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喧嘩両成敗。

 瞬間、玲花がパイプ椅子を後ろに押しやり、立ち上がった。


 金属が床を擦る甲高い音が、ピリついていた教室の空気を一刀両断する。


「あー、はいはい。ストップ」


 声は軽かった。

 けれど、芯に重りを含んだような、不思議と耳の奥まで届く通る声だった。


「ごめんな〜私ってかわいいから!」


 玲花は、わざとらしく明るいトーンでため息をつきながら、自分の豊かな髪をかき上げた。


「あー、1年の新学期でも同じようなことがあってな〜。その子ら、女の子たちにセクハラ言うて、結局停学なって、そのまま学校やめていったから。あんたらも覚えときや」


 そう言い放つと、ふふっ、と余裕たっぷりに笑ってみせた。


 反論の余地を与えないその態度に、ネパールやフィリピンの生徒たちは目を瞬かせ、教室全体がふっと静まり返る。


 玲花は、一番前の空いている机にひょいと腰掛けると、腕を組んで、あくまで日常の延長のような口調で言った。


「うちら在日も『外国人黙れ』とか、『何言うてるかわからん』とか。たぶん、上の世代からめっちゃ言われてきたんやろなって、今ちょっと歴史の気配したわ」


「……いや、俺は気分が悪いなって思っただけで。そんなつもりじゃ」


 最初に声を荒げた日本人の男子が、毒気を抜かれたように気まずそうに目をそらす。


「ありがとう。私のために怒って言うてくれたんやろ? それは素直に嬉しいわ。でもさ、私以外の話題を楽しく喋ってた子らもおるわけやん」


 玲花は、決して相手を責めるような鋭い視線は向けなかった。

 ただ、事実を並べるように淡々と言葉を紡ぐ。


「刺さる言葉って、考えずに出た時の方が、深くえぐって刺さる時あるで」


 その言葉に、すずは小さく息を飲んだ。


 胸の奥で、母の「時給ひっく」「新しいの買えばいいやん」という何気ない言葉がフラッシュバックする。

 悪気のない言葉。だからこそ、防御する間もなく柔らかい部分に突き刺さる言葉。


 玲花は、今度はネパールの生徒たちの方へ、まっすぐに顔を向けた。


「でも、あんたらもやで。みんなで同じ空間におる時は、誰かを締め出さん言葉で喋ろうや。ここで一番通じるのは『日本語』やねんから。人のことを言う時には、特に、な」


 ネパールの子たちは、眉間にしわを寄せ、難しい顔をしている。


 完全に納得したわけではなさそうだった。

 むしろ、自分たちのグループだけが一方的に注意されたと受け取っているようにも見えた。


 その重苦しい空気を切り裂くように、教室の前の扉がバンッ!と勢いよく開いた。


「はいこんにちはー! ぜーんぶ、廊下で聞かせていただきましたぁ!!!」


 佐伯先生だった。

 相変わらず寝癖のついたぼさぼさの黒髪を揺らし、小脇にヨレヨレの出席簿を抱えている。


「お前ら、ちゃんと『ごめんね』が言えるまで外で待っとったんやけどな。流石に足が痺れ切らしてもうたわ」


 誰もすぐには答えられず、気まずい沈黙が落ちる。


 佐伯先生は教卓の前に立つと、出席簿をドンッと置き、教室全体を見渡した。


「結論!! どっちもどっちや!!!」


 少し間を置いてから、佐伯先生は、最初に声を上げた男子生徒の目をじっと見据えた。


「お前さ、なんであんなにイラついたか、自分でもちゃんとわかっとるか」


 男子は、唇を噛んだまま黙っている。


「自分にわからん言葉で、自分の方を見て笑われたら、そら『自分らのこと馬鹿にしてんのか』って思うやろ。言葉がわからんから確認もできへん。反論もできへん。ひたすらもやもやする。それは、人間として正直な気持ちや。そこは否定せん」


 佐伯先生は、一拍置いた。

 そして、その声の温度をすっと下げた。


「でもな。その『言葉が通じないもやもや』を、何日も、何ヶ月も、ずっと抱えて生きてる人間がおる。日本語を一生懸命しゃべってるのに、名前だけで、顔だけで、毎日そういう目で見られとる人間が、今、この教室にもおるんや」


 教室が、水を打ったように静まり返った。


 玲花は何も言わない。ただ、静かに伏し目がちに床を見つめていた。

 天馬も、深いタートルネックに顎を埋めたまま、鋭い目を細めている。

 すずは、自分の心臓の音が教室中に響いているのではないかと思うほど、胸を高鳴らせていた。


 佐伯先生は、特定の誰かを見ることはしなかった。

 ただ、そこにいる生徒全員の心に直接語りかけるように、静かに続ける。


「お前が今日、たった一瞬感じたその恐怖や不快感を、毎日毎日やられたら、お前は何年黙っていられる?」


 男子生徒は、もう反論の言葉を持たなかった。


「お前は、あいつらを黙らせたかったんやろ。でもな、力で黙らせた人間が、そこから消えてなくなるわけちゃうぞ。声を出せなくなったまま、お前と同じ教室に、ずっとおるだけや」


