16 縮まる距離
白井さんの暴走によって地獄を見た日から三日が経ち、特訓を開始してから今日で五日。
バロール山脈に向かって拠点を変えながらどんどん進んで行った結果、すでにバロール山脈の入口まで残り数百メートルという距離にまで来た。
今俺達は、ゴツゴツとした岩に覆われた山肌を目前にした森の中で周囲を十数体の魔物に囲まれながら戦闘を繰り広げている。
「アースバインド!」
「ガルルル⁈」
俺に向かって真横から飛び掛かって来た魔物の足元の土が蠢き、蔓状になって魔物の足に絡み付いて動きを止めた。
驚き視線を逸らした魔物の隙を突き、俺は魔物の喉にポイズンソードを突き込む。
「ゴブッ⁈」
剣を引き抜くと同時に魔物はその場に倒れ込んだ。
「ガルアア!」
「フー! フー!」
「グルル!」
見渡せば、周囲の魔物が荒い息と唸り声を漏らしながら俺達を睨み付けている。
俺達に襲い掛かって来たのは全て狼型の魔物。ただし、ここにいるのはブラックウルフやファイアウルフの様な四足歩行の通常の狼型とは違い、毛深い体を人間の様に二本脚で支えて移動する、所謂狼人間の姿をした魔物だ。
名を「ディアンウルフ」というこいつは高い知能と狡猾さ、さらに狼の身体能力を備えた厄介な魔物だ。
特に白井さんの様な後衛職にとっては高い敏捷を活かして接近戦を仕掛けて来るディアンウルフは相性最悪と言える。
その白井さんは俺の背後で前方以外、左右後方上空を高い透明度を誇る分厚い氷の壁で覆って敵の接近を防いでいる。つまり今の白井さんは氷で出来たかまくらの中にいる様な状態だ。
唯一空いている入口に俺が陣取り敵の侵入を防ぐことで、白井さんは詠唱に集中して俺の援護をすることが出来る。
「霧島君、上です!」
さらに透明度の高い氷が盾になっていることに加えて俺よりも後方から戦場を広く見渡すことが出来るので、敵の動きに素早く気付き逐一報告してくれる。
おかげで俺は敵に奇襲をかけられる心配が殆どなく、もし対応が間に合わなくても白井さんがさっきみたいにフォローしてくれる。
駄目押しとして、たとえ攻撃を喰らったとしても俺の〈増殖〉のスキルで多少の傷は一瞬で回復するのだ。完璧である。
「ガルアッ!」
「おっと!」
枝を伝って俺の頭上から迫って来たディアンウルフが振り下ろした鋭い爪の伸びた腕を軽くバックステップすることで躱す。
あまり氷の入口から離れすぎると白井さんが狙われるので、動くのは最小限で済ませて素早く敵を排除しなければならない。
「おらぁっ!」
バックステップで離れた距離を瞬時に詰めて、サッカーボールを蹴り飛ばすようにディアンウルフの顎目掛けてつま先を振り上げる。
「ゴブッ!」
完璧に決まった蹴りはディアンウルフの顎を一撃で砕き、そのまま掬い上げる様に頭上に蹴り上げ、宙に浮き上がったディアンウルフの無防備な腹部目掛けて回し蹴りを叩き込む。
顎を砕かれた時点ですでに意識がなかったディアンウルフはまともに回し蹴りを受け、後方にいた他のディアンウルフを巻き込みながらいくつかの大木をへし折って吹き飛ばされていった。
俺が体勢を整える時間を好機と見たのか、周囲に展開していた数体のディアンウルフが一斉に飛び掛かってくるが――
「アースランス!」
後ろから詠唱が聞こえたかと思うと、俺に飛び掛かって来たディアンウルフ達の真下の地面から十を超える戦端が鋭く尖った土の槍が一斉に飛び出し、真上を通過しようとしたディアンウルフ達を串刺しにした。
何体か咄嗟に体を捩ることで致命傷を避けることに成功した個体もいるが、完全には避けられなかった様で体の一部が赤く滲んでいる。
このまま進むのは不味いと判断したのか、傷口を押さえながら一時撤退を選択して仲間が待機している後方まで下がった。
仲間があっさり土槍に貫かれ絶命したのを見て、迂闊に近付けば仲間の二の舞になると警戒して一定の距離を保ってこちらを窺っている。すぐに仕掛けて来る気はない様だ。
俺もここを離れて前に出過ぎる訳にはいかないので膠着状態に陥ってしまった。
「……来ませんね」
「ああ、警戒してるみたいだ」
「向こうの出方を待っていると長期戦になりそうですし、私も外に出て遠距離攻撃しましょうか?」
中々動こうとしないディアンウルフ達を見て白井さんが氷の中から話しかけて来た。
どうやらこのままだと拉致があかなそうだと判断した様だが……自分から盾の外に出て攻撃に加わろうとするなんて随分肝が据わってきたものだ。
最初は魔物の群れと相対して震えていた時もあったというのに、短期間ではあるがそれなりにスパルタで特訓をして来た成果があった様だ。もはや戦場に立った瞬間普通の女子高生ではなく戦士の眼に切り換わる様になっていた。
その意気込みを買って白井さんの提案を呑もうかと思ったが、今回は試したいことがあるので遠慮してもらおう。
「いや、今回は試したいスキルがあるからいい」
「……わかりました」
俺がそう言うと白井さんは引き下がってくれたが……俺が何を使おうとしているか気付いたのかその顔は微妙そうだ。
まあ、蟲が嫌いな彼女にとってはあまり見たくないだろう。
だが、俺に取ってはとても有用なことは間違いないので遠慮なく使わせてもらう!
