EP 9
みかん箱の上の人魚姫
その歌は、パトロールの帰りに聞こえてきた。
村の広場。夕方。屋台が店じまいを始めている時間帯だ。
その隅に、木箱が一つ置かれていた。スーパーのタローマートが裏に捨てる、みかん用の木箱だ。
その上に、少女が立って歌っていた。
青銀色の長い髪。透き通るような白い肌。エメラルドグリーンの瞳。目を疑うような美少女だ。
服装は、小豆色の芋ジャージだった。上下。
足元は、ゴム底のすり減った健康サンダル。
マイクは、壊れた拡声器にトイレットペーパーの芯をテープで巻き付けた自作品。
観客は、ゼロだった。
屋台のおばちゃんが背中を向けて片づけをしていて、犬が一匹、少し離れたところで寝ている。それだけだった。
俺はバイクを停めて、しばらく聞いていた。
うまい。
声量も音程も、この世界で聞いたどの吟遊詩人より上だった。
歌い終わると、少女は誰もいない広場に向かって深々と一礼した。
「本日もご清聴ありがとうございましたああ! 次のステージまで、しばらくお待ちくださいませえ!」
誰も待っていない。
少女はみかん箱から降り、足元に置いた空き缶を覗き込んだ。
中身を掌に出す。
五円玉が、二枚。
「……ふふっ。今日も大盛況ですわ」
◇◇◇
「嘆きの荒野交番、巡査長のリオンです」
「はいっ! ファンの方ですね!? サインはお一人様一回までですわ!」
少女は自作マイクを放り出し、猛烈な勢いで距離を詰めてきた。
「お名前は!? どちらからお越しに!? 差し入れは何を!?」
「路上での興行許可について伺いたいんですが」
「あっ」
動きが止まった。
エメラルドの瞳が、明後日の方向を向いた。
「……こ、興行? なんのことですの? 私、ただ道端で楽しく発声練習をしていただけで」
「拡声器を使って、投げ銭用の缶を置いてましたよね」
「あれは……そう、募金です! 世界平和の!」
「募金でしたら、届出が必要です」
「……ふぇ」
少女は、その場にへたり込んだ。
「お名前を伺えますか」
「……リーザ」
彼女は、膝を抱えたまま、ぼそぼそと言った。
「リーザ・シーラン・リヴァイアサン。十六歳。深海王国シーランの第一王女にして、ルナミス帝国への友好親善大使であり、いずれ銀河の果てまでを熱狂させる絶対無敵のスパチャアイドルですわ」
俺は、賢者君に照会をかけた。
『照合完了。シーラン国王女、リーザ・シーラン・リヴァイアサン。親善大使トシテ正式ニ滞在許可アリ。身分ハ本物デス』
本物だった。
俺は、芋ジャージを改めて見た。
「王女様」
「はい」
「今日、何を食べましたか」
リーザの動きが、また止まった。
「……朝は、パンの耳を」
「昼は」
「……公園の、食用雑草を」
「夜は」
リーザは、ジャージのポケットから何かを取り出した。
弁当の容器だった。中身は半分ほど残っている。タローソンの廃棄品だ。
「これから、これを」
俺は、それを見た。
鼻を近づけるまでもなかった。
「腐ってます」
「腐ってません! まだ二日目ですわ!」
「二日目です」
「私、人魚族ですから! 海の生き物ですから! 多少の菌なんて」
「王女様」
俺は、バイクの荷台を指さした。
「乗ってください」
「……え?」
「保護します」
◇◇◇
交番のデスクに、カツ丼を置いた。
リーザは、それを見た。
しばらく、まばたきをしなかった。
「……これは」
「カツ丼です」
「こんな、こんな豪奢なものを、私に? 対価は? 何を差し出せばよろしいの? 私、五円玉が二枚しか」
「維持費に含まれてます」
「……い、いくら?」
「ゼロです」
リーザの手が、震え始めた。
箸を取り、震えたまま、一口。
次の瞬間、彼女の顔が、くしゃくしゃに歪んだ。
「——うっ、ぐ、うぇええええん!」
号泣だった。
十六歳の少女が、カツ丼を抱えて声を上げて泣いていた。丼に涙が落ちるので、俺は蓋で少しだけ受け流してやった。
「おいし、おいしいですわぁぁ……! お肉、お肉が温かい……!」
「ゆっくり食べてください」
「無理ですわ! 取られる前に食べきりますの!」
「誰も取りません」
三分で完食した。
それから、リーザは丼を抱えたまま、俺を見上げた。
エメラルドの瞳に、猛烈な光が灯っていた。
「——スポンサー様ぁ♡」
「巡査長です」
「本日より、貴方様は私の専属プロデューサーですわ! 私の全てを捧げますの! 代わりに貴方の全てを、この私が美味しく奪い尽くして差し上げますわ!」
「怖いんですが」
◇◇◇
その夜、キャルルが交番に来た。
仮眠室の寝袋で丸くなっているリーザを見て、白い兎耳がぴくりと動いた。
「あれ、リーザちゃんじゃないですか」
「知ってるんですか」
「広場でよく歌ってますよ。……というか、リオンさん。ちょっと来てください」
キャルルは、俺を外へ連れ出した。
それから、真剣な顔で言った。
「あの子が歌った日、村の人たちの疲れが取れてるんです」
「……疲れ」
「はい。私、村長になってから村の全員の心音を毎日聞いてるんですけど」
さらっと怖いことを言う。
「あの子の歌のあと、みんなの拍動が安定するんです。畑仕事のあとなのに、朝と同じ音になる。最初は気のせいだと思ってたんですけど、三ヶ月続いてます」
