29. Path
朝の日差しがまぶたの向こうから目の奥まで差し込む。氷が急速に融けるように、眠りに沈んだ意識が解放された。淡い青の空に、薄く雲がかかっている。陽の柔らかさにも異国の匂いがあった。
レイはまどろみながらしばらく空を眺め、横になったまま体を伸ばし、ゆっくりと起き上がって部屋を出た。縁側をのそのそと歩きながら、朝の冷え込みに身震いをした。布団に戻ろうかと一瞬考えた自分の頬を軽く叩く。すでに家の中を動き回る足音があった。
土間の隅に、上着を羽織り小さく丸まった背中がある。かすかに煤の匂いがした。
「おはよう」とレイは声をかけた。
サクラは手を止め、居候を一瞥した。
「おはよう」素っ気ない返事。「火、ちょうどできたところだから、お客さんの部屋に持っていって」
彼女はかたわらの小さな鍋に赤くなった炭を入れた。レイは指示通り客室に向かった。
客の男はまだ寝ていた。酒の臭いが残っている。この宿にはたいした酒がなく、彼は街まで飲みに出て、真夜中になってようやく帰ってきたのだ。レイは客室にある火鉢に炭を移し、静かに部屋を後にした。
廊下から、白く霞んだ水平線が見える。
朝のもやが街を青白く包み込んでいた。
客の男は二日酔いだと言いながらもよく食べた。そしてよくしゃべった。
「いやぁ、この街は酒が不味くてかなわないね。ただ酔うための酒しかない」
「そうですねぇ」とサクラは相づちを打った。普段よりは愛嬌のある声色ではあるが、やはりどこか冷めた印象があった。
「でも、飯だけは美味い。おかげで不味い酒でも楽しく飲めたよ。飲みすぎちゃって、どうやって帰ってきたのかもよく覚えてないんだ」
レイは愛想笑いを浮かべながら食器を下げた。昨夜、あまりに帰りが遅いため探しに出て、泥酔した彼を担いで長い坂道を登ってきたことは話さなかった。
目が覚める瞬間、意識は現実の世界に放り出される。その瞬間、世界はまったくの白紙だ。開いた目がとらえた光景、肌に触れる空気、自分の周囲に色がつく。そして思い出す。昨日はどこを歩いた、誰と話し、何を見た、その前は、もっと前は、どうやって生きてきた。世界は急速に広がり、根を張るように確かにその世界に存在できるようになる。
宙に放り出された苗木。見知らぬ地に落とされ、まだ根が地に届かない。風や波のいたずらで簡単に流されうる、不確かな存在。レイは絶えず不安だった。
あの客の男は、目が覚めたときどんな心地がしたのだろう。ぶつりと途切れ、静かな民宿で再開した自分の記憶を目の前に、彼は恐怖したのだろうか。それとも慣れてしまえばたいしたことではなくなるのだろうか。否。あの男が飛ばした記憶はそう長くない。大股でひょいと飛び越せば、問題なく連続性を保てる程度の欠落だ。彼は故郷で過ごした日々や、旧友と交わした言葉の延長線上で生き続けているのだ。
「じゃあ、私たちはもう行くから」
手早く準備を整えるアンの後ろ姿を、サクラは身じろぎもせずじっと見つめていた。アンは夫とともに、ある要人の警護に駆り出された。隣町の大きな祭に顔を出したいのだそうだが、最近は治安が悪化していて、良くない噂も絶えないため、二人に白羽の矢が立ったのだという。しょっちゅう小柄な妹から小言をもらっているあの二人の姿と、その仕事の重大さがうまく噛み合わず、レイはこうして見送るときになるまで現実味が感じられなかった。
「何日かかるの?」とサクラは尋ねた。声には抑えきれない痛々しさがあった。
「一週間くらいよ。すぐだから心配しないで」アンは妹の頭をなでながら、彼女の耳に口を寄せた。「不安だったら、私たちが戻るまで宿は開けなくていいのよ? 何かあったら――」
「大丈夫。お姉ちゃんがいなくても、わたしはやっていける」
サクラは首を振った。アンは開きかけた口を閉じ、居候に目配せをした。レイは小さくうなずいた。
