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スターゲイザー  作者: ミズノハル
第一章 赤い目の悪魔
19/29

19. 贖罪

「あなたが新入り?」

 背後から快活な声が聞こえた。振り向くと、部屋の入口に女が立っている。リオは椅子から立ち上がり、小さく頭を下げた。

「初めまして、リオです。えっと……」

「私はロゼ。よろしくね」

「ロゼさん、これからお世話になります」

 女は笑みを浮かべながら、リオの頭からつま先までじろじろと眺めはじめた。彼女が顔を近付けたときに、かすかに花のような香りがした。

「な、何ですか」リオは思わず後ずさりした。

「いやあ、後輩って初めてだからさ。なんだか嬉しくて」ロゼははにかんでそう言った。「とりあえず、ここの案内しようか。ついて来て」


 リオはロゼに続いて、深夜の閑散とした廊下を歩いた。ロゼは立ち止まりもせずに、ここは何、あそこは何だと教えていった。彼女の説明はいささか簡潔すぎた。説明すらされない扉もいくつかあった。合間の雑談の時間は長くなっていき、いつの間にか彼女は説明を放棄していた。普段のリオなら目上の人間でも注意してしまいたくなるのだが、その夜は疲れきっていてその気力もわかなかった。そもそもロゼの話の半分も頭に入ってはいないのだから、彼女を注意できる立場にはない。

「ねえ、外に行かない?」しまいにロゼはそう言いだした。南棟を歩き終わり、玄関を兼ねた渡り廊下にさしかかったときだった。リオは何も言わずにうなずいておいた。こんな時間を引き延ばしても互いに不利益だ。


 満月の光が町を青白く照らしていた。リオにはそれでもよく見えなかったが、ロゼは迷う様子もなく足を進めていった。風には水辺の匂いがある。どうやら湖に向かっているようだ。

「ねえ、あなたはどこ出身なの?」町の中心部を出たあたりでロゼは口を開いた。おそらくずっとこの質問がしたかったのだろうとリオは感じた。

「東部研究所、ってわかりますか。正式な名前は知らないんですけど」

「うん。知ってる」

 ロゼは一瞬だけ振り向いた。彼女の目が赤いことに、リオはそのとき初めて気付いた。

「すみません。ロゼさんもそうだったんですね」

「これってよく見ないとわからないからね。気にしないで」ロゼは前を向いたまま言った。「私は西の出身なの。東はどんなところだった?」

「東ですか? そうですね……」

 思えばあそこがどんな場所だったのか、深く考えたことは無かった。食事と寝床があり、教育も受けられたことを考えると、所長から耳にたこができるほど言われたように恵まれた環境であるのかもしれない。しかし、物心がつく前からずっと抱えていた思いがあった。

「俺はずっと、あそこから出ていきたいと思ってました。思い返してみれば、それしか考えてなかった。そんなに出ていきたかったなら、きっとろくな場所じゃなかったんでしょうね」

「なるほどね」

 ロゼの返事は短かった。続きがあるのかとリオは待ったが、とうとう彼女が口を開かないまま目的地にたどり着いたようだった。


 ロゼは舟小屋を通り過ぎ、古い桟橋の先端に腰掛けた。湖が一望できる場所だ。リオはその光景に息をのんだ。自分の認識をはるかにしのぐ大きさの世界がそこにあった。リオは空の広さに圧倒されていた。風が湖の向こうの山並みを越え、湖面に小さな波を起こし、二人の男女の髪を揺らし、また山を越えていく。そんなつながりを感じたような気がした。風はどこまでも行ける。塀であろうと、国境であろうと、越えていける。リオは満月を見上げた。あいつが空を見るのが好きだった理由が、なんとなくわかった気がした。

「いいですね、ここ」リオはロゼの背中に話しかけた。

「そうでしょ。ここでぼーっとするのが好きなのよ」ロゼは笑ったが、すぐにその顔に影が差した。「ごめんね。急にこんなところに連れ出して」

「いえ。疲れも吹っ飛びましたよ」

「じゃあ、これから戻ってもう半分の案内しようか?」

「それはちょっと……」

「だよね。私も今日は疲れちゃった」


 リオは月を見上げるロゼの後ろ姿を眺めた。どことなくあいつに似ている。背格好が近いからだろうか。彼の夜風のような匂いを思い出した。ちょうどこんな風のような、涼やかな空気を纏っていた。誰よりも強い情熱を持ちながら、心はどこか遠くだけを見つめていて、誰もがまたぐ小石につまずいて歩くような男だった。今日もまた、あの少女と夜空を見上げているのだろうか。疎まれる者同士で、互いの傷をなめ合いながら。


 ロゼはあおむけに体を倒し、リオの顔を見上げた。「ねえ、東の話、もうちょっと聞かせてよ」

「話すような思い出も無いですよ。同じような毎日の繰り返しです。それよりも、ロゼさんのとこはどうだったんですか?」

「えっ? 西は、そうだねえ」質問が返ってくるのは想定外だったのか、ロゼはしばらく考えこんだ。「訓練ばっかりで、辛かったな。私そういうの苦手でさ、いつもみんなに置いていかれて、結局こんなところに飛ばされちゃった。まあ、ここはのんびりできるから、それでよかったのかもしれないけどね。訓練は得意だった?」

「人並みくらいです」少し謙遜してリオは答えた。

「けっこうできたんだね」ロゼは目減りした表現を正確に修正し、体を起こした。「ごめんね。私に教えられることは、たぶん無いかな。あと一年、我慢してね」


 力ない笑いで揺れるロゼの肩を見て、リオは罪悪感のような胸の苦しさを覚えた。数時間前に馬車に揺られてこの町に来たとき、肩を落としたのを覚えている。自分がこんな場所にしか来られなかったことが悔しかった。研修制度など無しに帝都に行けた者も大勢いたのに、彼らよりずっと努力を重ねてきたはずの自分はこんな田舎に飛ばされた。馬車に揺られて吐き気をこらえている間も、ここの風を感じるついさっきまでずっと、その悔しさを噛みしめていた。


