25. 虚
冒頭部は13話とつながります。
ランプの明かりがまだ揺れている。リオは周期的に形を変える天井の影を眺めていた。頭の中に濃い霧がかかったような気分で、体を起こすことも楽ではない。両の手首をつかむ忌々(いまいま)しい手枷のせいだ。加えて、考えなければならないことが山ほどあった。だから部屋に入った者がいたことにも気付かなかった。
風が吹き抜けたかのように、頭の霞が晴れた。同時に肩をつかまれ、体を引き上げられる。
「久しぶりね、リオ」
目の前の女が誰であるのか、すぐには思い出せなかった。
「……ユノ?」
何年も会っていないことだけが理由ではないような気がした。今の彼女は、以前と雰囲気が違う。
「あんたも監禁されてるはずじゃないのか」
ユノは手に持った鍵束を揺らした。彼女の足元に手枷が落ちているのを見て初めて、自分がそれから解放されていることにリオは気付いた。
「思い出話も余計な問答もしてる暇はないの。外に出ましょう」
再び大きな振動があり、天井からほこりが舞い落ちた。リオは状況を理解できないまま、ユノに引かれて部屋を出た。廊下には焦げ臭い空気が充満していた。
「あなたに指令よ。これから先、レイドと同行すること。いい?」
「どうしてあんたがそれを――」
「説明してる暇はないって言ったでしょう」
「……でも、どうやって? 殺しじゃなく、同行となると話は変わってくるだろう」
「今は私の言うとおりにしなさい。そうすればうまくいく。その後は自分で考えて行動して」
有無を言わせぬユノの迫力に圧され、リオは口をつぐんだ。不安や不満はあるが、状況が分からない以上、彼女に従うしかない。
足を進めるにつれて濃くなる煙から抜け出し、二人は外に出た。リオは火に包まれた建物に思わず目を向けたが、見るべきものが他にあることに気付いた。落ちた吊り橋のすぐ横、人がいる。長身の男の後ろ姿と、空に投げ出された三人の人影。その中にレイドの姿があったのをリオは見逃さなかった。
行きなさい。ユノがそう叫ぶが早いか、リオは走り出していた。そうしたのは友人を助けるためか、それとも任務のためか。脳裏をよぎった無意味な問いを頭の隅に押しやり、風を纏い崖を飛び降りた。
「ヴァン、それでいいですね?」とエリナは言った。それは確認や質問というよりは命令に近い強い口調だった。
「……勝手にすればいい。どうせ何を言ってもやるんだろう。君を止めるだけ時間の無駄だ。僕は一刻も早くユノを見つけ出さなきゃならない」ヴァンはまだ基地を喰らい続ける炎を見上げた。「あのレイドという少年に君が肩入れする理由に興味はない。ただ、僕たちの目的は忘れないでくれよ。あくまでユノと――」
「分かってます」
ヴァンはまだ何か言おうとしたが、リオを見てすぐに口をつぐみ、瞬く間に姿を消した。リオは驚いて辺りを見回したが、彼の姿はもうどこにもなかった。
「私たちも行きましょうか」
「えっ?」
「あなたもレイドさんに用があるんでしょう。一緒に連れて行ってください」
「……何のことだ?」
「とぼけなくてもいいですよ。私たちは全部知ってます」
エリナは崖の下をのぞきこんだ。その背中を押すべきかと考えたが、すぐに思いとどまった。不死身の彼女は、ここから落ちてもおそらく死なない。
「一つだけ聞きたい」リオは少女の背中に問いかけた。「お前はレイドをどうしたいんだ?」
エリナはゆっくりと振り向いた。一つに束ねられた金色の長い髪がそれに合わせて波打ち、朝の日差しで白く輝いた。
「この画を描いている人たちはみんな、レイドさんを捨て駒のようにしか思っていません。あるいは、いなくなってくれたほうがいいとさえ思っているでしょう。ですが、私には彼が必要なんです。どんな代償を払うことになっても、死なせるわけにはいきません」
彼女の深い赤の目は、静かに、しかし激しく燃え上がっていた。自分の想像をはるかに超える何かの存在を、リオはそこに感じた。
「だったら、どうして俺の同行を認めるんだ。あいつに何をするかも分からないのに」
「……借りを返すだけです」エリナは目を背けた。先ほどまでの気迫はもう隠してしまったようだ。
「借り?」
「さっき助けてくれたことです。こんな高さから落ちたら、私はともかく、ヴァンとレイドさんはまず助からなかったでしょう。今は二人とも失うわけにはいきません。あれがあなた自身のための行動だったとしても、私がそれで助けられたのは事実なので」エリナは鞘に納めたままの短剣をこちらに向けた。「ですが、これで貸し借りはなしです。彼に危害を加えるというのなら、あなたをこの手にかけてでも止めますよ」
