26. 微光
土と血で汚れた手が目の前にあった。死んだように動かない。そこにつながれた石の枷を見て、ユーリはそれが自分の手だと思い出した。
あれから何日が過ぎただろうか。数えることは途中でやめていた。終わりなき暴力の繰り返しだった。近づく足音は暴力の前触れだ。拷問が始まるか、食事のついでに殴られるか、ただ無意味に殴られるか。
それ以外の時間は、じっと横たわっていた。考えごとはしなかった。この忌々しい枷は思考をも蝕む。熟慮することは、飛沫を上げて流れる川に自分の顔を映そうとするようなものだった。しかしそれは逆に助かることかもしれない。条件が整えば、思考力はときに自らを殺める。
食事と暴力の割合は次第に後者に傾いていく。今日は何も食べられなかった。明日もそうだろうか。絶食は想像以上に過酷だった。このままでは明日も生きていられる保証はない。
まだ死ぬわけにはいかない。会わなきゃならない人間が二人もいるんだ。
閉じたまぶたの向こうで光がちらついた。人の気配がある。顔のすぐそばまで、足音が近づいてくる。
「ひどい様ね」
女の声だった。ぴかぴかの革靴が目の前に並んでいた。舟の櫂を動かすようにゆっくりと視線を上げる。いやに小綺麗だ。顔は月の逆光でよく見えない。
「ユーリ、あなたに頼みたいことがあるの」
頼みたいことだって? こんな状況で何をさせようというのだ。
わずかに持ち上がっていた頭が力なく地に落ちた。
「ちょっと、聞こえてる?」女は鎮めた声で苛立ちをあらわにする。
「み……」
「えっ?」
「……水を、くれないか。昨日から、何も……」
虫の羽音のような低いうなりが空気を揺らし、水筒が手の上に落ちて地面を転がった。乱暴に渡されたそれにユーリは手を伸ばし、倒しそうになりながら蓋を開け、冷たい水を口に含んだ。血の味が洗い流されていく。ユーリは何度もむせ返りながら水筒の水を飲み干した。水だけでも体がずいぶんと軽くなった。
「これで話は聞ける?」
「ああ……助かったよ」
ユーリは水筒を返そうとしたが、女は首を横に振った。傍目には自分がひどく汚れていることをユーリは思い知った。
「誰だ、あんた」とユーリは尋ねた。
「ただの通りすがりの研究者よ」
名乗る気はないということらしい。
「それで、頼みっていうのは?」
女は懐から小さな封筒を取り出し、ユーリに投げ渡した。
「ある男の居場所と似顔絵が入ってる。その男を――」
「また、殺しか……」
「得意でしょう?」
「やらされてきただけだ」
「どちらにせよ、あなたは前と同じことをしていればいいのよ」
ユーリは封筒を拾い上げた。今まで受け取ったどんな資料よりも軽かった。
「俺にこんな指令を言い渡すのはいいが、見ての通り囚われの身だ。いつ出られるかも分からない」
「明日には解放されるわ」女はそう言い切った。「あと一応言っておくけど、これは指令じゃなくて個人的な依頼。もうあなたに命令は下らない」
女の言葉の意味をユーリはすぐに悟った。内戦がもう終わっていたのなら、拷問はどうして続けられているのだろう。不意に怒りがこみ上げた。
「解放されるって話が本当だとして、個人的な依頼ってことは、何かしらの対価はあるんだろうな」
「もちろん」月の光に女の黒い目が光った。「あなたのお友達、サラって名前の女の子がいるらしいわね」
ユーリはとっさに立ち上がりかけ、枷と体の重さで尻もちをついた。
「あいつは無事なのか。今どこにいる」
女は何も言わず、ユーリの手の中の封筒を指差した。
「……分かったよ、やればいいんだろ。終わったらどう連絡をすればいい?」
「またこっちから会いに来るわ。一人の時間を作ってくれれば、どこにいても構わないから。もう質問はない?」
ユーリはうなずいた。この女に深く関わらないほうがいいと直感した。できれば次で会うのを最後にしたい。
