14.決闘
お嬢様と対峙した黒い獣は、自分の臣下たちが結界を張り終えたことを見届けると、臨戦態勢に入りました。
全身の被毛がぶわりと膨れ、また一回り大きくなったように見えました。そして、重苦しい圧力を放つ金色の光が小刻みに溢れてきました。あれがカリダの王の魔力なのでしょう。
「大した魔力だ」
お嬢様が満足げに呟きます。
「貴様はいつまで丸腰でいるつもりだ?」
黒い獣が問います。少し動くだけで、全身の金装飾と鱗がこすれて、ジャラジャラと音を立てています。彼はどうやら、お嬢様が戦闘準備をしないことについて言及しているようでした。
「状況次第だな。なにせ、おまえの部下たちは、少し『見せて』やっただけで白旗を上げたもんで」
「はぁい。そうでーす」
赤脚が小声で呟きましたが、黒い獣の一瞥で気まずそうに視線を逸らしました。
「フン、なるほど。貴様は我が怖気付いて降参することを、大層心配しているというわけだ」
「そうだな」
「そうか、小娘。大した慢心だ」
黒い獣はそう言うと、森全体に轟くような咆哮を上げました。一瞬、息ができなくなるくらいの衝撃。わたくしたちはおろか、二頭のカリダでさえ体を竦ませました。
そして、お嬢様に向かって鋭い爪を振り下ろします。お嬢様はそれを寸前でかわす、というところはいつも通りなのですが、直接当たっていないはずなのにお嬢様のお召し物が裂けてしまいました。周囲の地面は裂けるどころではなく、大きく抉れています。
お嬢様が一歩下がる、その足が地面につく前に。振り抜いた前足を斜めに踏み込み、トゲだらけの長い尾でお嬢様を払いのけてしまいました。
目にも止まらぬ速度とは、このこと。お嬢様は弾き飛ばされ、木々の枝葉の中へ叩きつけられてしまいました。
「そんな……」
体のどこに当たったのか、どこであれ、こんな勢いで叩きつけられたら、もう。うまく思考ができず、動くこともできませんでした。まさか――
「いいな、おまえ!強いな!」
溌剌とした、お嬢様の声。
叩きつけられたその木の根元に軽やかに着地したお嬢様は、服こそ擦り切れているものの、怪我はないようでした。なぜ怪我がないのでしょう。いえ、嬉しいのですが、ほんとうに、なぜ。
黒い獣も同じような疑問を抱いたのか、やや訝るような視線を向けてから口を開きました。
「皮肉にしか聞こえんな」
「まさか。心の底から誉めているつもりだ」
瞳を爛々と輝かせたお嬢様は、姿勢をわずかに屈めると、強く地面を蹴り、即座に黒い獣への距離を詰めました。
まばたきの瞬間に目と鼻の先に現れたお嬢様が、思いきり拳を振りかぶっているのを見た黒い獣は、目を見開きました。――避けられない、そう判断した獣は、口から青い炎を吐き出しました。
けれど、お嬢様は怯みません。煤と噴煙、舞い散る火花をものともせず、拳を振り抜きました。獣の鼻筋を直撃。そのままの勢いでぐるりと回転し、脳天めがけて蹴りを放ちました。
獣がやや身を屈ませ、頭を大きく振ったことで、お嬢様は空中への退避を余儀なくされました。それを追うように、獣は翼を広げてその巨体を浮かせます。
すぐにお嬢様より上空を陣取ると、再び青い炎を吐きながら、お嬢様を押し潰さんばかりにのしかかっていきました。
もう、もう……実況が……実況がとても、追いつきません!壮絶すぎます……
「嬢ちゃんはなんであんなのと渡り合ってんの……?いろいろ規格外だなって思ってはいたけど……」
唖然とするかかしさん。お嬢様の中の人の正体をご存知ないので、その感想は当然と言えます。
「いやあ、すごいね!あんな強い子、見たことないよ」
「それに加えて、魔力量も申し分ない。逸材だな」
二頭のカリダは感心したように見守っています。王様が攻撃されているのに、悠長でよろしいのでしょうか……
「ああ、でもさ。前にものすごく強い人間が来たって噂になったことあったよね」
「あったな。若いカリダたちが軒並み返り討ちにあったと聞いた。だがあれは――」
話が盛り上がっていたところ、突然の轟音。黒い獣の尾の一撃によって薙ぎ倒された木々があたりに散らばり、ところどころ燻っていました。