「さて」
一歩前に進み出ると、こちらを睨み付けていたディアンウルフ達が警戒を強めて少しだけじりじりと下がった。
俺は周囲に展開しているディアンウルフ達がしっかりと射程範囲に入っていることを確認し、腕を掲げて両手の指をディアンウルフ達に向けて広げる。
ディアンウルフ達は警戒はしているが俺が何をしようとしているか見当が付いていない様で首を捻っている。
その様子にニヤリと口角を上げた次の瞬間――
ビュバッ!
ディアンウルフに向けて伸ばした十本の指先から紫色に染まった大量の糸を射出した。
「ガルァ⁈」
全く予想出来なかったのだろう出来事に、ディアンウルフ達は硬直して頭上に網目状に絡まり合いながら広がっていく糸を唖然と見ていた。
そのまま成す統べなく落下して来る糸に捕らわれた段階でようやく我に返っていたが、時すでに遅し。
体に絡み付いて来る粘性の高い糸を必死に引き剥がそうとしているが、一度この糸に捕まったらそう簡単に抜け出すことは出来ない。
体に付いた糸を剥がそうと手で引っ張っているが、今度は手の方にもネバネバと絡み付いて余計に酷い状況になっている。
しかも、俺は特大サービスでいまだに糸をビュルビュルと出し続けているのでディアンウルフ達の全身は毛の灰色よりも糸の紫色の方が目立つ様になってきている。もはや脱出は不可能。
俺が今使っているのは鎧蜘蛛の魔石を調合して手に入れた〈蜘蛛糸〉と言うスキルで、粘度を自在に変化させられる糸を体から出すことが(俺の場合は指先からしか出せないのだが)出来るのだ。
だが、俺はただの糸をディアンウルフ達目掛けて飛ばした訳ではない。
本来の糸は真っ白な色をしているのだが俺が今出した糸は紫色。
俺が使っているのは〈蜘蛛糸〉に〈猛毒液〉を併用して精製した毒性の糸で、この糸で捕らわれた敵は行動不能に陥ると同時に糸から滴る毒が肌から浸透することによって体内からじわじわと蝕まれていくようになっているのだ。
何これすっごい便利♪
蟲が嫌いな白井さんは初めてこのスキルを見た時すんごい顔を顰めていたけどなー……。
さて、ディアンウルフ達はどうなったかなと様子を見てみると、そこでは毒が苦しくてもがきたいけど糸に体の自由を奪われてもがくことも出来ないという……中々にエグい光景が広がっていた。
あっ、一匹動きを止めた。どうやら死んだ様だ。
それを皮切りに他のディアンウルフもどんどん動かなくなっていき、数分が経った頃には全てのディアンウルフが動かなくなった。
今日初めて使ったが、結果を見る限り〈蜘蛛糸〉と〈猛毒液〉のコンボは〈毒耐性〉を持っていない相手には最強かもしれない。唯一火に弱いと言う弱点があるが、今の所火を使う魔物はファイアウルフしか見たことがないので特に問題にはなっていない。
新しい技も出来たし経験値も大量に手に入ったしで文句なしの戦果だな。
「終わりましたね」
上機嫌で頷いていた所に、もう大丈夫だろうと判断したのか白井さんが氷の中から出て俺の隣まで歩いて来た。
白井さんはディアンウルフ達の惨状を見て若干頬を引き攣らせている。
「……エグ過ぎませんか?」
「まあ……魔物だし、ギリギリセーフってことで」
有用ではあるものの白井さんの意見には同感だったので俺は目を逸らして答えるだけにしておいた。
ディアンウルフ達の白目を剥きながら涎と共に長い舌をデロンと口から垂らした死に様を見て、流石に殺した後の見た目が悪すぎると思った。
「はあ……人間相手には使わない様にしてくださいね? 同じ殺すにしても、これだと周りの霧島君に対するイメージが最悪になりそうです」
「ああ、そうするよ」
敵以外には、な。
「……今、何かよくないことを考えませんでしたか?」
「うえっ⁈」
な、何故わかった⁈
