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スターゲイザー  作者: ミズノハル
第二章 Twilight
26/29

26. 微光

 土と血で汚れた手が目の前にあった。死んだように動かない。そこにつながれた石の枷を見て、ユーリはそれが自分の手だと思い出した。


 あれから何日が過ぎただろうか。数えることは途中でやめていた。終わりなき暴力の繰り返しだった。近づく足音は暴力の前触れだ。拷問が始まるか、食事のついでに殴られるか、ただ無意味に殴られるか。

 それ以外の時間は、じっと横たわっていた。考えごとはしなかった。この忌々しい枷は思考をも蝕む。熟慮することは、飛沫(しぶき)を上げて流れる川に自分の顔を映そうとするようなものだった。しかしそれは逆に助かることかもしれない。条件が整えば、思考力はときに自らを殺める。

 食事と暴力の割合は次第に後者に傾いていく。今日は何も食べられなかった。明日もそうだろうか。絶食は想像以上に過酷だった。このままでは明日も生きていられる保証はない。

 まだ死ぬわけにはいかない。会わなきゃならない人間が二人もいるんだ。



 閉じたまぶたの向こうで光がちらついた。人の気配がある。顔のすぐそばまで、足音が近づいてくる。

「ひどい(さま)ね」

 女の声だった。ぴかぴかの革靴が目の前に並んでいた。舟の(かい)を動かすようにゆっくりと視線を上げる。いやに小綺麗だ。顔は月の逆光でよく見えない。

「ユーリ、あなたに頼みたいことがあるの」

 頼みたいことだって? こんな状況で何をさせようというのだ。

 わずかに持ち上がっていた頭が力なく地に落ちた。

「ちょっと、聞こえてる?」女は(しず)めた声で苛立ちをあらわにする。

「み……」

「えっ?」

「……水を、くれないか。昨日から、何も……」

 虫の羽音のような低いうなりが空気を揺らし、水筒が手の上に落ちて地面を転がった。乱暴に渡されたそれにユーリは手を伸ばし、倒しそうになりながら蓋を開け、冷たい水を口に含んだ。血の味が洗い流されていく。ユーリは何度もむせ返りながら水筒の水を飲み干した。水だけでも体がずいぶんと軽くなった。

「これで話は聞ける?」

「ああ……助かったよ」

 ユーリは水筒を返そうとしたが、女は首を横に振った。傍目(はため)には自分がひどく汚れていることをユーリは思い知った。


「誰だ、あんた」とユーリは尋ねた。

「ただの通りすがりの研究者よ」

 名乗る気はないということらしい。

「それで、頼みっていうのは?」

 女は懐から小さな封筒を取り出し、ユーリに投げ渡した。

「ある男の居場所と似顔絵が入ってる。その男を――」

「また、殺しか……」

「得意でしょう?」

「やらされてきただけだ」

「どちらにせよ、あなたは前と同じことをしていればいいのよ」

 ユーリは封筒を拾い上げた。今まで受け取ったどんな資料よりも軽かった。

「俺にこんな指令を言い渡すのはいいが、見ての通り囚われの身だ。いつ出られるかも分からない」

「明日には解放されるわ」女はそう言い切った。「あと一応言っておくけど、これは指令じゃなくて個人的な依頼。もうあなたに命令は下らない」

 女の言葉の意味をユーリはすぐに悟った。内戦がもう終わっていたのなら、拷問はどうして続けられているのだろう。不意に怒りがこみ上げた。

「解放されるって話が本当だとして、個人的な依頼ってことは、何かしらの対価はあるんだろうな」

「もちろん」月の光に女の黒い目が光った。「あなたのお友達、サラって名前の女の子がいるらしいわね」

 ユーリはとっさに立ち上がりかけ、枷と体の重さで尻もちをついた。

「あいつは無事なのか。今どこにいる」

 女は何も言わず、ユーリの手の中の封筒を指差した。

「……分かったよ、やればいいんだろ。終わったらどう連絡をすればいい?」

「またこっちから会いに来るわ。一人の時間を作ってくれれば、どこにいても構わないから。もう質問はない?」

 ユーリはうなずいた。この女に深く関わらないほうがいいと直感した。できれば次で会うのを最後にしたい。


 女が手を挙げると、再びあの低いうなりがあり、彼女の長い服の裾が揺れた。その背後に、真っ暗な闇がぽっかりと口を開けている。女はためらいもなくその中に入り、闇の口もろとも月光に溶かされたように消えた。真夜中の室内に静寂が戻った。