 しかし、何かが崩れた。大切な、少なくとも今までは大切だと思っていた何かが。

「俺はここに来て良かったと思ってますよ」リオは空気を味わうように深く息を吸った。「これからよろしくお願いします」

 ここにいるのも悪くない。そのときすでにそう思っていた。



 平和な地では武力というものは無用の長物だ。そう宣告されているように、そこで過ごした日々は退屈なものだった。異能の力を持つ二人を周囲が怪物のように思っていて、その扱いに困っていることはすぐに理解した。仕事はほとんどが二人きりでの見回りで、食事と睡眠以外で室内にいた記憶が無いほどだ。夏でなくても、二人とも浅黒く日焼けしていた。そのせいだろうか、ロゼといた時間を思い出すと、それは決まって爽やかな風の匂いを伴う。退屈ではあったが、決して嫌なものではなかった。



 そんな日々の終わりは唐突に訪れた。研修期間の一年が終わる直前のことだった。

 その朝は人の声で目を覚ました。空は薄明るかったが、まだ陽は昇っていなかった。不穏なざわめきが波となって押し寄せてくるようだった。声の源は庁舎の前の広場だ。何かを囲んで人が集まっている。人だかりから離れた場所でぼんやりと座っているロゼに、リオは駆け寄った。

「ロゼさん、おはようございます」

「ん? ああ、おはよう」

「何かあったんですか?」

「うん。ちょっと大変なことになったんだよね」ロゼは人だかりを指差した。「湖からね、人が揚がったの。町長さん。昨日の夜から誰も見てなくて、さっき見つかったみたい」

「どうして湖なんかに」

 ロゼは首元を指で示した。「一目瞭然よ。誰かが殺して捨てたの。まさかこの町でこんなことが起こるなんてね」

「俺たちの責任になるでしょうか」

「ならないことを祈りましょう」

 町長が殺されたのは二人の勤務時間外のことだ。責任を追及されることは考えられなかった。


 しかし、その責任は思いもよらない形で降りかかってきた。

 二日後、ロゼは町長殺害の犯人として身柄を拘束された。彼女の手荷物から血の跡がついた縄が見つかった。加えて、町長の手には花が握られていた。それが指すものは一つだ、と誰かが声高に叫んだ。ロゼに植物を操る奇妙な力があることは誰もが知っている。誰もそれ以外の可能性を考えようとはしなかった。悪者は見つかり、邪魔者もいなくなる。とんだ幸運だ。笑いながらそう言っていた者もいた。


 異を唱えたのはただ一人だった。

「よく考えてください。ロゼさんがあんなことするわけがない」

「お前はしつこいな、リオ。証拠がそう物語ってるんだ。どう考えたって、あいつしかいない」

「どう考えたらそうなるんですか。あんな見え見えの花に気付かないなんてありますか? 凶器にしたってそうだ。あんなものを捨てずに持ってたら、自分が犯人だと言ってるようなものです。どう考えたって、誰かが仕組んだ罠でしょう?」

「あれはまともな教育も受けてないんだろう? そんな頭も働かなかったんじゃないのか」

「……それに、あの晩は俺と一緒にいました。殺人なんてできっこない」

「へえ、やっぱりお前らできてたのか。どうだった? 詳しく聞かせな」

「あんた、いい加減にしろよ」

「おいおい、なんだその目は。研修期間ももうすぐ終わるんだ。ここでへたに問題を起こさないほうが身のためだぞ。……怖い話を最近聞いたんだが、国が不要と判断したお前たちモルモットは“処分”されるそうだ。お前も、言動には気を付けるんだな」

 すきま風のような鋭い音がした。それが自分の口からもれた息だと気付くのに、リオは数秒を要した。

 処分。その言葉の冷たい響きは体中の力と温度を一瞬で奪っていった。震えすら起こらないほどにリオの体は凍りついていた。処分、って何だ? どうしてそんな言葉がロゼや自分に使われるんだ? どうしてロゼはこんな目に遭わなきゃならない? どうして?

「死をもって償わせろ、と国からの命令だ。当然だな。命は命でしか償えない。やるのはお前だ。せめて親しい人間の手で送ってやろうじゃないか」

 ロゼの命は、誰が償うというのだ?



 ロゼと過ごした最後の夜も、雲一つ無い空に満月が浮かんでいた。風の無い日だった。あれほどに完璧に()いでいる日は他に知らない。湖は鏡のように夜空を映し、世界は時が止まってしまったかのように静まり返っていた。動くものはゆっくりと西へ行軍する星々と、湖面を滑る小舟だけだ。リオはオールが水をかく音に意識を集中させ、ただ目的地へと向かうことだけを考えようとしていた。この日の出来事が心に刻みつけられることを恐れていた。しかし、その夜に目にし、肌で感じた世界は、あまりに完璧で美しすぎた。


 オールを握る手にかすかな変化を感じ、リオは船首の向きを変えた。湖から出る川の入口が近い。これ以上進むと急流に流されてしまい危険だ。リオは少し戻ったところで手を止めた。


 何もしたくなかった。何も言いたくもなかった。時が止まればいい。いっそこのまま世界が終わってしまえとさえ思った。しかしその思いを嘲笑(あざわら)うかのように、空は変わらず流れていく。夜明けまでにはすべてを終わらせなくてはならない。そうしなければ、次は自分が縛られて舟に乗せられる。ロゼを救う方法を考えるために必死に頭を動かしている一方で、体は確実に彼女の処刑を遂行する手はずを整えていた。つまりは、何も考えていなかったのと同じだ。自分は彼女のために手を尽くそうとしたと思いたいがために、彼女の味方をするふりをしていただけだった。この結果を見れば、そう言われても反論などできそうにない。