レイが見る限り、アンはあまり宿の手伝いをしていなかった。彼女の仕事の多くはレイがするようになったからだ。空いた時間で彼女はよく街に出て行った。あまり治安の良くない街の見回りのためだ。夕方には必ず何かしらを貰って帰ってくる。お礼というより子供扱いされているようでいい気はしない、と本人は言っていた。十歳ちょっとでこの地にやってきたその日に泥棒を捕まえたことが始まりらしく、街の人にはまだ子供の延長に見られているようだった。
「美人で人当たりもいいから、みんな甘やかしちゃうんだろうね」サクラは姉が持ってきた魚をさばきながら言った。
「甘やかされるって感じの人には見えないけど」レイは魚が解体されていくのを遠くから眺めていた。
「相手が求めてる振る舞いをすればいい、だって。お姉ちゃんはその辺がうまいから。わたしたちには大人らしくしてるけど、街では未婚の娘みたいに振る舞ってる。正式じゃないとはいえ、もう結婚してるってみんな知ってるのにね。みんな知ってて甘やかすの」
「世渡りがうまいんだな」
「……お姉ちゃんも、いろいろ苦労したからね」サクラは魚の頭を切り落とした。「わたしみたいな“アカメ”がここで生活できるのは、お姉ちゃんがいてくれるから。だから感謝しないと」
そのときのサクラの表情は、いつも以上に硬かった。
各々の仕事が終わり、二人は居間で客を待っていた。姉夫婦がいない宿は妙に静まり返っていて、外を飛び回る鳥の声がいやに大きく聞こえた。彼らはいつも離れにいて昼間は宿に出てくることはほとんどなく、いるかいないかも分からないこともしばしばあったが、不在という事実は無意識下に感じていた彼らの存在感の大きさをレイに思い知らせた。
「やっぱり不用心が過ぎると思うけど」とレイはつぶやく。
「何が?」サクラは帳簿をめくりながら言った。
「アンとジーク、二人とも何日も家を空けるっていうのは」
「あなたがいるから大丈夫だと思ったんじゃないの。仕事も慣れてきたし、何かあってもなんとかしてくれるって」
レイは頭をかいた。若い夫婦の親しみやすい笑顔が脳裏に浮かぶ。
「買いかぶりすぎと言うか……俺が何かをするってことは考えないのかな」
サクラは帳簿を見つめたまま手を止めた。
「考えて、行ったんだと思う。あなたを信用して」
「素性も分からない男をよく信じられるな。とんでもない悪人だったかもしれないのに」
「……ここに来る前は、ひょっとしたらあなたは悪人だったのかもしれないけど」サクラはまっすぐレイを見た。「今、レイは、そんなことしない。そうでしょ?」
レイは思わず目を見開いた。自分の言ったことに自分で驚いたように、サクラはわずかに顔を赤らめ目をそらした。そして口を真一文字に結びながら、彼女は窓の外を見た。
「今日はもう閉めちゃおうかな」独り言のように彼女は言った。
「えっ、もう?」レイは驚いた。いつものサクラは日が沈んで真っ暗になっても客を待とうとする。
「うん、お客さんが来る気配もないし。みんなお祭に取られちゃったんだと思う」
「まあ、サクラがそう言うなら……」
彼女はレイの同意を得るなり帳簿を閉じて立ち上がった。
「行きたいところがあるんだけど、いい?」
「いいけど」レイは字の練習をしていた筆を置いた。「買い物はもう済んだんじゃないのか?」
「ううん。街じゃなくて」
レイが首をかしげると、サクラは薄く微笑んだ。
街に続く下り坂の途中で、サクラの足はおもむろに道を外れた。二人は雑草の中に潜っていった。よく見ると、そこだけ雑草が薄くなっている。通り慣れた道らしく、彼女はずんずんと先に進んだ。
「こんな藪の中に何かあるのか?」
「この先だよ。まだちょっと歩くけど」
前を行く小さな背中を追いながら、レイはふと懐かしさを感じた。足の下で草が折れる感触、むっとする草の匂い、夕暮れ時の濃い影、木漏れ日に輝く髪。散り散りの記憶が目の前の風景と重なっては離れていった。
林に入ってしばらくすると、空気が潮の匂いに変わった。湿った砂の地面になり、そしていつの間にか岩場に出ていた。道はやたらでこぼこしていて歩きやすいとは言い難かった。顔の高さに張り出した木の枝をくぐり、足元が再び砂の感触に変わったとき、岩と木で覆われていた視界が開けた。