「い、いや、そんなことはないぞ?」
「本当ですかぁ?」
「あ、ああ」
白井さんはしばらくジト目で俺の顔を見ていたが、やがて「ふうっ」と息を吐きながら顔を逸らして無言の追及をやめた。
……どうやらここ数日の特訓で戦闘技術だけでなく勘までよくなってしまった様だ。
俺は気付かれない様に小さく溜息を吐いて前に向き直り、今の戦闘について考察する。
「それなりの群れだったが割と簡単に制圧出来たな。白井さんも充分対応出来ていたし、この辺の魔物でもこの程度ならそろそろ森を出てバロール山脈に入ってもいいか……」
「私は霧島君のサポート位しか出来ませんでしたけど……」
「それでいいんだよ。白井さんは後衛職なんだから前衛の俺と一緒になってわざわざ前に出る必要はないし、敵の動きを見て俺に出した指示や使った魔法も的確だった。それに、今日の相手は特に白井さんと相性が悪かったが、他の魔物だったら今の白井さんの火力なら俺がいなくても近付いて来る前に殲滅出来るだろ。自信を持っていい」
「……はい」
実際白井さんの火力は凄まじい。
今日ディアンウルフを仕留めた土魔法の「アースランス」は確か中級の下程度の魔法だったはずだ。それだけでオーガよりも肉体の強度が上のディアンウルフを軽々貫いているのだから、本気で撃たれた魔法が直撃したら俺でも一発で粉々になるかもしれない。
俺がべた褒めすると白井さんは口元を綻ばせ、赤くなりながらも嬉しそうに小さく頷いた。
傲慢になられても困るが必要以上に自分を卑下することもない。
白井さんは中々自分のことを認めることはしないみたいだから、その分俺が褒めてあげようと思う。
「よし。明日はバロール山脈の入口まで下見に行った後、山に籠っている間の食料を採取しよう。その後は休んで……明後日の午後からバロール山脈に入る」
「わかりました」
白井さんの了解が取れたところで俺達は場所を移動して次の獲物を探し歩いた。
その後、夕暮れの時間帯に差し掛かって来たところで魔物を探すのを切り上げて拠点に引き返すと、戦闘で付いた体の汚れを落とした後に雑談をしながらの食事を済ませ、今日は特にすることもないのですぐに就寝することとなった。
翌日。
俺達は朝食を摂った後、いつもは魔物を探してうろうろと彷徨っている森の中を真っ直ぐバロール山脈目指して進んで行った。
途中何度か魔物と遭遇して戦闘になったが特に問題なく始末し、拠点を出発して一時間もかからずに森の出口に辿り着いた。
森とバロール山脈の境はくっきりとわかれており、土や雑草、木々がいきなり途切れてゴツゴツとした岩の地面へと変わり、そのままなだらかな斜面へとなりながらバロール山脈へと繋がっていた。
上を見上げれば中腹より上あたりから急に傾斜が大きくなり、山頂は切り立った岩が天を貫くように聳え立っている。
遠目からでもわかったが、やはり植物の類は一切生えていない。どこを見ても大小様々な岩石だらけだった。
こんな所に魔物がいるのかと思ったが……山頂を見上げていたら遙か上空からかなり大きな鳥の様な魔物がバロール山脈の岩陰に降り立つのが見えた。どうやら本当に生息しているらしい。
それと、当然ながら元の世界の様に登山道が整備されているなんてことはなく、自力で道を探すか造るかして進むしかない。
これは中々に骨が折れそうだ。
一先ず入口は確認したのでいったん森の中に引き返し、バロール山脈では取れないだろう食料を採取に向かう。
万が一足りなければまた森に下りて来ればいいが面倒臭いので、だいたい二週間分位確保しておこう。
俺達は時々見かける野生動物に野草、この辺で見かける様になった茸を採取しながら森を歩いていた。白井さんは特にクラムを熱心に枝からもいでいたが……そんなに気に入ったか?