「ねえ、リオ」とロゼは言った。「早く済ませたほうがいいんじゃない?」

 こんなことなんでもない。彼女の声はそう言っているようだった。

「すみません。結局、俺は何もできませんでした」

「気にしないで。あなたまで巻きこまれなくてよかった」

 なんとしてでもロゼを助けようとしたリオを止めたのは、他ならぬ彼女自身だった。こんな状況にあっても、彼女は決して穏やかな調子を崩さなかった。しかし彼女は見ているのも辛くなるほどにやつれていった。陰で泣いていたことも、ほとんど眠れていないであろうことも、その顔を見れば明らかだった。


「月、綺麗だね」ロゼは目を細めて言った。

「そうですね」

「初めて会ったときも満月だったよね。覚えてる?」

「覚えてます」

「あれからもう一年かあ。研修が終わったらどうするの?」

「ここに残ろうかと考えてました」

「そうなんだ。こんなところに残るなんて、物好きだね」

「でも、もうそうする理由も無くなりました」

「……そっか。残念だな」

 照れ笑いを浮かべながらうつむくロゼの横顔を見て、リオは全身が熱くなるのを感じた。こんなことがあっていいはずがない。この人がこんな理不尽な仕打ちを受ける理由なんてどこにもない。

「ロゼさん、まだ間に合います」どんな反論も予想はできている。それらがみな正しいことも知っている。それでもリオは言わずにはいられなかった。「ここから逃げましょう。こんなふざけたこと、従う必要なんてありません。追われることになっても俺が守ります。だから、逃げましょう。帝都からずっと遠くまで行けば、きっと大丈夫です」


 ロゼの目は水面を向いていたが、彼女が何を見ているのかはわからなかった。消えゆく小さな波か、湖面に映る黒い山並みか、月の白光か。ふと、そのどれでもないような気がした。

「何度も言ったでしょ。それはだめ」

「俺はどうなったって構いません。絶対に守ってみせます。だから――」

「あなたは何もわかってない」ロゼは語気を強めて言った。彼女がこれほど強くものを言ったのは、これが最初で最後だった。「どうにもならないことっていうのはあるの。あなたの“絶対”なんて簡単に吹き飛ばすような、本当にどうにもならないことがね。これがその一つなのよ」

 ロゼの目には涙が浮かんでいた。後ろ手に縛られている彼女は肩でそれをぬぐおうとしたが、涙が一粒、彼女の膝の上に落ちた。リオはただ彼女の乱れた呼吸の音を聞いていることしかできなかった。

「ごめん。ちょっときつくなっちゃったね」ロゼは隠すように顔を背けた。「私はきっと、どうやっても助からない。でもあなたはそうじゃない。あなたにはまだ生きる道があるの。それをこんなところで無駄にしちゃだめ。あなたは生きなさい。どうにもならなくなってしまうまで、何をしてでも生きなさい」

「ロゼさん……」

 それでいいんですか。そう続けることはできなかった。それが最も彼女を苦しめる言葉であるような気がしたからだ。

「リオ、もう終わりにしよう。今ならできるよ」

 リオは黙ってその言葉に従った。それ以外に自分がするべきことがわからなかった。


 舟を動かしてしばらくすると、流れを捉えたのか、舟は自然と流れはじめた。もう後戻りはできない。これで終わりだ。

 湖から出る川はそれまでの穏やかさを捨て去り、目を見張るほどの急流へと姿を変える。この地域の伝統的な処刑の一つが、この川を使ったものだ。罪人の自由を奪った上で、小舟に乗せて川に流す。あとはすべて自然に任せればいい。死罪に(けが)された魂は救われることがない。遺体を自然に還すことが罪人への最大限の救いであるという。要するに、遺体を回収する手間が省けるというわけだ。


「寂しくなります」とリオは言った。これがかけるべき言葉だとは思えなかったが、このまま彼女と別れることは考えられなかった。

 その言葉で、ロゼの(まと)う空気が変わった。失われかけていた生気が(よみがえ)ったような、何かを決意したかのような煌めきがその目に宿った。

「すぐに慣れるよ」そう言うロゼの顔には微笑みすらあった。

「……あの、俺、ロゼさんのことが――」

 ロゼは首を振ってそれを制した。「私はもうあなたの過去になる。過去にすがって生きないで。私はあなたに何もできないし、あなたも私に何もできない。だから、自分の前からいなくなる人のことなんて忘れて。それが一番いいから」


 舟の速度が徐々に上がってきた。残された時間は少ない。

「もう行かないと」とロゼは急かした。

 リオは立ち上がった。これで最後。その思いに足をつかまれ、この場を離れることができない。どうにもならないと割り切った自分と、諦めきれていない自分が激しくせめぎ合っていた。別れを告げて去るべきなのはわかっていた。しかし、最後の言葉が出てこない。むしろ、このまま彼女を抱えていくことだってできる。どうする。リオは自分に何度も問いかけた。水の弾ける音が遠くから聞こえる。

 ロゼはリオを見上げた。彼女は笑っていた。息を吸うかすかな音も、囁くような声も確かに聞こえた。

「元気でね」

 彼女の言葉に背中を押され、リオは風に乗って舟から飛び立った。その衝撃で大きく揺れた舟は、あっという間に遠くに流されていった。


 結局、どうにもならないのだ。どう足掻(あが)こうとも、時は進む。世界は動いていく。それは諦めに限りなく近い覚悟だった。ロゼはもう生きられない。彼女を守ることは叶わない。

