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スターゲイザー  作者: ミズノハル
第一章 赤い目の悪魔
20/29

20. 無知

「最終確認だ」

 レオンは研究所の見取り図を床に広げた。それを囲んでいる六つの頭が、度重(たびかさ)なる書き込みで真っ黒になった図面を見下ろした。長く暮らした塀の中は、その図面よりも頭に焼き付いたイメージのほうがはるかに正確だった。


「ジークとラウラの班は、居住区で騒ぎを起こす。ティム班はその隙に、中央広場にあるこの諸悪の根源、国王像を破壊する」

 名を呼ばれた三人は小さくうなずいた。

 小さな町にも匹敵する研究施設の中心には、盾を掲げた国王の像がある。その盾に埋めこまれた黒い石が異能の力を抑制するものだという噂があった。わざわざ像の目の前に警備室が設けられていることから、あの像が象徴以外の役割も担っている可能性は高い。

 それ以前に、施設で暮らす誰もが直感的に分かっていた。あの黒い石は間違いなく自分たちに害をなすものだ。

「晴れて枷が外れたら、俺たちが研究棟の警備室に突入する。ティムは俺たちと合流し、研究棟を制圧。ジークとラウラはそのまま居住区を頼む。さて、質問は?」


「もう一度聞くけど」ラウラは手を挙げた。「研究棟に行くのは本当に二人でいいんだね? この中で警備が一番厳しいここに」

「しつこいな。問題ないよ」

「あんたは?」ラウラは地図をはさんで向かい側にいる男に声をかけた。

 アイクは黙ってうなずいた。

「ああそう。じゃあもう言わないよ」

「……勘違いしてるかもしれないから言っておくが、危険なのは俺とアイクだけじゃない。俺たちが動くのは像が破壊された後だが、お前たちはあれの妨害を受けながら警備兵と戦うことになる。それを覚悟してほしい」

「覚悟ならできてる」ジークは静かな声で言った。「この命果てようとも、俺たちの自由を勝ち取るんだ。俺たちの手で」

 彼の言葉に一同は強くうなずいた。

「ジークに台詞を取られちまったな」レオンは苦笑いをしながら言った。「もう質問はないな? じゃあ、今日はこれで解散だ。ゆっくり休んで、明日に備えよう」


「ねえ、レオン」

 頭上、二段ベッドの上段から声が飛んできた。柵に肘をついてあきれたような笑みを浮かべたエリナがレオンを見下ろしていた。

「一応リーダーなんだから、みんなの士気を上げるようなことでも言ったらどう?」

「もうジークに言われたんだよ。それに、頭はお前だろ。元々はお前が考えたことなんだから」

「私は見てるだけ。それより、ほら。やり直し」

 レオンは額に手を当ててうなった。どうもエリナには逆らえない。一同の視線が集まる中、頭の中を同じような言葉がぐるぐると飛び交っていた。

 レオンは顔を上げた。何を言うかは決められない。思いついた言葉をそのまま言ってしまおうと思った。

「誰も、死なないでくれよ」

 嫌な沈黙が流れた。エリナに目を向ける気にはなれなかった。上から頭を押さえつけられているような気分だった。次に言うことを考えなければならない、と思ったときだった。

「うーん、なんとか及第点かな。じゃあ、みんな、明日は頑張ってね」とエリナは言った。「レオンは祝杯のときにもっとかっこいいこと言えるように考えておいて」

 了解、と一同は笑いながら答えた。



 ◇ ◇ ◇



 レオンは何度読んだかわからない手紙を眺めていた。小さく丸められていたため、折り目だらけでくしゃくしゃになっている。細かい文字がところ狭しと並んでいるが、読みづらさはない。癖はあるが整った字だった。内容は、現状報告と先日の非礼を詫びる言葉だ。彼女への不平不満はあったが、これを読んだからには納得せざるを得ない。明確な根拠などは無いが、そう思わせるものがその文章にはあった。


