EP 6
シャンパンタワーと、七十二時間目
鮫島剛にとって、その二日間は、人生で最高の二日間だった。
隣町ガレナは、緩衝地帯と帝国領の境にある宿場町だ。人口は三千人ほど。鉱山の中継地で、金回りのいい男が集まる。
鮫島は、門をくぐって最初に、仕立屋に寄った。
「一番高いやつを」
スーツを新調した。青の、てかてかした生地。前と同じ趣味だ。
次に、宿。
町で一番いい宿の、一番上の階を三日押さえた。
次に、時計屋。
金メッキの時計を捨てて、本物の金無垢を買った。偽装をかける必要のない時計を、生まれて初めて手に入れた。
そして、三日目の夜。
鮫島は、ガレナで一番格式の高い店の、一番奥のボックス席に座っていた。
◇◇◇
「乾杯でーす!」
グラスが、十個ぶつかり合った。
テーブルの上に、シャンパンタワーが三段組まれている。店で一番高い銘柄を、三本。
鮫島は、ソファにふんぞり返っていた。
「いやー、俺もね、昔は苦労したんですよ」
彼は、グラスを揺らしながら喋っていた。
「前の世界じゃ、コンサルやっててね。まあ、企業の経営を見る仕事。分かる? 難しいでしょ」
「すごーい」
「でもさ、こっちに来て思ったわけ。この世界、情報の非対称性がやばいって」
「じょうほうの……?」
「あー、いいのいいの。難しい話は」
鮫島は、上着の内ポケットから金貨を一枚取り出して、テーブルに置いた。
ちゃりん。
「ま、要するに。分かってる奴が、分かってない奴から取る。それだけの話」
もう一枚。
ちゃりん。
「で、俺は分かってる側なわけ」
もう一枚。ちゃりん。
テーブルの上に、金貨が積み上がっていく。
「今日はさ、好きなだけ頼んでいいよ。遠慮とか、マジでいらないから」
歓声が上がった。
鮫島は、ソファに深く沈んで、天井を見上げた。
(異世界、チョロすぎ)
(俺、ここで人生上がりだな)
◇◇◇
時計の針が、進んでいた。
ルナが森で石を金に変えてから、七十一時間が経過していた。
鮫島は、それを知らない。
彼が知っているのは、自分の偽装が四十八時間で切れるということだけだ。そして、掛軸の偽装はとっくに切れている。
だが、それは相手の損だ。自分には関係ない。
そう思っていた。
◇◇◇
「お会計、お願いします」
黒服が、伝票を持ってきた。
鮫島は、ちらりと見た。
金貨、八十七枚。
「はいはい。細かいの、ある?」
彼は、上着を脱いだ。
中に、革袋が二つ。金貨を詰めたものだ。持ち歩くには重すぎるので、大半は宿に置いてある。
袋の口を開けて、テーブルにぶちまけた。
ざらざら、と金貨が広がった。
そして。
カラン。
妙な音がした。
鮫島は、手を止めた。
「……ん?」
金貨の山の中に、一つだけ、色の違うものが混ざっていた。
灰色の、ざらついた塊。
石だった。
カラン。
コロン。
隣の金貨が、石になった。
その隣も。
その隣も。
◇◇◇
テーブルの上で、音が連鎖していった。
カラン。コロン。カラララ。
金色が、端から灰色に染まっていく。波が引いていくように。
鮫島は、動けなかった。
目の前で、八十七枚どころではない、数百枚の金貨が、全部、ただの石になっていった。
ポポロ山の、硬くていい石に。
店が、静かになった。
シャンパンタワーの泡が弾ける音だけが、やけに大きく聞こえた。
「……え」
鮫島の口から、間抜けな声が漏れた。
「え、待って。待って待って待って」
彼は、石を一個つかんだ。
握った。
石だった。
「いやいやいや! さっきまで金貨だったじゃん! 見てたでしょ! みんな見てたよね!」
誰も、答えなかった。
黒服が、伝票を持ったまま、無言でテーブルを見下ろしていた。
◇◇◇
鮫島の脳が、高速で回転した。
(落ち着け。落ち着け俺)
(こういうときのために、スキルがあるんだろうが)
「あ、あー、これね!」
彼は、笑った。
「これ、ちょっとした演出で。ほら、見ててください」
石の山に、手をかざした。
指先から、光が走った。
石の上に、鑑定表示が浮かび上がる。
『純金貨 ルナミス帝国鋳造 九十九・九パーセント』
「ほら! 純金! ちゃんと純金って出てるでしょ!」
鮫島は、黒服を見上げた。
「ね? 鑑定、出てますよね? 純金って」
黒服は、石を一個つまみ上げた。
目の高さに持ち上げて、じっと見た。
