EP 9
月収二億が、手取り十四万になった日
契約書は、四日かかった。
村とキュララの間に結ぶ、広報業務委託契約。
業務範囲、成果指標、報酬の算定根拠、期間、解約条項。それから、守秘義務と、配信ガイドラインの遵守義務を附則で括りつけた。
ニャングルが三回突き返した。
「巡査長さん。成果指標が甘いですわ」
「どこがですか」
「『村の対外的な認知を向上させる』。これ、どないして測りますのん」
「……」
「測れん指標は、指標と違います。ただの願望ですわ」
猫は、赤ペンで線を引いた。
「流入外貨の額。PGの流通量。村外からの照会件数。この三つで組んでください」
俺は、書き直した。
四回目に、通った。
◇◇◇
同時に、告訴状も出した。
代理店四社。業務上横領。
帝国の司法に送ったのは、俺ではなくニャングルだった。ゴルド商会の名義で出したほうが、扱いが早い。
「……いいんですか、それ」
「ええんですわ」
猫は、煙管をふかした。
「うちが出したら、向こうは『商会が本気や』思います。緩衝地帯の交番から来た紙は、たぶん読まれもしまへん」
「……」
「悔しかったら、偉うなってください」
「偉くなっても手取りは変わりません」
「せやったな」
◇◇◇
代理店の反応は、早かった。
三日後、四社のうち二社から返答が来た。
和解の申し入れだった。
契約書に署名がない事実を突きつけられた時点で、争っても勝ち目がないと判断したらしい。ニャングルが返還額を提示すると、一週間で二社とも吞んだ。
残り二社は、争う姿勢を見せた。
ただし、告訴が受理された翌日に、片方の代表が国外へ逃げた。
「……逃げましたか」
「逃げましたな」
ニャングルは、あっさり言った。
「まあ、そらそうですわ。十億近う抜いとったら、逃げますわ」
「回収は」
「三社分は確実ですわ。逃げた一社は、たぶん半分も戻りまへん」
猫は、算盤を弾いた。
「総額、銀貨百八万枚」
「十億八千万です」
「へえ。当初の見込みより、七千万減りましたな」
俺は、暗算した。
納付額、十一億八千万。
回収額、十億八千万。
足りない分は、一億。
◇◇◇
その日の夜、交番に五人が集まった。
机の上に、算盤と、契約書と、天界からの督促状が並んでいる。
「一億です」
俺は、そう言った。
キュララが、畳に座り込んだ。
「……三千万じゃなかったの?」
「一社が逃げました」
「あー」
彼女は、天井を見た。
「じゃあ、無理じゃん」
「無理ではありません」
俺は、天界の書式を引き寄せた。
「分割返済の申請を出します」
「え、そんなのあるの?」
「あります。どの役所にもあります」
俺は、ペンを取った。
「役所は、取り立てるのが仕事です。潰すのが仕事ではありません。払う意思と、払える計画を示せば、大抵は待ちます」
「……本当に?」
「本当です」
俺は、書式に記入を始めた。
「前世で、三回やりました」
「え」
「奨学金です」
◇◇◇
分割返済の申請には、返済計画が要る。
返済計画には、収入の見込みが要る。
収入の見込みには、契約が要る。
だから、村との広報業務委託契約が先に要った。順番が、ようやく繋がった。
「賢者君。報酬額の算定を」
『了解シマシタ。——契約書第四条ノ算定式ニ基ヅキ、前月実績ヲ適用シマス』
「いくらだ」
『月額、銀貨八〇〇枚』
「八十万円です」
キュララが、身を乗り出した。
「え、八十万?」
「はい」
「月に?」
「月にです」
彼女は、しばらく黙っていた。
「……前まで、二億だったんだけど」
「二億のうち、手元に残っていたのは月一万円未満です」
俺は、帳面を見せた。
「三年で三十万ですから」
「……あ」
「八十万のほうが、多いです」
◇◇◇
ここからが、本番だった。
「では、手取りを算定します」
俺は、白紙を引き寄せた。
「ニャングルさん、順に」
「へえ」
猫が、算盤を構えた。
「支給額、銀貨八百枚」
「八十万」
「ここから、天界への納付。下界収益の二割」
算盤が、鳴った。
「銀貨百六十枚」
「十六万円です」
キュララの頭の輪っかが、ちかちかした。
「次、滞納分の分割返済」
ニャングルは、書式を見た。
「一億を、十年の分割。月額、銀貨八十三枚」
「八万三千円です」
「……十年?」
「十年です」
キュララが、畳に手をついた。
「私、三十歳になるじゃん」
「なります」
◇◇◇
「次、住民税と村の共済」
算盤が、鳴った。
「合わせて、銀貨七十枚」
「七万円です」
「次、ポポロ・コーポの家賃」
「銀貨三十枚」
「三万円です」
「次、機材の維持費」
ニャングルが、顔を上げた。
「キュララはん。配信の機材、誰が直しますのん」
「え、今まで代理店が」
「もう、おりまへんで」
「……あ」
「自分で直すか、人に頼むかですわ」
猫は、算盤を弾いた。
「村のドンガン製の工房に頼むとして、月にならして銀貨五十枚」
「五万円です」
◇◇◇
「次、通信費」
「銀貨二十枚」
「次、光熱費」
「家賃に込みですわ」
「次、企画の実費」
ニャングルが、ペンを止めた。
「キュララはん。配信って、金かかりますか」
「かかる」
「なんぼ」
「……前は、月に銀貨二千枚くらい使ってた」
「今は」
「今は、納豆の話しかしてないから」
彼女は、指を折った。
「……納豆代?」
「納豆代は、ワテが出しときますわ」