 佐伯先生の声は、いつもの飄々としたトーンとはまるで違う、地を這うような低さだった。


「日本語、頑張って覚えてくれ。それは俺からもお願いする。でもな、自分たちの母国語を持ってることは、恥でも罪でもない。その二つは、全く別の話や。そして、相手がわからんからって、言うたらあかん侮辱の言葉を吐くのは、ほんまに卑怯で、あかんことや。そこは、お前らが謝れ」


 それから、佐伯先生はぐるりと首を回し、今度は日本人の生徒たちの方を鋭く見据えた。


「お前らもお前らで、知らん言葉で喋られたからって、過剰に防衛してすぐイライラすんな。あいつらだって、ただ今日のご飯の話とか、しょうもないことで喋っとーだけの時もある。確認もせんといきなり敵意剥き出しで食ってかかったんはお前らが悪い。だから、そこはお前らが謝れ」


 先生の言葉は、どちらにも平等に重く響いた。


 それでも、教室の空気はまだ少し硬く、張り詰めたままだった。

 ネパールの生徒たちは、佐伯先生の早口の関西弁が混じる日本語を、すべては理解できていないようだった。

 彼らの表情には、未だに不満と、壁を作ったような警戒心が残っている。


 その時だった。


 隣の席で、天馬がゆっくりと立ち上がった。

 椅子の脚が床を擦る音が響き、すずは驚いて彼を見上げた。


 天馬はまず、苛立ちを見せていた日本人の生徒たちの方を見た。


「……知らん言葉で固まって喋られたら、ちょっと怖いんは、わかる。怒ってるんか、笑ってるんか、自分らのこと言われてるんか、わからん時あるからな」


 それから、海外から来た生徒たちが身を寄せ合うように固まっている後方へ、静かに視線を向けた。

 そして、口を開いた。


「Hey… you get it too, right? When people speak Japanese really fast and you can’t catch what they’re saying, it can be kind of scary.」


 滑らかで、低く響く、完璧な英語だった。


 教室の空気が、劇的な魔法でもかけられたように、一瞬で変わった。


 すずは、天馬が何を言っているのか、単語の端々しか聞き取れなかった。

 でも、その声が、いつものぶっきらぼうな天馬からは想像もつかないほど、穏やかで、深く、落ち着いていることだけはわかった。


 天馬は、怒るでもなく、相手を論破しようとするわけでもなく、ただ事実を優しく提示するように言った。


「どっちも同じやねん。わからん言葉で周り固められたら、人はちょっと怖くなる。その輪の中に入られへんから。

 It’s the same on both sides. When people are talking in a language you don’t understand, you can’t tell if they’re angry, joking, or talking about you. You can’t get in.」


 ネパールやフィリピンの生徒たちの顔から、少しずつ険しさが抜けていく。

 天馬は、少しだけ声をやわらげた。


「So when we’re all together, let’s use Japanese. Here, that’s the language everyone can share.」


 言葉の意味を理解したネパールの子たちが、顔を見合わせ、小さく頷いた。


 天馬は、再び日本人の生徒たちの方へ向き直った。


「今、『みんなでおる時は日本語使おうや』って言うた。ここでは、それが一番みんなに通じるから」


 さらに、天馬は言葉を続ける。


「But when it’s just you guys, speak whatever language you want. Your home language, your own language — you don’t have to throw that away.」


 今度は、日本人の生徒たちを真っ直ぐに見据える。


「でも、お前らだけで喋る時は、好きな言葉で喋ったらええって言うた。家の言葉とか、自分らの言葉とか、そういうのまで消さんでええって、あいつらに言うた」


 天馬の声は、静かだが、揺るぎない強さを持っていた。


「それ聞いて、すぐ『外国人だけで固まるな』とか言うなよ。あいつらの言葉まで取り上げる権利は、こっちにはない」


 それからまた、ネパールの子たちの方を向く。


「Just build us a bridge when we’re all together. Then we can cross over too.」


 天馬は、大きな肩をすくめた。


「ただ、言葉わからんからって人を侮辱するようなことを言うのはやめろ。Stop saying insulting things to people just because you don't understand their language.

