EP 4
二十歳、巡査長。手取りは十四万のまま
俺の朝は、納豆定食から始まる。
配膳ボックスがチーンと鳴り、炊きたての飯と味噌汁、納豆と生卵が出てくる。十七年間、毎朝これだ。一度も飽きていない。前世で五分でゼリー飲料を流し込んでいた男が言うのだから間違いない。
「リオン、お醤油草のタレ取って」
「はい」
向かいで母さんが飯をかき込んでいる。四十七歳。日焼けした腕は俺より太い。今日もタローマンの作業着のサロペットだ。
「今日、何時から?」
「十時。荒野店の資材コーナー、午後から棚卸しなのよ」
「……母さん。俺、給料ちゃんともらってるんだけど」
「知ってるわよ」
母さんは味噌汁をすすって、あっさり言った。
「好きなの、あの仕事。セメント袋を運んでるとね、頭が空っぽになって気持ちいいのよ」
この人には敵わない。
十七年前、荒野に放り出されて泣いていた女は、今や週四でパートに出ている。俺が金を渡そうとすると「自分で稼いだ金で買った物のほうが美味しいの」と言って受け取らない。
ちなみに、この交番から片道二十分のところに、タローマンの移動販売所ができた。母さんが来たせいで人が集まり、人が集まったせいで店ができた。因果関係が完全に逆転している。
「じゃ、行ってきます。お昼、ちゃんと食べるのよ」
「わかってる」
引き戸が閉まる。ミニバイクのエンジン音が遠ざかっていく。
あの人、去年バイクの免許を取った。
◇◇◇
装備を点検する。
黒の防刃服。その下に防弾チョッキ。腰にニューナンブ、手錠、警棒、スタンガン、催涙スプレー、閃光弾。背中に魔導制圧散弾銃、通称M870のネギオカスタム。ドワーフの鍛冶と樹人の魔導技術を突き合わせて、賢者君と俺で三年かけて調整した一品だ。
「ゴーレム君。行くぞ」
「ピー。リオン巡査長、オ疲レ様デス」
庭で草をむしっていた鉄の巨人が、のっそりと立ち上がった。身長二メートル。巡査の制服を着せられている。俺の唯一の部下だ。
こいつが支給されたのは、十四歳のとき。巡査長に昇進した日だった。
あの日のことは、よく覚えている。
毎月の昇級試験を、十一年間欠かさず受け続けた結果だった。学科試験、勤務態度、民意の信頼度。ポポロ村を回り、落とし物を拾い、迷子を捜し、酔っ払いの喧嘩を止め、報告書を書き、また回る。その繰り返しで、ようやく一階級。
昇進の通知を見て、俺は真っ先に給与欄を確認した。
基本給、二十万円。
維持費、六万円。
手取り、十四万円。
「……二万円上がって、二万円引かれてるんだけど」
『PX機能、ゴーレム稼働費、車両整備費ガ加算サレマシタ』
「だから手取りは変わらないと」
『ハイ。以前ニ説明済ミデス』
十一年かけて昇進して、財布の中身は一円も変わらなかった。
ただ、増えたものはある。
装備が増えた。盾と散弾銃が支給された。PXという名の売店機能が解放されて、地球の菓子とインスタント食品が買えるようになった。一二五ccのバイクが来た。そして、部下が一体。
結論から言えば、悪くなかった。
金は増えないが、できることが増える。前世で俺が一番欲しかったのは、賞与ではなく裁量だった。
◇◇◇
バイクにまたがり、荒野の道を走る。
十七年で、この土地はずいぶん変わった。
昔は本当に何もなかった。今は交番から東へ、轍がしっかりついた道が伸びている。人が通るからだ。
道の途中、赤い柱が等間隔に立っている。俺が立てた管轄標識だ。ここから先は嘆きの荒野交番の管轄である、という意味の。法的な根拠は、正直言って一つもない。
だが、標識より内側で盗みを働いた者は、必ず捕まって留置房に入る。それが十七年間、一度の例外もなく続いた。
根拠より実績のほうが、ずっと重い。
ポポロ村が見えてきた。
柵は直っている。俺が十歳のときに、村の大工と一緒に組み直した。あのときはまだ身長が足りなくて、脚立に乗って釘を打った。
「おう、おまわり!」
「今日も早いね」
畑に出ていた連中が手を上げてくる。俺は軽く手を上げ返して、バイクの速度を落とした。
