だ。それを踏まえると、被害は大きかっただろうね」

「レオンと……アイクさんは、どうしました?」エリナが不安げに尋ねた。

「レオンは生きてるよ。今は安全な場所にいる。あれはゴキブリよりしぶといから、心配しなくてもいいよ」レイドは最後の一言は伝えなかった。「君たちがここに落ちてすぐに、アイクは外に逃げた。あの高い壁を楽々と越えてね。ハナが追いかけたんだけど、だめだったらしい」

「ユノという女は知らないか?」とヴァンは言った。

「ユノ?」シュウはハナを見た。この猫が動物仲間の鷹とは目を合わせることにレイドは気付いた。「彼女が言ってる。アイクはユノを連れて逃げたって」

 ヴァンはそれを聞いてあからさまに落胆した。彼がどうしてユノにこだわるのかは気になったが、今はそれよりも――。

「もう十分だ。助かったよ。ありがとう」ヴァンは川上に足を向けた。「僕たちは歩いて上に戻る。レオンにもそう伝えておいてくれるかい?」

 黒猫は目を閉じてうなずいた。


 四人が歩き出そうとすると、シュウがレイドの足元に寄ってきた。

「ちょっと、レイドは待って」

「何だ?」

「君にしかできない話がある。みんなにもそう伝えて」

 気が進まなかったが、レイドはそれを三人に伝えた。ヴァンの表情が一瞬ゆらいだが、すぐにいつもの微笑みに戻った。心に触れる能力が無くても、その下に良くない感情が隠されているのはわかる。

「そうか。道はわかるね? じゃあ、また後で」



 三人の人間がいなくなると、シュウは沢の水をなめはじめた。ハナは褐色の翼をときどき動かしていた。

「ごめんね。憎まれ役に巻きこんじゃって」とシュウの心の声。

「気にしなくていいよ。何か事情があるんだろ」

「うん。君以外に接触されるのは危険だと思ったから。まあ、それが無くても彼らとは話したくないけどね」

 レイドは流れる沢の水を手でもてあそびながら、とりあえず笑っておいた。気難しい者になぜかよく好かれる気がする。

「それで、話って?」とレイドは尋ねた。

「こっちに来てよ」

 二人は沢から離れた木の下に移動した。シュウは身を隠そうとしているようだった。

「ずいぶん用心してるんだな。そんなに聞かれたくないのか?」

「命を預かってるからね。慎重にもなるよ」

「どういうことだ?」

「すぐにわかるよ」シュウはレイドの前に座った。「ボクの目を見て」

 黒猫はレイドの目を見つめた。不安の影が胸をかすめたが、レイドはその眼差しを受け止め、彼の丸い瞳孔の中心を見た。


 吸いこまれそうな目とはこれのことを言うのだろう。そう思った瞬間、体が浮くような感覚があった。無数の黒い手が体の中に伸び、無防備な何かが引っ張られているようだった。レイドは思わず抵抗しようとしたが、引きこもうとする力に害意が無いことを察し、恐る恐る身を任せた。崖を落ちたときと似たような感覚があり、あべこべに溶け合った様々な景色が駆け巡った。どれも低い場所から見たものだ。

 映像の奔流は突然に終わった。レイドは気付くと暗い部屋にいた。薬品が入った棚があり、丸い椅子がいくつか転がっている。ろうそくが数本、床に直接立てられている。他には何も無い。おそらくそれだけ見ればただの質素な部屋だったが、床と壁に飛び散った乾いた血痕が、この部屋が普通でないことを物語っていた。

 シュウは部屋の中心に座っていた。

「ようこそ。ここはボクの心の中だよ」とシュウは言った。「君の魂をボクの中に引っ張ってきた。魂が抜かれても体はしばらく生きてるから、心配はしなくていいよ。一応、ハナが見張ってるし」