 近付く足音が聞こえ、レオンは手紙を素早く懐に忍ばせた。テントの入口が開かれたのはその直後だった。

「やあ、レオン。ごきげんよう」

「ティム、また飲んでるのか」

「君も一緒にどうだい?」

 ティムは赤い紐が巻かれた水筒を見せた。その中身はその時々によって違うが、酒であることは共通していた。

「遠慮しとくよ。騒がしいのは苦手だから」

「いや、二人でだよ。僕もめんどくさくなって抜け出してきたんだ」

 レオンは迷った末にティムを招き入れた。レオンが傷だらけのコップを二つ取り出すと、彼はすぐに酒をついだ。趣の無い金属音を鳴らして乾杯をし、二人は酒をちびちびと舐めた。喉と胸が焼けつくように強い酒だった。


「しかし呑気なものだな。明後日には帝都だっていうのに、まだ酒をあおってるっていうのは」

「だからこそ、だと思うけど」ティムはもう一杯目を空けたようだった。「良くない話を聞いたんだけど、能力者の女が逃げたんだって?」

「そうらしいな」

 エリナからの手紙に、二名の帝国の能力者を捕まえたとのことが書いてあった。そしてその一人が脱走したとの知らせもすぐに受け取っていた。

「どうするんだい?」

「構っていられないよ。今は帝都を落とさなきゃならないし、もう害は無いってレイドの言葉を信用しよう」

「君の責任問題にならないといいけど」

「責任の追及だけは達者なお(かみ)のことだ。もしものときはそうなるだろうな」

「そのもしもが起こらないことを祈るしかないね」


 ティムが二杯目を空け、水筒に手を伸ばした。

「おい、飲みすぎだ」

「これで最後にするよ」

 そのとき、テントの外から足音がした。二人はぴたりと動きを止め、テントの入口に目を向けた。言いようのない不安がこみ上げた。同じような不穏な空気が、隣のティムからも伝わってきた。

「失礼します。マルクス兵長はいらっしゃいますか」

 厚い垂れ幕の向こうから若い男の声がした。

「誰だ。人と会う約束をした覚えはないが」とレオンは言った。

「ライナーと申します。緊急の……伝令です」

 二人は顔を見合わせた。どうやら考えていることは同じようだ。

「わかった。入れ」

 ライナーと名乗った男はするりとテントの中に入ってきた。人目を忍んでいるような気配がある。目が黒い。普通の人間だ。

「そんなところで突っ立ってないで、こっちに来たらどうだい?」ティムは新しいコップを取り出して言った。「ちょうどいいところに来た。君も一杯飲んでいきなよ」

 レオンはライナーを招き入れるために彼に歩み寄った。そして彼の肩に手を添えて椅子の一つを手で示す。


 これだけ近付けば十分だろう。

 ライナーが素早く腰に手を伸ばすのを認め、レオンは能力を起動した。水の中に飛び込んだような感覚とともに、周囲の音が消えた。

 彼の手はすでに短剣の柄を握っていた。思った通りだ。レオンは短剣をライナーの手から奪い取った。まだ彼は何をされたのか認識できていないだろう。レオンは彼の後ろに回り込みながら、短剣の柄に刻まれた小さな文字を探した。ここにどこで支給された物であるか書かれているはずだ。それはすぐに見つかった。これは確か、アイクが住んでいた町だ。ライナーが異変に気付き、振り返ろうとしていた。レオンは彼の右手を背中に回してねじり、地面に押し倒した。レオンが能力を解除すると、体が一瞬重くなり、音が押し寄せてきた。この感覚にはいつまで経っても慣れそうにない。


 時の流れが戻ってからも、動く者はいなかった。ライナーの表情は驚きで凍り付いていた。

「さて、ちょっと話を聞かせてもらおうか」

 ティムは地面に転がっていた短剣を拾い上げた。彼もレオンと同じものを確認した。

「な、なんだこれ。どうなってる」我に返ったライナーはレオンの体の下でもがいた。

「俺の能力だよ。とりあえず大人しくしてくれないか。今すぐ殺そうってわけじゃないんだ」

 レオンがライナーの腕をさらにねじり上げると、彼は悲鳴を上げ、抵抗をやめた。

「ティム、入口見張っとけ」ティムがうなずくのを横目で見て、レオンは腕の拘束を少し緩めた。「ライナーって言ったか。お前の後ろには誰がいるんだ?」

「……何の話だ」

「時間稼ぎか。早く話したほうが身のためだ」

「俺は誰の指示も受けてない。組織も何も関係ない」

 レオンは舌打ちをしてライナーを立たせ、入口から遠い机の陰に移動すると再び地面に組み伏せた。

「お前みたいなド素人が俺を殺しに来るなんて、ただの馬鹿か、おとりかのどちらかだ。こうしてる間にここを包囲してるんだろう。突入まで待ってやる。それまでに口を割れば解放してやろう」

