EP 3
腹筋一万回から始まる、スパルタ天使の再教育
翌朝、俺は武器庫の扉を開けた。
といっても、大した中身ではない。巡査階級の支給品は限られている。
樫の警棒が一本。手錠が一組。そして壁際に、ずいぶん実用的な佇まいの自転車が一台立てかけてあった。
「……賢者君。この自転車、乗れって?」
『ハイ。巡査階級ニ支給サレル、標準巡回装備デス』
「俺、身長九十センチなんだけど」
『サイズハ着用者ニ最適化サレマス』
なるほど、と手を触れると、自転車がしゅるりと縮んだ。三歳児サイズの、赤色灯つきミニチャリである。かごまで付いている。
誰に見せるわけでもないのに、微妙に恥ずかしい。
俺はかごに泥だらけの靴を放り込み、ペダルに足をかけた。
「母さん、ちょっと出てくる」
「え、リオン、どこへ!? 外は魔獣が——」
「落とし物を届けてくる。仕事だから」
母さんは口を半分開けたまま、俺と自転車を交互に見た。
「……お仕事」
「そう。俺、一応これでも公務員だから」
我ながら何を言っているのかわからない。だが母さんは、しばらく考えたあと、ふっと表情を緩めた。
「じゃあ、気をつけてね。……ちょっと待って」
そう言って交番に駆け戻り、ハンカチに包んだ何かを持ってきた。
「はい、おにぎり。さっきのご飯で握ったの。お仕事の途中でお腹空くでしょ」
俺はそれをかごに入れて、ペダルを踏み込んだ。
◇◇◇
昨日、目があった岩陰から、足跡は北へ伸びていた。
犬の五感、というやつらしい。土に残った匂いが、色のついた線みたいに追える。人間が四人。全員、体重が軽い。子供だ。
三十分ほど走ると、地面の色が変わってきた。赤茶けた荒野から、うっすら緑がかった土へ。そして、遠くに柵と、屋根の連なりが見えた。
村だ。
『周辺情報。ポポロ村。人口約四〇〇。緩衝地帯ニ属シ、行政上ハドノ領地ニモ帰属シテイマセン』
「どの領地にも属してない?」
『ハイ。故ニ、税ノ徴収先モ、治安ノ維持責任者モ、法的ニ存在シマセン』
俺はブレーキを握った。
つまり、誰も守らない村だ。何かあっても誰も来ない。
前世で、そういう部署にいたことがある。本社から忘れられ、予算も人員も回ってこず、それでも数字だけは求められる支店。全員の目が死んでいた。
村の入り口の柵は、途中から折れたままになっていた。修理する金も人手もないのだろう。
その柵の脇に、裸足の子供が四人、座り込んでいた。
俺を見て、全員が跳ね上がった。
「わっ、出た!」
「赤い光のやつ!」
「逃げろ!」
「待て待て待て」
俺は自転車を降りて、かごから靴を取り出した。
「これ、落とし物。誰の」
子供たちが、ぴたりと止まる。
一番小さい女の子が、恐る恐る手を上げた。片足だけ裸足だった。
「……あたしの」
「じゃあ返す。次は片方だけで走るな。足、切るぞ」
俺が靴を差し出すと、女の子はそろそろと受け取った。それから、じっと俺の顔を見る。
「……ちいさい」
「言うな」
「おまわりさん、なの?」
俺は、腰の手錠と警棒を指さした。ついでに交番から持ってきた黒い手帳を開いて、胸の高さに掲げる。
「嘆きの荒野交番、巡査のリオンだ」
子供たちは顔を見合わせた。
長い沈黙のあと、一番年上らしい少年が、ぼそりと言った。
「……おまわりさんって、なに」
なるほど。この村の子は、警察を見たことがないのか。
俺は少し考えて、言った。
「困ったやつが来たとき、間に入る仕事だ」
◇◇◇
村の大人たちの反応は、正直、良くはなかった。
鍬を持った男が数人、遠巻きにこちらを見ている。歓迎ではない。警戒だ。
当然だろう。荒野の方角から、赤色灯のついた自転車に乗った三歳児がやってきたのだ。俺だって警戒する。
しかし、子供たちがおにぎりを分けて食べ始めたあたりから、空気が少し変わった。
「……坊主。それ、どこの飯だ」
村長らしき老人が近づいてきた。腰が曲がっていて、手の甲に深い皺が刻まれている。
「うちの母親が握りました」
