5. 名
帝国と革命軍の戦争が続く中、レイドは謎の少女エリナの護衛をすることとなった。帝国の刺客を倒し、一行は目的地へ急ぐ。
「誰にやられたの?」とユノは言った。
レイドはそれには答えなかった。「これ、治りそう?」
ユノはわざとらしくため息をついた。「目は見えるのよね?」
「見えるよ」
「じゃあ、目は大丈夫。ただ傷痕は残るわよ」
「目が見えればいいよ」とレイドは言った。
レイドは左目に貼りつけられた分厚いガーゼに触れた。取らないでね、というユノの声がすぐに飛んできた。
「治るまでは毎日来なさい。ガーゼ換えるから」とユノは言った。
「わかった」とレイドは言った。
「誰がこんなことしたのか、なんとなくわかるけど、本当に言わなくていいの? あなたがちゃんと証言すれば、私たちだって何かできるのに」
レイドはユノの言葉を無視して立ち上がり、扉に手をかけた。後ろからまたため息が聞こえた。
手に力を入れるより前に、扉はすっと開いた。目の前に、あの少女がいた。彼女は驚いて数歩後ろに下がり、レイドの顔をじっと見つめた。そしてレイドが何か言おうとすると、彼女は暗い廊下へ逃げていった。
ユノが横から廊下に顔を出した。
「誰かいたの?」とユノは言った。
「ほら、あの――」レイドはそこまで言って、自分が彼女の名前を知らないことに気付いた。「あの金髪の子だよ。いつも一人でいる女の子」
「ああ、あの子ね」
「さっき怪我してたんだ。だから来たのかもしれない」
「どうして知ってるの?」
レイドはどきりとした。ユノはその顔を見て笑った。
「なるほど、そういうことね」
「あの子が目の前で転んだんだ。だから――」
「助けたの?」
レイドは言葉に詰まった。ユノはまた笑った。
「あなたってわかりやすいわね」とユノは言った。「ああ、そうだ。あの子を連れて来てくれない?」
「俺が?」
「そう。怪我してるんでしょ? 連れて来てくれたら、今日のことはもう聞かないから」
もう全部わかってるくせに、とレイドは思った。
「わかったよ」とレイドは言った。「じゃあ、名前を教えてくれないか? 俺、あの子の名前すら知らないんだよ」
「名前?」ユノは不意をつかれたような顔をした。「名前、そういえば私も知らないわね」
「なんであんたが知らないんだよ」とレイドはあきれた。
「誰も名前で呼ばないのよ」
ユノはしばらく考えこみ、やがてぽつりと「人形」と口にした。
「人形?」とレイドは聞き返した。
「そう、人形」とユノは言った。「あの子、人形って呼ばれてたわ。たぶん、誰も本当の名前を知らないんじゃないかしら」
◇ ◇ ◇
ひどい戦いだ、とレイドは最初に思ったのを覚えている。
発端が何であったのか、正確に知っている者はいないだろう。アイクはそう言っていた。農民の貧困か、宗教的な反発か、肥えた老人たちのつまらない欲望か。様々な負の要因が溜まり、数々の小さな波紋が重なり、互いに増幅し、ついには決壊した。
黒い地にひと筋の白い線が引かれた旗を、彼らは掲げた。悪に投じる光、という意味があるそうだ。彼らは村を巡り、同調する者を集めて雪だるまのように大きくなった。味方にならない村はいつの間にか無人になっていた。無人の村には石が並んだ。
彼らは人々の負の感情をかき集め、それらを巧妙に国へと向けさせた。彼らは国を圧倒しはじめた。大きくなっていく組織に、国が倒れるのも時間の問題であるように思われた。
ただし、そこには未知の懸念材料が残っていた。国が作り出した生物兵器だ。赤い目の悪魔。生物兵器はそう呼ばれていた。
森はどこまでも続いていた。山道から外れてしまうと、深い霧の中にいるように方向感覚を失った。その行程はレイドの目だけが頼りだった。地図をにらみながら、目を凝らし、わずかな情報と勘で歩を進めた。その間も、警戒は欠かせなかった。揺れる草むらや鳥の声に、じりじりと神経をすり減らされた。
結局、一日でレイドは疲れ果ててしまい、翌日からは山道に戻ることとなった。
それからは、三人は何の問題も無く歩き続けた。見えない影を見続ける毎日は、想像以上にレイドを苦しませた。異変は真っ先に自分が見つけるはずだ、という思いが、それを助長させた。
六日目のことだった。目が覚めたときから、レイドは異変を感じていた。めまいと、背中を突き抜けるような寒気があった。平静を装い、その日の行程の確認を始めたが、アイクはさらりと変更を申し出た。
「北にある村に向かおう。道からは少しそれるが、今日はそこで休む」とアイクは言った。
「大丈夫だよ。俺は歩ける」