リオは自分の胸に突きつけられた短剣を見下ろした。ぴたりと静止した刃が、彼女の本気を物語っていた。リオはゆっくりと革製の鞘に手をかけ、短剣を下ろさせた。
「今のところ、そういう指令はない。未来の保証はないけど」
「……その時が来たら、容赦はしませんから」エリナは短剣を腰に提げた。「ところでリオさん、さっきみたいにここから降りることはできますか?」
彼女は崖を指差した。リオはすぐに首を振った。
「勘弁してくれ。もう何人も乗せて往復してるんだ。ついさっきまで異能封じの枷をしてたし、今日は限界だ。歩いて向かおう」
エリナは不服そうに口を結ぶと、小さく手招きをして自分の口元に手を添えた。耳を貸せということらしい。リオが膝を曲げて頭を傾けたそのとき、彼女はリオの腕をつかんで崖に飛び出した。
「無理だって言っただろうが」
リオは空中で反射的に体勢を整えながら怒鳴った。エリナを脇に抱え、全力で風を集める。二人の体は耳や指を千切りそうなほどに強い風にもまれながら、地面すれすれで降下をやめ水平に滑空していった。
◇ ◇ ◇
「ここで少し休もう」
リオは前を歩くエリナに声をかけた。両手を縛られた彼女は、山道に積もった枯れ葉の上でふらつきながら振り向いた。リオの手に握られた紐が二人の間で大きく揺れた。
「わかりました」彼女は疲れきった声を出した。
二人は道の脇に腰を下ろし、木に寄りかかった。冷たい風が葉を落とした木々の間を通り過ぎる。ときどき枯れ葉が転がる以外、何の音もしなかった。
「もうすぐ着く」リオは事務的にそう告げた。
「そうですか」長いような短いような間があり、エリナから返答があった。三日間、黙々とただ歩き続けたせいか、時間の感覚が鈍麻している。
「……どうして何も聞かないんだ」
エリナがこちらを向く気配がした。
「急に連れ去られて、何日も歩かされて、どこに向かうのかも分からない。何も聞きたいことはないのか」
小さなため息が聞こえた。
「聞かなくても分かります。命令されたんですよね。あなたはこうしろと言われただけで、その通りに動く人です。私が知りたいことは、あなたもきっと知らないでしょう。聞きたいことがあるのは、あなたのほうじゃないんですか」
彼女の声は森の静寂にかき消されていく。
なぜ自分はここにいるのだろう。なぜこんなことをしているのだろう。こんなことをして誰が幸せになるのだろう。
考えれば考えるほど、頭が痛くなった。そんなことは考えても意味がない。俺はこの世の中のことを何も知らない。どうすれば最も効率良く人の役に立てるのか。それは俺よりもずっと賢い者に従うことだ。
本当にそうだろうか?
手の中の紐がするりと抜け、リオは我に返った。エリナの姿がない。あわてて立ち上がろうとすると、彼女は木の陰から現れ、紐の端を差し出した。なぜか悲しげな表情だった。
「リオさん、あなたにはこんなこと向いてませんよ」
リオは乱暴にそれを取り上げると、荷物を持って立ち上がった。
「ふざけた真似はするな。行くぞ」
エリナは何も言わずに歩き始めた。
その小さな洋館は森の中に突如現れた。黒い瘴気が立ち上るようにさえ見えるその不気味な雰囲気に、リオは一度足を止めた。地図を見て確かめるまでもない。ここが目的の場所だ。
リオが扉に手をかけようとしたとき、紐が引かれるのを感じた。先ほどのことを思い出しどきりとしたが、エリナはすぐ後ろにいた。思えば彼女は一度も逃げようとしたことがなかった。
「私はあなたのことが嫌いでした」エリナは両手を縛る紐の結び目をじっと見つめて言った。「あなたを友人として慕っている人の心を平気で裏切る、そんなあなたが嫌いでした。自分で考えることを放棄して、誰かの言いなりにしかなれず、大きな流れに身を任せるだけで……昔の私とよく似ているあなたが」
深紅の目がリオを見る。エリナの独特な雰囲気の正体が分かった気がした。おそらく、見た目の何倍も長く生きている。
「語るべき痛みを抱えながら、罪の意識が口を開かせない。私には、どうしたらあなたを救えるのかが分かりません」
リオは顔を背け、歯をきつく食いしばった。
