28. Red-eyes
筆が紙の上で踊り、見知らぬ記号が並べられていく。意味は分からないのに、その造形自体に独特の美しさが感じられた。
サクラは筆を置くと、一つの列を指差した。
「これは『おはようございます』って意味。発音は――」
彼女はゆっくりとその言葉を繰り返した。レイがそれを真似ると、彼女は隣の文に指を移した。
「これは『ありがとう』。こっちは『ごめんなさい』」
再びオウム返し。発音に細かい指導が入る。少し情けない気分になってきた。
「覚えた?」とサクラは尋ねる。
「なんとか」レイは無造作に広げられた紙を拾い上げた。
「とりあえずこれが言えれば、ここの人もちょっとは感心してくれると思う」
「発音が難しい。いつか舌を噛みちぎりそうだ」
「とにかく練習するしかないよ。わたしもそうやって覚えたから」サクラは窓の外に目を向けた。「そろそろ出かけよう。明日から営業再開する準備もしないといけないし」
使いこまれた小さな履物が、土間の隅に行儀よく並べられていた。木の板に差し込まれた緒は色がくすみ、ところどころ擦り切れている。サクラに尋ねると、下駄というらしかった。彼女はその隣に大きな下駄を置いた。
「それはわたしの。あなたのはこっち」
サクラは慣れた様子でそれを足に引っかけたが、レイは指がうまく通せず、何度も彼女の足元と見比べながらなんとか歩くに至った。
木に囲まれた下り坂の途中で、サクラは立ち止まった。同伴者のおぼつかない足取りに合わせるためだ。朝の柔らかい日差しは銀の髪をまだらに輝かせた。
「大丈夫?」と彼女は尋ねた。
「厳しい」レイは渋い顔をした。「もう指がつりそう。帰って来られるかな」
「なんだかおじいちゃんみたい」
サクラは肩を揺らして笑った。レイは思わず立ち止まっていた。
「……なに?」彼女はいぶかりながらも半分笑いを残した顔を上げた。
「ああ、いや。笑った顔、初めて見たなと思って」
動揺が泳ぐ視線に顕れる。サクラはくるりと背中を向けると、細い坂を一気に駆け下りた。レイはふらつきながら後を追った。
「待ってくれよ」
雑木林を抜け、あたたかい風が吹きつけた。レイは足を止めて、眼下に広がる景色に目を奪われていた。それは家の縁側から見た風景の完全な姿だった。海面ではじける波のひとつひとつを吟味するように見つめていたが、サクラが坂の数歩下でこちらを見ていることに気付き、レイは再び下駄の軽やかな音を鳴らした。
「もういいの?」とサクラは尋ねる。「夜まで見ていたい、って顔してた」
「いいよ。これからはここを通るたびに見ることになるんだから」
「……それもそうね」と彼女は言った。「昨日もうちから見てたけど、海が好きなの?」
レイは短くうなった。好き嫌い、それだけでは言い表せないものを感じる。海は何かに似ていた。指先に触れているがたぐり寄せられない。そんなもどかしい感覚。
「なんだろう、正直に言うとちょっと怖いんだ。あれがどこまで広がってるんだろう、って考えると、気が遠くなってくる。俺があの真ん中にいたら、きっと砂粒よりも小さくしか見えないな、とか思って。でも、怖い以上にわくわくする。ここから見えない遠くまでずっと世界が広がってるんだよ。見たこともないものがたくさんあって、見えてたものでも全然違う見え方になったりして、それでも今まで生きてきた世界の延長線にその場所はあって……あ、ごめん。なんだか変な話になっちゃったな」
斜め前を歩くサクラから一瞬だけ視線が送られる。
「べつに、変な話なんかじゃないと思うけど」
道は街道に合流し、まばらに家屋が現れてきた。街が見える。レイはその姿が大きくなるにつれて、心が高揚するのを感じた。
「一つだけ注意しておいて」街に入る前に、サクラは声をひそめて言った。「なるべく顔を上げないで」
レイは理由を尋ねたかったが、すれ違う人が多くなり、その機会を逃した。
道行く人の数はどんどん増えていった。道沿いにはさまざまな店が並び、客を寄せる威勢のいい声が飛び交う。レイは物珍しい風景に顔を上げたい衝動を抑えながら、横目でその様子を眺め回した。サクラはじっとうつむき、窮屈そうにしながら隣を歩いていた。陽気な喧騒のすき間を、二人は静かに縫って歩く。
「町に大きな街道が通ってて、けっこう人が集まるの」聞き取るのがやっとの声でサクラは説明した。「町を渡り歩く人ってけっこうお金持ちだから、みんな頑張ってお金を落としてもらおうとしてる」
