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【手取り14万の交番暮らし】ハズレスキルで追放された伯爵三男、荒野で母を養っていたら帝国最強の法執行官になっていた  作者: 月神世一


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EP 10

 アルディス伯爵家の帳簿が合わない

 その日、アルディス伯爵家の朝食の席には、三人しかいなかった。

 本来は七人分の席がある。だが第一夫人は頭痛を理由に部屋から出ず、第二夫人は前夜から実家に帰ったきりだ。

 残っているのは、当主グレゴール。長男アルベルト。そして次男ベルンハルト。

「……アルベルト。食え」

 グレゴールが言った。

 二十七歳の長男は、スープの皿を前に、フォークを持ったまま動かなかった。目の下に、真っ黒な隈が刻まれている。頬がこけて、上着の肩が余っていた。

「食欲がありません」

「三日食っておらんだろう」

「胃が受けつけないのです」

 アルベルトは、フォークを置いた。

「父上。王都から催促が来ています。三度目です」

 グレゴールは答えなかった。

「爵位引き上げの予備審査の手数料、金貨八百枚。今月末までに納めねば、申請は白紙に戻ります。三年かけて積み上げた根回しが、全部です」

「払う」

「どこから」

 長男の声は、乾いていた。

「緩衝地帯からの上がりが、三ヶ月止まっています。十七箇所、全部です」

 スプーンが、皿に当たる音がした。

 次男ベルンハルトが、左手一本でパンをちぎろうとして、失敗したのだった。

 右腕は、肘から下がない。

「……兄上。あれは山賊だ。山賊の集金が止まったところで、いずれまた別の組が」

「来ない」

 アルベルトは、弟を見なかった。

「本部が潰された。価格表も、契約書の雛形も、取り立ての手順も、全部あそこにあった。残りの十六箇所は、いくら請求していいかすら分からなくなっている」

「では、こちらから指示を出せば」

「誰が書く」

 アルベルトは、初めて声を荒げた。

「誰が書くんだ、ベルン。あれを作ったのは、うちの人間じゃない。金だけ受け取っていたのはこちらだ。仕組みは、一度も見せてもらっていない」

 ベルンハルトが、黙った。

 左手のパンが、砕けて皿に落ちた。

◇◇◇

 午後、執務室に商会の使いが来た。

 三人目だった。

 グレゴールは、渡された書面を三度読み返した。

「……ゴルド商会が、うちの債権を買い集めている?」

「はい。今朝の時点で、七割方」

 執事の声が、わずかに震えていた。

「額面の四割で買い取っているそうです。売った側は、四割でも今のうちに現金にしたほうがいいと判断したかと」

「なぜ、うちの債権が四割になる」

「……返ってこないと、思われているからかと」

 グレゴールは、書面を机に置いた。

 三年前、爵位を一つ上げるために動き出したとき、この家の年間収入は金貨三千枚だった。今もそれは変わらない。表向きは。

 変わったのは、支出のほうだ。

 格に見合う屋敷の改修。社交界での寄進。王都に置いた別邸。長男に買わせた官職。そのどれもが、上げた爵位を維持するために必要だと言われて積み上がったものだった。

 そして、それを支える金は、誰も監査に来ない土地から吸い上げていた。

「旦那様」

「なんだ」

「調査の報告書が、届いております」

 執事は、封筒を差し出した。

「緩衝地帯の件です。何者が、あの十七箇所を潰したのか」

 グレゴールは、封を切った。

◇◇◇

 報告書は、四枚だった。

 一枚目。西の廃坑にて、武装集団三十名が拘束。死者ゼロ。負傷者ゼロ。

 二枚目。同集団の主導者と目される男が逮捕され、身柄はポポロ村緩衝地帯の施設に勾留中。

 三枚目。全員分の供述調書が作成され、写しがゴルド商会へ提出された形跡あり。

 四枚目。

 執行者の氏名、および所属。

 グレゴールは、そこで目を止めた。

