27. Ray
名前を呼ばれた気がした。
指を一本動かすだけで全身に痛みが走る。言い争う声が聞こえる。
放っておいてくれ。今は休みたいんだ。
銀色の波と、赤い太陽。茜色の海と雲。昼と夜の狭間。
冷たく暗い水の中。遠ざかる光。
また、名前を呼ぶ声がする。
力を振り絞って、重いまぶたを開いた。
目がかすむ。白い影が目の前にいた。焦点が合ってきた頃、その少女は一対の赤い目を大きく見開かせ、肩で切りそろえた銀色の髪を揺らして顎を引いた。
時が止まったかのように互いに動かなかった。その間も、彼女の後ろでは口論が続く。彼女の蒼白かった頬がわずかに紅潮していた。
やがて彼女は立ち上がり、部屋の入口にいた背の高い女を引っ張ってきた。女と言い争っていた男は目をむいてこちらを指差し、さらに熱を上げた剣幕で何かを叫んでいたが、連れの男になだめられると呪詛を吐いて部屋を出ていった。
女は一人で何かを話し続けていた。何一つ聞き取ることができない。しばらくして、それが異国の言葉だと気付いた。彼女が質問を繰り返していることも伝わってくる。しかし首をかしげることしかできなかった。
状況が理解できない。ここはどこだろう。本当に異国の地なのだろうか。よく見ると、二人の着ている服も見慣れない物だ。
女は肩をすくめると、制するように手のひらをこちらに向け、何かを念押しした。大人しくしていろ、ということだろうか。おずおずとうなずくと、女は灯りを吹き消して少女と共に部屋を去った。
遠ざかる足音とともに、意識も遠のいていく。二人が今日は引き揚げてくれたのは助かった。状況が見えない不安は決して小さくなかったが、今はそれどころではないほどに体が休息を欲している。布団に沈みこむように、ほどなく眠りに落ちた。
翌朝目が覚めると、昨夜の少女が部屋の入口近くに座っていた。裁縫をしていたが、あまり手は動いていない。気配を察知したのか、彼女は顔を上げてこちらを見た。彼女は口を開きかけたが、言葉が通じないことを思い出したのかその小さな口を一文字に結び、ただ困ったように眉を寄せこちらを見つめていた。
互いに途方に暮れていた。あるべきでない沈黙が不協和音となり心を乱した。天井を見上げてため息をつくことしかできない。
そのとき、少女が何かを話した。初めて聞く彼女の声は、まるで唄の一節のような穏やかな響きを持っていた。やはり何を言っているのかは分からない。しかし彼女は続けざまに口を開く。
「もしかして、この言葉なら分かる?」
頭の中で無数の火花が散った。思わず体を起こすと、彼女は驚いて立ち上がり、膝の上の布や針が床に散らばった。彼女は怯えたように壁にはりついていたが、やがて肩の力を抜いてこちらに向きなおった。
「……分かるの?」
「ああ。教えてくれ、ここはどこなんだ。どうして俺はここに――」
「ま、待って。動いちゃだめ」彼女は駆け寄ってきたが、何かに阻まれたように途中で足を止めた。「何があったの? ひどい怪我だけど」
何があったのか? それを聞きたいのはこっちだった。なぜ言葉も通じない地にいる。この状況はなんだ。どうやったら帰れる。
「あなた、名前は?」彼女は質問を変えた。
「名前は……」
その先が出てこない。口は言葉を形作ろうとするが、どれも形になる前に散り散りになってしまう。
目の前の不安で頭がいっぱいになっていて気付かなかった。ここへ来た経緯だけではない。自分がどこで何をして生きてきたのか、それどころか名前さえも思い出せない。
「……とりあえず、お姉ちゃん呼んでくるね。おとなしくしてて」
少女は手早く床のものを拾い集め、部屋を出ていった。