その後は川に向かって魚を取ったり、合間に魔物を倒しているうちに時間は過ぎて行った。
野草や果物に比べてこの辺では魔物が強いせいか野生動物があまり見つからず、肉の量があまりないので魔物を狩って持って行こうとしたら白井さんに滅茶苦茶怒られた。
俺は白井さんに会う前は普通に食っていた時があったのだが……。
どうも魔物になってからその辺の感覚が人の時と変わってきた様だ。
まあ、確かに人間が魔物の肉を食べるのは抵抗があるかと考え直し、仕方がないのでバロール山脈と反対に向かって森の中を一っ走りし、十匹程適当に野生動物を狩って戻った。
今日は久しぶりにのんびり行動していたので食料を集め終わる頃には陽が傾いていい時間になっていた。
俺達は拠点に戻って火を熾すと恒例の食材を使った夕食作りを始めた。
俺と白井さんも慣れたもので、拠点に戻って来てから三十分もかからずに食事の準備は整え終わった。
「「いただきます」」
しっかり挨拶をして、取り出した分は残さず全部頂きました。
この森で生活する様になって食べる物に困らないっていうだけで元の世界での生活はとても恵まれていたんだとつくづく思った。
「はふう……ご馳走様でした」
俺の向かいで食べてた白井さんが満足そうに溜息を吐いていた。漫画なら目が横線になっていそうだ。
質素な食事内容でありながらも可愛らしい顔に浮かべている満足気な笑顔に心癒され、思わず笑みが零れる。
「さて、片付けもしてしまいましょうか」
「ああ」
白井さんは使い終わった鍋を空中に作り出した水球の中に突っ込むと、その中で洗濯機で洗われる服の様に鍋を回転させて汚れを落としていた。
片付けと言っても俺は殆どすることがなく、残った魚の骨などを燃やして処理しながら白井さんの様子を見ていたのだが――ふと思い付いたことがあり、その場を立ち上がって砂利の敷き詰められた川辺に近付く。
「どうかしましたか?」
鍋を片付けた白井さんが俺の隣まで歩いて来た。
うむ、ここは白井さんにも強力してもらおう。
「白井さん、ちょっとここに穴を掘って欲しいんだが……」
「穴、ですか……?」
俺が直径五メートル、深さ八十センチ程の穴を空けてくれと頼むと、白井さんは頭に疑問符を浮かべながらも土魔法で要望通りの穴を掘ってくれた。
次に俺の粘着性を増した〈蜘蛛糸〉を土が見えなくなるまで表面に張り付けていく。
今度はなるべく丸みのある砂利を糸が見えなくなるまで張り付けていく。
よしっ!
「あ」
おっ、白井さんも俺が何を作ろうとしているかわかった様だ。
「今度はこの中に水を流し込んでくれ」
「はい」
今度は疑問に思うことなく俺の指示に従って魔法で作り出した水を穴の中に流し込んでくれた。
八割位溜まった所で止めてもらい、今度は火魔法で四十度位まで温める。
さらに土魔法で穴の周囲に周りから見えない様に壁を作ってもらえば――
「完成だ……」
作業を開始してから約三十分。俺達の目の前には湯気をもうもうと上げる小ぢんまりとした簡易露天風呂が出来ていた。
急遽こしらえたにしては上出来だろう。
「わあ……!」
隣では協力してくれた白井さんも目を輝かせて喜んでいる。
ここでは汚れたり汗をかいてもせいぜい布で拭き取るか冷たい川に入るしか出来なかったからな。口に出すことはなかったが、現代日本での生活を知っている上に女の子である白井さんにとっては中々苦痛だっただろう。
もっと早く気付けばよかった。
早速風呂を堪能したいところだが……ここはやはりレディーファーストだろう。
俺は紳士な魔物を目指すのだ。
「白井さん、先に入っていいぞ」
「えっ、いいんですか? えっと、それじゃあ――――っ! ……いえ! ここは霧島君から先に入ってください!」
あれ?
最初嬉しそうに頷いたと思ったら何かに気付いた様にハッとなり、「うむむ!」と顔を赤くして唸りながら何か考えて、次の瞬間には力強い否定が返ってきた。
……白井さんの中で何があった?