『嘆きの荒野交番 巡査長 リオン・フォン・アルディス』

 執務室が、静かだった。

 窓の外で、庭師が剪定ばさみを使っている音だけがしていた。

「……リオン」

 グレゴールの口が、その名前を作った。

 十七年ぶりだった。

「旦那様、この者は」

「三男だ」

「……は」

「三歳で追放した。マリアの子だ」

 執事が、息を呑んだ。

 グレゴールは、四枚目をもう一度読んだ。

 罪状。恐喝。組織的犯罪の主導。傷害。

 処理。逮捕。取り調べ。書類送検。

 どこにも、アルディス伯爵家の名前は書かれていなかった。

 一度も。

「……手を出しておらん」

「は?」

「この報告書には、うちのことが一行も書かれておらん」

 グレゴールは、四枚を机に並べた。

「山賊を捕まえただけだ。管轄内の犯罪を、規則通りに処理しただけだ」

 執事が、おそるおそる言った。

「では、我が家が傾いているのは」

「勝手に、だ」

 グレゴールは、椅子の背に体を預けた。

 天井を見上げた。

 勝手に、だ。

 誰にも攻撃されていない。誰にも告発されていない。誰にも恨まれていない。

 ただ、汚れた金の出どころが、規則通りに一つずつ塞がれていっただけだ。

 その水が止まった途端、この家は三ヶ月で立てなくなった。

 つまり、この家は最初から、汚れた金でしか立っていなかったということになる。

「あの、犬っころか」

 グレゴールは、そう呟いた。

 自分でも、何の感情でそう言ったのか分からなかった。

◇◇◇

 夜、第一夫人が部屋から出てきた。

 久しぶりに階下へ降りてきた彼女は、開口一番こう言った。

「あの女の子でしょう。あれを追い出したのが間違いだったのよ」

「……なんだと」

「あなたが決めたことでしょう、グレゴール。犬のお巡りさんだから恥だと。あのとき私は、扇で口を隠して笑いましたわ。ええ、覚えています」

 第一夫人は、震える手でグラスを掴んだ。

「でも、あなたが追い出したの。私じゃない」

「黙れ」

「アルベルトを見なさい。あの子、二十七で白髪が出ていますのよ。あなたが、この家の格を上げると言い出したせいで」

「黙れと言っている」

「ベルンは腕を失いましたわ。魔獣討伐なんて、次男がやる仕事じゃない。傭兵を雇う金がなかったから行かせたんでしょう」

 グラスが、床に落ちて割れた。

 グレゴールは、何も言い返さなかった。

 言い返す材料が、一つもなかった。

◇◇◇

 深夜。

 当主の執務室に、灯りが残っていた。

 グレゴールは、四枚目の報告書を前に座っていた。

 紙を裏返す。裏は白紙だ。

 ペンを取った。

 書き出しに三度失敗して、三度とも丸めて捨てた。

 四度目に書けたのは、たった一行だった。

『嘆きの荒野交番 巡査長殿』

 そこで、手が止まった。

 様、ではない。殿でもない。

 この先に何と書けばいいのか、六十二歳の男には分からなかった。

 謝罪の手紙なら、書ける。この三十年、社交界で数え切れないほど書いてきた。

 だが、これは違う。

 あの土地は、まだ人が住んでいる。緩衝地帯には千人の村があり、十七の集落がある。山賊が消えた今、そこには治安を保つ者が一人しかいない。

 その一人に、正式に依頼しなければならない。

 この家が三十年間、汚れた金の出どころとしてしか扱ってこなかった土地の、治安の維持を。

 頭を下げて。

 グレゴールは、ペンを置いた。

 それから、立ち上がって、窓を開けた。

 夜の風が入ってきた。乾いた、土の匂いがした。北の方角から吹いてくる風だ。

 嘆きの荒野の方角だった。

「……ヨハン」

 扉の外に控えていた執事が、入ってきた。

「はい」

「明朝、馬を出せ」

「かしこまりました。護衛は何名——」

「要らん」

 グレゴールは、窓の外を見たまま言った。

「一人で行く」

読んでいただきありがとうございます。

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