 女が消えた空間に手を伸ばしたが、ただ空を切るばかりで何の手応えもない。異能だ。しかし目を見る限り、女は異能使いではない。姿を消す瞬間に、あの闇の中に別の人影があったような気がした。おそらくその人物の能力だろう。


 ユーリは壁に背をつけ、小さな窓の外の空を見つめた。狭い空の一角が月光に白んでいる。どこにいても構わない、とあの女は言っていた。それは依頼の場所に女もいるということか、どこにいるかは常に把握しているということか。根拠はないが、後者だろうと思った。今も監視されているような気がして、背中を冷たい汗が伝った。




 女の言った通り、その男は翌朝にやってきた。


 街の外まで響きそうないつもの足音を聞いてユーリは身構えたが、看守気取りの男はいつにもなく神妙な顔つきで現れた。

「出ろ。釈放だそうだ」

 半信半疑だったユーリは部屋の隅で丸まったまま男を凝視していた。前に同じ嘘をつかれて暴行を受けたことがあったからだ。

「釈放だと言っただろう。早く来い」

 男の顔には焦りと恐れが見えた。ユーリはようやく警戒を解いて部屋を出た。枷を外される瞬間、わざと咳払いをしてみせると、男は小さく飛び上がった。警棒に伸ばしかけた男の手はそれを振り上げることなく止まった。

「……まずその汚い体を洗ってこい。着替えは用意してある」

 ユーリは熱い湯の張られた風呂桶の前に放り出された。監視があるかと思ったが、扉はぴしゃりと閉められた。言われた通り着替えも用意してあった。待遇の良さに戸惑いつつも、ユーリは歓喜して体を流した。

 先程の看守男の言動を見るに、力のある人間からの指示があったのだろう。おそらく何をやっても手が出せない。それにしても、明らかに報復に怯えるあの姿は滑稽(こっけい)だった。互いの立場を考えれば無理もないことではあるが。本当に報復するつもりはないが、しばらくはからかって楽しませてもらおう。


 湯に浸かりながら、服の下に隠し持っていた封筒を開いた。中身は小さな紙が一枚。似顔絵と、その下に町の名前が書き記されているだけだ。こんなもので対象を探し出せというのだろうか。しかし、これが冷やかしなどではないのは重々承知している。行けば分かる、ということか。

「おい、早くしろ。春まで風呂に入ってるつもりじゃないだろうな」

 男が扉の向こうで声を張り上げる。ユーリは渋々風呂から上がり、のんびり着替えた。封筒はまた服の下に隠した。


 次に通された部屋――会議室のような場所だった――には、見慣れぬ若い男の後ろ姿があった。彼は窓のそばに立ち、外の湖を眺めていた。

「連れてきました」と看守男は言った。

「うん、ご苦労様です。あとはこちらで勝手にやるので、もういいですよ」

 男は鼻を鳴らして去った。若い男はゆっくりと振り返る。

「やあ、ユーリ。久しぶりだね」

 その若者のことをユーリは覚えていた。同じ施設で育ち、いくつか歳上で、あの脱走計画の首謀者の一人、国王像を破壊した張本人。名前は――。

「ティム、か」

「さすがに覚えてるか。まあ、あのメンバーはみんな有名人だろうからね」

「あんたを殺せたら十年は遊んで暮らせる報酬が貰えたくらいだ」

「ははっ、思ったより注目されてたんだな」

「こんなところに何をしに来たんだ」

「思い出話に花を咲かせに――そんな顔するなよ、冗談だよ。そもそもそんなに話したこともないしね。僕らは立場が違いすぎた」ティムはユーリの横を通り過ぎ、扉に手をかけた。「体の具合はどうだい? 外でも歩きながら話したいんだけど」

