EP 11
アルディス伯爵、来訪
その朝、キャルルが交番に来たのは、七時前だった。
まだ母さんがバイクで出る前の時間だ。引き戸が開いて、白い兎耳が飛び込んできた。
「リオンさん。来ます」
「何がですか」
「馬です。一頭。東の街道から、まっすぐこっちに」
キャルルは、耳を東の方角に向けていた。
「自警団の見張りが気づいたのは十分前です。私が耳で拾ったのは、三十分前」
「三十分前」
「蹄の音が、迷ってないんです。荒野に入る人の音じゃない。目的地を知ってる人の音です」
俺は、湯呑みを置いた。
「護衛は」
「いません。一人です」
母さんが、給湯室から顔を出した。
「リオン? どうしたの、朝から」
「……母さん」
俺は、少し考えた。
考えたが、答えは一つしかなかった。
「今日、タローマンは休んでくれ」
◇◇◇
馬は、交番の三十メートル手前で止まった。
降りてきたのは、六十過ぎの男だった。
立派な外套を着ているが、埃を被っている。乗ってきたのは荷馬に近い駄馬で、鞍も飾りのないものだった。伯爵が乗る馬ではない。
ただ、背筋だけが、真っ直ぐだった。
俺は、引き戸を開けて外に出た。
十七年ぶりだった。
三歳のときに見上げた男は、もっと大きかった気がする。
「……リオンか」
「嘆きの荒野交番、巡査長のリオンです」
俺は、手帳を出さなかった。出す必要がなかった。
グレゴール・フォン・アルディスは、しばらく俺を見ていた。
視線が、防刃服から腰の装備、背中の散弾銃へと動いた。それから、俺の後ろの建物を見た。赤色灯。掲示板。太陽芋の畑。草をむしっている鉄の巨人。
「……大きくなったな」
「三歳から十七年経てば、そうなります」
「そうだな」
会話が、そこで止まった。
風が吹いて、赤い土埃が舞った。
グレゴールは、外套の内側から封筒を取り出した。
「……これを」
俺は受け取らなかった。
代わりに、交番の引き戸を開けた。
「中でどうぞ。立ち話は、記録が残りません」
◇◇◇
取調べ室に通した。
応接用の部屋がないというのは本当だが、それだけではなかった。この部屋には机が一つと椅子が二脚しかなく、隣にキャルルが立って話を聞ける。
俺は緑茶を二つ出して、片方を男の前に置いた。
「どうぞ」
グレゴールは、湯呑みを見た。
手をつけなかった。
「用件を伺います」
「……緩衝地帯の、治安維持についてだ」
男は、封筒を机に置いた。
「アルディス伯爵家は、あの土地に三十年間、実質的な支配を及ぼしてきた。だが、正式な行政権は持っておらん。その状態のまま、山賊の徴収を黙認し、上納を受けていた」
俺は、黙って聞いていた。
「その全てが、先月で止まった。止めたのは、貴様だ」
「管轄内の犯罪を処理しただけです」
「知っている」
グレゴールは、封筒に手を置いた。
「報告書を読んだ。四枚あった。うちの名前は、一行も書かれておらんかった」
男の指が、封筒の縁を撫でた。
「……書けたはずだろう」
「書けました」
「なぜ書かなかった」
「捜査中だからです」
俺は、湯呑みを傾けた。
「山賊三十人と、主導者一名の件は、書類が揃ったので処理しました。伯爵家に流れた九億の件は、まだ証拠の裏取りが終わっていません。終わったら、書きます」
グレゴールの眉が、動いた。
「……九億」
「銀貨百三十万枚のうち、七割です。ご存じなかったですか」
「……総額までは、把握しておらん」
「三年分です」
俺は、湯呑みを置いた。
「ただ、今日はその話をしに来られたわけではないと思います。用件をどうぞ」
◇◇◇
グレゴールは、長く息を吐いた。
それから、封筒を開いた。
中身は、一枚の書面だった。
「アルディス伯爵家は、緩衝地帯における一切の権益を放棄する。今後、当家の名において、あの土地から金銭その他を徴収することはない」
男は、書面を机に滑らせた。
「そして、緩衝地帯の治安維持を——嘆きの荒野交番に、正式に依頼する」
俺は、書面を見た。
署名と、押印がある。三本の剣と、天秤の紋章。
十七年前、俺を追い出した家の印だ。
「報酬は」
「出せん」
グレゴールは、即答した。
「今、この家に金はない。三ヶ月後には、もっと無い」
「……正直ですね」
「嘘をつく余裕がない」
俺は、書面をもう一度読んだ。
権益の放棄。治安維持の依頼。無報酬。
つまりこれは、一方的にこちらが得をする紙だ。伯爵家には何の利益もない。
なぜ来たのか、という問いが浮かんだ。
そして、答えも浮かんだ。
この男は、あの土地から手を引くために、手を引いたという記録を残しに来たのだ。