 ロゼを乗せた舟が視界から消えても、リオは彼女の行く先をずっと見つめていた。



  ◇ ◇ ◇



 家畜の臭いがする。木のくすぶる臭い、焼いているのは魚だろうか。そのかすかな手がかりは、気まぐれな風に消されてしまった。それでもいい。人里が近付いていることがわかれば十分だ。

「もう少しだ」とリオは言った。

「そうみたいだな」後ろを歩くレイドが地図を開く音が聞こえた。

「この道で合ってるか?」

「大丈夫。そろそろ畑か何かが見えてくるかも」

「でも、ちょっと休むだけなんですよね」とエリナは言った。

「残念ながら」レイドはため息まじりに言った。「帝都には余裕を持って到着したいんだ。今日はもう少し進もう」

「まあ、問題は無いな」リオはさらりと言った。

「そんなのはお前だけだよ」レイドは疲れた声で言った。エリナもそれに同意するような言葉を口にした。



 湖から流れる川沿いを下り、三人は帝都までの距離を着実に縮めていた。革命軍の本隊は予定通りに帝都に向かっているとの知らせを、数日前にハナが持ってきた。アイクの妨害工作があったにも関わらず、半ば強引に進行したと思われた帝都の陥落作戦は、今のところ問題なく決行できるのだという。送られた手紙を読んでいたレイドは喜ぶでもなく、あきれたように「すごいな」とだけ言った。その後で、彼は結果を急ぐように進行していく内戦に疑問を抱いているようなことを口にしていた。


「武器の確保もちゃんとできてないのに進軍をやめないなんて、向こう見ずって言ってもいいくらい無理矢理なやり方だよ。それでうまくいったんだから、喜ぶべきなのかもしれないけど。なんだかうまくいきすぎてるような気がする。アイクの一件でさえ予定にあったみたいで――」レイドはそこで自嘲的に笑い、首を振った。「いや、考えすぎかな。素直に喜んでおこうか」


 エリナはそんなレイドを横目でうかがいながら黙っていた。彼女から和解しておこうと言われたのは、この前日のことだ。心の底から彼女を信用できるわけではないが、表面上でもそうするとの合意をした。何年経とうがこの女を信用できることはないだろう。しかしそれもあと数日の辛抱だ。

 帝都に着けば、すべてが終わる。



「変だな」

 遠くに村が見えたとき、レイドはそうつぶやいた。彼が立ち止まったため、前の二人も足を止めた。

「どうしました?」とエリナは尋ねた。

「不穏な感じがする」レイドは目を細めて言った。「人が走り回ってる。女の人が数人、かな。誰か捜してるのか?」

 リオは村に目を向けたが、動く人はかろうじて点に見えるばかりで、その性別までは判別できそうになかった。

 そのとき、村のほうからかすかに声が聞こえた。誰かの名前を繰り返し呼んでいるような声だ。

「当たりだな」とリオは言った。

「迂回するとなると、けっこう大変だぞ。かと言って、このまま進んでも面倒事に巻きこまれそうだけど、どうする?」

 レイドは地図を地面に広げ、迂回ルートをいくつか指でなぞった。山に囲まれた村だ。その道筋は当然険しくなる。エリナがそれを見てうなった。

「なかなかの遠回りですね。それに、あの様子だと迂回しようとしても見つかっちゃいますよね」

「捜索なら、山の中にも人がいるだろうな」

「こそこそしているのを見られると怪しまれます。捜しているのは知り合いのようですし、私たちが革命軍側だと気付かれなければ大丈夫でしょう」


「待てよ」リオは村に向かおうとするエリナの行く手を塞いだ。「あまり時間に余裕が無いんだ。変なことに巻き込まれて何日も足止めくらったりしたらどうする」

「私たちがどうしようと、見つかってしまうのは避けられないって言ってるんです」エリナの声は落ち着いていたが、それが余計にリオの神経を逆なでした。

 リオがレイドに視線を送った。帝都までの行程に余裕を持たせておきたいと言っていたのは彼だ。きっとエリナを説得してくれる。

 しかし、レイドの反応は期待外れのものだった。

「このまま進もう」レイドは村に目を移した。「ここから見てだけど、女の人しかいない。人を捜してるのに男手を使わないってことは、男がいないんじゃないかな。何かあっても逃げるくらいはできそうだ」

 リオは肩を落とした。そこまであからさまな態度はとらなかったが、それに近いことはしたかもしれない。

「……わかった。二対一なら従うよ」



 すれ違う女たちの顔には疲労と諦めの色があり、若者三人に興味を持つ者は多くなかった。背の高い痩せた男を知らないか、と一度尋ねられた。やはり捜しているのは身内のようだった。目の前の見知らぬ若者たちがどんな人間であるかには気が回らない様子だ。

 このまま素知(そし)らぬ顔をして通り抜けられるか、と思っていた矢先、その脆い希望は簡単に吹き飛ばされた。

 小さな民家の前を通りかかると、その中から大声で呼び止められた。声の主はすぐに飛び出してきた。子供のように背が小さいが、顔と体つきは中年の女だ。どう希望的に見積もっても面倒極まりないことになりそうだった。リオはため息をつきたがったが、そうすれば見合わないだけの報復がありそうで、なんとかこらえた。


「あらあら。どちら様? こんな山ん中に、どうしたの? お兄さんたちまだ若いのに、こんなとこぶらぶらしてていいの? おうちは?」

 三人が女の早口にひるんでいると、女は自分と同じくらいの身長のエリナをじっと見つめ、その頭をかき回すようになでた。

「大丈夫よお。みんな言えないことの一つや二つあるわよね。大変よね、こんなかわいい妹がいたんじゃあね。秘密にしておいてあげるから、安心しなさい」女は勝手に納得したようで、とうとうエリナを抱きしめた。そしてそのまま再び話を始めた。「実は私たちも大変なのよお。ちょうどあなたみたいな背格好の人を捜してるんだけど、見てない?」