猫は、算盤を閉じた。
「ほな、実費は銀貨十枚で見ときましょ」
◇◇◇
俺は、最後の欄にペンを置いた。
「では、差引きます」
全員が、黙った。
「支給額、八十万円」
「天界納付、十六万円」
「分割返済、八万三千円」
「住民税と共済、七万円」
「家賃、三万円」
「機材維持、五万円」
「通信費、二万円」
「企画実費、一万円」
俺は、ペンを走らせた。
差し引いた。
そして、顔を上げた。
「——手取り、十四万円です」
部屋が、静かになった。
◇◇◇
「…………え」
キュララが、まばたきをした。
「今、なんて」
「十四万です」
「十四万」
「十四万円です」
俺は、明細を机に置いた。
彼女は、それを覗き込んだ。
指でなぞった。一行ずつ。
そして、顔を上げた。
「……え、待って。なんで?」
「そういう計算になりました」
「いや、そういう計算って」
彼女は、明細を持ち上げた。
「二億だったんだよ!?」
「二億のうち、あなたの手元に残っていたのは」
「三十万! 三年で! 知ってる!」
キュララは、明細を振り回した。
「でも十四万って! なんで十四万なの! 偶然にしては出来すぎじゃない!?」
「偶然です」
「怪しい!」
「賢者君」
『計算ニ誤リハアリマセン。三回検算シマシタ』
「……」
キュララは、明細を抱えて、畳に沈んだ。
◇◇◇
ニャングルが、煙管を咥えた。
「まあ、こないなもんですわ」
「どういうことですか」
「どこの世界も、働いて生きていくと、だいたいこのへんに落ち着きますねん」
猫は、算盤を仕舞った。
「収入が十倍になったかて、暮らしと責任も十倍になりますさかい。結局、手元に残るんは、飯が食えて屋根がある分だけですわ」
俺は、ペンを置いた。
「……ニャングルさんは、いくらですか」
「ワテは商会からですさかい、別枠ですわ」
「いくらですか」
「……そら、まあ」
猫が、煙管を咥え直した。
「言いまへんで」
「言ってください」
「言いまへん」
◇◇◇
そのとき、床で丸くなっていたリーザが、むくりと起き上がった。
「……十四万、ですの?」
「はい」
人魚姫は、ふらふらと机に寄ってきた。
そして、明細を覗き込んだ。
じっと見た。
それから、ゆっくりと顔を上げた。
「キュララ」
「……なに」
「あなた、十四万ですのね」
「うん」
「巡査長も、十四万ですわよね」
「そうだね」
リーザの口の端が、ゆっくりと吊り上がった。
「ふふ」
「なに」
「ふふふふ」
「やめて」
「……ようやく」
彼女は、胸を張った。
「ようやく、同じ土俵ですわね」
「全然違うからね!?」
キュララが、飛び起きた。
「あんた三年で二千百円でしょ! 年間七百円! 月にしたら五十八円! 私、十四万だからね! 二千四百倍だからね!」
「計算が早いですわね」
「今のは早くなる!」
◇◇◇
三十分後。
机の上に、明細が三枚並んでいた。
リオン・フォン・アルディス 手取り 一四〇〇〇〇円
キュララ・アルセルラ 手取り 一四〇〇〇〇円
リーザ・シーラン・リヴァイアサン 三年間の収入 二一〇〇円
キャルルが、それを見て、白い兎耳をぴくぴくさせていた。
「……リオンさん」
「はい」
「うちの村の広報担当と、警察が、同じ給料なんですけど」
「はい」
「偶然ですよね」
「偶然です」
「本当に?」
「本当です」
キャルルは、しばらく明細を見ていた。
それから、飴玉を一つ机に置いた。
「……なんか、いいですね」
「何がですか」
「わかんないですけど」
彼女は、笑った。
「なんか、いいです」
◇◇◇
全員が帰ったあと、俺は分割返済の申請書を清書していた。
天界セレスティア財務局、徴収第三課宛。
十年、百二十回の分割。初回は来月。
書き終えて、判を押したところで、扉が開いた。
キュララだった。
「……まだ起きてるんだ」
「これからです」
「これから寝るの?」
「これから起きます」
「その返し、村長にも言ってたよね」
彼女は、机の前に座った。
手に、給与明細を持っていた。
まだ持っていた。
「巡査長」
「はい」
「これ、聞いていい?」
「どうぞ」
キュララは、明細を机に置いた。
そして、指でその紙を押さえた。
「これ、どうやって生きるの」
◇◇◇
俺は、顔を上げた。
彼女は、真顔だった。
からかっているのでも、笑っているのでもなかった。
「……どういう意味ですか」
「そのまんまの意味」
キュララは、明細を見ていた。
「私、月に十四万で暮らしたことないの。一回も」
「……はい」
「天界にいたときは、全部支給されてたし。下界に来てからは、全部もらってた」
彼女は、指で明細の数字をなぞった。
「だから、分かんないの。十四万って、何ができるの? 何ができないの?」
彼女は、顔を上げた。
「朝ごはんって、いくらするの?」
俺は、ペンを置いた。
その質問に、答えられる用意がなかった。
なぜなら、俺の朝ごはんは、十七年間、ずっとゼロ円だったからだ。
「……キュララさん」
「うん」
「明日、母のところに行きましょう」
「え?」
「あの人、月十四万で三十年やってます」
俺は、立ち上がった。
「聞くなら、あの人です」
読んでいただきありがとうございます。
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