「まったく驚かされる。人間にこのような強者が存在するとはな」
「それはどうも」
「しかし、それでもなお手の内を見せまいとしているな。さて、どうしたものか」
あくまでお嬢様が物理攻撃のみを使用しているために、お嬢様の本気が見たいと食い下がっている様子。そこまでして戦いたいものなのでしょうか?強い方々のお考えは分からないものです……
わたくしがおそるおそる木こりさんの背中越しに見つめていると、黒い獣もちょうどこちらを見たために視線がぶつかりました。
「ならば、致し方ない」
「?」
「前言を撤回しよう、小娘。守るものがあっては本気を出せないかと思ったが、逆だな」
「おい」
「守るものがあれば、貴様は本気を出さざるを得ないだろう?」
お嬢様が遮る間もなく、黒い獣は口の端からごうごうと炎を激らせました。噴き出る高温に、周囲の景色が揺らぎます。
先程まで和やかに会話をしていたカリダたちは、途端に慌てふためいて、やばいやばいと口々に狼狽えました。
「嘘でしょ!?ここら一帯を焼くつもり!?」
「前も消火が大変だったのに」
二頭の慌てように、かかしさんはわたくしを抱えたまま詰め寄ります。
「この中にいれば安全なんだよな!?」
「まさか!」
赤脚が即答します。
「俺たちの力を合わせた程度でどうにかなる相手なら、彼は王ではないだろうね!」
「納得のできる答えをどうも!」
かかしさんは皮肉を込めて返事をすると、周囲を見回しました。遠くに逃げるべきか、ここにとどまるべきか。どちらが最善か、判断ができませんでした。
「とりあえず、小犬ちゃんは斧くんの鎧の中に入れて……」
「かかしさんは」
「俺は死なないから平気!」
「キギョーヒミツってやつだね」
後方でぎゃあぎゃあと騒ぐわたくしたちと、前方の燃え盛る獣の間で、お嬢様は沈黙していました。わたくしのいる場所からは、その表情をうかがい知ることができませんでした。
けれど、なんとなく。わたくしにはわかるような気がしました。
――お嬢様が、怒っている。
枝葉はじりじりと焦がされ、植物たちは萎れていく、途方もない高温の中。彼女の細い手が、怒りを込めてぎりりと握られました。
「そうだな、力が見たいと言われていたのに、出し渋ったのはこちらだ。だが」
そして、右足で半円を描くように。半歩前に出した爪先を、ぐるりと後方へやりました。半円のちょうど終わりにたどり着くと、恒例の動作。けれどそれは、いつものような軽いノック音ではありませんでした。
一回だけ。たった数センチ、振り下ろされただけ。
「あれらを巻き込むのは、違うだろう」
凄まじいほど渦巻く、魔力の奔流。
身じろぐことさえ許されないほどの重圧の中、炎の音も、風の音も聞こえません。かかしさんも、木こりさんも、カリダたちでさえも。みな、目を見開いたまま誰一人として動きませんでした。
いえ、誰も動かないのではなく、動けなかったのです。
この場のすべてが、お嬢様に支配されている。
同じように動きを止めた黒い獣は、金色の瞳に驚愕をありありと浮かべました。揺らめく炎は勢いを失い、黒い煤に変わっていきます。
一歩、二歩。お嬢様が黒い獣に近付きます。
あと一歩、というところに来て、誰もがこの獣の王の終焉を覚悟した、そのとき。
「ふ……ふふ……ははは、ははははは!!」
なぜか、獣は豪快に笑い始めました。
「ああ、これほどとは!素晴らしい、実に良い!」
「……はあ?」
お嬢様が拍子抜けたように黒い獣を見つめます。気が削がれてしまったのでしょう、あれほど周囲を圧し潰さんばかりだった魔力は嘘のように消えていました。
わたくしたちも、カリダたちも。まだ緊張が拭いきれず、誰も口を開かぬままに二人の会話に耳を傾けます。
「その圧倒的な強さ、底知れぬ魔力。――決めた。やはり貴様が相応しい」
「なんの話だ」
すると、黒い獣は、こう言いました。
「貴様こそ――我が妻となるべき存在だ。結婚しよう」
え?
えっ???
「なに言ってんだ。断る」
ン?????