「待ってくれ。俺は一人でここに来た。本当だよ」

 レオンは短剣を見せつけるように頭上に構えた。

「待った、レオン」口を開いたのはティムだった。「嘘をついてるようには見えないよ。それに、誰かがここを狙って潜んでるような気配も感じない。彼の言ってることは本当かも」

 ティムはレオンの目を見て力強くうなずいた。

「……お前がそう言うなら、敵はいないんだろうな」レオンは短剣を握った手を下げた。「まさか本当にただの馬鹿だったとは」

「もう放してやりなよ。座って話でも聞こうじゃないか」


 レオンはライナーを椅子に座らせ、コップの底に残っていた酒をあおった。頭が割るような頭痛を覚え、コップをティムの手の届かないところへそっと遠ざけた。こんなものをこれ以上飲んではいられない。

「ひとつ尋ねたいんだけど」とライナーは言った。

 レオンは彼の困惑を浮かべた目を見返した。

「その、俺を生かしておいていいのか。こんな手足を自由にしたままで」

「今すぐ死にたいのか?」レオンは表情を険しくしてみせた。

「いや、そういうことじゃない。そうじゃ――」


 レオンは小さく息を吸い、目を閉じた。全身を(めぐ)る流れを意識する。川のようにゆっくりと自然に、喉元や腕を伝い、組んだ指先で交差する。渦を巻いたり引き返したりしながら、体内と外とを行き来する。万物はこの流れによってつながっている。自分を取り巻く流れの中心にあるもの、体内に息づく“凶星”に意識を伸ばす。この石の持つ力を、全身に、その外に、広げていく。この感覚を身に着け、瞬きひとつのうちにできるようになるのに、何年かかっただろうか。

 音が消えると同時に、レオンは目を開いた。成功だ。レオンは机に立てかけてあった剣を抜き、ライナーの首にぴたりと当てた。その目がゆっくりと鋭い刃に向こうとする。彼の目にはこの一連の動きがどれほどの速さに見えただろう。はたして目で追うことができただろうか。それができた人間をレオンは二人しか知らない。


 能力を解くと、ライナーの荒い呼吸が聞こえた。

「レオン」隣のティムがたまらず制裁に入った。

「わかってるよ。本気じゃない」とレオンはつぶやいた。「二つ、教えといてやる。お前はお前が思ってるほど自由じゃない」

 ライナーは黙ってうなずいた。レオンは剣を引っ込めると、机に寄りかかった。心身への負担が強い能力だ。疲労がたまっている上に泥酔しているときに何度も使うものではない。

「それと、俺たちにはまだ、お前をどうするって考えはない。お前がこれ以上変な気を起こそうっていうなら別だが」

「さっきも言ったように、僕らは話を聞きたいだけだ。君が大人しく座っていてくれれば、それでいい。レオンが脅すようなことして悪かったね。酔っ払い二人にからまれただけだと思って、気楽にしてくれよ」

 ティムは笑顔で話していたが、ライナーはすっかり縮こまってしまった。ティムから時折送られる責めるような目に、レオンは苦笑を返した。やりすぎたかもしれない。

 こうやって命を狙ってくる者は少なくない。レオンは可能な限り彼らを生かして、尋問をした。言葉を引き出すために必要なことは、相手を油断させることだ。二人はよくこの手を使った。レオンが脅しをかけ、ティムがなだめる。その落差で驚くほどに相手は気を抜くものだった。

 しかしライナーの口は固かった。彼が口を開くのを待つうちに、眠気がひどくなってきた。酒に酔ってみせるのも油断を誘う手段のひとつだが、今日は順序が逆になってしまった。必要以上に酒が入っている。世間話を装って情報を引き出そうとするティムの声が、だんだんとはっきりしなくなってきた。寝たふりはいいが、本当に寝てしまうのは良くない。そう思いながらも、頭は強烈な眠気に逆らえなくなっていた。