すぐそばで声が上がり、目の前にいくつものリンゴが転がってきた。両手いっぱいに荷物を抱えた女性があわててそれを拾い集めようとする。二人はそれを拾い、女性に渡してやった。『ありがとう』さっき覚えた言葉とともに女性は顔を上げた。
そのとき、彼女の表情が豹変した。
「アカメ」
彼女は金切り声でそう叫ぶと、サクラを突き飛ばし、ものすごい剣幕で怒鳴りはじめた。
レイが唖然として立ち尽くしていると、サクラに後ろから袖を強く引かれた。レイの服が乱れるのも構わずに、彼女は早足でその場を離れた。二人が通る道は自然と開け、しばらく野次馬の視線が背中に付きまとうのを感じた。
人がいなくなると、サクラはようやく手を離した。肩を落とした背中はいつにも増して小さく見えた。
何が起こったのか、レイは薄々勘づいていた。
「『アカメ』っていうのは?」
サクラの肩が小さく上下した。ため息をつくのが聞こえた。彼女はゆっくりと振り返り、自分の目元を指差した。
「あなたやわたしみたいに、目の赤い人がそう呼ばれてる。普通の人はみんな黒か茶色だから、けっこう珍しいんだけど――」
「そうじゃなくて」レイは自分の髪が少しずつ逆立つのを感じた。「いつもあんな扱いを受けてるのか?」
大きなため息。
「……この国では、赤い目は悪魔の子の象徴だって信じられてた。だから今みたいなことは、あまり珍しいことじゃないの」
レイは来た道を戻ろうとしたが、彼女はすぐに前に立ちふさがった。
「だめ」サクラの言葉は懇願だった。
「仕返しなんかしない。ただ話したいだけだ。サクラは何も悪いことしてないって分かってもらって――」
「無理だよ」彼女の声は強く、同時に揺らいでいた。「わたしや、赤い目の人たちがこの国で暮らしていけるのは、わたしたちのことを理解してくれる少数の人たちが声を上げてくれるおかげなの。その人たちや、他の赤い目の人たちのためにも、余計な騒ぎを起こすのはやめて」
サクラの目に浮かぶ涙が、レイの心の異常な熱を冷ました。冷静になれ。彼女を悲しませてどうする。
矛先を見失った感情は、胸の奥でむなしく燻り続けていた。しかし、うなだれながらもレイは耐えた。これまでずっと、サクラはこれに耐え続けてきた。あの小さな胸に押し込めてきた。やるせない気持ちは、彼女のほうがはるかに多く抱えているのだ。
「……ごめん。何も分かってないのに、勝手なことしようとした」
頭が痛い。
どうしてこんなに必死になるんだろう。数日前に会ったばかりの人のために。
……似ているから。
誰と?
……思い出せない。
「行こう」
サクラは赤くなった目元をぬぐって、静かな通りに出た。通行人の何気ない視線に含みがあるように思えて、息が詰まりそうだった。
「また、さっきみたいなことがないといいけど」レイは声をひそめて小さな背中に話しかけた。
「この通りは大丈夫。町に住んでる人のための商店街だから、ここにいる人はだいたいわたしのことを知ってる」
「じゃあ、何かあっても守ってもらえるな」
「そうじゃないよ」サクラは背を向けたまま首を振った。「わたしのことを知ってるから、不用意に近づかないだけ。さっきの女の人は外から来た人だったから、目を見るまで気がつかなかったんだと思う」
レイは思わず顔を上げた。目が合いそうになると、誰もがさっと顔を背けた。先程の群衆の視線とはまた違う、無関心と忌避。
問題は言葉の壁だけじゃない。アンの言葉の意味は、予想以上に重かった。
玄関には朝にはなかった履物があった。下駄と形は似ているが藁で編まれている。今にもバラバラにほどけそうなくらい使いこまれていた。
「あ、もう帰ってきてるんだ」
サクラがそうつぶやくと同時に、居間の戸が開け放たれた。そこにいたのは見知らぬ若い男だった。
彼はサクラに何か尋ねた。サクラは荷物を床に下ろしながら、これまでのことを説明したようだった。
「なるほど。じゃあこっちで話したほうがいいか」男は興味深そうにレイを眺め回した。彼にも言葉が通じるようだ。「俺が留守にしてる間に面白いことになったな」
「……どうだろうね」
小針のような言葉を残して買い物の荷物を運んでいったサクラの後ろ姿を、男は黙って見送った。
「街に行ってきたのか」と男は尋ねた。
「ちょっといろいろあって……」レイは頭をかいた。
「だろうな。察しはつく」
せわしなく動き回る足音が向かってくる。