ふと、服の下をのぞき見る。昨夜は全身が痛んだが今はそうでもない。怪我をしていると言われた。彼女の先程のあわてようから察するに、かなりひどい状態でここに担ぎこまれたようだが。
しかし、体には傷どころかあざの一つも見当たらない。肩や脚を動かしてみても、けだるさはあるが痛みはない。立ち上がって体を伸ばしてみたが、目立った不調も感じられなかった。
近づいてくる足音があり、開け放たれた戸から長身の女が現れた。彼女は部屋の中の光景を見て眉を上げ、笑いながら入ってきた。
「運が良かったわね。言葉が通じる私たちに拾われて」
昨夜の男と言い争う彼女の姿を思い返した。この女はおそらく味方だと、なんとなく感じた。
「それよりも、もう起きて大丈夫なの? 昨日までは死にそうな声でうなってたけど」
「それが、どこも悪くないみたいで」
「……まさか。あんな怪我なのに」
「ほら、この通り」
その場で飛び跳ねてみせると、女は声を上げた。
「すごい体してんのね」彼女はなぜか驚くよりも感心しているようだった。
「あっ、おとなしくしててって言ったのに」
盆を持った少女が小走りで部屋に入ってくる。しかしその足は女の後ろで止まった。
「大丈夫みたいよ。もう治ったって」と女は言った。
「えっ……そう、なんだ」
少女はまじまじと観察するような目を向けてきた。目が合うと、彼女は女の後ろに隠れた。
「そうだ、これ」
彼女が差し出した盆は女の手を経由して渡ってきた。粥と水だった。礼を言うと、少女は小さく頭を下げて部屋の隅で裁縫を再開した。
「とりあえず座って。それ食べなさい」
女に肩を叩かれ、寝台に座った。頭の中に何かが引っかかった感覚があったが、それもすぐに消えてしまった。
「名前が思い出せないのよね。忘れちゃったのは名前だけ? それとも他にも?」
「何も……全部、思い出せない。どうしてここに来たのかも、どこから来たのかも。でも、あんたたちはこの言葉が分かるんだろ。俺がいた国も知ってるんじゃないのか」
「ええ。知ってる」
「じゃあ――」
「まあ、落ち着きなさい。知ってはいるけど、あなたが明日発ってすぐに帰れるような場所じゃないの」女は盆を指で叩いた。「聞きたいことは山ほどあるんでしょうけど、今は黙って食べなさい。それで私の話を聞いて。質問にはその後でいくらでも答えてあげるから」
女の迫力に負け、湯気の立つ粥を口に運んだ。ほのかな甘みが忘れていた空腹を呼び起こし、瞬く間に器は空になった。
「あなた、二日も寝てたのよ。お腹もすくでしょう」女は親指で背後を指さした。「あの子があなたを海からここまで背負ってきたの。感謝しなさいよ。こんな寒い中びしょ濡れで無茶して風邪引いて、それで昨日まで寝込んでたんだから」
少女はけだるそうに一瞬だけ目を上げた。まだ体調は優れないようだった。
「昨日いたおじさんたちは覚えてる? 町長さんと……ちょっとめんどくさいおじさん。あなたをどうするか、さっき彼らと話し合ってきたわ。で、うちで預かってほしいって。私もそうするのが一番だと思ったから、引き受けちゃった」
「お姉ちゃん、それでいいの?」少女は明らかに困惑していた。
「うちじゃないとだめでしょ」女はこちらに向き直った。「というわけで、あなたには今日からうちで暮らしてもらいます」
「ちょっと待って」たまらず口をはさんだ。「ありがたい話だけど、そこまで世話になるのは申し訳ないよ。俺は一人でなんとかするから――」
「無理よ」
女の言葉は頬を打つように単純で強く、一撃で無知な少年を黙らせた。
「今のあなた一人じゃ無理。あなたはこの国のことを何も分かってない。問題は言葉の壁だけじゃないの」
女は自分の語気が強すぎたことに気付いたのか、取り繕うような笑みを浮かべた。