 指差されたリオは大きく首を振った。次に何を言われるのかは想像がつく。早くこの場を離れたい思いでいっぱいだった。

「ごめんなさい。私たち、もう行かないといけないので……」人形のようにされるがままになっていたエリナが口を開いた。女の拘束が強いのか、その腕から抜け出せないようだ。

「お力になれず、申し訳ありません」リオはエリナに続いてそう言った。この流れなら立ち去れる。今回ばかりはエリナに感謝しなければならない。

 しかし、女はエリナを放そうとしなかった。

「ねえ、もしよかったら手伝ってくれない?」


 肩が一気に重くなった。その言葉が出てしまっては苦しい。勘違いされている部分はあるが、自分たちがここにいることを知られると不都合なのは確かだ。秘密にしておく、ということは、彼女を裏切った場合はおそらく残り香も消えぬうちに村中に広まっている。尾ひれという尾ひれをつけられて。自分たちのことは帝国にある程度知られているとはいえ、妨害の可能性がこれ以上増えるのはごめんだ。かといって、ここで何日も足止めをされるわけにもいかないのだが。

「お願いよ。もうロゼちゃんがかわいそうで見てられないの」


 雷が落ちたような衝撃があり、目の前が一瞬真っ白になった。リオはしばらく呼吸することを忘れた。女の口から出た名前が、目を背けていた記憶を一気に呼び起こした。聞き間違いか、たまたま名前が同じだけだ。そうに違いない。震える腕を押さえながら、民家の窓に吸い込まれるように目が走り、薄暗い室内にうつむく女の姿を認めた。視線を感じたのか、女は顔を上げた。女の赤い目が、リオの姿をとらえた。



 今日だけは捜索を手伝う。レイドが出した妥協案を、中年女――パールはのんだ。彼女の中では、三人は徴兵を逃れて妹を連れて亡命しようとしている兄妹らしい。この村は帝国の徴兵で男がほとんど残っていないため、その考えはパールの心を強くつかんだようだ。どう勘違いされようが、同情を得られたのなら悪いことではない。一日くらいなら素性を隠し通せるだろう。ここに自分たちを知っている者は誰一人いないのだから。


 さっき見た女は、ロゼに間違いない。リオが知っているロゼその人だ。彼女はすぐに目をそらした。誰でもない他人と目を合わせたときにするように。その理由はパールの口から明かされた。

「ちょうど一年前だったかね。向こうの川原に流されてたの。草だか葉っぱだかが、ぐるぐるにからまっててね、それが引っかかって助かったんじゃないかってみんな言ってるのよ。運がいい子よね。ただ自分の名前以外なーんにも覚えてないの。もう困っちゃってねえ。結局、ここに住むことになってね。本当にいい子なのよ。意外と腕っぷしも強くて、この前なんて強盗が泣いて逃げてったんだから」


 珍しい来訪者を前に、パールの口は休むことを知らなかった。捜索と関係の無い話題にそれてくると、前を歩くエリナがそれをさえぎった。

「それで、私たちは誰を捜せばいいんですか?」

「そうそう。あの子のね、旦那がいなくなったのよ」

「旦那?」リオはうわずった声をごまかすために咳払いをした。

「まあ正確にはまだ旦那じゃないんだけどね。ジョセフっていうの。あの子を見つけたのもそいつ。男のくせに全然頼りにならないの。ひょろひょろで徴兵もされなかったんだけど、いっつもふらふら山の中歩きまわってるのよ。でも帰ってこなかったのは今回が初めてね。ロゼちゃんもさっき、とうとう泣き出しちゃって。芯の強いところはあるんだけどね、そりゃあ旦那がいなくなったら辛いわよ」

「いなくなったのはいつですか?」レイドは真剣な表情で尋ねた。彼が行方不明者捜索を以前していたのは聞いたことがあった。

「一昨日? いや、その前ね」

「三日か……」レイドの顔に緊張が走った。「リオ、分かれて捜そう。お前は一人のほうが動きやすいよな。俺たちは三人でまだ見てないところに行ってみるよ」

 リオはパールをうかがい見たが、彼女はエリナをつかまえて話に夢中になっていた。口を動かさないと生きていられないのだろうか。

「どのあたりを捜したらいい?」とリオは声をひそめて尋ねた。

「お前は俺たちが行けない場所を回ってくれ。ジョセフって男、動けなくなってる可能性が高い。転落してるとなると、地上からじゃ難しい」

「ハナたちがいてくれれば楽なんだけどな。あいつらはどこにいるんだ? 昨日から姿が見えないが」

「俺が知りたいよ」レイドは肩をすくめた。「とにかく、無理はするなよ」

「ああ。仕事を増やすことはしない」

 リオは一人、道を外れて森を進んだ。人がいるような風の揺らぎは無い。リオは人に見られていないか何度も確認した上で、静かに空に飛び上がった。




「いなくなった場所に心当たりはありませんか?」とエリナは尋ねた。

「さあねえ」とパールは言った。「ジョセフがどこに行ってるかなんて、誰も知っていやしないと思うけどね。ロゼちゃんも知らないんじゃない? それに、心当たりなんてあればもう見つかってるでしょ」