「罪の意識だとか救うだとか、よく分からないな。俺は自分で望んでここにいるんだ」
扉にかけた手に力を入れようとしたとき、紐を握る手を強く握られた。リオは身震いするのを抑えられなかった。
「やめろっ」
リオは思わず彼女の手を振り払った。
「これからは余計な口をきくな。今まで通り、俺のすぐ前を黙って歩くんだ。いいな」
エリナはうなだれるようにうなずいた。胸の奥がすっと冷たくなるような感覚をリオは味わっていた。
「ついさっきここを通ったみたいだ」
レイドは足元の枯れ葉を手で払った。足を滑らせたのか、土をえぐった小さな足跡があった。粘土質の黄色っぽい土があらわになっている。
「子供の靴か、これは」一人の男が横からのぞきこんでくる。
「間違いない。エリナのものだ」
頭の上で鼻を鳴らす音がした。
「これで隠したつもりだったのか? まったく、間抜けな奴だな。道案内をしているようなものだ」と別の男。
ここに来るまでも、たくさんの痕跡が見つかっていた。地図とそれらを頼りに、三人は途切れ途切れの山道を進んできた。
道案内をしているようなもの。自分たちは実際に誘われているのかもしれない、とレイドは思っていた。
足を進めるにつれて樹木が密になっていく森の景色が急に開けた。針葉樹が切り開かれた広場の中心に、奇妙な洋館が鎮座していた。窓という窓に木の板が打ちつけられ、館を覆う蔦に屋根の上の天使像までもが縛り上げられていた。扉の周囲だけがその束縛を免れている。頻繁に人の出入りがあるようだった。
「お前は裏に回れ」男は自分の相方に指示を出す。「小僧、本当に一人で大丈夫か?」
「そういう指示だしね」
「自信のほどはどうだ、って聞いてんだよ」
レイドは無意識に自分の左腕をつかんでいた。
「大丈夫。エリナは取り返す」
「……頼りになるのかならないのか、よく分からねえ奴だ」男はレイドの肩を強く叩いた。「俺はここで待つ。しばらくしたら突入する。その前に帰って来いよ」
レイドは大きくうなずいて、小走りで館に向かった。
館の中から物音がした。二階の窓をふさぐ板の隙間から揺れる光が見える。中に誰かがいるようだ。入り口の扉の前にも新しい足跡が残っていた。
扉を引くと、それは音も抵抗もなく開いた。蝶番が油で光っている。薄暗い室内はほこりが少なく、虫や動物の住処になっている様子もない。外見とは裏腹に、人の手が行き届いているのを感じた。罠の気配はなかったが、レイドは最大限の注意を払って歩を進めた。
階段に足をかけたとき、踊り場に何かが落ちていることに気付いた。それは鞘に納められたままのリオの短剣だった。
レイドがそれを拾い上げると同時に、二階から大きな物音がした。続いて、野太い男の雄叫び。レイドは素早く階段を駆け上がり、その先の扉を開けた。
玄関の扉をくぐると、すぐに人の匂いがした。室内の空気に動きがあるのを感じる。誰かが今まさに、ここで暮らしているのだ。
廊下を進もうとするエリナを、リオは反射的に止めていた。
「そっちには行かないほうがいい」リオは廊下の奥を見つめながら、背筋が冷たくなるのを感じた。「なぜか分からないが、風が廊下の途中で途絶えるんだ。勘でしかないが、あの先はろくな場所じゃない……なんなんだ、この家は。この世のものとは思えないほど気味の悪い空間だ。誰かの腹の中にいるような気分だ」
二人は廊下の横に伸びる階段を上った。踊り場にさしかかったとき、上から一枚の紙が落ちてきた。リオは空中でそれをつかんだ。
『武器はすべて置いて行け』
リオは頭上を見上げたが、太いはりと屋根板があるばかりだった。この紙がどこから現れたのか見当もつかないが、リオは一本だけ持っていた短剣をその場に置き、再び階段を上った。
階段のすぐ先には扉が待ち構えていた。一階の廊下とはまた違う気味の悪さがある。あちらがいつ崩れるかも分からない吊り橋なら、こちらは虎穴だ。扉越しにも、ただならぬ気配を感じる。
リオは手に汗がにじむのを感じながら、なめらかな木の取っ手を引いた。
扉を開くと、暖気が全身を包みこんだ。強い香の匂いとそれに隠れきれない臭気に、リオはわずかに眉を寄せた。窓を閉ざす板の隙間から漏れ入る光と暖炉の火が、広い室内をぼんやりと照らしている。部屋の最奥に備えつけられたベッドには人が横たわっていた。骨と皮だけになった浅黒い手が、灰色の長い髭をなでた。顔はよく見えないが、赤い目がこちらを凝視していることだけは分かる。