正面に現れた夕陽が眩しく、レイは一度目をつぶった。そして手をかざしながら細く目を開けると、今度は大きく見開くことになった。
そこは小さな砂浜だった。左右を取り囲む岩壁が額縁のように、夕陽に焼かれた空と海をこの殺風景な岩場の真ん中に切り出していた。砂浜に打ち寄せる波の音が岩壁で乱反射し、外界から隔絶する防壁のようにこの小さな空間を満たしていた。
この光景を前に、人は何を思い浮かべるだろうか。燃え盛る炎か、熱く巡る血か、甘く香る果実か。
レイは違った。
この広大な世界で、自分を見つけてくれた瞳の色。
「ここは、あなたが流れ着いた場所。ちょうどそこに――」振り返ったサクラの表情が曇った。「泣いてるの?」
目元に触れた手は濡れていた。レイは自分でそのことに驚き、同時に目元がつんと痛くなるのを感じた。夕陽がサクラの髪を黄金色に輝かせた。少女が立つ砂浜の景色がかすむ。レイは湿った砂に膝をつき、頭を抱えて座り込んだ。サクラの足音が近づいてきたが、数歩手前でぴたりと止まった。彼女は微妙な距離を保ちながら、レイの横に座った。
レイは深呼吸を繰り返し、落ち着きを取り戻していった。手が届かないくらい離れているのに、不思議と温かさを感じた。これが彼女の寄り添い方だと理解していたからだ。
「ごめん。急に、こんな……」
白い波が、二人の足元まで迫ってきた。
「気にしないで。ここに来ると、わたしもよく一人で泣いてるから」サクラは立てた両膝の上に頬をのせ、レイを見た。「何か思い出したの?」
レイは首を振った。サクラの失望を買うのを恐れたが、彼女はただゆっくりと瞬きを繰り返していた。
太陽は水平線と同化し、空と海の深い青に光が融け出していく。星の帳はゆっくりと海に迫り、にわかに冷ややかになった風が吹き抜けた。
「この浜のこと、誰にも言わないで。街の人も、お姉ちゃんも知らないの。わたししか……わたしと、あなたしか知らない」
サクラは水平線の消えゆく光を見つめていた。まばたきもせず、その光の一筋も漏らさず目に焼き付けようとするように、彼女はじっと目を凝らしていた。赤い瞳に映る光が消えてしまうと、目を閉じて静かに息を吐いた。
「……俺には知られていいのか?」
波の音が二人の沈黙を埋めた。細い雲に残る陽の名残が宵闇に消えていく。夜が来た。いつの間にか海は墨のように黒く変わっていた。
「ここに来れば、あなたが何か思い出すかもしれない。だから連れて来てあげたほうがいいと思って」サクラは不意に立ち上がった。「もう帰ろう。暗くなっちゃった」
彼女は海にも、同伴者にも一瞥もくれず、足早に砂浜から立ち去った。レイは一度だけ海を振り返り、彼女のあとを追った。黙々と歩く二人の間は、来たときの倍ほど離れていた。
レイは喉に石が詰まったような気分で、サクラの小さな背中を眺めていた。普段より、少し歩調が早い。また怒らせてしまったのかもしれない。
「サクラ、その……ごめん」レイは謝らずにはいられなかった。「あそこまで連れて行ってもらったのに、期待に応えられなかった。誰にも言えない、特別な場所だったんだろ。俺は、あそこのことはもう忘れるよ。誰にも言わない。こんなことで何もなかったみたいに元通りになるとは思わないけど、俺にできるのはこれくらいしか――」
「いいの」
サクラの短い言葉には、レイを黙らせ立ち止まらせるほどに強い力が込められていた。彼女もまた足を止めていた。遠くの波の音がかすかに聞こえる。いつの間にか家の前まで戻ってきていた。サクラは背中を向けたまま小さく首を振り、坂を駆け上がると、何も言わずに柵の扉を押し開けた。
レイは途方に暮れ、なんとなしに空を見上げた。その目に小さな白い花が映り、あっと声が漏れた。サクラはその声に、浜から帰って初めて振り向いた。
「花が咲いてる。ほら、あそこ」
うねる幹の樹の枝先、月光の柱の中に、小さな白い花が咲いていた。今まで目に留めたことはなかったが、よく見てみると今にも開きそうな蕾がたくさんついている。