「何でもいいんです。足を向けそうで、まだ捜してない場所なら」とレイドは言った。

「この近くはだいたい見たんだけどね」

「遠くには行かないものですか?」

「こんな木ばっかりの山のどこに行こうっていうのよ」

「ロゼさんが見つかったのは、この近くでしょうか?」とエリナは尋ねた。

「ううん。もっとあっちよ」パールは遠くを指差すと、何かに気付いたのか表情の動きを止めた。「ああ、あそこはまだ見てなかった」

「もしかしたら、そこにいるかもしれないな」

「行ってみる価値はありそうですね」

「パールさん、これから行けそうですか?」

「まあ、行けないことはないけど」パールはどこか浮かない顔をしていた。「けっこう遠いのよ。本当に行くの?」

「今はそれしか手がかりが無いんです。とにかく行ってみましょう」

 レイドは急いで地図を広げ、目的の場所を探した。

 どうか生きていてくれ。




 きりがない。リオはうんざりしながら、岩と木の間を縫うように進んだ。人が立ち入れそうにない場所などいくらでもあった。あてのない捜索というものがこれほど骨が折れるのだということを初めて知った。レイドほどの視力があったとしても、これは容易な仕事ではない。


 誰もいない岩陰に目を走らせ、その後リオはため息をついて空を見上げた。少し休憩しよう。そう思い視線を下げたとき、あるものに目が留まった。生気のない灰色の風景に一点だけ、淡い生命の色があった。ここからでは遠すぎてはっきりしない。リオは吸い寄せられるようにそこに向かった。焦点が合いその姿がはっきりしてくるにつれて、心臓の脈動が速くなっていく。

 薔薇だ。数輪の白い薔薇の花が、岩場の一角に身を寄せ合ってひっそりとたたずんでいた。力強く咲きほこっているのではないが、確かな生命の力を感じた。


 しかし、その花のもとへたどり着く前に、リオは足を止めた。かすかに不自然な風の揺らぎを感じる。

 違和感の正体は、深い茂みの中にいた。崖の下、倒れた草に包まれるように、一人の男がうずくまっている。左の足首がおかしな方向に曲がっていて、服はところどころが擦り切れていた。死んでしまっているかと思ったが、消え入りそうな弱々しい呼吸の流れを感じた。リオが草を踏んだ音に気付いたのか、男は首を動かした。


「あなたがジョセフさんですか?」

 リオの問いに、男は小さくうなずいたように見えた。彼は安堵したのか、薄く開いていた目を閉じて眠りに落ちたようだった。

 衰弱してはいるが、今すぐ連れて帰れば助かる見込みはあるだろう。そう思いながらも、リオの体は動かなかった。


 このまま放っておけば、おそらくこの男は息絶えるだろう。体を傷つけてしまえば確実だ。いっそまた上から落としてしまえば――。

 先ほど目にしたロゼの姿が脳裏をよぎった。髪が伸びていて、悲しみに沈んだ彼女は以前よりずっと大人びて見えた。ずっと魅力的で、心を乱すまなざしをしていた。目の前にいる男は、その婚約者だ。

 つまらない感情であることはわかっている。許されることではない。ロゼが喜ぶはずもない。そんなことも当然わかっていた。それでも、押し寄せるこの感情を止められない。それはひとつ息をつくうちに頭を支配する。目の前の男を殺そうとさせる。一時の欲を満たす方向へ体を動かす。

 そうだ、ただ立ち去ればいい。何もする必要は無い。俺は何も見なかった。何食わぬ顔で戻ればいいのだ。それでロゼは誰のものでもなくなる。


 リオは男に背を向けた。迷いは、あるいは良心と呼ぶべきそれはほとんど無かった。風の流れに意識を伸ばしたその瞬間、遠くに咲く白い薔薇の花が目に入った。




 リオが瀕死の男を抱えて現れたのは、三人が白い薔薇の花が咲く川原に到着した直後だった。彼の話によると、ジョセフはレイドたちが歩いてきた道から少しそれた場所にいたらしい。おそらく、この川原まで来る途中で転落してしまったのだと思われた。

 転落による負傷は命に関わるものではなく、それによる行動の制限で数日間飲まず食わずでいることを強いられたことがジョセフをひどく弱らせたようだった。エリナの治療を受けたのちに村に運ばれた彼は、白湯(さゆ)を何口か飲ませられ、まともに意識も戻らぬまま再び眠りに落ちた。ロゼという女は終始不安そうにしていたが、もう大丈夫だというエリナの自信に満ちた言葉で、落ち着きを取り戻したようだった。


「申し訳ありませんでした」ロゼは深々と頭を下げた。「皆さんにまでご迷惑をおかけしてしまって、どうお詫びしたらいいのか」

「私たちのことは気にしないでください。ご主人がご無事で何よりです」とエリナは言った。

「本当にありがとうございました」

 ロゼは何度も頭を下げたが、そうする者によく見られる媚びや卑しさのようなものは、不思議と彼女からは感じられなかった。その姿は端麗な花を思わせた。パールが言っていた芯の強さとはこのことだろうかとレイドは考えていた。


「皆さん、今夜はどちらに?」とロゼは尋ねた。すでに日は暮れていた。「もし良ければ、うちでお休みください」

 エリナはレイドに視線を送った。レイドは小さくうなずいた。もう今日は休みたかったし、断るのも悪い気がした。

「ご迷惑でないのなら、お言葉に甘えさせていただきます」とエリナは言った。

「こんなことでお礼になるのかはわかりませんが」

「いえ。野宿続きだったので、とても助かりますよ」とレイドは言った。

「俺は……」

 ずっと入口近くに立って黙っていたリオが口を開き、三人は一斉に彼を見た。彼はそれにひるんだのか言葉を切った。彼が気にしていたのはロゼの視線だけであるような気がした。リオはずっと彼女ばかり見ている。