「ここで暮らすことに負い目を感じる必要はないわ。住み込みで働いてもらうから」
「働く?」
「民宿やってるのよ。最近はほとんどあの子一人でやってるから、ちょうど働き手が欲しいところだったの。ね?」
「う、うん……」
少女はうつむいたまま手を動かしていた。
「不安なこともあると思うけど、そのうち慣れちゃうもんよ。とりあえず今はこの町で休んでいきなさい。きっと色んなことが見えてくる。先のことを考えるのはそれからのほうがいいわ。――話が長くなって悪かったわね。これからよろしく」
女が手を差し出す。少し迷って、それを握った。また頭を何かがかすめる。同じようなことが少し前にもなかっただろうか。
「あっ、そういえば名前がまだだったわね。私はアン。あの子は私の妹のサクラ。あなたは……なんて呼べばいいんでしょうね」
「俺の持ち物は? 名前くらい書いてないかな」
「見てみたけど、どこにも」
「だめか……」
「レイ」
サクラの発した名前が琴線に触れた。指先まで走る波があった。その言葉の響きを知っている。そう確信した。
「……とか、どうかな。本当の名前が分かるまでは、それで。嫌だったら別の名前でもいいけど」
「まあ、手がかりもないもんね。私はそれでいいと思うけど、あなたは?」
何かが思い出せそうな気がした。ばらばらの記憶が一瞬だけ意味を持った形を成そうとする。それを捉えることができたなら――。
「レイ」アンは声を張り上げた。
「え、あっ、はい」
「返事したってことは異論はないわね、レイ」
アンは軽やかに立ち上がると、耳元に口を寄せてきた。
「サクラと仲良くしてあげてね。ちょっと気難しくて喜怒哀楽はっきりしない子だけど、根は優しくていい子だから」
さらに念を押すような視線を送るとアンは身をひるがえし、サクラの頭をなでた。彼女は少し嫌そうな素振りを見せた。
「町長さんに報告してくる。後はお願いね」
アンが去ると、サクラは裁縫道具を片付け、寝台の前までやってきた。
「……よろしく」
「うん、よろしく」
レイは手を差し出した。サクラはその手をじっと見つめていたが、やがて小さく首を振り、膝の上の盆をさらうと顔を背けた。
「もう歩いても大丈夫?」と彼女は尋ねた。
「あ、うん……」
露骨に傷ついた素振りを見せようとは思わなかった。彼女の声から、どこか心苦しそうな響きを感じたからだ。
「じゃあ、ついてきて」
レイはサクラに近づきすぎないようにしながら、その小さな背中を追った。
部屋を出て少し進むと、がらりと家の様相が変わった。廊下の片側の壁がなく、大きく外に開けている。冷たい外気にさらされ、思わず身震いする。
レイは木々の隙間から見えた光景に息を呑んだ。眼下に広がる町並みと、無数の銀の波、そのはるか向こう側に見える一直線の空の境界。水平線だ。
「あれが、海……」
「ここからじゃよく見えないんだけどね。もしかして、初めて見るの?」陽だまりの中で銀の髪が揺れる。
「どうだろう。昔は見たのかもしれない」
「……そっか。覚えてないんだったね」
サクラは再び背を向けて歩き出した。
「君が助けてくれたんだよな。ありがとう」
しばらく返事はなかった。木の床を踏む二つの足音が、しんとした林の奥に消えていく。
「人として当たり前のことをしただけ。この時期の海はすごく冷たいから」サクラは前を向いたまま、紙の張られた格子戸を手で指した。「ここはお客さんのお部屋。中はまた後で見て」
角を曲がり、いくつかの戸をくぐると、広い部屋に出た。おそらく居間だろう。
「ここがちょうどあなたが寝てた部屋の真下」とサクラは言った。「ちょっと待ってて。これ、洗ってくるから」
彼女は盆を少し持ち上げてみせ、また別の戸の向こうに消えた。