「一度鏡を見たらどうだ。今にも倒れそうな顔だぞ」とアイクは言った。「このままいけば、予定よりもかなり早く着きそうだったんだ。時間のことは気にするな」
アイクは民家の扉を叩いたが、返事は無かった。彼は腰の短剣を抜いて、二人に下がるように指示すると、扉に耳をつけた。かすかに風が流れ、寒気とは違った嫌な気配があった。アイクは扉を蹴破り、中に入った。レイドは扉の横で短剣の柄に手を添えながら、じっと耳をすました。アイクが室内を歩き回る音以外は何も聞こえなかった。やがてアイクは警戒を解いた様子で出てきて、肩をすくめた。
「ここで待ってるはずなんだが」とアイクは言った。「お前たちはここで休め。俺は周りを見てくる」
レイドは荷物を下ろして、そのまま毛布が引かれた床に倒れこんだ。歩いたことで、体調はかなり悪化していた。朦朧としながら、エリナの困ったように笑う顔を見た。
「病気は治せないんです。ごめんなさい」と彼女は言った。
その後もいくつか言葉を交わしたはずだが、レイドはいつの間にか眠っていた。ほとんど失神するようだった。
夢を見た。
そこは毎夜のように行った場所だ。色褪せたベンチ、周囲を囲む白い塀、満天の星、それを見上げる少女。彼女はレイドを見ると微笑んだ。何かの拍子にふっと崩れてしまいそうな、はかなげな笑顔だった。
金色の髪に、赤い目。エリナと同じ顔だ。
レイドは少女の隣に座った。ベンチが小さくきしんだ。
「久しぶりだね」と少女は言った。
「うん、久しぶりだ」とレイドは言った。「前より話すのが上手くなったんじゃないか?」
「そうかな」と言い、彼女は笑った。
少女はレイドの手を握った。レイドは小さな手を握り返した。
「待ってたよ」と彼女は言った。
「待ってた?」
「うん。ここでね、ずっと呼んでた」
少女は星を見上げた。彼女の言葉の意味はうまくつかめなかった。しかし、彼女のことだから、きっとその言葉は真実なんだろう。
水平線の上に浮かぶ月を、レイドは見つめた。
「あの子は何者なんだ?」とレイドは言った。
「エリナ?」
「うん」
「あの子はね」と少女は言った。「わたしじゃないよ」
「わかってるよ。君はずっとここにいたんだろう」
「うん、ここにいたの」少女は微笑んだ。
冷たい風が吹いた。少女は何かを思い出したように手をほどき、ベンチから離れた。
「レイド、行かなきゃ」と彼女は言った。「みんな待ってるよ」
レイドは自分の左手に触れた。彼女の小さな手の感触は、もうほとんど消えてしまっていた。
「俺、ここにいたいよ。他に行きたい場所なんて無い」
少女は首を振った。「だめ、行かなきゃ」
風が急に強くなった。レイドは両腕で顔をかばった。少女は何かを言ったが、風の音にかき消されて聞き取れなかった。レイドは少女の名を叫んだ。その声も風に飲み込まれた。全身に力を入れて、吹きつける風に耐えた。腕のすき間から、歩み寄る少女の姿が見えた。この強風の中でも、彼女の髪は揺れていなかった。彼女は背伸びをして、レイドの耳元に口を近づけた。その一瞬だけ、風の音が止んだ。
「だいじょうぶ」と彼女は囁いた。「ずっと一緒にいるから」
レイドの体は宙に投げ出された。
レイドは深く息を吸いながら、体を起こした。頭痛が頭にこびりつくように残っていたが、体はすっかり軽くなっていた。しかし、皮膚が張りつめるような嫌な気配はまだあった。すきま風が不気味な高い音を立て、遠くで物がガタガタと揺れていた。
アイクとエリナの姿が見えなかった。念のためにレイドは剣を背負い、もう薄暗くなった外に出た。
エリナは目の前にいた。彼女は不安げに周囲を見回していた。
「どうした?」とレイドは話しかけた。
「あ、レイドさん。もう起きてもいいんですか?」
「もう大丈夫だよ」
「そうですか。よかった」と彼女は言った。「アイクさんが帰ってこないんです。一度は戻ったんですが、すぐに出ていってしまって。なんだか嫌な風も吹いていますし、ちょっと心配で……」
風の音が首筋をなでるように響いた。
「アイクなら大丈夫だよ」とレイドは言った。「中に戻ろう。外は安全じゃない」
「そうですね」とエリナは言い、一度、森へ目を向けた。
そのとき、黒い影がさっとレイドの前を横切った。黒いコートが、彼の目には見えていた。ルークと同じコートの男は地面すれすれを滑空して、レイドと目を合わせ、エリナを連れ去った。体が反応する猶予も無い一瞬の出来事だった。
レイドは呆然とその場に立ちつくしていた。しかし、心臓が一拍打つと同時に背中の剣を抜き、男の影を追った。