「……ちょっと外に行ってくる」

 リオはそう言い残すと、逃げるように外に出ていった。

「あいつ、どうしたんだろう」レイドはリオの後姿を横目で見つつ言った。

「今日はちょっと変ですよね」

「一人にして大丈夫ですか?」ロゼは不安げに尋ねた。

「手ぶらじゃあどこにも行けないでしょうし、すぐに戻って来ますよ」




 風はひどく冷たかった。リオはちょうどいい高さの石に腰を下ろし、自分の吐く白い息のうねりを眺めていた。そうしているとすぐに眠気がやってきた。体は思っていたよりも疲れているようだった。暖かい部屋の中で横になりたい。今日はそれができる日だ。しかし、ロゼの待つ家には戻りたくなかった。ずっとこうしているわけにはいかない。それでも、一秒でも長く彼女から離れていたかった。自分の知らない世界にすっかり馴染んだロゼの姿を見て、リオは胸が締め上げられるように苦しくなった。彼女が生きていたことへの喜びよりもずっと強く、その苦痛は心を支配していた。


 誰かに名前を呼ばれ、リオは振り向いた。

「こんなところにいたら、風邪引きますよ」

「ロゼさん」リオは思わず立ち上がった。「わざわざ呼びに来たんですか? レイドたちは何やってるんだ」

「まだご飯も食べる前なのに、二人とも座ったまま寝ちゃって。すごく疲れてたみたいだったから、大目に見てあげてください」

 ロゼはふと月を見上げた。

「今日は月が綺麗ですね。あれを見てたんですか?」とロゼは尋ねた。

「ええ、まあ」リオは適当に返事をしておいた。

「隣、いいですか」

「もちろん。どうぞ」


 二人は冷たい石の上に並んで座った。

「ジョセフを見つけてくれたのは、あなただそうですね」ロゼは白く光る月を見つめながら言った。

「そうです」

「どこで見つかりました?」

「確か、川の近くでしたね」

「川?」ロゼは眉を寄せた。「どうしてそんな遠くに行ったの?」

「……俺にはわかりません」

 リオはその理由を知っていたが、自分が話すべきことではない気がしていた。

「それはそうと、ありがとうね。あなたがいなかったら、きっと見つけられなかった」

「いえ、たまたまですよ」

 リオはロゼに見えないように、きつく拳を握りしめた。今すぐにでも手をついて謝りたかった。俺はあなたの恋人を見殺しにしようとしました。そう言って、額が裂けるまで地面にこすりつけたかった。自分には感謝される資格など無い。ロゼが感謝の言葉を口にするたびに、罪の意識に胸を刺し貫かれた。


「リオ、どうしたの?」

 いつの間にか顔をのぞきこんでいたロゼと目が合った。時間が止まったように二人は動かなかった。水の匂いがした気がした。耳をくすぐるような波の音も。

 リオはその幻覚を振り払うように目を外した。ロゼはこめかみを押さえて、視線をあてもなくさまよわせていた。彼女はひどく混乱しているようだった。

「なんだか……変だな。なんだろう。どうしちゃったんだろう」ロゼはとぎれとぎれに言葉を発した。「馴れ馴れしかったですよね。ごめんなさい。ちょっと変な気分になってしまって。あなたといると、不思議と落ち着くんです。初対面のはずなんですけどね。初めて、会うのに……」

 ロゼは明らかに何かをつかもうとしていた。

 だめだ。これ以上はいけない。思い出すべきではない。

 リオは勢いよく立ち上がった。それで少しでも彼女の気を引こうとした。

「ロゼさん、戻りましょう。体が冷えます」


 リオは強引にロゼの手を引いて、家に向かった。その間は一度も目を合わせず、一言も言葉を発しなかった。彼女に昔のことを思い出すきっかけをわずかでも与えたくなかったからだ。

 家に戻ると、ロゼの表情から混乱が少しずつ消えていった。目の焦点が正しい位置に定まり、彼女の日常に心がおさまっていく。これでいい。リオは何度も自分にそう言い聞かせた。

「皆さん、ご飯できてますよ」

 ロゼの明るい声に、テーブルに突っ伏して寝ていた二人がけだるそうに顔を上げた。



 その夜、リオはほとんど眠ることができなかった。眠ればまた良くないことが起こるだとか、何か重大なものを見逃してしまうというような強迫観念が頭をがっちりと押さえつけていた。


 地獄のような長い夜が終わりを迎えようとしていたとき、隣の部屋から物音が聞こえた。ロゼとジョセフが寝ている部屋だ。小さなうめき声と、布がこすれる音がした。

「ロゼ、いるか?」

 初めて聞くジョセフの声だった。弱っている響きはあったが、意外としっかりした声だ。

 彼の声に、ロゼは飛び起きたようだった。リオは天井をにらみつけながら、風の流れが教える彼女の姿を頭に思い描いていた。ロゼは恋人を強く抱きしめる。よかった、と小さく口にする。


「なあ、僕は一体――」

「しっ。お客様がいるの」ロゼは体を離し、おそらく微笑んだ。「あなたを助けてくれたの。朝になったらあなたからもお礼を言わなきゃね」

 ジョセフは首を縦に振った。できるだけ声を出さないようにとの配慮だろうか。

「ねえ、何か食べたほうがいいんじゃない?」

「あまり食欲が無いな。腹が減ってるのかそうじゃないのか、よくわからない感じだよ」

「無理はしなくていいから、一口だけでも食べてみてよ」


 小さな足音が遠ざかっていく。後を追って、一歩一歩確かめるように歩く足音が向かう。あまり広くないこの家のどこに二人がいるのかは手に取るようにわかった。二人は暖炉の前に座り、くすぶっていた薪の火をおこし、小さな声で話を始めた。二人にしか理解できない空気がそこに流れているように思えた。何度耳を塞ごうと思ったかわからない。しかし結局、リオはずっと耳をそばだてて二人の会話を聞いていた。