「ずいぶんと趣味の良い心だな」とレイドは言った。

「好きでこんな場所にしてるんじゃない。心に強く根ざした光景が現れるんだ」


 部屋の隅で誰かが動く気配がした。暗がりの中に溶けこむように座っていたのはレオンだった。彼は血のついた小さな椅子から立ち上がり、ふらふらと歩いてきた。

「兵長、無事だったんですか」

「おう。あまり無事とは言い難い状態だが、生きてはいるな」

「どうしてここに?」

「お前と話がしたかったが、谷の下に落ちたと聞いた。安否確認も含めて、シュウに連れて行ってもらうように頼んだんだ。異能を使いすぎてもう体が動かせそうになくてな。情けない話だが」

 レオンは椅子を起こして、それに座った。床に置かれたろうそくの火が揺れ、それに合わせてレオンの顔に差した影が揺らめいた。

「アイクが裏切ったのは知ってるよな?」

「ええ。あいつに突き落とされたんですから」

「そうか」レオンは膝に手をついて頭を下げた。「申し訳ない。俺がちゃんと見てなかったばっかりに」

「兵長が謝ることじゃないでしょう」

「あいつとは長い付き合いだ。こんなことも見抜けなかったのは俺の責任だよ」

 アイクとレオンは同じ施設で育った。それは前に聞いていた。二人が親しい仲にあったことも。レオンの言葉からも、アイクへの信頼が垣間見えていた。

 むしろ長い付き合いがゆえに、裏切りを見抜けなかったのではないだろうか。そしてそれに誰が最も傷ついているのかは言うまでもない。

「頭を上げてください。それを言うなら、ここ数年ずっと一緒にいた俺にも責任はあります。それに、今回のことで被害を受けたのはそちらでしょう。謝らなければならないのは俺のほうです」

 レオンは頭を上げたが、うつむいて拳を固く握りしめたまま黙っていた。彼の表情には憔悴がありありと刻みつけられていた。


「それで、話って何ですか?」とレイドは切り出した。「俺はともかく、あなたは長く体から抜け出すのはあまり良くなさそうだ」

「ああ、そうだな。すまない。さっきも言ったが、異能を使いすぎてへとへとなんだ。ちょっと頭が回らなくてな」

 レオンは力なく笑うと、背筋を伸ばして深呼吸をした。

「お前の任務の話だ。帝都に潜入して、内部からかく乱する作戦だが」レオンはため息を一つはさんだ。「まあこの通り、アイクが寝返った。あいつはこの作戦を知ってる。間違いなくこの話は帝国に伝わる。お前の存在もな。お前が動いてると知れば、向こうは確実に潰しにかかるだろう」

「中止ですか?」とレイドは尋ねた。

「それはお前が決めることだ」

 レイドは予想外の返答に言葉を失った。レオンは黒く汚れた指を何度も組み直していた。

「お前が動けば、帝国は妨害をしてくる。これは確実だ」とレオンは言った。「だから、お前には予定通り動いてもらいたい。お前の異能についてはユノから聞いたな? あの情報は向こうも持ってる。全力でお前を排除しにかかるだろう。切り札の異能使いを使ってでも」

「俺におとりになれと?」

「聞いたと思うが、帝都突入に使うはずだった武器の大多数がやられた。こっちの戦力は大幅に落ちたんだ。だから向こうの戦力もできる限り削いでおきたい。優れた異能使いが戦場にどれほど影響を与えるかはわかるだろう。無茶なことを言ってるのは自分でもわかってる。これはほとんど賭けだ。お前が進む道は、以前に説明した何倍も危険なものになった。だから、これは命令じゃない。無理だと思うなら、断ってくれてかまわない」


 レオンは申し訳なさそうに目を伏せた。彼を責めるつもりはない。彼は彼でこれの何倍もの無茶な話をされているのだろう。それに、心は話の途中でほとんど決まっていた。どんな結果であれ、こんな戦いを終わらせられるのなら。命を弄ばれる者が生まれずに済むのなら。