花を見つけたサクラの表情から、凝り固まったものが消えた。口を半開きにしたまま、彼女は夜空に浮かぶ白い花を見つめていた。無垢な少女の顔だった。
「これの名前は?」とレイは尋ねた。
その問いかけに、サクラは目を泳がせた。彼女の表情は、素っ気ない言葉しか出さない口よりもずっと雄弁な気がしていた。
「……さくら」彼女はぽつりと言った。
「えっ?」思わずレイは聞き返す。
「わたしじゃなくて」彼女は肩にかかった髪をいじっていた。「桜っていうの。そういう木の名前」
「へえ、同じ名前なのか」
同じ名前。自らが発したその言葉が、不意に心を揺らした。妙な胸騒ぎがする。
あのときも、こんなふうに見上げていた。小さな光を、誰かと一緒に。
「こんなに暗くなってから、春の報せを見つけるなんてね」サクラは目を細めてつぶやいた。「もう少ししたら、他の蕾も開くよ。満開になるとすごく綺麗なの」
「それは楽しみだ」
「……ねえ、レイ」彼女は囁くように言った。「ごめんなさい。さっき、ちょっと嘘ついた」
開いたままの扉に手を添えるサクラを、レイは小さな花の下から見上げた。ためらいながらも、彼女はゆっくり言葉を続けた。
「あの砂浜にあなたを連れて行ったのは、記憶を戻す手助けのためだけじゃないの。だから謝らなくていい。ただ、あの場所を知ってほしかった。わたしの好きなあの景色を、あなたにも知ってほしかったから。だから――」
サクラはまた小さく首を振り、桜の花に背を向けた。そのはずみで、柵の扉は音もなく閉まった。
「……お腹空いたでしょ? ご飯にしようか」
取り残されたレイは、サクラの真似をして首を振ってみた。頭痛が少し和らいだ気がするが、何も分かることはない。その後も結局、彼女の言おうとした言葉の続きを聞くことはできなかった。
レイは自室の窓から月を眺めていた。所在ない右手は毛布の端を握っては離した。虫の声も、波の音もしない静かな夜だった。
壁の向こうから、かすかに衣擦れの音が聞こえる。隣はサクラの部屋だ。
この高台に孤立した家に、今は彼女と自分しかいない。いつもは姉夫婦が離れにいるが、二人とも数日は帰ってこない。それを意識すると落ち着けなかった。良からぬことを考えているわけではない。むしろその逆とも言える心境だった。強盗にも暴漢にも、彼女には指一本触れさせない。恩人である彼女は何があっても守る、それだけの義理は感じていた。
しかし、問題はそう単純ではなかった。
「サクラのこと、お願いね」
出立の直前、アンはそう耳打ちしてきた。強盗に気をつけろ、くらいの意味かと考えていたが、どうやら違うようだった。
アンがいなくなってそれは浮き彫りになった。彼女の存在を大きく感じていたのはレイだけではない。サクラも同じだった。むしろ、彼女の心に占める姉の存在は誰よりも大きかった。
サクラは姉の不在をどうにか埋めようとしていた。街では疎まれながらも、いろいろな店に顔を見せた。宿泊客にはいつも以上に声をかけた。そしてその試みのほとんどは、ただ彼女を疲弊させるだけに終わっていた。
レイは自分の役割に気付きはじめていた。アンがそれを期待して自分を引き取ったことにも。だが――。
乾いた風のような音が聞こえた。ひゅっ、ひゅっ、と短い音が、間欠的に壁の向こうから聞こえてくる。その正体にレイが気付いたとき、音は押し殺された嗚咽に変わった。
レイは固く目をつぶり、右腕をつかんだ。そうしないと声を上げてしまいそうだった。蔑むような街の住人の視線と、サクラの固い笑顔とが、繰り返し頭をよぎった。なんて無力なんだろう。人ひとり救うこともできない、誰の期待にも応えられない、ただ庇護されるだけの存在というのは。
目の奥に、夕刻の景色が焼きついていた。それを見つめるサクラの赤い瞳も。夕陽のような綺麗な色をしていたあの目は、今この壁の向こうで、どんな色に変わってしまっているのだろうか。
錆びついた蝶番のようなぎこちない昼と、寝つきの悪い夜が繰り返された。サクラが再びあの浜の話をすることはなかった。
そしてアンたちが帰ってくる前夜、サクラは高熱を出して倒れた。