「ねえ、ジークさんの服、勝手にレイに着せちゃったけど大丈夫? あと下駄も」サクラは戸のすき間から顔を出した。
「ああ、余ってるから構わないよ。あと奥にしまってあったやつ、あれももう着ないから、好きに使ってくれ」
「あれ全部? さすがに悪いよ」
「いいよ。近いうちに売ろうと思ってたんだ。どうせなら身内に使ってほしい」
「……わかった。お言葉に甘えて、もう一着もらっておくね」
「全部やるって」
サクラは首のひと振りでその申し出を拒否し、レイが持ってきた荷物を持ち上げようとしたが、手を滑らせてそれを落としそうになった。レイがとっさに手を伸ばして支えようとすると、彼女はさっと手を引っ込めて後ろに下がった。唐突に全重量を受け渡されたレイだったが、なんとかそれを落とさずに耐えた。
一瞬の静寂があった。
「あっ……ごめんなさい」サクラは退いたときの体勢のまま立ち尽くしていた。
「……あはは。皿とか、落とさなくてよかった。これは台所に持っていけばいい?」
「う、うん」
身を固めたまま後ずさる少女の横を通り抜け、レイは台所に荷物を下ろした。すぐにサクラがやってきて、手早くそれをまとめはじめる。
「何か手伝おうか」とレイは言った。
「いいよ、すぐ終わるから。それに、たくさん持たせちゃったし」
せわしなく棚を開け閉めするサクラの背中を、レイは見つめていた。
「さっきはごめん。急に手出して」
レイの言葉に、サクラの手が一瞬止まる。
「……悪いのはわたしだから」彼女は背伸びをしながら、棚の食器を並べ替えた。「それより、ちゃんと挨拶してきたら。ジークさん、会うの初めてだよね」
「ああ……あの人、誰?」
「お姉ちゃんの旦那さん。この家も元々あの人ので」小さな咳払い。「とにかく、すごくお世話になってるの。あなたなら大丈夫だと思うけど、失礼のないようにね」
ジークは居間で刃物の手入れをしていた。細長い銀色の刀身は、レイの胸を不快にざわつかせた。
「ひとつ、聞いておきたい」ジークはゆっくりと振り返った。「俺とどこかで会ったことはないか?」
レイは眉をひそめた。どうしてそんなことを聞くのだろう。
「いや……覚えはないけど」
「そうか、記憶喪失なんだったな。似たような奴を知ってる、なんとなくそんな気がしたんだ。たぶん気のせいだろう」彼は取り繕うように笑った。「気を悪くしないでくれ。仕事柄、恨まれることも少なくない。俺やアンは大丈夫だが、サクラが心配でな。あいつは誰かが守ってやらないと」
「……俺がいないほうがいいなら、いつでも出て行くよ」
「馬鹿言うな。お前みたいなやつを放り出しておけるか」
目頭がじんと熱くなるのを感じた。同時に、街で起こったことを思い返した。ここに拾われなかったら、どうなっていたことか。
レイはジークの手元を見つめた。くすんだ銀の刃はかなり使い込まれているように見えた。それを見た瞬間、背筋を悪寒が走り抜けた。
「記憶が、変に飛び飛びなんだ。大事な部分が大きくえぐり取られて、その周りがひび割れるみたいに抜け落ちてるような、そんな感じで。何かの拍子に思い出すこともある」レイは刃を指さした。「今、思い出した。それは、人を……斬る道具だ」
ジークの表情がわずかに曇った。
「恨まれる仕事をしてるって言ったよな」
「言ったな」
「……人を斬ったことは?」
「あるよ」
レイは思わず身構えた。ジークはそれを見て静かに笑った。
「安心しろ。逆だよ」
「逆?」
「俺が殺し屋か何かだと思ったんだろう。逆だ。護衛をやってる。おかげで面倒なやつに目を付けられるようになった」
「護衛……」
頭の中の一点が激しく揺さぶられた。レイは頭を抱えながら、その手に握られた刃をじっと見つめた。呼吸が荒々しく乱れる。指先が痺れ、視界が狭まるように目の前が暗くなった。鈴のような音が鳴る。音がさらなる音を呼び、やがてそれは四方を取り囲み、頭を揺るがす大きな波に――。
「おい、レイ」
腕をつかまれ、レイは我に返った。
「大丈夫か?」
「えっ……ああ」
かすかな頭痛を残し、頭はほとんど凪いでいた。レイは安堵と落胆のため息をついた。
ジークは無造作に立てかけてあった二本の木刀を手に取り、その片方を投げてよこした。
「……なに?」レイは使い込まれた木刀を見つめた。
「外に出るぞ」
レイは彼の言葉の意味を理解し、大きく首を振った。
「い、嫌だよ。あんた強いんだろ。それに、こんなの使い方が分からないよ」
「いいから、ついてこい」