「いやいや、白井さんには散々魔法を使って働いてもらったんだし」
「そんなことないですよ! そもそも霧島君が思い付いてくれたからお風呂に入れるんですから!」
その後も何度か先に入る様勧めてみたものの、頑として首を縦に振らないので結局俺から入ることになった。
まあ、本人がいいと言うなら仕方ないだろう。俺にとっても久しぶりの風呂ということで楽しみなので、先に堪能させてもらうことにした。
チャプン……。
「あぁぁぁぁぁ~~~~! ぎもぢいい~~~!」
湯船の中にどっぷりと浸かり、体を思いっきり伸ばすことで溜まっていた疲れが吐き出した吐息と共に流れ出ていくのを感じる。
さらに程よい温度のお湯に優しく解された全身が弛緩し、まるでマッサージを受けているかの様に気を抜けばうっかり夢の中に旅立ってしまいそうになる程の心地良さに襲われていた。
「あぁ、最高だ……」
元の世界では風呂と言っても殆どシャワーのみで終わらせていたため湯船に浸かることはそれほど多くはなかったのだが、こうして久しぶりにのんびり浸かってみると風呂の素晴らしさに改めて気付かされる。
そこに加えて露天風呂というのもポイントが高い。
背もたれの上に首を倒して空を見上げれば、満点の星々と紅と蒼に輝く二つの満月が地上を照らしているのが見える。
周囲の壁によって四角に切り取られた夜空に浮かぶそれらは、まるで自然の中で作られた絵画の様だ。
「霧島君……?」
ふーっ、と長い溜息を吐いていると、唯一周囲を壁で囲まれていない風呂場への入口近くから砂利を踏みしめる音と、どこか緊張した様な白井さんの声が聞こえて来た。
「ん? どうした?」
「えっと……お湯加減はどうですか?」
「ああ、丁度いいよ」
それなりに冷たい外気に触れているからお湯が冷めていないか心配になったのだろうか?
確かについさっき『少しぬるくなったかな?』と思ったが、すぐに手に火魔法を発動して湯に浸かりながら温め直したので全く問題ない。
なので、大丈夫だと返事をしたのだが。
「そ、そうですか……で、では、し、失礼します……!」
何? と聞き返そうとした直後――
「っ……」
「おぶふぅっ⁈」
入口の壁の陰から、手拭い程度の小さな布で体の大事な部分だけを隠した白井さんが一糸纏わぬ姿で俺の前に現れた。
まさかの白井さんの登場に腰を滑らせて湯の中に沈んで吹き出してしまった。慌てて起き上がるも再び目に飛び込んで来た彼女の姿に失礼だとはわかっているが頭から湯を滴らせて呆然と見詰めてしまっていた。
夜の空気はそれなりに冷たいはずだが、布で隠しきれていない肌は羞恥からかお湯に浸かる前から風呂上がりの様に桃色に上気している。
視線を上に動かしていった先では、こっちを直視出来ないのか横に逸らせている顔など桃色どころかリンゴの様に真っ赤になっていた。そして、いつもはおさげにしている髪を下ろして眼鏡を外した顔は、いつもの幼げで愛らしい顔立ちから一転、一歳だけではあるが確かな大人っぽさと色気を感じる。
さらに、ローブの上からではよくわからなかったが、こうして裸となった今では白井さんのモデル並みのスタイルとしなやかな肢体がはっきりとわかり、それが彼女の醸し出す色気に拍車を掛けていた。
昂りそうになる精神を自分でも信じられない程の鋼の理性で無理やり押さえ付けていなければ、白井さんの姿を見た瞬間に襲い掛かっていたかもしれない。
それ程までに、手にした布をきゅっと握って頬を染めながらもじもじと恥じらう白井さんの姿は魅力的であり凄まじい破壊力を秘めていた。
「あ、あの……あんまり見られると……」
「っ! お、おお、悪い……」
だったら俺が風呂を出てから来てくれ! と、声を大にして言いたくなったが、俺は口を閉じて素早く顔を逸らした。
「し、失礼します……」
桶代わりにした鍋で何度か掛け湯をしていた白井さんは、チャポンと小さく音を立ててつま先からゆっくり湯船に入って来た。
「ふう……」
湯船に入って緊張と羞恥が軽くなったのか、全身をお湯に包まれる心地良さに漏れてきた白井さんのうっとりとした吐息が、顔だけでなくすでに体ごと彼女と反対向きに逸らしている俺の耳に届いて来た。
し、心臓に悪過ぎる!
正直まだ入り足りないが、このままでは俺の脳みそがどうにかなりそうだ。
「お、俺はもう出るから、白井さんはゆっくり入っててくれ!」
白井さんに一言断り、俺は傍に置いていた布を持って湯船から上がろうとしたのだが――
「えっ? あっ、ちょっと待ってください!」
驚いて顔を上げた白井さんが俺の手を慌てて掴んで来たため、俺は半端に腰を上げた状態で動きを止めることとなった。
「えっ、な、何だ?」
「あ、あの、わ、私は大丈夫ですので、もう少し一緒に入りませんか……?」
「いや、でもな……」
本人は大丈夫だと言っているが、俺の手を握る白井さんの顔はすでにのぼせているんじゃないかと心配になるほど赤くなっている。……全然大丈夫そうに見えない。
ついでに言うと、女子と一緒に風呂に入るという普通だったらありえない状況は俺にとってもあんまり大丈夫じゃないんだが……。
普段からよく密着して来る唯とだって昔はともかく今は風呂まで一緒に入ることはない。
「だ、駄目です、か?」
「……」
すぐに駄目だと言おうとしたのだが……。
心を許している可愛い女の子に上目遣いで瞳を潤ませながら必死な様子でそんなことを言われて断れる男がこの世にいったいどれ程いるだろうか?