「引き受けましょう。できる限り力になります」レイドははっきりとそう言った。

「本当か?」レオンの顔に安堵が広がった。しかし彼はそれをすぐに深刻な表情の奥に隠した。「すまない。こんなことになっちまって。こちらからもできる限りの補助をする」

 レオンは(すす)で汚れた手を差し出した。レイドは儀礼的にそれを握った。


「一つ確認してもいいですか」とレイドは言った。

「ああ」

「アイクは異能を使えるんですね?」

 レオンはレイドの顔をまじまじと見ていた。「そうだが、知らなかったのか?」

「使えないとばかり思っていました。さっきの闘いを見るまでは。体を動かして戦うことしか能が無いと、本人も言っていたので」

「それは……半分は嘘で、半分は本当だな」

「どういうことです?」

「異能を使えないというのは嘘だ。だが、戦うしか能が無いという言葉は本当だ」レオンは手を口元に当てた。「あいつの異能は、身体を強化する能力だ。あのでかい橋を破壊できたのも、俺の速さについてこられたのも、ハナを振り切って逃亡できたのも、全部その異能あってこそだ。驚いたな。今まで一度も使わなかったのか?」

「少なくとも、俺は気付きませんでした」

 しびれるような鈍い痛みが胸に広がっていた。かつてアイクにかけられた慰めの言葉がよみがえる。あれも全部嘘だった。つい先ほどの、剣を振り下ろす瞬間の彼の表情が、目に焼き付いていた。記憶の中の彼とそれとがうまく結び付けられない。結びつけたくない、というのが正確なのだろうか。


 横からやってきたシュウがレオンの膝に乗った。

「ねえ、そろそろ戻らないと」

「ああ。そうだな」レオンはレイドに向き直った。「じゃあ、頼んだぞ。前に話した通りに動いてくれればいい。一度上に戻るよな?」

 レイドはうなずきかけて、中途半端な角度のまま頭を止めた。「そういえば、エリナが怒ってました。この話を聞いてないって。戻ったら面倒なことになりませんか?」

「あー。ばれたのか。だったら、もう出発してくれないか。荷物は後から届けさせる。出発しちまえば、いくら文句を言おうが無駄だ」

「それでいいんですか……」

「終わったことをネチネチ言う女じゃない。大丈夫だよ」

 そういうことではない。そう思いながらも、レイドはうなずいておいた。

「ボクはレオンを置いてくるから、先に行ってて」

 シュウの言葉と同時に、後ろ向きに落ちるような感覚があり、レイドは意識を取り戻した。

 ハナが褐色の翼を広げて飛び立つのが見えた。彼女の姿は地上の苛烈な光に向けて、とげとげしい岩壁の間を器用に旋回しながら小さくなっていく。

 レイドはそのはるか下で、冷たすぎる水が流れる沢に沿って、ゆるやかな斜面を下っていった。



 谷を抜けた頃、ハナとシュウが戻ってきた。

「早かったな」

「レオンを置いてきただけだからね」シュウは一度ハナに目をやった。「私のおかげ、だってさ」

「そうだな。空を飛べるのは便利そうだ」

 若い鷹は誇らしげに翼を震わせた。

「そういえば、エリナとリオがどこに行ったか知らない?」

「あの二人は上に戻ったんじゃないのか?」

「ヴァンが姿が見えないって言ってたからさ。どうでもいい感じだったけど」

 彼がぼんやりとした調子で猫に話しかける姿が頭に浮かんだ。よほど興味をそそられるものでない限りは、あの調子は崩さないのだろう。


「ハナは見てないのか?」

 そう言いながら彼女に目を向けたとき、その奥に見える谷から何かが迫ってくるのが見えた。レイドの固まった表情を見て、ハナとシュウはその視線を追った。滑空してくる二つの影が、突風と共に彼らの目の前で止まった。

「空を飛べるのは便利ですね」エリナの顔は紅潮していた。

「本当に信じられない。あれだけ無理だって言ったのに」リオは膝に手をついて苦しそうにあえいでいた。

 レイドは行方不明になっていた二人を見つめたまま言葉を失っていた。ハナの周囲の空気が鋭い歪みを揺り返している。シュウが彼女をなだめているのが、言葉が聞こえなくてもわかった。