女が手を挙げると、再びあの低いうなりがあり、彼女の長い服の裾が揺れた。その背後に、真っ暗な闇がぽっかりと口を開けている。女はためらいもなくその中に入り、闇の口もろとも月光に溶かされたように消えた。真夜中の室内に静寂が戻った。
女が消えた空間に手を伸ばしたが、ただ空を切るばかりで何の手応えもない。異能だ。しかし目を見る限り、女は異能使いではない。姿を消す瞬間に、あの闇の中に別の人影があったような気がした。おそらくその人物の能力だろう。
ユーリは壁に背をつけ、小さな窓の外の空を見つめた。狭い空の一角が月光に白んでいる。どこにいても構わない、とあの女は言っていた。それは依頼の場所に女もいるということか、どこにいるかは常に把握しているということか。根拠はないが、後者だろうと思った。今も監視されているような気がして、背中を冷たい汗が伝った。
女の言った通り、その男は翌朝にやってきた。
街の外まで響きそうないつもの足音を聞いてユーリは身構えたが、看守気取りの男はいつにもなく神妙な顔つきで現れた。
「出ろ。釈放だそうだ」
半信半疑だったユーリは部屋の隅で丸まったまま男を凝視していた。前に同じ嘘をつかれて暴行を受けたことがあったからだ。
「釈放だと言っただろう。早く来い」
男の顔には焦りと恐れが見えた。ユーリはようやく警戒を解いて部屋を出た。枷を外される瞬間、わざと咳払いをしてみせると、男は小さく飛び上がった。警棒に伸ばしかけた男の手はそれを振り上げることなく止まった。
「……まずその汚い体を洗ってこい。着替えは用意してある」
ユーリは熱い湯の張られた風呂桶の前に放り出された。監視があるかと思ったが、扉はぴしゃりと閉められた。言われた通り着替えも用意してあった。待遇の良さに戸惑いつつも、ユーリは歓喜して体を流した。
先程の看守男の言動を見るに、力のある人間からの指示があったのだろう。おそらく何をやっても手が出せない。それにしても、明らかに報復に怯えるあの姿は滑稽だった。互いの立場を考えれば無理もないことではあるが。本当に報復するつもりはないが、しばらくはからかって楽しませてもらおう。
湯に浸かりながら、服の下に隠し持っていた封筒を開いた。中身は小さな紙が一枚。似顔絵と、その下に町の名前が書き記されているだけだ。こんなもので対象を探し出せというのだろうか。しかし、これが冷やかしなどではないのは重々承知している。行けば分かる、ということか。
「おい、早くしろ。春まで風呂に入ってるつもりじゃないだろうな」
男が扉の向こうで声を張り上げる。ユーリは渋々風呂から上がり、のんびり着替えた。封筒はまた服の下に隠した。
次に通された部屋――会議室のような場所だった――には、見慣れぬ若い男の後ろ姿があった。彼は窓のそばに立ち、外の湖を眺めていた。
「連れてきました」と看守男は言った。
「うん、ご苦労様です。あとはこちらで勝手にやるので、もういいですよ」
男は鼻を鳴らして去った。若い男はゆっくりと振り返る。
「やあ、ユーリ。久しぶりだね」
その若者のことをユーリは覚えていた。同じ施設で育ち、いくつか歳上で、あの脱走計画の首謀者の一人、国王像を破壊した張本人。名前は――。
「ティム、か」
「さすがに覚えてるか。まあ、あのメンバーはみんな有名人だろうからね」
「あんたを殺せたら十年は遊んで暮らせる報酬が貰えたくらいだ」
「ははっ、思ったより注目されてたんだな」
「こんなところに何をしに来たんだ」
「思い出話に花を咲かせに――そんな顔するなよ、冗談だよ。そもそもそんなに話したこともないしね。僕らは立場が違いすぎた」ティムはユーリの横を通り過ぎ、扉に手をかけた。「体の具合はどうだい? 外でも歩きながら話したいんだけど」
「……俺はあまり話したくないな」ユーリは目をそらした。
「正直でいいね。君の気持ちは理解できなくもない。でも、ちょっとはこっちの要望も聞いてくれないかな。君を解放するようにここに要請したのは僕なんだからさ」