レイは食卓を囲む椅子に腰かけ、部屋を眺め回した。寝かされていた部屋と雰囲気が似ていた。妙な家だ。雰囲気の違う場所が混在している。
部屋の隅に、安楽椅子があるのを見つけた。レイはそれに身を預け、目を閉じた。優しい揺れが眠気を誘った。
「レイ」
サクラの声に、レイは目を開けた。彼女は黒い焼物のコップを差し出した。
「お茶、淹れてきたよ」
「ありがとう。――ああ、うまいな」
「お客さんに出すいいお茶だから」彼女は食卓から椅子を引っ張ってきて、数歩離れた場所に座った。「今日だけ特別。ありがたく飲んで」
「やっぱり俺は従業員の扱いなんだ」
「当たり前でしょ。お金払ってくれるなら、毎日このお茶飲ませてあげる」
「厳しいなあ」
爽やかな香りが鼻を抜ける。もうこの茶が好きになっていた。
「この椅子ってさ」レイは肘かけを指で叩いた。「もしかしてサクラの特等席?」
「……そういうのじゃないけど、家族の中だと、わたししかちゃんと座れない。小さくて窮屈でしょ?」
だから気付いたのだが、口には出さなかった。
「揺れ方がいい。ずっと座っていたいくらいだ」
「うん。わたしにはもったいないくらい、いい作り。前に大工さんが作ってくれたの。いつも頑張ってるご褒美に、って」
「一人で切り盛りしてるんだよな。まだ小さいのにすごいよ」
サクラは眉を寄せた。表情の変化に乏しい彼女だったが、そのときは明らかに機嫌を損ねたのが分かった。
「わたし、もう十九になるんだけど」
「えっ……あ、どうりで大人びてると思った。じゃあ同い年くらいかな。歳も覚えてないんだけど。あはは」
「どうせチビですよ。お姉ちゃんに大人っぽいところ全部持っていかれちゃったの」
サクラは目を閉じて深いため息をついた。
「わ、悪かったよ、失礼なこと言って。でも、全部一人でやれるのは本当にすごいことだよ。その椅子作ってくれた人も、きっとそう思ってる」
彼女は今度は大きく息を吸い込んで、くるりと背を向け、しがみつくように背もたれに寄りかかった。
「何も……ない」
「えっ?」
「なんでもない」彼女は小さく首を振った。「なんだか、あなたと話してると変な気持ちになる」
「ご、ごめん」
「べつに謝らなくてもいいけど」彼女は空になったコップを手の中で回していた。「……わたしのほうこそ、さっきはごめん」
「さっき?」
サクラはこちらに向き直り、おずおずと手を差し出した。
「意地悪したかったわけじゃないんだけど、その……」
真上の部屋での出来事、唇を一文字に結んで目をそらす彼女の顔を思い出した。
「気にしなくていいのに」レイが立ち上がり歩み寄ると、彼女の顔に緊張が走った。人が苦手なのかもしれない。レイは慎重に足を踏み出した。「じゃあ、これでおあいこだ」
サクラの小さな手は、繊細な硝子細工を思わせた。ほんの少しの間違いで、取り返しのつかない傷をつけてしまいそうだった。レイは彼女の心を乱さないように、そしてその努力を悟られないように、そっと握手を交わした。陶器のようになめらかな彼女の手は小刻みに震えていた。真紅の眼がこちらを向く。その眼の中に、太陽のような輝きと、新月のような闇を同時に見た。意識の深海の底で、記憶の断片が舞い上がるのを感じた。
やがて、手の中から細い指がすり抜けていった。サクラは二人のコップを手に取り、片付けてくると言い残して、戸の向こうに消えた。
静まり返った部屋で、レイは天井を見上げた。去り際の彼女の表情は、少しだけ柔らかくなっていた気がした。
過去も未来も確かでない、光の届かない深海のような、五里霧中の世界に放り出された。不安は決して小さくない。しかし、この手に受け取った温もりが、確かな地面を創ってくれた。うなだれるには、まだ早い。