村の入り口で、老人が一人、切り株に腰かけていた。
「じいさん」
「……ふん。来たか」
ガドさん。俺が初めてこの村に来たとき、折れた柵を指さして「金がない」と言った男だ。当時から腰が曲がっていたが、十七年経っても同じ角度で曲がっている。丈夫な人だ。
「盗人の話でも聞きに来たか」
「仕事ですから」
「今月は静かじゃ。お前さんが、あんまり丁寧に縛り上げて連れて行くもんでな」
ガドさんは歯の抜けた口で笑った。それから、湯呑みを差し出してくる。中身は薄い麦茶だ。
俺はヘルメットを脱いで受け取った。
こういうのが大事だ、と賢者君は言う。民意の信頼度。数字で管理される項目。だが、麦茶を飲みながら世間話をしている時間が数字になるというのは、なんというか、悪い制度ではないと思う。
前世は逆だった。人と話す時間は全部、数字にならなかった。
「じいさん。柵、また南側が緩んでるの気づいてる?」
「気づいとる。人手がない」
「午後、ゴーレム君貸します」
「銭はないぞ」
「要りません。うちの装備の稼働記録、月末までに一定時間ないと減点されるんですよ。むしろ助かる」
ガドさんは湯呑みの底を覗き込んで、ぼそりと言った。
「……お前さん、そういう言い訳のしかたが、昔からうまい」
◇◇◇
昼。
交番に戻って、カツ丼を食う。これも十七年間変わらない。
昔は感動して泣きながら食っていたが、今は普通に食っている。人間は慣れる。だが、味は初日と一ミリも変わらない。それがこの福利厚生の恐ろしいところだ。
デスク室で報告書を書いていると、賢者君が言った。
『リオン巡査長。来月ノ昇級試験、学科ノ模擬問題ヲ出シマスカ』
「出してくれ。……なあ賢者君。俺、巡査部長になったら手取りいくらになる」
『一四〇〇〇〇円デス』
「だと思った」
『通信機、巡査ゴーレム三体、偵察ドローン、軽パトカーガ支給サレマス』
「……車が来るのか」
『ハイ』
俺は手を止めた。
車があれば、管轄をもっと広く回れる。ゴーレムが三体あれば、交番の留守番を置ける。ドローンがあれば、村の上空から見張れる。
できることが増える。
十七年前の俺は、働きたくなくて荒野に引きこもった男だった。その男が今、部下の数を数えている。
人間、変わるものだ。
いや——変わったというより、あのとき本当に嫌だったのは労働そのものではなかったのだと、今はわかる。
嫌だったのは、謝っても謝っても終わらないことだ。頭を下げる相手を、自分で選べないことだ。
今の俺は、下げる頭を自分で選べる。
それだけのことが、こんなに違う。
◇◇◇
午後三時。
報告書の最後の一行を書き終えたとき、交番の魔導通信石がけたたましく鳴った。
ポポロ村からの直通だ。十年前、俺が銭を出して引いた回線。
「はい、嘆きの荒野交番」
『——おまわり! おまわりか!』
ガドさんの声だった。麦茶を飲んでいたときとは、別人のように張り詰めている。
「どうしました」
『来とる。村に、来とる』
「盗人ですか」
『違う』
通信石の向こうで、複数の男の怒鳴り声が聞こえた。そして、何かが割れる音。
『徴税人じゃ。剣を持った連中を、十人も連れとる』
俺は、椅子から立ち上がった。
「じいさん。緩衝地帯に徴税権はありませんよ」
『それを言うたら、殴られた』
通信が、そこで切れた。
俺はデスクに手をついたまま、二秒だけ目を閉じた。
それから、装備庫の扉を開けた。
「ゴーレム君」
「ピー」
「留守番だ。母さんが帰ってきたら、中に入れてやってくれ」
M870を背負い、ヘルメットを被る。防刃服の襟を正す。
バイクのエンジンをかけながら、俺は胸ポケットの黒い手帳を指で確かめた。
十七年前、三歳の俺が、裸足の子供に向かって開いてみせた手帳だ。
「——嘆きの荒野交番、巡査長リオン。ただいまより、管轄内に急行する」
赤色灯が、回り始めた。
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