恩着せがましい言い分に苛立ちを覚えたが、ユーリは渋々ティムの提案に応じた。
外の空気は肺を刺すように冷たかった。しかし慣れてくると、清潔な空気は全身の毒気を押し出すように体にしみわたった。凪いでいるためか湖面は穏やかで、日差しはあざだらけの肌を温めた。地獄のような日々から抜け出せた喜びが体を震わせる。
しかし、浮かれている場合ではない。まだ目の前の男が敵か味方かも分からないのだ。
「さて、何から話そうか」ティムは街道に向かって歩き始めた。
「要件だけ手早く頼む」
「まあまあ、ものには順序ってものがあるからね。君も外で何があったか知りたいだろう」ティムはときどき細めた目をこちらに向けた。「帝国が崩壊した話は聞いたかい」
「ああ、聞いた」
「僕は見てないんだが、王はどうやら自ら命を絶ったらしい。見つけたときにはすでに死んでいた。信頼性のある証言も取れたし、不審な点も見当たらず、自死で間違いないとの結論が出た。だけど、誰も予期しない方向に話は進んでいった」
朝の街道は静けさに包まれていた。ティムは声をひそめて話を続けた。
「エリナのことは覚えてるかい。最近にも会ったと思うけど」とティムは尋ねた。
「エリナ? ああ。いつもレオンと一緒にいた」唐突に話題に上がった名前は、なぜか昔のほうの記憶とつながった。
「帝都侵攻戦の最中に、彼女が誘拐された。犯人は君の友人だったリオだ。レイドが彼を追ってエリナの奪還に向かった。結果、二人は帰ってこなかった」
「やられたのか?」
「いや、分からない」
「分からない?」
「レイドには二人の兵を同行させていた。戦闘が予想されたから、まあ、彼が失敗したときのためにね。二人はリオが潜伏していた空き家の外で待機していたんだけど、いつまで経ってもレイドが戻らない。手筈通り彼らは中に突入した。そして彼らが見つけたのは、王の遺体だけだった」
ユーリは思わず立ち止まった。ティムはすました顔で振り返る。
「王の遺体?」
「そう。不可思議な話だ。そこにいるはずの三人はどこにもいない。代わりにいたのは、抜け殻のように死んでいた王だ。もちろん帝都で自決したものとは別の遺体だよ」
「……今の話がうまく呑み込めないのは俺の頭が悪いからか?」
「僕も未だに理解できてない。そもそも、これに筋の通った説明ができる人物は、少なくとも革命軍の中にはいなかったよ」
ティムは再び歩き始めた。湖が近付いてきている。
「とりあえず分かっていることだけ話そう。件の三人は忽然と姿を消した。周辺を捜索してみたが遺体さえ見つからない。彼らは二人の人間が見張る空き家から大脱出を遂げたわけだ。そして、遠く離れた二つの場所で、王の遺体が見つかった。見比べてみたけど、驚くほどにその二人はそっくりだった。影武者なんてものじゃない。双子でもあんなにそっくりな人間は少ないよ。死因は違えど、二つの遺体はそれくらいよく似ていたんだ」
家屋がまばらになってきた。やはり向かう先は湖だ。
「一応、君の意見を聞いておこうか」
「さっぱり分からない」ユーリは即答した。
「僕と同じ感想だ」
舟小屋と焼けた林が見えてきた。ティムは桟橋の上に立ち、湖を眺めていた。彼のその無防備さが逆にユーリを不安にさせた。
「俺が捕まってる間に外で何があったのかは分かった。そろそろ教えてくれないか」
「僕がどうしてここに来たのか、かい?」
ユーリはうなずいた。ティムは振り向かなかったが、その気配を感じたようだった。
「エリナがいなくなったこと、レオンがひどく気に病んでね。彼女を探そうって飛び出そうとしてたのを、なんとか止めたんだ。あいつが今、本部を離れるわけにもいかないからね。代わりに僕が捜索するってことで、なんとか納得させてきた。まあ僕もエリナとは昔なじみだし、レオンほどではないにしろ心配はしてるからね」