 うたた寝を始めたレオンを、ライナーの声が叩き起こした。

「自分がどうしてここにいるのか、考えたことはあるか?」

 彼の突然の発言に二人は面食らった。その言葉は不格好に切り出された絵画のように、三人の間に投げ出されていた。

「どういう意味だい?」とティムは言った。

 またか、とレオンは思っていた。

「革命軍が目指すものは何だ。重税からの解放、農民の救済、王政の廃止、他にもいろいろと掲げてるけど、この戦争の先に本当にそんな夢のようなことがあるか。あんたたちはそれを考えたことがあるのか?」

「……何が言いたいんだい?」ティムが貧乏ゆすりを始めた。口元は笑っているが、苛立ちが隠しきれていない。

「この戦いは何かがおかしい。俺以外にもそう思ってる人間がいるんだ。大義も革新も無い、仕組まれた戦いだ。こんな茶番に家族や親友が巻き込まれるなんて嫌だった。だから――」

「俺を殺して戦争を止めようと思った、か?」レオンはすかさず口をはさんだ。ティムの堪忍袋の緒が切れそうになったのを察したからだ。自分の頭で考えない人間を彼は最も嫌っていた。「まあ落ち着けよ。よく考えてみろ。確かに、俺は革命軍の中では、兵を率いるけっこう高い地位にある。だが戦争を起こしてるのは俺じゃない。俺は、そうだな、雇われ兵長ってところだ。俺がいなくなっても代わりはいる。具体的にはそこの酔っ払いが務めることになってる。進軍がちょっとだけ遅れるかもしれないが、戦争そのものが無くなることは決してない。世の中っていうのは基本的にそんなもんだ」

 これは理想だ。実際はそううまく機能していない。ここでレオンが消えれば、帝都侵攻に大きな影響が出ることは確かだった。先日の武器の確保の件もそうだったが、ぎりぎりのところでうまく回せてきたというだけのことなのだ。世の中というのはそういうものなのかもしれない。ぎりぎりで、曖昧(あいまい)で、偶然に動いている。


「今日はこれくらいにしておこうか。俺も疲れた。お前もわかっただろう。俺の首を取るなんてお前にはできないし、そうする意味も無いんだって」

 レオンが手で合図すると、ティムはライナーを外に連れていった。彼はしばらくここに拘置されるだろう。その後どうなるのかはレオンの知るところではない。能力者でもない人間がどう処理されるのかは、おおよそ予想はできるが。

 何かがおかしい。仕組まれた戦い。ライナーはそう言っていた。兵長という肩書を押しつけられてから、何度も聞いた言葉だった。多くは捕らえた敵、革命軍内部でほんの少数。最近では聞く頻度が上がっている。長く上層部に近い役職に就いていたことで、その言葉があながち間違いではないことにレオンも気づいていた。


 テントの入口が開かれる音がした。ティムが戻ってくるにしては早い。レオンは薄く目を開けたが、そこには誰もいなかった。

 いや――。

 レオンは剣を抜き、椅子から飛び上がると、入口近くまで退(しりぞ)いて振り返った。見覚えのある眼帯。そこにいたのは隻眼隻腕の男、ヴァンだった。

 本人は傭兵を名乗っているが、彼がただの傭兵でないことはレオンは勘づいていた。彼の謎を挙げたらきりがない。能力者であるにもかかわらず誰の管理下にもないこともそうだ。しかし何よりレオンが不気味に思っているのが、たった今背後に回っていたように異能なしでは説明がつかない動きをしていながら、誰も彼が異能を使った姿を見ていないことだ。