「やっぱりあなただったんですね」
エリナが前に歩み出る。彼女は大きなベッドの前に立ち、老人を見下ろした。
「久方ぶりだな。今はエリナという名前だったか」かすれた声がかろうじて聞こえてくる。
「あなたたちを止めに来ました。もう自由にはさせ――」
エリナの体が床に吸い込まれ、壁際の天井から落ちてきた。待ち構えていたかのように、どこからか長剣が飛んでくる。それは彼女の胸を貫き、壁に磔にした。リオは一歩も動くことができず、ただその不可思議な光景に目を見張るばかりだった。
「愚かな者ばかりだ」低い声が床を這うように響く。「偽りの王の首に狂乱し、真実を見極めようとしない者。つまらぬ意地で自らを縛り、好機を逃す者。選ぶべき道を見誤り、望みを叶えられぬ者」
老人が手招きするのが見えた。リオは足を踏み出していた。声が出せないのか、エリナが大きく首を振り続けるのが視界の端に見えたが、足は老人のもとへと向かってしまう。
「よくやった。あの女、私一人では追うことができず苦心していたのだ。褒美を授けたい。欲しいものはないか」
「……あなたは、国王陛下ですか」
「そうだが」
「失礼致しました」リオはベッドの前でひざまずいた。「陛下、私の望みを申し上げます。ロゼという女性を解放してください」
重い沈黙が息を詰まらせた。見上げずとも、老人の機嫌を損ねたことが分かった。
「……それはあの女を連れて来る条件だ。私は褒美をやろうと言っている」
「ありがたきことではありますが、私の望みはそれだけです」
エリナが串刺しにされた瞬間が脳裏をよぎる。次は自分か、とリオが考えると同時に、すきま風のような笑い声が部屋に響いた。
「欲なき者よ、気に入った。特別な褒美をくれてやろう」
「いえ、ですから――」
「大したことではない。耳を貸せ」
リオは困惑しながら、老人の顔に耳を寄せた。エリナが首を振り、口を動かしながら、胸に突き刺さった剣を抜こうともがいていた。その必死の形相にある直感がはたらいたとき、毛布の下から痩せこけた腕が飛び出し、リオの胸に赤い鉱石の結晶を突き刺した。老人の厚い髭の下の口角が持ち上がる。
突き上げるような衝撃があった。目まぐるしく変化する情景の断片が激流となって押し寄せる。破裂しそうな頭の中に押し寄せ、耳や口を貫き、轢き潰さんとばかりに体に激突する。全身がバラバラになりそうなその奔流の中に、リオは飲み込まれていった。
耳を裂く雄叫びはどれだけ続いただろう。それがいつ終わったのかも定かではない。エリナは剣に胸を貫かれたまま絶望に顔を歪め、ベッドに横たわる老人は既に息絶えているようだった。部屋の中心で頭を抱え天を仰ぐ男はゆっくりと立ち上がり、振り向いた。
「リオ……いや、違う。誰だお前は」レイドは震える手でリオの短剣を握りしめた。
「なぜお前がここにいる?」リオは目を細めた。「ああ、こいつが呼んだのか。余計なことを。いや、むしろ好都合か」
「二人に何をした。答えろっ」
「レイド、さ……」エリナが咳きこみながら声を絞り出す。「だめ、逃げて。あなたはまだ――」
空中に黒い穴が出現し、そこから飛び出した槍がエリナの腹部に突き刺さった。彼女は腕を垂らし、ぐったりとして動かなくなった。
レイドは激昂してリオに突進した。しかし視界が一瞬歪んだかと思うと、頭から床に落下していた。
「お前のせいですべて水の泡だ。私の労力も、戦で死んだ者の命もな。私が自ら王を演じてまで成功させたい計画だったというのに」
「どういう、意味だ……」レイドは短剣を抜き、よろめきながら立ち上がった。「あの内戦はお前が仕組んだのか。ふざけやがって。どれだけの人の人生があれで狂わされたと思ってるんだ」
レイドはリオに飛びかかった。しかし今度は天井にぶつかり、背中から床に叩きつけられた。立ち上がろうとするレイドの腹をリオの靴が蹴り上げる。次いで頭、背中と、何度も蹴り、踏みつけた。レイドが立ち上がろうとしなくなるまでそれは続いた。
「不愉快だな。その目、その態度、あの男にそっくりだ」リオは自分の額に手を添えた。「いいことを思いついた。お前をとっておきの場所に案内してやろう」
「リオに何をした……エリナを……」
「死人に語ることはもうない」
体の下で黒い穴が口を開ける。レイドはなすすべなくそれに吸い込まれていった。
静まり返った部屋に、男の高笑いだけが響きわたった。