それから、鮫島に視線を戻した。
「……鑑定じゃなくて、目で見ろ」
鮫島の笑顔が、固まった。
◇◇◇
その後のことを、鮫島は断片的にしか覚えていない。
最初に、襟を掴まれた。
次に、ソファから引きずり下ろされた。
床に膝をついた瞬間、彼は反射的に額を床にこすりつけた。
「すいませんでしたああああ!」
格上には、即座に土下座する。
それが、鮫島剛の三十五年間の処世術だった。前世でも、今世でも、それで大抵は生き延びてきた。
だが。
この夜、それは通じなかった。
黒服が、しゃがんだ。
「あのな」
低い声だった。
「土下座されたら許すのは、初めての客だけなんだわ」
「は、初めてです! 俺、今日が初めてで」
「三日前から来てんだろ」
鮫島の血が、下がった。
「……あ」
「うちの店、二日目からは顔覚えるんだよ」
◇◇◇
新調した青のスーツは、三十分後には裏の路地に落ちていた。
中身は、その横に転がっていた。
鮫島は、仰向けになって、雨の降り始めた空を見ていた。
右の目が開かない。肋が、息を吸うたびに軋む。前歯が、一本ない。
彼のスキルは、鑑定結果の文字を書き換えるだけだ。
肉体強度は、一ミリも上がらない。
スライムに殴られれば骨が折れる男が、店の黒服に囲まれて無事で済むわけがなかった。
「……い、たい……」
声が、雨に消えた。
路地の奥で、黒服が最後の作業をしていた。
鮫島の腕から、時計を外している。
本物の金無垢だ。昨日買った、生まれて初めての本物。
黒服が、鑑定にかけた。
『純金無垢 精度±〇・〇一秒 推定価格 金貨四百枚』
その表示が、揺れた。
効果時間、四十八時間。
買ったのは、二日前だ。
表示が、溶けて消えた。
『真鍮 メッキ 推定価格 銅貨一枚』
黒服が、時計を路面に落とした。
そして、鮫島を見下ろした。
「……てめえ、時計まで偽物か」
「ち、違うんです! それは本物を! 本物を買って!」
「何が本物だ」
黒服は、時計を踏み潰して、去っていった。
◇◇◇
鮫島剛は、雨の中に一人残された。
パンツ一枚だった。
靴も、上着も、金も、時計も、宿の鍵も、全部持っていかれた。
彼は、路地の壁に背中を預けて、座り込んでいた。
雨が、腫れた顔に落ちてくる。
しばらく、何も考えられなかった。
やがて、一つの言葉が、頭の中に浮かんだ。
「……詐欺だ」
彼は、呟いた。
「詐欺だろ、あれ」
鮫島は、拳を握った。
「あの女……あのドレスの女……! 石で払いやがった……!」
声が、震えていた。
「俺は、ちゃんと掛軸を渡したんだぞ! こっちは物を渡してるんだよ! なのにあいつは石だ! 石で払ったんだ!」
詐欺師が、詐欺だと叫んでいた。
雨は、強くなっていた。
◇◇◇
鮫島は、壁に手をついて立ち上がった。
右足を引きずりながら、一歩。
もう一歩。
路地を出ると、町の門が見えた。
その向こうに、闇が広がっている。街道の先だ。
緩衝地帯。
ポポロ村。
「……払わせてやる」
彼は、歯の抜けた口で呟いた。
「本物を、払わせてやる。あの女、いくらでも石を金にできるんだ。今度は本物を出させる。二千枚じゃ足りねえ。一万だ。一万枚——」
彼は、歩き出した。
裸足で。パンツ一枚で。雨の中を。
自分の足で。
彼が今から入っていく先が、どういう場所か。
彼は、知らなかった。
そこが、どこの国にも属さない緩衝地帯だということも。
その緩衝地帯に、たった一人だけ、法を執行する人間がいるということも。
その男が、彼の匂いを、二日前から覚えているということも。
何一つ、知らなかった。
◇◇◇
同じ頃。
嘆きの荒野の交番で、俺は日報を書き終えていた。
ペンを置いて、湯呑みに茶を注ぐ。
窓の外で、赤色灯が回っていた。
「賢者君」
『ハイ』
「石の件は」
『七十二時間、経過シマシタ。全テ石ニ戻ッテイマス』
「そうか」
俺は、茶をすすった。
「……隣町は、管轄外だ」
『ハイ』
「何も、できないな」
『ハイ』
俺は、椅子の背に体を預けた。
天井を見上げる。十七年、毎晩見てきた天井だ。
「賢者君」
『ハイ』
「明日、村の入り口の見張りを増やすよう、自警団に伝えてくれ」
『理由ヲ、記録シマスカ』
俺は、少し考えた。
「……勘だ、と書いてくれ」
『了解シマシタ』