ティムは桟橋のそばで石の物色を始めた。ユーリの苛立ちの視線に彼は気付いたようだったが、何事もなかったかのように受け流し、桟橋の上に戻っていく。
「君が聞きたいことは分かってるよ。前置きが長くなってしまったけど、これからが本題だ」ティムが投げた石は湖面を数度跳ね、小さな水飛沫を上げて湖に吸い込まれた。波紋が静かに揺らめく湖面に広がり、その輪郭は薄らいでいった。「この旅に同行してほしいと思って、僕は君に声をかけに来た。戦闘にならないとも限らないから、戦力が欲しくてね。君を選んだのには理由がある。まず、エリナの捜索は上から許可されなかった。戦力にもならない迷子の女の子一人を探している暇はないらしい。だからこれは非公式、僕は無断欠勤中、ほぼ脱走兵といったところだ」
「まともな人間はついてこないってことか。そんなことしていいのか?」
「国の未来も大事だけど、僕はそれ以上に友人が大事だと思ってるからね」
ティムの二投目は跳ねることなく、鈍い音を立てて大きな波紋を作った。
「君を選んだもう一つの理由。君への熱烈なファンレターを読んだからだ」
「ファンレター?」ユーリ思わず素っ頓狂な声を上げた。
「僕も最初に読んだときはびっくりしたんだけどね。報告書にあんなことを書くなんて。まして相手は命を狙ってきた敵だよ。どんな馬鹿だろうってワクワクしたよね。……でもそれを書いた本人と話してみて、思ったより信用できそうな気がしたんだ。そしてちょうどよく僕は手頃な日陰者が必要になった。君に賭けてみるのも悪くないかなと思ったんだ」
「……あんた、エリナを見つけられたら、頭を治してもらったらどうだ」
「彼女にも昔、よく同じことを言われたな」ティムは振り返り、両手を広げた。「さて、僕は全部話したよ。あとは君の同意だけだ」
「俺に拒否権はあるのか?」
「もちろん。また監禁生活に戻りたいならどうぞ。ここで僕を殺して逃亡生活を送るのも自由だ。推奨はしないけどね」
だからこいつはわざと湖に来たのか。こちらが戦いやすい状況を整えるために。なめられたものだ。勝つ自信があるのだろう。ならば選択肢は一つしかない。しかし、その前に――。
「エリナを見つけたら、俺はどうなる? また牢屋か?」
ティムはいたずらっぽい笑みを浮かべた。気付いたか、とでも言っているようだった。
「仕事が終わったら、僕からレオンに交渉しよう。それでいいかい?」
「自由の身になるってことでいいんだな」
「うん。今後は彼の下で働くことになるだろうけど」
食えない男だが、嘘ではなさそうだ。
「異論はない。牢屋なんかよりはるかにましだ」
「よし、決まりだね。話の分かる人で助かったよ」
街道には少しずつ人の姿が見えるようになってきた。そこには平和があった。施設を出てからもほとんど感じたことのないそれが、当たり前のようにここの人々の中にある。戦場にも牢獄にもない、温かさがある。安堵しながらも、自分の心のどこかに寂しさに似た感情が芽生えていることに、ユーリは気付いていた。
「エリナを探すといっても、あてはあるのか?」とユーリは尋ねた。
「ないよ。手がかりも何も」ティムは平然と言い放った。
「どうするんだよ、これから」
「それは後で話そう。明日の出発までまだまだ時間があるんだし」ティムは急に鼻息を荒くした。「そんなことよりも、いい飯屋は知らないかい」
「えっ……いや、ずっと閉じ込められてたから、この町のことは何も知らないけど」
「なんだ。まあ、自分で探し出すのも一興ってやつかな」
「……そんなに飯が大事なのか」
「そりゃそうさ。いろんな町を巡るんだし、そこの飯と酒を味わっていくのは当たり前だろう」
「目的は人探しであって、あんたの脱走記念の旅行ではないはずだけど」
「休暇中だろうが脱走中だろうが、せっかくの旅だ。楽しまないと損だよ」
子供のようにはしゃぐティムの背中を、ユーリは多少の不安と後悔を抱えながら追いかけた。




