EP 10
これ、いくら?
朝七時、交番の給湯室に、桜色のツインテールが立っていた。
頭の輪っかが、ちかちかと点滅している。緊張しているらしい。
「……あの、おはようございます」
「あら、おはよう」
母さんは、味噌汁の鍋を火にかけたまま振り返った。
今日はタローマンのシフトが昼からなので、作業着ではなく普段着だ。それでも腕は日焼けしている。
「キュララちゃんよね。リオンから聞いてるわ」
「はい。あの」
「朝ごはん、食べていくでしょ」
「え、いや、あの」
キュララは、畳んだ紙を差し出した。
給与明細だった。
「これ、なんですけど」
◇◇◇
母さんは、明細を受け取って、目を細めた。
そして、上から下まで、ゆっくり読んだ。
「あらあら」
「あの」
「よく引かれてるわねえ」
「そうなんです」
「お給料、いくつになったの」
「十四万です」
母さんは、明細を返した。
それから、お玉で味噌汁をかき混ぜた。
「じゃあ、大丈夫ね」
キュララが、まばたきをした。
「……え?」
「大丈夫よ。十四万なら」
「えっと、そうなんですか」
「うん」
母さんは、鍋の火を弱めた。
「母さんね、リオンが三歳のときに追い出されて、しばらくお金なかったの。そのあと、タローマンで働き始めて、最初のお給料が九万八千円」
「……九万」
「そう。それで二人分の生活よ」
彼女は、笑った。
「だから十四万は、余裕」
◇◇◇
朝食は、四人になった。
俺と、母さんと、キュララ。
そしてなぜか、途中から入ってきたリーザ。
「おはようございますわ。あら、納豆ですの」
「王女様。ここは交番です」
「知ってますわ」
彼女は、当然のように座った。
母さんが、何も言わずに四人目の茶碗を出した。
「母さん」
「いいのよ。ご飯は多めに炊いてあるから」
キュララが、納豆の器を見ていた。
「これ、いくら?」
全員が、顔を上げた。
「え、何?」
「いや」
俺は、湯呑みを置いた。
「その質問、初めて聞きました」
「え、だって」
キュララは、器を持ち上げた。
「十四万で暮らすんでしょ。だったら、一個ずつ知らなきゃじゃん」
母さんが、手を止めた。
それから、ゆっくり笑った。
「……いい子ねえ」
◇◇◇
「納豆はね、タローマートで三パック五十円」
母さんは、指を折った。
「一パックだと十七円。卵が一個二十円。お味噌汁は、お味噌が一杯分で八円くらい。お豆腐とワカメを入れて、合わせて二十円」
「お米は」
「お米は、うちは交番から出るからタダ」
「……ずるくない?」
「ずるいわね」
母さんは、あっさり認めた。
「でもね、普通のお家だと、一杯三十円くらいよ」
キュララは、指を折っていた。
「じゃあ、この朝ごはんって」
「八十七円ね」
彼女の動きが、止まった。
「……八十七円」
「うん」
「え、これ全部で?」
「全部で」
キュララは、机の上を見た。
ご飯、味噌汁、納豆、生卵。
それから、顔を上げた。
「……安っ」
「そうよ」
母さんは、味噌汁をすすった。
「だから、朝ごはんは家で食べるの。外で食べると、八十七円が六百円になるから」
◇◇◇
その日の昼、キュララは村の食堂に立っていた。
エプロンをつけていた。
白い翼が、エプロンの紐に引っかかっている。
「……あの、これ、どうすればいいですか」
「洗う」
キャルルが、皿の山を指さした。
「洗って、拭いて、そこに積む」
「それだけ?」
「それだけ」
村長が、なぜか食堂に立っていた。
「村長、仕事は」
「午前中に終わらせました」
キャルルは、白い兎耳をぴくりと動かした。
「あと、うち、昼は食堂手伝ってるんです。人手足りないので」
「……村長が?」
「村長でも、皿は洗えますよ」
◇◇◇
三枚目が割れたのは、開始二十分後だった。
がしゃん、という音が、食堂に響いた。
キュララが、固まった。
「……あ」
「大丈夫? 怪我してない?」
キャルルが、飛んできた。
「してない。してないけど」
彼女は、足元の破片を見ていた。
「三枚割った」
「うん」
「ごめん」
「いいよ。タローマンの割引で買ったやつだから」