「……俺はあまり話したくないな」ユーリは目をそらした。

「正直でいいね。君の気持ちは理解できなくもない。でも、ちょっとはこっちの要望も聞いてくれないかな。君を解放するようにここに要請したのは僕なんだからさ」

 恩着せがましい言い分に苛立ちを覚えたが、ユーリは渋々ティムの提案に応じた。


 外の空気は肺を刺すように冷たかった。しかし慣れてくると、清潔な空気は全身の毒気を押し出すように体にしみわたった。()いでいるためか湖面は穏やかで、日差しはあざだらけの肌を温めた。地獄のような日々から抜け出せた喜びが体を震わせる。

 しかし、浮かれている場合ではない。まだ目の前の男が敵か味方かも分からないのだ。


「さて、何から話そうか」ティムは街道に向かって歩き始めた。

「要件だけ手早く頼む」

「まあまあ、ものには順序ってものがあるからね。君も外で何があったか知りたいだろう」ティムはときどき細めた目をこちらに向けた。「帝国が崩壊した話は聞いたかい」

「ああ、聞いた」

「僕は見てないんだが、王はどうやら自ら命を絶ったらしい。見つけたときにはすでに死んでいた。信頼性のある証言も取れたし、不審な点も見当たらず、自死で間違いないとの結論が出た。だけど、誰も予期しない方向に話は進んでいった」


 朝の街道は静けさに包まれていた。ティムは声をひそめて話を続けた。

「エリナのことは覚えてるかい。最近にも会ったと思うけど」とティムは尋ねた。

「エリナ? ああ。いつもレオンと一緒にいた」唐突に話題に上がった名前は、なぜか昔のほうの記憶とつながった。

「帝都侵攻戦の最中に、彼女が誘拐された。犯人は君の友人だったリオだ。レイドが彼を追ってエリナの奪還に向かった。結果、二人は帰ってこなかった」

「やられたのか?」

「いや、分からない」

「分からない?」

「レイドには二人の兵を同行させていた。戦闘が予想されたから、まあ、彼が失敗したときのためにね。二人はリオが潜伏していた空き家の外で待機していたんだけど、いつまで経ってもレイドが戻らない。手筈(てはず)通り彼らは中に突入した。そして彼らが見つけたのは、王の遺体だけだった」

 ユーリは思わず立ち止まった。ティムはすました顔で振り返る。

「王の遺体?」

「そう。不可思議な話だ。そこにいるはずの三人はどこにもいない。代わりにいたのは、抜け殻のように死んでいた王だ。もちろん帝都で自決したものとは別の遺体だよ」

「……今の話がうまく()み込めないのは俺の頭が悪いからか?」

「僕も未だに理解できてない。そもそも、これに筋の通った説明ができる人物は、少なくとも革命軍の中にはいなかったよ」


 ティムは再び歩き始めた。湖が近付いてきている。

「とりあえず分かっていることだけ話そう。(くだん)の三人は忽然と姿を消した。周辺を捜索してみたが遺体さえ見つからない。彼らは二人の人間が見張る空き家から大脱出を()げたわけだ。そして、遠く離れた二つの場所で、王の遺体が見つかった。見比べてみたけど、驚くほどにその二人はそっくりだった。影武者なんてものじゃない。双子でもあんなにそっくりな人間は少ないよ。死因は違えど、二つの遺体はそれくらいよく似ていたんだ」

 家屋がまばらになってきた。やはり向かう先は湖だ。

「一応、君の意見を聞いておこうか」

「さっぱり分からない」ユーリは即答した。

「僕と同じ感想だ」


 舟小屋と焼けた林が見えてきた。ティムは桟橋の上に立ち、湖を眺めていた。彼のその無防備さが逆にユーリを不安にさせた。

「俺が捕まってる間に外で何があったのかは分かった。そろそろ教えてくれないか」

「僕がどうしてここに来たのか、かい?」

 ユーリはうなずいた。ティムは振り向かなかったが、その気配を感じたようだった。

「エリナがいなくなったこと、レオンがひどく気に病んでね。彼女を探そうって飛び出そうとしてたのを、なんとか止めたんだ。あいつが今、本部を離れるわけにもいかないからね。代わりに僕が捜索するってことで、なんとか納得させてきた。まあ僕もエリナとは昔なじみだし、レオンほどではないにしろ心配はしてるからね」