ちなみに俺は天地がひっくり返ってもそんなことは出来そうにない。
「……わかった。少しだけな?」
「っ、はいっ!」
苦笑気味に頷くと、白井さんはパアッと笑顔になって嬉しそうに首を振っていた。
俺は浮いていた腰を再び沈め直したものの、流石に白井さんの方を向くことは出来ないので体は反対を向いたままだ。
「気持ちいいですね……」
「ああ、そうだな……」
湯船に浸かり直してしばらくの間は当たり障りのないことを一言二言交わし、若干雰囲気がぎこちなくもなかったがのんびりと湯に浸かって静かな夜を楽しんでいた。
チラリと白井さんの方を見ると、彼女は目を細めて微笑みながらさっきまでの俺と同じ様に満点の星空を眺めていた。
その横顔に普段はあまり見られない大人っぽさを感じてドキリとさせられながらも、そろそろ白井さんがわざわざ一緒に風呂に入りに来た理由を聞くことにした。
「それで、何でわざわざ一緒に入りに来たんだ? なにか話があるんじゃないのか?」
白井さんが身じろぎしたのかお湯が揺れるのを感じていると、ポツリと呟くのが聞こえた。
「……何で、ですかね?」
「え……?」
いや、それ俺の台詞……。
何かすぐに話さないとならない様な重要な話しがあったから今来たんじゃないのか?
「えっと……特に重大な用事があった訳じゃないんですけど、何となくここならのんびり霧島君と話せるかと思って……」
「そ、そうか」
何となくで年頃の女の子が男の入ってる風呂場に来ないでくれ⁈ こっちが困るわ!
いかん、のぼせた訳じゃないと思うが何だか頭がクラクラしてきた。
「森で生活していることや明日からバロール山脈に入ること、それに久しぶりにお風呂に入れることで少し変なテンションになってるのかもしれません。……何というか、修学旅行の初日の夜みたいな感じでしょうか?」
「あ、ああ、成程……」
まあ、確かに修学旅行に行ったりすると変なテンションとノリで普段はやらない様なことをやらかすことはあるかもしれないが……要するに今の白井さんがその状況だと言いたいのか。
「まあ……いっか」
本人は大丈夫だと言っているし、俺にとっては役得だとでも思っておこう。実際そうだし。
腕を伸ばしてうーんと伸びをしていると何やら横から視線を感じた。そっちに視線を動かすと、
「……」
白井さんがジーっと俺を……と言うよりも伸ばした腕を見ているな。
何か気になることでもあったか?
「どうした?」
「あ、すみません。えと……それが少し気になって」
白井さんはそう言ってお湯からちょこんと手を出すと、気になったという物を指さした。
指を差された先にあるのは俺の右腕。その手首に巻かれたミサンガだった。
こびり付いていた泥を落とすために軽く洗ったので前より綺麗になったものの、よく見れば所々糸がほつれ始めていた。
「ああ、これは帝国での訓練の前日に唯に貰ったんだ」
「唯さん、ですか……確か霧島君の幼馴染ですよね?」
唯の名前を出した瞬間、ピクリと眉が動いた気がしたが……気のせいか?
「そうだ」
俺が帝国から助け出そうとしている幼馴染のことについては、ここ数日の食事時や就寝前の雑談でそれなりに話していたので白井さんもある程度のことは知っている。
「大事にしているんですね……」
「ああ、俺にとってはお守りみたいなもんだ。これの御蔭で生き残れた時もあった」
このミサンガを見るだけで何度も力をもらい、決意を新たにして来たことを思い出すと自然と頬が緩む。
「たった一人で帝国に戦いを挑もうとしていたくらいですから……霧島君にとって本当に大事な人なんですね」
「唯だけじゃない。あいつらは俺にとっての特別だからな。だから……今度は俺が何としてでも助け出すんだ」
「特別、ですか……」
白井さんは小さく呟くと、湯の中に顔を半分沈めてブクブクとし始めた。理由はわからないがその表情はどこか複雑そうに見える。
やがて水面に顔を出したが、今度は俯いてそのまま考え込むように黙り込んでしまい、どこか気まずい空気と静寂が流れ始めてしまった。
俺が何かまずいことを言ってしまったのかと若干居心地の悪さを感じていると、白井さんの肩が不意にピクリと震えて俯けていた顔をゆっくり上げた。
そのまま俺の方を見てきたのだが――何故かその目はあっちこっちに泳ぎまくっている。
何かを迷うように口をもごもごさせていたが、口調が弱々しくなりながらも意を決した風に話しかけてきた。
「あの、用事という程のものはなかったんですけど、一つお願いがあるといいますか……」
「何だ?」
「大したことではないんですけど、その……」
「……俺に出来ることなら何とかするが?」
「で、では……」
頬を染めながら俺のことをチラチラ見ている白井さんがいったい何を言うつもりなのかと、妙な緊張感に若干身構えていると、
「こ、今度から、霧島君のことを名前で呼んでもいいです、か……?」
ん?