三十年やってきたことを、自分で終わらせるために。
「——リオン」
グレゴールが、初めて俺の名前を呼んだ。
「戻れとは言わん」
「はい」
「言う資格がない」
男は、湯呑みに手を伸ばしかけて、止めた。
「ただ、頭を下げに来た」
そして、六十二歳の伯爵が、机に手をついて、深く頭を下げた。
白髪の頭頂が、俺の目の高さより下に来た。
◇◇◇
俺は、しばらく黙っていた。
十七年間、この瞬間を想像しなかったと言えば、嘘になる。
三歳で荒野に捨てられた夜。腹筋一万回で吐いた朝。母が納豆の食べ方を知らなかった日。いつか、この男が謝りに来る場面を、何度も頭の中で作った。
その全部で、俺は何かを言い返していた。
実際に目の前に来てみると、言いたいことは何もなかった。
「頭を上げてください」
「……」
「困ります。記録に書きづらい」
グレゴールが、顔を上げた。
俺は、机の引き出しから紙を一枚出して、机に置いた。
「受理します。ただし、この書面では足りません」
「……足りん、とは」
「権益の放棄は、こちらではなく、ポポロ村と十七の集落に対して出してください。彼らが当事者です」
俺はペンを差し出した。
「あと、依頼書の書式が違います。日付、依頼者の住所、連絡先、依頼内容の具体的範囲。それから、緩衝地帯への今後の立ち入りについての取り決め。今から書いていただきます」
グレゴールが、ぽかんと口を開けた。
「……今から?」
「はい。二時間ほどかかります」
「わしは伯爵だぞ」
「書式は書式です」
俺は、ペンを机に置いた。
「管轄内なら、依頼がなくてもやります。俺の仕事なので。でも、書類は出してください」
男は、ペンを見た。
それから、ゆっくりと手を伸ばして、握った。
◇◇◇
二時間半かかった。
途中で三回、書き直させた。住所の記載が略式だったのと、依頼内容が曖昧だったのと、最後は日付の西暦が一つずれていた。
書き終えたグレゴールは、手首を押さえていた。
「……こんなに書かされたのは、初めてだ」
「お疲れ様でした。控えです」
俺は、写しを渡した。
男は、それを外套の内側にしまった。
そして、立ち上がった。
湯呑みには、手をつけないままだった。
「リオン」
「はい」
「マリアは」
俺は、答えなかった。
グレゴールは、それ以上聞かなかった。
取調べ室を出て、廊下を歩き、引き戸に手をかけた。
その手が、止まった。
廊下の奥、給湯室の入り口に、人影があった。
サロペットの作業着。日焼けした腕。
母さんが、そこに立っていた。
二人は、十秒ほど見つめ合った。
どちらも、何も言わなかった。
やがてグレゴールが、深く一礼した。今度は、机に手をつく必要のない、まっすぐな礼だった。
母さんは、会釈も返さなかった。
ただ、そこに立っていた。
引き戸が閉まり、蹄の音が遠ざかっていった。
◇◇◇
母さんが、取調べ室に入ってきた。
机の上の湯呑みを取り上げて、中を覗き込む。
「……お茶、飲まなかったのね」
それだけ言って、母さんは給湯室へ行った。
流しに茶を捨てる音がした。
その音は、少し長かった。
◇◇◇
外に出ると、キャルルが交番の壁に寄りかかって待っていた。
白い兎耳が、こちらへぴたりと向いている。
「リオンさん」
「聞いてましたよね」
「はい。全部」
キャルルは、隠さなかった。
「心音も、全部」
「……どうでしたか」
「二回だけ、乱れました」
彼女は、指を二本立てた。
「一回目は、あの人が『戻れとは言わん』と言ったとき」
「二回目は」
「お母さんが廊下に立っていたときです」
俺は、空を見上げた。
赤茶けた荒野に、乾いた風が吹いている。
「……村長」
「はい」
「あの人、俺の父親でした」
「知ってますよ」
「なぜ」
「名前、同じじゃないですか」
キャルルは、ポケットから飴玉を出して、俺に放って寄越した。
「フォン・アルディス。ずっと気になってたんですけど、聞かないでいました」
「聞けばよかったのに」
「聞いたら、リオンさんが困る音がしたので」
俺は、飴玉の包みを開けた。
甘かった。
「村長」
「はい」
「これ、村への書面です。権益放棄の。あと、十七集落分の写しも作らせました」
キャルルは、書類を受け取った。
目を落とし、一枚めくり、二枚めくり——止まった。
白い兎耳が、ゆっくりと真上に立った。
「……三十年です」
彼女の指が、震えていた。
読んでいただきありがとうございます。
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