キャルルは、箒を取りに行こうとした。
その袖を、キュララが掴んだ。
「待って」
「え?」
「……私が払う」
キャルルが、振り返った。
「え?」
「払う」
キュララは、破片を見ていた。
「いくら?」
◇◇◇
キャルルは、しばらく黙っていた。
それから、指を三本立てた。
「……一枚、九十円」
「三枚で二百七十円」
「うん」
キュララは、ポケットに手を入れた。
そして、硬貨を取り出した。
数えた。
三枚、机に置いた。
銀貨ではない。銅貨だった。百円玉が二枚と、五十円玉が一枚と、十円玉が二枚。
彼女は、それをきっちり二百七十円にして、並べた。
そして、両手を膝に置いた。
「……はい」
キャルルが、その硬貨を見た。
それから、キュララを見た。
白い兎耳が、ゆっくりと真上に立った。
「……受け取ります」
彼女は、硬貨を手に取った。
「ありがとうございました」
◇◇◇
その夜、交番に全員が集まった。
理由は特にない。
ただ、いつの間にかそうなっていた。
母さんが納豆定食を並べて、リーザが誰かの納豆を狙い、キャルルが飴玉を配り、ニャングルが算盤を膝に乗せたまま食べている。
キュララは、机の端に座っていた。
配膳ボックスがチーンと鳴って、カツ丼が出てきた。
俺が、それを彼女の前に置いた。
「……これ、いくら?」
彼女が、聞いた。
全員が、同時に答えた。
「ゼロです」
「ゼロですわ」
「ゼロですな」
「ゼロだよ」
キュララが、顔を上げた。
「……全員で言うのやめてくれる?」
◇◇◇
彼女は、カツ丼を食べた。
一口目で、動きが止まった。
「……おいしい」
「そうでしょう」
「え、なにこれ。なんで、こんな」
二口目で、彼女は箸を置いた。
そして、丼を見つめた。
「ねぇ、巡査長」
「はい」
「これ、ほんとにゼロなの?」
「ゼロです」
「嘘だ」
キュララは、丼を指さした。
「ゼロなわけないじゃん。お肉があって、卵があって、お米があって、出汁があって。誰かが払ってるでしょ」
俺は、湯呑みを置いた。
「交番維持費です」
「それ、誰が出してんの」
「俺の給料から、天引きです」
キュララの動きが、止まった。
「……え」
「基本給二十万から、六万引かれます。その中に、PXの運営費が入っています」
俺は、明細を出した。
彼女は、それを見た。
そして、しばらく何も言わなかった。
◇◇◇
「……なんで言わないの」
「聞かれなかったので」
「三年分食べさせてる人とか、いるんじゃないの」
「王女様が、たぶん一番食べてます」
「私ですの!?」
リーザが、箸を落とした。
「まあ、そうでしょうね」
キャルルが、飴玉を舐めながら言った。
「リーザちゃん、去年からほぼ毎日来てるもんね」
「……い、いくらになりますの」
「賢者君」
『照合シマス。——リーザ・シーラン・リヴァイアサン、昨年四月以降ノ喫食回数、四百二十一食』
「……四百二十一」
「一食あたり、五百円で計算すると」
「二十一万円ですわ!?」
人魚姫が、机に突っ伏した。
「……三年分の収入の、百倍ですわ」
◇◇◇
キュララは、丼を両手で持ち直した。
そして、言った。
「……次から、私も出す」
俺は、顔を上げた。
「要りません」
「出すって言ってんの」
「要りません」
「なんで!」
「維持費に含まれてるので」
「そこじゃないでしょ!」
彼女は、机を叩いた。
「私、二百七十円払ったんだよ! 今日! 生まれて初めて! 自分の財布から!」
「知ってます」
「じゃあ分かるでしょ!」
キュララは、丼を持ち上げた。
「私、払いたいの!」
部屋が、静かになった。
彼女は、自分の声の大きさに気づいたらしく、少し耳を赤くした。
それから、座り直した。
「……あ、これ配信していい?」
「台無しです」
「え、今のいい場面じゃなかった?」
「いい場面でした」
「じゃあ撮っとけばよかった」
◇◇◇
その夜の最後、キュララは配信を一本出した。
交番の外、赤色灯の下で。
「はい、みんなこんばんは」
彼女は、いつもの声だった。
「報告があります」