「……それだけ?」
「えっと、あと、出来れば私のことも名前で呼んでくれると嬉しいかなって……?」
「……」
本当に大したことじゃなかった……。
「あ、あの、すみません、いきなり変なことを言って! ちょっと言ってみたかっただけなので、嫌だったら無理にとは言いませんので!」
俺が無言でいたのを拒絶されたと思われた様だ。
お湯から少し身を乗り出して慌てて手と一緒に首を振って取り繕っているが、別に俺の方は問題ないのでさっさと勘違いを正してあげよう。そんなあからさまに悲しそうな顔をされると心にチクチク刺さる。……あと、両手ともお湯から出して振ってるから体を隠していた布が落ちてる。指摘しにくいから早く気付いてくれ。
俺は顔を逸らしながらさっきの返事をする。
「別に嫌じゃないから俺はいいぞ」
「えっ、ほ、本当ですか?」
「ああ」
何を言われるかと思ったが、こんなお願いとも言えない様なささやかな頼みだったら問題ない。
女子の名前を呼ぶことには唯達で慣れてるから特に恥ずかしさも抵抗も感じることはないしな。
俺が頷くのを見た白井さんはえへっと破顔し、口元をニヤニヤとさせながら内心の喜びを表現していた。
「で、では……ゆ、雄二、君。これからもよろしくお願いします」
「おう。よろしくな恵理さん」
「……」
ん? 白井さん――いや、恵理さんの要望通りお互い名前呼びになったというのに、俺が呼んだ途端不機嫌そうな表情になってしまった。
「……恵理です」
「え……?」
「私を呼ぶときは『恵理』でお願いします。『さん』はいりません」
「えっ、いや、でも恵理さんの方が年上――」
「恵・理・です!」
「うおっ⁈」
流石に年上の女性を呼び捨てはどうかと思って言った俺の反論は、お互いの顔の距離が数センチ程度になるまで急接近して来た恵理さんの強い口調に遮られた。
おそらく視線を少し下げるだけで二つのふくらみが見えるだろうが……きりりと眉を吊り上げて俺の顔を見る恵理さんから目を逸らすことが出来なかった。
「いいですよね?」
「わ、わかった……恵理」
「……えへっ」
俺が言い直すと今度こそ恵理は満足そうな笑みを見せて離れて行った。
……恵理って普段は割と大人しめなのに急に主張が強くなる時があるよな。そういう所はどこか唯に似ているかもしれない。
あいつはいつもは結構ぽやんとしていて俺が言うことは大抵素直に聞くんだが、時たま俺の反論を押し切って是が非でも自分の意見を通そうとする時があるからな。
まあ、今まで恵理と話す時は名前を呼ぶとき以外すでに年上に話しかけてるとは思えない程砕けて話してたし……いまさらか。
そんなことを考えながら恵理の表情を見てみると、彼女は何かをやり切ったという風に頬を緩ませまくっていた。
「綺麗ですね……」
「ん? ああ」
恵理の視線を追って俺も空を見上げ、そこで相変わらず輝き続けている月を見て頷く。
「きっと元の世界にいたらこんな光景は滅多に見れなかったでしょうね……」
「そうだな」
「……雄二君」
「何だ?」
恵理の声音がどこか真剣みを帯びた。
「ありがとうございます」
「え?」
いきなりありがとうと言われてつい首を巡らせて恵理の方を凝視してしまったが、落としていた布はすでに拾って大事な場所は隠しているし、周囲が暗いことや湯気の御蔭でうっかり見えてしまうということはなかった。……別に残念だとは思ってない。
「何だいきなり? ていうか何のありがとうだ?」
何の脈絡もなくいきなりありがとうと言われても何のことを言われているのかわからない。
「ふふ……色々なことを含めての、です♪」
「色々って……?」
「さぁ、何でしょう? それはまだ秘密です」
聞き返しても悪戯っぽく微笑みながら曖昧なことを言うばかりで、結局何のことかわからなかった。
恵理は全身からぽわぽわとした幸せオーラを出していて、いつの間にか男と一緒に風呂に入っているという恥ずかしさはすっかり忘れてしまった様だ。
「ふふ……♪」
そんな恵理の様子を見ていると何だか力が抜けて、俺も頬を綻ばせていたのだが――ふと思ったことがある。
もしこの森で恵理と出会わなかったら俺はどうなっていたんだろう? と。
今までを振り返り、これから先に起こっただろうことを想像してみる。
戦闘に関しては俺一人でも何とかなったかもしれない。戦術の幅は狭まっただろうが俺のステータスとスキルを使って強引に押し切ることは出来たと思う。
だが、精神はどうだろうか?