「どうしてあんなところに行ったの?」ロゼは眠そうな声で尋ねた。

 長い沈黙があった。暖炉の小さな火が空気を暖め、揺らしていた。

「君に見せたいものがあったんだ」とジョセフは答えた。

「なあに? 見せたいものって」

 白い薔薇の花。リオは心の中で答えた。

「……まあ、楽しみにしててよ」ジョセフは答えなかった。

「そう。じゃあ、楽しみにしてる。でも、もう無茶しないでね。元から丈夫じゃないんだから」

「ああ。今回のことでいろんな人に迷惑をかけたからね。ちょっと反省したよ」ジョセフはロゼの顔を見るように首を動かした。彼女が不満そうな顔をしていたのだろうか、彼は付け加えた。「君にもずいぶん辛い思いをさせてしまったし」

「そうだよ。心配したんだからね」


 ロゼは暖炉の火にかけていた鍋のスープを器に取り、ジョセフに手渡した。

「もう私の前からいなくならないでね」

 ロゼはそのままジョセフの手を取り、顔を寄せ――。

 リオは深く息を吸った。思考や感覚を頭から追い出すために、呼吸の音に集中した。そうしていると、やがて眠気がやってきた。リオはすがりつくようにその眠気に身を委ねた。




「すみません。あの人、全然起きなくて……」

 ジョセフは三人が発つ時間になってもいびきをかいて寝ていた。

「構いませんよ。ゆっくり休むのが一番の薬ですから」とエリナは言った。

「先ほどから姿が見えませんが、リオさんはどこに?」そう言いながら、ロゼは彼の姿を探した。

「向こうで待ってるそうです。ほら、あそこに」

 レイドが指差した先、声も届かないほど離れた場所にリオはいた。皆が起きはじめてすぐ、朝食もとらずにあそこで待っている。

「皆さん、これからどちらに?」とロゼは尋ねた。

「帝都に……」口を滑らせたレイドの脇腹を、エリナが肘で強く突いた。

「帝都?」ロゼの顔が曇った。

「いえ、帝都の近くに親戚が住んでいるので、ひとまずそこで妹を預かってもらおうと」

「……そうですか。道中、お気を付けください。近くを通ることがあったら、ぜひ寄ってくださいね」

「もちろん。どうもありがとうございました」


 二人はロゼに頭を下げ、途中で一度だけ後ろを向いて手を振り、帝都へ向かう道を進んだ。リオは二人が合流する手前でロゼのいる方向に頭を下げ、二人の前を歩いた。

「昨日はよく眠れました。やっぱり外でなんて眠るもんじゃないですよ」

 エリナの言葉に、レイドは苦笑いを返した。なるべく急ぎたいと言っておいたのに、ここで一泊するように仕向けたその抜け目なさには、感心半分あきれ半分だった。もっとも、この一泊で思いのほかたまっていた疲労を解消することができたのだから、結果を見れば彼女の判断が正しかったのかもしれない。


 目の前でリオが木の根につまずいた。彼が夜中に何度も目を覚ましていたことをレイドは知っていた。レイドは足を速め、リオの斜め後ろを歩いた。

「大丈夫か」とレイドは尋ねた。

「ああ。まだ疲れが抜けないみたいだ」

「眠れなかった?」

 リオはこちらを一瞬うかがい見た。「あまり寝つけなかった」

 居心地の悪い間が空いた。レイドはリオの言葉を待ったが、彼はもう話そうと思っていないらしかった。

「ロゼさんと話さなくていいのか」とレイドは切り出した。

 リオは表情を変えなかったが、耳の先がかっと赤くなった。彼は何も聞かなかったかのように、無言で歩き続けた。レイドが歩くのをやめると、ほどなく彼も足を止め、振り向いた。

「どうした。早く行くぞ」

「本当にいいのか」

「べつに話すことなんて無い」

「事情はよくわからないけど、話すべきだと思う。お前自身、そう思ってるんじゃ――」

「わかったような口を利くなよ」

 リオは背を向けて歩き出した。彼にどんな言葉をかけたらいいのかは、よくわからない。だが、彼はきっと後悔する。そしてそれは彼もわかっているはずだ。


 そのとき、背後から足音が近付いてきた。レイドとエリナが振り向くと同時に、彼女は二人の横を通り抜けていった。

「待ってください」

 ロゼはリオの腕をつかんだ。彼の目は大きく見開かれ、そのまま凍りついた。

「もう少しお話しできませんか。何かつかめそうなんです。何か……思い出せそうなんです。お願いします」ロゼはほとんど泣きそうになっていた。「以前にもお会いしたことがありますよね。あなたは私を知ってるんじゃないですか? 私、知りたいんです。自分がどこで、どんなふうに生きてきたのか。毎日、ずっと、そればかり考えて……どうしても、知りたいんです。忘れてはいけない気がするんです」

 リオの青ざめた顔には強い恐怖が刻まれていた。

「俺は、知りません。あなたとも昨日初めて会ったし、あなたに関する話も聞いたことがない」

 彼の言葉が嘘であることを、レイドは直感した。ロゼにも同じひらめきが働いたようだった。


 リオはうろたえるロゼの目をしっかりと見すえた。彼の決意は、おそらく彼女に一番強く伝わっている。

「過去にすがって生きるのは、もうやめてください。あなたはあの人と一緒に生きていけばいい。過去なんか無くても、それで十分です。あなたにはそれが一番の幸せです」

 リオの腕をつかんでいた手はするりと離れ、ロゼは崩れ落ちるようにその場に座りこんだ。涙がしたたり落ち、彼女の膝を濡らした。彼女は手で顔を(おお)って、声も上げずにただ泣いていた。

「どうかお元気で」

 リオはロゼに言葉をかけると、背を向けて去っていった。


「レイドさん、行きましょう」後ろからエリナが声をかけた。

「これでよかったのかな」

「それは私たちが決めることじゃないですよ」

 ロゼは視界から消えるまで、ずっと肩を震わせて静かに泣いていた。


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