12.二頭の獣
きっと、数秒。
赤脚の獣も、後方の獣も。そして、わたくしたちも。誰も動かず、けれど、なにかきっかけがあればすぐにことが起こるような――まさに一触即発の状態が続きました。
数分にも、数刻にも感じられましたが、きっと数秒であったと思います。
はじめに沈黙を破ったのは、赤脚のほうでした。
「なんか踏んじゃったよ。なにこれ」
踏みつぶしておきながら……!?
赤脚は、その前脚が汚れたことがあまり嬉しくないようで、地面に散らばったかかしさんの匂いを嗅ぐと不思議そうに首を傾げていました。
「食べれそうにもないし。そっちは?」
「魔力は感じたが、生物じゃないな。これも食えない」
後方の白い獣はブリキの木こりさんの体をちらりと見て、鼻を鳴らしました。
「じゃあ――やっぱり、この子がいいよねえ。小さいけど、柔らかそうだし」
「そうだな」
赤脚はかかしさんの体を踏み越えて、ゆっくりとお嬢様に近づいてきました。お嬢様はまだ動きません。
「かわいそうに、怖がらなくていいよ。なるべく痛くしないように食べてあげるから――」
身動きひとつしないお嬢様が、怯えているように見えたのでしょう。当然、そのように見えても仕方ないのです。
しかし。彼女は、我らがお嬢様。
凶拳の魔女なのです。
「……そりゃ、結構」
お嬢様がゾッとするほどの笑顔を浮かべました。すっかり油断をしていたはずの赤脚の獣は、本能的に恐怖を感じたのでしょう、反射で後ろへ飛び退きました。
その動作と、お嬢様が目にも止まらぬ速度で拳を振り抜いたのは、ほぼ同時。赤脚の獣の鼻先を掠めました。ほんの少し掠っただけなのに、真っ赤な鮮血が獣の顔にかかりました。
「……あ、え?うそ」
「兄弟!!」
もう一頭の獣が叫び、赤脚への追撃にかかったお嬢様の背中に襲いかかります。お嬢様はわたくしを抱えたまま、体を回転させて鋭い蹴りを繰り出しました。鋭い爪と、お嬢様のヒールがまともにぶつかります。
「……え、」
もう一頭の獣も、砕けた己の爪を見て絶句しました。
「魔女か?この子は……」
「いや違う、魔法なんて使ってないよ……」
二頭は信じられないと言わんばかりに狼狽えて、挟撃のタイミングをすっかり見失ってしまっているようでした。
けれど、お嬢様は止まりません。
「魔力の感知ができるのか?さすがだな」
靴の爪先を、コンコンとレンガに打ち付けます。わたくしはそれを数回見たことがあったので、魔道具である靴の起動の合図なのだろう、となんとなく推測できました。
獣たちはもちろん初見ではありましたが、青い光を放ちながら銀色の靴に変わるその様子を見て、これはまずいと察知したのでしょう。怯えた耳がぺたりと伏せていました。
「あ、うそ、ヤバいって」
「無理だ、これは――」
「つまらないことを言うなよ。少しは骨のあるやつと戦いたいと思っていたところなんだから」
周囲の空気がピリピリと震えます。北の魔女を名乗る彼が怒っていたときのような、緊張感。これがおそらく、魔力によるプレッシャーなのではないかと思われました。
それにすっかり気圧された二頭の獣は、かわいそうなくらいに怯えてしまっていました。こうなると、お嬢様はおもしろくありません。つまらなさそうにため息をつき、片手を払うように振りました。
「……なんだよ、この程度で。おまえたち、カリダだろ?降参すんの早いんだよ」
「カリダ?」
「こいつらの種族の名前」
こっそり口を挟むわたくしに、お嬢様は答えてくれました。二頭の獣――カリダと呼ばれた獣たちは、すごすごと一箇所に集まって不安そうにこちらを見ました。
「……そうだけど、あんたは桁が違いすぎるよ」
「死ぬと分かって挑むほど、無謀じゃない」
このカリダという魔物は、これまで出会った魔物のどれよりも強く、賢いように見えました。物語の中のカリダも、とても強い獣と描写されていたような記憶があります。言葉のとおり、考えなしに命を捨てるような真似はしないのでしょう。
「おまえたちより強いやつはいないのか?」
お嬢様の問いかけに、二頭は顔を見合わせて、なんと返答するか迷っているようでした。並んだ二頭はとてもよく似ていましたが、よく見ると色味や、パーツがところどころ違うように見えました。
複数の動物が混ざっている、キメラのような魔物なのでしょうか。赤脚のほうが少しだけ体高が低く、体毛は灰色みを帯びていて、額からはねじ曲がったツノが片側にだけ伸びていました。
爪の折れてしまったほうは真っ白で、赤脚に比べるとスマートに見えました。手足や尻尾を覆う鱗は美しい青色でした。彼を呼称する特徴が、難しい。赤脚のほうも、手を洗ってしまったら終わりです。が、ここは一旦、赤脚と青脚と呼ぶことにいたしましょう。
さて、口を開いたのは青脚のほうでした。
「……いる。俺たちの王だ」
「おお、カリダの王か。会ったことがないな」
お嬢様は興味深そうに食いつきました。
「正直――あんたを王に引き合わせるべきか、迷っている。俺たちだけでは判断ができない」
「ただ、ここは俺たちカリダの縄張りだからねえ。遅かれ早かれ、王はあんたの存在に気づくよ」
「一向にかまわん。来るならば歓迎しよう」
お嬢様、立場が逆でございます……
「それに……」
青脚がなにか言いかけて、思いとどまり、言葉を飲み込みました。
「いや、なんでもない。王の判断を仰ぐとしよう」
「またね、人間ちゃん。……あ、そうだ」
カリダたちは茂みの中へ立ち去ろうとしましたが、ふと赤脚のほうがこちらを振り返りました。
「友達を殺しちゃって、ごめんねえ。食べれないのに」
そう言うと、赤脚――すっかり固まってしまった血のこびり付いた前脚を振って、彼も去っていきました。
「……」
「謝ればいいって問題じゃないと思わない?」
「生きてたのか、おまえ」
「死なないからね」
カリダたちがいなくなったのを見はからい、かかしさんが血だまりの中から顔を上げました。どうやら、ずっと死んだふりをしていたようです。賢明な判断です。
「まあね、俺はいいのよ。別に。痛いだけだしさ。斧くんのほうは大丈夫なの?」
ブリキの木こりさんはというと、鎧のほうは木の根元でうずくまっていましたが、斧は幹の高いところに刺さったまま、抜けなくなってしまっているようでした。
「手からすっぽ抜けちゃうと、どうしようもないのね」
「改善の余地あり、だな」
お嬢様は少しの助走で木に素早く駆け登り、斧を引き抜いてから着地をしました。そこそこの高さがあったのですが、なんの障壁にもならないのは、いつものこと。
再び鎧に斧を握らせると、鎧はすっかり落ち込んでいるようで、ない頭がうなだれているように見えました。やっぱりちょっとだけ、かわいいです。