 ティムは桟橋のそばで石の物色を始めた。ユーリの苛立ちの視線に彼は気付いたようだったが、何事もなかったかのように受け流し、桟橋の上に戻っていく。

「君が聞きたいことは分かってるよ。前置きが長くなってしまったけど、これからが本題だ」ティムが投げた石は湖面を数度跳ね、小さな水飛沫(みずしぶき)を上げて湖に吸い込まれた。波紋が静かに揺らめく湖面に広がり、その輪郭は薄らいでいった。「この旅に同行してほしいと思って、僕は君に声をかけに来た。戦闘にならないとも限らないから、戦力が欲しくてね。君を選んだのには理由がある。まず、エリナの捜索は上から許可されなかった。戦力にもならない迷子の女の子一人を探している暇はないらしい。だからこれは非公式、僕は無断欠勤中、ほぼ脱走兵といったところだ」

「まともな人間はついてこないってことか。そんなことしていいのか?」

「国の未来も大事だけど、僕はそれ以上に友人が大事だと思ってるからね」

 ティムの二投目は跳ねることなく、鈍い音を立てて大きな波紋を作った。

「君を選んだもう一つの理由。君への熱烈なファンレターを読んだからだ」

「ファンレター?」ユーリ思わず()頓狂(とんきょう)な声を上げた。

「僕も最初に読んだときはびっくりしたんだけどね。報告書にあんなことを書くなんて。まして相手は命を狙ってきた敵だよ。どんな馬鹿だろうってワクワクしたよね。……でもそれを書いた本人と話してみて、思ったより信用できそうな気がしたんだ。そしてちょうどよく僕は手頃な日陰者が必要になった。君に賭けてみるのも悪くないかなと思ったんだ」

「……あんた、エリナを見つけられたら、頭を治してもらったらどうだ」

「彼女にも昔、よく同じことを言われたな」ティムは振り返り、両手を広げた。「さて、僕は全部話したよ。あとは君の同意だけだ」

「俺に拒否権はあるのか?」

「もちろん。また監禁生活に戻りたいならどうぞ。ここで僕を殺して逃亡生活を送るのも自由だ。推奨はしないけどね」

 だからこいつはわざと湖に来たのか。こちらが戦いやすい状況を整えるために。なめられたものだ。勝つ自信があるのだろう。ならば選択肢は一つしかない。しかし、その前に――。

「エリナを見つけたら、俺はどうなる? また牢屋か?」

 ティムはいたずらっぽい笑みを浮かべた。気付いたか、とでも言っているようだった。

「仕事が終わったら、僕からレオンに交渉しよう。それでいいかい?」

「自由の身になるってことでいいんだな」

「うん。今後は彼の下で働くことになるだろうけど」

 食えない男だが、嘘ではなさそうだ。

「異論はない。牢屋なんかよりはるかにましだ」

「よし、決まりだね。話の分かる人で助かったよ」



 街道には少しずつ人の姿が見えるようになってきた。そこには平和があった。施設を出てからもほとんど感じたことのないそれが、当たり前のようにここの人々の中にある。戦場にも牢獄にもない、温かさがある。安堵しながらも、自分の心のどこかに寂しさに似た感情が芽生えていることに、ユーリは気付いていた。

「エリナを探すといっても、あてはあるのか?」とユーリは尋ねた。

「ないよ。手がかりも何も」ティムは平然と言い放った。

「どうするんだよ、これから」

「それは後で話そう。明日の出発までまだまだ時間があるんだし」ティムは急に鼻息を荒くした。「そんなことよりも、いい飯屋は知らないかい」

「えっ……いや、ずっと閉じ込められてたから、この町のことは何も知らないけど」

「なんだ。まあ、自分で探し出すのも一興ってやつかな」

「……そんなに飯が大事なのか」

「そりゃそうさ。いろんな町を巡るんだし、そこの飯と酒を味わっていくのは当たり前だろう」

「目的は人探しであって、あんたの脱走記念の旅行ではないはずだけど」

「休暇中だろうが脱走中だろうが、せっかくの旅だ。楽しまないと損だよ」

 子供のようにはしゃぐティムの背中を、ユーリは多少の不安と後悔を抱えながら追いかけた。


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