文字の帯が、流れた。
「私、しばらく田舎にいます」
『え』
『引退?』
『どこ』
『場所どこ』
『会いに行く』
「言いません」
彼女は、即答した。
「ガイドライン第二条です」
『規約に負けた女』
『第二条に屈するな』
『第七条は?』
『第七条まだ?』
「第七条はね、映像の保存期間について——」
俺は、慌てて手を上げた。
キュララが、口を押さえた。
「……あ。第三条」
『やらかした』
『天使ちゃん草』
『規約に振り回されてる』
「あとね」
彼女は、カメラを持ち直した。
「今月から、お給料もらってます。手取り十四万」
文字の帯が、止まった。
それから、爆発した。
『は?』
『2億は?』
『どういうこと』
『交番の人と同じじゃん』
『#天使ちゃんに給料を』
『それはやめろ』
「やめて。ほんとにやめて」
キュララが、手を振った。
「投げ銭も、もういいから。あれ、返すの大変なんだって。八万件を三日だよ」
『返すんだ』
『返すのか』
『この村、なんなの』
「うん。ここ、変な村」
彼女は、後ろを振り返った。
赤色灯が、くるくると回っていた。
「でも、ごはんがおいしいの」
◇◇◇
配信が終わったあと、キュララは一枚の紙を差し出した。
クラン加入申請書だった。
理由の欄に、二文字。
『撮れ高』
俺は、鼻で息を吸った。
酸っぱい匂いがした。
嘘の匂いだ。悪意のない、隠し事の匂い。
俺は、何も言わなかった。
判を取って、受理印を押した。
「では、規定を説明します」
「はいはい」
「クラン構成員の給与は、ゼロ円です」
「知ってる」
「活動費は、俺の管轄費から出ます」
「十四万でしょ」
「はい」
「……それ、全員で分けるの?」
「分けません。飯と燃料代です」
キュララは、書類を覗き込んだ。
それから、顔を上げた。
「ねぇ、巡査長」
「はい」
「私、月八十万もらってるんだよね」
「はい」
「私が出したほうがよくない?」
俺は、ペンを置いた。
「駄目です」
「なんで!」
「クランの活動費を構成員が出すと、その人の私設団体になります」
「……」
「あなたのお金で動く警察は、警察じゃありません」
キュララは、しばらく黙っていた。
それから、ため息をついた。
「……ほんと、めんどくさいね」
「はい」
「でも、そっちのほうがいいのは、分かる」
彼女は、申請書を押し返した。
「じゃあ、飯代だけ出す。これは規定違反じゃないでしょ」
「……」
「違反?」
「違反ではありません」
「じゃあ出す」
彼女は、にっこり笑った。
「一食ずつ、私が払う。四百二十一食、全部」
「それは王女様の分です」
「あ、ほんとだ」
◇◇◇
深夜、全員が帰ったあと。
俺は日報を書いていた。
新規クラン構成員、一名。広報業務委託契約、締結。分割返済申請、受理。
ペンを置いたところで、賢者君が低く鳴った。
『リオン巡査長』
「なんだ」
『定時スキャンヲ完了シマシタ』
「結果は」
『管轄外反応、二十七件。変化ナシ』
「そうか」
俺は、湯呑みを傾けた。
空だった。
『——訂正シマス』
俺は、顔を上げた。
『二十七件中、一件ノ反応強度ニ変化アリ』
「どれだ」
『表示シマス』
画面が、切り替わった。
大陸の地図。赤い点が、二十七。
そのうち一つが、他と比べ物にならない大きさで光っていた。
場所は、帝都。
その、中心。
『座標——ルナミス帝国 皇城』
俺は、ペンを取り落とした。
『反応強度、測定上限ヲ超過。当機ノ観測記録上、最大値デス』
「……いつからだ」
『本日、正午』
正午。
キュララが、皿を三枚割った時刻だ。
「誰だ」
『照合結果ヲ表示シマス』
画面に、文字が出た。
この国の歴史の教科書の、最初のページに載っている名前だった。
石畳と、乗合馬車と、時刻表と、郵便受けと、ホームセンターと、納豆定食を、この世界に持ち込んだ男。
百年前に死んだはずの、初代皇帝。
『佐藤太郎』
窓の外で、赤色灯が回っていた。
(第二章・完)
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