味方は誰もいない。自分は魔物に成り下がったことで周りは人間も魔物も敵だらけな状況。
別れが来るとわかっていても幼馴染を助けるという目的だけを心の支えにして、立ち塞がる敵を全て薙ぎ倒して一人で進み続けることに俺は最後まで耐えられたのだろうか?
あれはいつだったか……俺は体だけでなく心まで魔物になってしまったんじゃないかとと思っていた時があった。
だが、今思えばそんなことはなかった。
恵理を助け、彼女が流した涙に心を揺らされ、彼女の願いを聞いてわざわざ同行を許可した時点で俺の心は人間のままだった。
だからこそ心の奥底では一人でいることに苦痛を感じていたのかもしれない。
だからこそ差し迫って必要でもないと理解していながら恵理と行動を共にすることを選んだのかもしれない。
思い返せば恵理と出会ってからの数日は随分と穏やかな心持ちで過ごすことが出来た。
魔物との闘いの日々を平穏とは言えないかもしれないが、そこには言葉を交わし、一緒に笑い、生き残ったことを喜び合える人が傍にいてくれる。
今ならわかる。今まで当たり前の様に受け入れ当然の様に感じていた日々がどれだけ尊い物だったのか。
いつか恵理とも別れの時は来るだろうが、俺の姿を見ても嫌悪せず唯達を助けるために協力してくれ、今だけでも俺に安らぎを与えてくれる彼女の存在は思っていた以上に大きかった様だ。
そんなことを考えていたからだろうか――
「ありがとな、恵理」
「ふえ?」
つい口が滑ってしまい、いきなりお礼を言ってしまった。
……これじゃあさっきの恵理のことをどうこう言えないな。
「え? え? どうしたんですかいきなり?」
「いや、何でもないんだ。気にしないでくれ」
「いきなりそんなことを言われたら気になりますよっ。教えてくださいよ!」
不服そうにしているが恵理も人のことは言えないんだけどなあ……。ついさっき自分が今の俺と同じ様なことを言ったのはもう忘れている様だ。
HAHAHAHAHA! と笑って適当に誤魔化した。
「むう……」
ぷっくりと頬を膨らませて不満を表現している所も、まるで唯を見ている様で癒される。
やがて俺が話す気がないことに溜息を吐いた恵理は再び夜空の鑑賞に戻った。
(いい夜だな……)
その後は特に会話もなかったが、気まずくなることもなく俺達は久しぶりの風呂をたっぷり満喫した。
それから十数分後。二人揃ってのぼせた俺達は水魔法のお世話になった。
魔物の体でものぼせるというのはこの日の教訓だ。
翌日。
俺達は遅めに起床した後ゆっくりと朝食を摂り、まっすぐバロール山脈の入口へと向かった。
昼前に辿り着き、今は二人揃って眼前に聳える自然界の威容を見上げている。
「いよいよですね……」
「ああ」
バロール山脈を見上げながらの恵理の言葉に頷く。
横目で恵理の表情を確認した所、特に緊張していたり気負っている様子は見られない。それどころか彼女の瞳からは『やってやるぜ!』といった意気込みすら感じられた。
ここ数日だけで随分と成長した。本当に大したものだと思う。
「ここからが本番だ。気を抜くなよ?」
森とは違ってここに生息する魔物はどんな種族がいるか予想がつかないし、バロール山脈の中腹辺りからは魔素の濃度が森の中よりも数倍に膨れ上がるらしい。ならば、俺よりも遙かに強い魔物がうじゃうじゃいたとしてもなんらおかしくない。
恵理にとっても俺にとってもここからが本番だ。
必ず強くなって戻って来る。そして、その後は――
「いきましょう雄二君!」
「ああ!」
今までは霞がかってしか見えなかった唯達を救うための糸口。それを掴み取るため、俺達は二人同時にバロール山脈へと一歩を踏み出した。
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