「うち、とは」
「荒野に、家を建てたんで」
老人はしばらく黙っていた。それから、皺だらけの顔を少しだけ歪めた。
「荒野に家を建てる馬鹿がおるか。あそこは、伯爵領からも王国からも捨てられた土地じゃ」
「知ってます。うちも、捨てられた側なんで」
老人の目が、わずかに見開かれた。
俺は柵の折れた部分を指さした。
「あれ、直さないんですか」
「金がない。大工もおらん」
「盗人は」
「来る」
老人は、あっさり言った。
「来るが、どうにもならん。訴える先がないでな」
俺は、折れた柵をじっと見た。
管轄内住民からの評価。賢者君が言っていた、昇級試験の三項目目。
打算は、あった。認める。
だが、それだけでもなかった。
十三年前——いや、前世の話だ。俺が三時間怒鳴られている間、誰も助けに来なかった。上司も、同僚も、店長も、全員が視線を逸らして通り過ぎていった。あのとき俺が一番欲しかったのは、金でも謝罪でもなく、「間に入ってくれる誰か」だった。
「じいさん」
「……なんじゃ」
「次に盗人が来たら、荒野の方を見てください。赤い光が回ってる建物があります」
俺は自転車にまたがった。
「そこ、交番なんで」
◇◇◇
帰り道は、行きよりずっと軽かった。
ペダルを踏みながら、俺はちょっとだけ機嫌がよかったと思う。日報に書くことが二行増えた。落とし物の返還一件、住民との接触一件。勤務態度も民意の信頼度も、ちゃんと点が入るはずだ。
これでいい。適度に働き、適度に感謝され、適度に給料をもらう。
俺の完璧な人生設計に、狂いはない。
そう思いながら交番の前に戻ってきて——
俺は、自転車を横倒しにして転んだ。
交番の入り口に、女が立っていた。
白い。
全部が白かった。膝まで届く金糸のような髪、鎧の縁取り、足元の石畳に落ちる影の色まで。そして背中には、ルチアナの申し訳程度の羽とは比べ物にならない、六枚の巨大な翼。
右手には、俺の身長の三倍はある聖槍。
それが、ドンッと地面に突き立てられた。地響きがした。
「初めまして。リオン・フォン・アルディス」
澄んだ声だった。氷を落としたような。
「私は天使族長、ヴァルキュリア」
彼女は深々と、しかし有無を言わさぬ威圧感をもって、一礼した。
「先日、我らが世界神ルチアナが、あなたに多大なるご迷惑をおかけしました。当該神は現在、謹慎処分中です。上位者として、心よりお詫び申し上げます」
「……はあ」
三歳児の姿で謝罪されている。状況が飲み込めない。
「つきましては、詫びとして、私が派遣されました」
「詫び。詫びってことは、あれですか。チート能力をくれるとか、伝説の剣をくれるとか」
「いいえ」
ヴァルキュリアは顔を上げた。
黄金の瞳が、まっすぐ俺を射抜く。
「今日から私が、あなたを最強の警察官へと鍛え上げる、専属の教官となります」
「…………は?」
「では、始めましょうか」
聖槍が、ズンッと地面に沈み込む。
「まずは腹筋一万回から」
交番の赤色灯が、何も知らないまま、クルクルと回っていた。
俺のカツ丼風味の平穏な交番ライフは、開始わずか二日にして、音を立てて崩れ去ろうとしていた。
◇◇◇
——それから、十七年。
嘆きの荒野に、朝が来る。
赤茶けた大地の向こうから太陽が昇り、一軒の交番の屋根を照らした。塗装は少し褪せ、壁には無数の傷と補修の跡がある。庭には太陽芋の畑が広がり、一体の鉄の巨人が黙々と草をむしっていた。
引き戸が開く。
中から出てきたのは、黒の防刃服に身を包んだ、背の高い男だった。
腰にはニューナンブと手錠、スタンガン。背中には、ドワーフと樹人の技術の粋を集めた魔導制圧散弾銃。
男は空を見上げ、大きく伸びをして、それから面倒くさそうに呟いた。
「……今日も定時で上がりたいな」
二十歳。階級、巡査長。
手取りは、十四万円のままだった。
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