レイは強引に外に引きずり出された。背の低い雑草の茂る庭で、二人は向かい合った。
「職業柄、なんとなく分かるんだ。ちょっとした身のこなしから、そいつが武の心得があるかどうかが」ジークは木刀を手の中で回した。「何かの経験があるんじゃないのか。少なくともお前の所作は、素人のそれじゃない」
「仮にそうだったとしても、もう闘い方なんて覚えてないよ」
「それを今から思い出させるんだ」
ジークは木刀を大きく振りかぶった。脳天めがけて振り下ろされるそれを、レイは木刀を両手で構えて受け止めようとした。しかしジークの木刀は触れ合う直前で大きな弧を描き、レイのあばらを打った。
「無理だよ。敵うわけないだろ」レイは脇腹を押さえて後ずさりした。
「まだ分からないさ」
再びジークは詰め寄ってくる。レイはあわてて木刀を構えた。
一撃をなんとか防ぎ、次の手を体に受ける。そんなことを繰り返すうちに、防げる手が増えていた。足さばき、剣さばきから不自然さがなくなっていく。
何度目かで、レイは反撃を試みた。それは難なく防がれてしまうが、ジークは絶え間なく続けていた攻撃の手を休めた。
「慣れてきたみたいだな」
「不思議だ。体が勝手に動く」
「頭は覚えてなくても、体は覚えてるもんだ。歩き方や泳ぎ方と一緒さ。意識しなくても、体は自然と動いてくれる」
「続けてくれ。もう少し、あと少しで何かがつかめそうな気がする」
「いい顔するじゃないか」ジークは木刀を握り直した。「ちょっと強くいくぞ。覚悟はいいな」
体が覚えている、たしかにその通りだった。はっきりとは思い出せなくとも、この体の動き、木刀のぶつかり合う音を懐かしいと感じる。かつての自分が、この瞬間が好きだったことも。
ちぐはぐに回っていた歯車が、ひとつ、またひとつと噛み合っていく。筋肉と関節の動きが統一した目標へと体を運ぶ。
ついにレイはジークの首筋に木刀をつきつけた。時間が止まったかのように静まり返り、ジークはゆっくりと両手を上げた。
「よくやった。今のはいい動きだった」
レイは崩れ落ちるようにその場に座りこんだ。興奮が引き、体中が痛み出した。服の下を覗くと、いたるところにあざができていた。
「何か思い出せたか?」ジークは尋ねる。
「いや。だけど――」レイは自分の手に握られた木刀を見下ろした。「何かやってたことは事実なんだろうな。あんたの言う通り、素人じゃなさそうだ」
「どうした、浮かない顔だな」
レイは自分の左目に手を添えた。古い傷痕が、土で汚れた手のひらに触れた。
「……俺はどんな人間だったのかなと思って。もしかしたら、悪いことしてたのかもしれない」
ふと空を見上げると、二階の窓から顔を出していたサクラと目が合った。二人は同時に小さな声を漏らした。すぐに逃げ去ってしまいそうな雰囲気を感じたが、彼女は窓枠にじっとしがみついていた。
「な、何してるのかなと思って」言い訳をするようにサクラは言った。
「こいつに稽古つけてたところだ」とジークは答えた。「思ったより腕が立つよ。ここの用心棒でも任せられそうだ」
「それはいいけど、レイに怪我させないでよ。大事な働き手なんだから」
「分かってるって」
窓辺からサクラの姿が消えると、ジークはゆっくりと振り返った。
「記憶を失う前はどんな人間だったのか、そんなことは思い出してから悩めばいい。俺たちは今のお前を信用して、ここに置いてるんだ」
ジークの言葉は嬉しかった。しかし、不安は体の隅まで根を張るように、心をとらえて離さない。良い人間だったか、悪い人間だったか、どちらを支持する根拠もなく、冷静に自分を省みてもどちらにも転びうるように思えた。そして、この地で目を覚ましたときからずっと、確信めいた思い、呪詛が、頭の中で繰り返されていた。
俺は不幸を蒔く。誰とも深く関わってはいけない。
「どうした、気に入らないか?」
レイは首を振った。ジークは腕を組み、無表情でレイを見下ろした。その風体が、不確かな記憶の中のおぼろげな輪郭と重なる。
「安心しろ。もし家族に手を出すような真似をしたら、俺が斬ってやる」
「……どう安心すればいいのか、分からないんだけど」
「冗談だよ」ジークは肩をすくめ、家に戻る。「そうはならない。俺はそう思ってるってことだ」
誰もいなくなった庭で、レイは仰向けに寝転がった。土と、かすかに草の匂いがした。いつの間にか、雲が厚く空を覆っている。雲の合間に青い空が見えた。
きっと今夜は雨だろう。そんな予感がした。