「どうしてここに?」ようやくレイドの口から言葉が出た。

 リオの背中をさすっていたエリナが顔を上げた。

「私にいろいろ言われる前にやっちゃえ、っていうのが、昔からのレオンのわがままの通し方なんです。だからやり返そうと思って」

「ああ、いや。そうじゃなくて……」

「どうしてついてくるか、ですか?」

 レイドはこめかみを押さえながらうなずいた。

「レオンはあなたをおとりに使おうとしているでしょう? そのやり方が気に入らなくて。変に過保護なのも嫌でしたし」エリナは腕を組みながら言った。「だから、レイドさんについていこうと思います。安心してください。大けがしても、すぐに治しますから」

 胸を張る彼女の姿はたくましく、妙に頼もしかった。ずっと守る側だったのに、今は守られる側になっている。レイドはおかしくなって笑った。こんな子だったかな。もっと弱々しいお姫様のようだと思っていたのに。しかしそれも、守らなければならないという義務感から生まれた幻想だったかもしれない。

「ありがとう。頼りにしてるよ」とレイドは言った。


 リオは蒼ざめた顔で座りこんでいた。ぼんやりと空を仰いでいた目が、レイドの視線をとらえた。

「巻きこまれたのか?」レイドは笑って言った。

「そうでもないさ」とリオは言った。「俺も来たくて来たのかもしれない」

「何だよ、それ」レイドはまた笑った。

「エリナに引っ張られて来たけど、本当はこうしたかったんだってわかった。敵同士じゃなくて、友人としてお前とまた歩きたかったんだ」

 レイドはその言葉に胸を打たれた。リオは自分のことを友人と思ってくれている。そして、こちらが彼を友人だと思っていることを信じている。嬉しさよりも、今まで彼を心のどこかで遠ざけていたことへの自責の念が、重くのしかかった。だが、レイドは笑うことにした。醜い胸中を打ち明けるよりも、彼の中の思い出を美しいままにしておくべきだ。


「彼もついてくるの?」シュウの声が飛びこんできた。

 どきりとしながら、レイドは振り向いた。今の感情は彼に見られていただろうか。

「ああ。だめかな」とレイドは言った。

「ボクは賛成できない」黒猫は大きな赤い目を細めた。「元は帝国についてたんだろう? 信用できないよ」

「そんなことない。リオは俺の親友だ」

「レオンの親友だったアイクは裏切った」

 アイクの無慈悲な表情を思い出し、レイドは沈黙せざるを得なかった。

「どうした?」とリオが尋ねた。

「お前のことが信用できないらしい」

「なあ、嘘じゃないんだ。心を読んでくれたってかまわない」リオはそっぽを向く猫に向かって言った。

「心に触れたくないって彼に伝えて」素っ気ないシュウの声が聞こえる。

 シュウの意見を尊重しないわけにはいかない。リオを突っぱねることにも大きな抵抗はあった。しかし、今はやはり危険な道を選ぶべきではない。レイドの心は傾きはじめていた。

 助け舟を出してくれたのはエリナだった。

「シュウ、心に触れたくないんでしょう? でも、心に触れなくても、言ったことが嘘か本当かくらいはわからない?」

 シュウはエリナをちらりと見て、しばらく考えこんだのちに「わかるよ」と短く言った。

「だったら」リオはいやに必死だった。「俺の言葉が嘘じゃないってわかるだろう。俺は命を救ってもらった恩を返したいんだ。少しでも力になりたいんだよ」

 シュウはハナと目を合わせたまま動かなかった。何かを話し合っているのかもしれない。レイドにはその声は聞こえない。

 やがて、彼は口を開いた。

「リオの言葉は嘘じゃないみたいだ。判断は君に任せるよ」

 彼の許可があるなら、レイドの心は決まっていた。レイドとリオは手を握り合った。リオはシュウにも手を差し出したが、彼はそっぽを向いたままため息をつくばかりだった。

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