「驚かせないでくださいよ」レオンはため息混じりに言った。

「ははは。ちょっとしたイタズラのつもりだったんだけど」

「今は笑えないです」


 レオンは先の出来事をヴァンに話した。

「なるほど。また来たのか」

「これで五人目です。奴らは何を考えてこんなことを……」

 ヴァンは椅子に座った。しかし気を抜いている様子はない。彼の隙のある姿をレオンは見たことがなかった。

「やっぱり、革命軍の中に裏切り者がいるって考えかい?」

「ええ。首謀者が内か外かはわかりませんが、アイクやさっきの小僧のような手駒は確実にまだ潜んでる」レオンは深く息を吸った。アイクの一件を思い出すと、すこし思考が乱れる。「ただ、奴らの目的がわからない」

「というと?」

「不完全なんです。アイクの妨害工作も中途半端に武器を減らしただけ。俺の暗殺も素人を送り込むだけ。本気で革命軍に打撃を与えようとしているとは思えない」

「なるほど」

「どう思いますか」

「どうって?」ヴァンは眉をつり上げた。「前にも言ったけど、僕は基本的に中立だ。雇われてるから君たちの側にいるだけだし、仕事のこと以外は何も考えてない。政治には興味はないからね」

 うそつけ、とレオンは心の中で毒づいた。


「ところで、何の用で来たんですか? まさかおどかすためだけじゃないでしょう」

「まさか」ヴァンは一笑した。この男ならやりかねないとレオンが思っているのは知ってか知らずか。「さっきハナが帰ってきたんだ。手紙を預かってきたよ」

 ヴァンが放り投げた丸まった紙片を、レオンは受け取った。

「エリナからのラブレターだよ」

「そうですか」レオンは手紙を広げながら適当にあしらった。しかしすぐに顔を上げた。「読んだんですか?」

「最初の一行だけ」とヴァンは答えた。全部読んだ、とレオンは頭の中で変換した。

 この男はよくわからない。おそらくこれまで会った誰よりも、考えていることが読めない。何かを企んでいるのは確かだ。革命軍に害をなそうとは思っていないようだから放置しているが。中立だと言い張ってはいるものの、彼は明らかにこっち側だ。エリナの紹介だから間違いない。

 そう、少なくとも今は、味方でいてくれるはずだ。


「なあ、前から聞きたかったんだけど」とレオンは言った。

「なんです?」

「君、僕に嫉妬してるだろ」

「は?」

「僕がエリナの話をすると、いつも恐い顔してるからさ。そうそう、ちょうどそんな顔」

「何の話ですか」

「彼女とは君よりは付き合い長いんだからさ、仲良くしてても大目に見てくれよ。ああ、僕は愛妻家だから手を出したりはしない。そこは安心するといい」

 ヴァンの妙な調子に(ひる)んでいると、彼は急に顔を近づけてきた。

「僕が怖いか?」

 彼の言葉で、全身から汗がどっとあふれた。首の後ろに剣の切っ先を当てられているような寒気を覚えた。同時に心臓を鷲掴(わしづか)みにされた気分になった。自分でもうまくつかめなかった感情を(あら)わにされるのが、こんなにも恐ろしいことだとは。

 この男が敵になったら、絶対に勝つことはできない。レオンはそう体の芯に刻み込まれた気がした。

「恐怖や不安は、決して悪い情動じゃない。それは君の無知が生むものだ。それは君に成長の機会を与えてくれる。君はね、本当にいろんなことを知らないんだ。たくさん恐れるといい。そしてその度にものを知ることだ。そうして君は強くなっていく。君には期待してるんだ。頑張ってくれよ」

 言い終わるが早いか、彼は忽然と姿を消した。レオンは驚いて辺りを見渡したが、気配さえ残っていない。


 俺が知らないことはたくさんある。

 ヴァンの素性や目的。

 これからどうなるのか。誰が何を企んでいるのか。

 エリナ――物心ついた頃から一緒にいた彼女のことさえ、ほんの一部分しか知らない。歳をとらない理由も、どんな過去があるのかも。

 分かってる。俺は何も知らない。

 知るために、この戦いから生きて帰るんだ。


 レオンは寝床に横になり、エリナの手紙をランプの灯りに近づけた。整然と並んだ小さな字は、背筋を伸ばしてそれを書きつける彼女の姿を思い起こさせた。

 生きて帰れたら、エリナのことをあと少しでも知れるだろうか。遠くを見つめる彼女の横顔を思い浮かべながら、レオンは眠りについた。


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