俺は、仮眠室の方を振り返った。
「人魚族の歌には、バフ効果がある」
「たぶん。本人、全然自覚がないみたいですけど」
キャルルは、飴玉の袋を指で弄びながら言った。
「誰も聞いてないと思ってるんですよ、あの子。でも、屋台のおばちゃんは店じまいの手を止めて背中で聞いてるし、犬はいつも同じ場所で寝てるし、うちの自警団は交代の時間をわざとあの時間に合わせてます」
兎耳が、少しだけ垂れた。
「みんな、恥ずかしくて正面から見ないだけなんです」
◇◇◇
翌日の昼、通報が入った。
広場で、リーザが男に絡まれている。
行ってみると、みかん箱が蹴り倒されていた。
男は三十代半ば。派手な上着に、指輪。手には契約書らしき紙の束。
「だからさぁ、お嬢ちゃん。契約は契約なの。俺が事務所なわけ。ステージの許可も、宣伝も、全部こっちが面倒見てるんだから」
「で、でも! 先月の投げ銭、まだ一度も」
「経費だよ、経費。マイクのメンテ、衣装代、ステージ運搬費」
男は、倒れたみかん箱を顎で指した。
「あと、お母様への手紙の郵送代な。あれ、海底まで届けるの高いんだよ」
リーザの肩が、跳ねた。
「……手紙」
「読んでるよ、ちゃんと。『お母様、帝都の皆さんは毎日私の歌に涙を流して熱狂しています』——だっけ?」
男が、下卑た笑い方をした。
「王女様がさぁ、ジャージ着てパンの耳食ってるって、女王陛下が知ったらどうなるんだろうねえ」
俺は、男の背後から歩み寄った。
「嘆きの荒野交番、巡査長のリオンです」
男が振り返る。
「あ? なんだ、田舎の——」
「今の発言、全部聞きました」
俺は手帳を開いた。
「恐喝です」
「はあ? 俺は契約の話を」
「契約書を拝見しても」
「……見せる義務はねえだろ」
「では、こちらから申し上げます」
俺は、紙の束の厚みを見た。
「その契約書、署名欄が二つありますね。上が本人、下が保護者。人魚族の成人年齢は十八歳です。彼女は十六歳。保護者の署名がないその契約は、そもそも成立していません」
男の顔が、こわばった。
「無効な契約を根拠に金銭を要求し、家族への暴露をほのめかして黙らせようとした。これは恐喝です」
「ま、待て。俺はただ」
「時刻を読み上げます」
男が逃げた。
三歩目で、ゴーレム君の腕に胸から突っ込んだ。
「ピー。確保シマシタ」
◇◇◇
押収した帳簿は、また数字が合わなかった。
リーザから巻き上げた金額は、三ヶ月で銀貨百二十枚。彼女が受け取ったのは、五円玉が数枚。
俺は、みかん箱を立て直しながら言った。
「王女様」
「……はい」
「あなた、なんでこの契約を続けてたんですか」
リーザは、俯いたまま答えた。
「……解約したら、母に手紙を出せなくなると言われたので」
俺は、手を止めた。
「毎月、書いてますの」
リーザの声は、小さかった。
「帝都の皆さんは私の歌に涙を流して熱狂しています。昨夜も満員の会場で、特注の黄金ステージから愛を届けました、って」
少女は、みかん箱の縁を撫でた。
「……嘘ですわ。全部」
夕日が、広場に長い影を作っていた。
「母は、私を親善大使として送り出したんです。両国の架け橋になれと。……なのに、私は路地裏でパンの耳を食べていますの」
リーザは、顔を上げた。
泣いてはいなかった。
「でも、私、諦めませんわ。私が歌えば、下を向いてる人が上を向くんですの。私が運命になって、物語になって、全部奪って、宇宙一幸せにして差し上げますの」
「王女様」
「なんですの」
「一つ、訂正があります」
俺は、みかん箱を広場の中央に置き直した。
「あなたの歌、届いてます」
「……え?」
「村長が言ってました。あなたが歌った日、村の人の疲労が消えるそうです。三ヶ月、毎日」
リーザの動きが、止まった。
「屋台のおばちゃんは、店じまいの手を止めて背中で聞いてるそうです。自警団は、交代の時間をわざとあなたの歌う時間に合わせてます」
俺はポケットから何かを取り出し、みかん箱の上に置いた。
五円玉が、二枚。
「今の、投げ銭です」
リーザは、それを見た。
それから、両手で口を押さえた。
大粒の涙が、ぼろぼろと芋ジャージに落ちた。
「……ううっ、ぐすっ」
「泣かないでください」
「泣いてませんわぁ……! これは、汗ですわ……!」
◇◇◇
その夜、リーザは交番の仮眠室に住み着いた。
本人曰く、「専属プロデューサーとの合宿」だそうだ。俺は保護と記録した。
彼女は事務机を借りて、便箋を広げていた。
母への手紙を書いている。
「王女様。今度は、本当のことを書いたらどうですか」
「書いてますわ」
リーザは、ペンを止めずに言った。
「お母様。私、専属のプロデューサーがつきました。毎日カツ丼を食べています」
彼女は、ペンの尻で口元を隠した。
「——ふふ。これだけは、嘘ではありませんの」
窓の外で、赤色灯が回っていた。
俺はデスクの向こうで、その日の日報を書いていた。
保護一件。恐喝の現行犯逮捕一件。
そして、欄外に一行だけ書き足した。
「管轄内に、歌える者を確認」
読んでいただきありがとうございます。
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