 ……視線でわかるからな。それだけや。橋かけろって話で、言葉捨てろって話ちゃう」


 天馬が言い終わると、教室は、水を打ったような、しかし先ほどまでの刺々しい沈黙とは違う、温かな静寂に包まれた。


 さっきまで苛立っていた男子が、気まずそうに、しかし素直に目をそらした。


「……陰口を言ってないやつにも怒鳴ったんは、悪かった」


 小さく、そう呟いた。

 ネパールの生徒の一人も、天馬の目を見て、少しだけ頷いた。


「ごめんね」


 その拙い一言で、空気を覆っていた氷が完全に溶け落ちた。


 佐伯先生が、ぱん、と大きく手を叩いた。


「はい! この話、いったん終わり! 誰かを黙らせるための時間ちゃうからな。次、始業式の大量のプリント配るでー!」


 教室の空気が、ようやく本来の新学期のそれに戻り、少しずつざわめきが動き始める。


 その時、後ろの席の誰かが、ポツリと小さく言った。


「……西倉って、何人なん?」


 天馬は、座りかけたままで、少しだけ面倒くさそうな顔をした。


「何人って何やねん」


「いや、英語バリうまいし。帰国子女?」


「ああ」


 天馬は、少しだけ宙を見て考えた。


「……ヒマラヤや」


「ヒマラヤ?」


「ヒマラヤの方や。ざっくり言うたらな」


「ざっくりすぎるやろ」


 陸が、机に突っ伏したままぼそっとツッコむ。


「しゃーないやん、ややこいねんって。俺も二世のしかもクオーターやからな。いろんな血混ざっとーし。チベット、イギリス、日本が混ざっとる。でも日本から出たことない。ただ、小さい時は、外人に囲まれて育ったから、英語は得意なだけや」


 天馬は、何でもないことのように軽く言った。

 軽く言ったけれど、すずには、その言葉の裏に、ほんの少しだけ何か重たいものを隠したように見えた。


『いつか、本当の故郷に帰るかもしれないから』


 そう言われて、親に幼い頃から英語を徹底的に覚えさせられてきたという過去を、天馬は誰にも言わなかった。


 教室の空気が、完全に緩んだ。


 すずは、座り直した天馬の横顔を見上げた。


 すごい、と心から思った。

 英語がペラペラに話せることも。

 あの張り詰めた教室の空気を、一瞬で変えたことも。

 どちらかを悪者にして怒るのではなく、両方に「橋」となる言葉を届けたことも。


 ただ、すずの口から飛び出たのは、その胸の高鳴りや感動を、まったく正確に表していない、ひどく間の抜けた言葉だった。


「す、すごいね! 何言ってるか、私、全っ然わからんかったよ!」


 一瞬、教室の時間が止まった。


「それって俺の言うてることがおかしいって意味?」


 次の瞬間、佐伯がバンッと教卓を叩いて叫んだ。


「タスケテーー!!!!!」


 陸と玲花が吹き出した。


「そこなんや。感動するポイント、そこなんや」


 教卓では、佐伯先生までが出席簿で口元を隠し、必死に肩を震わせている。


 天馬は、信じられないものを見るような目で、すずを見た。

 そして、深くため息をついた後、呆れたように笑った。


「お前……ほんまに、声は小さいのに、たまに変なとこだけ強いな」


「えっ。今のは、純粋に褒めたつもりやったのに……!」


「褒め方、だいぶ独特やぞ」


 すずは、自分の失言に気づき、耳の先まで真っ赤にしてうつむいた。


 でも、教室の空気は、さっきよりもずっと、ずっと軽くなっていた。


 玲花が振り返り、すずに向かってビシッと親指を立てる。


「バンビ、ええ仕事したわ」


「何もしてないで……ただ素直な感想言っただけで……」


「したした。パンパンに膨らんだ空気に、針刺して穴開けた」


「穴……」


「深呼吸できる、息できる穴や」


 すずは、照れくささと恥ずかしさで、言葉に詰まった。


 窓の外には、春の神戸の海が広がっていた。

 二月に初めてこの教室から見た時より、春の光を反射して、少しだけ明るく、きらきらと輝く海だった。


 この教室には、知らない言葉がある。

 知らない名前がある。

 知らない痛みがある。


 でも、もしかしたら。


 それぞれが少しずつ、自分から橋をかければ、向こう側へ渡れるのかもしれない。

 すずは、天馬の横顔を見つめながら、そんなことを思った。


 そして、チャイラテのエキゾチックで甘い香りがまだ少し残る指先で、佐伯先生から回ってきた始業式の真新しいプリントを受け取った。


 ***


 その日の晩。


 すずは、西宮の狭いアパートのベッドの上で、今日撮った写真をインスタグラムに投稿した。


 国際会館の美しい庭園の写真と、緑のロゴマークがついたプラスチックカップの写真。


『おいしかったです!

 #初めてのスタバ』


 文字を打ち込み、送信ボタンを押す。

 新しい世界に少しだけ足を踏み入れたような、くすぐったい達成感があった。


 さらに夜が更けた頃。


 尼崎の家で、天馬はベッドに寝転がりながらスマホを開いた。

 タイムラインの一番上に、すずの投稿が上がっていた。


『おいしかったです! #初めてのスタバ』


 その無邪気な一文と写真を見て、天馬の口元が自然と緩む。


 昼間、カップを両手で大事そうに持ち、パッと花が咲いたように笑ったすずの顔が鮮明に蘇ってきた。


 迷わず画面のハートマークをタップする。


 だが、その直後、目に入ったコメント欄を見て、天馬の表情が一瞬で凍りついた。

 ガバッと上半身を起こし、画面を凝視する。


【コメント】

 haruka: よかったやん! 三郷ちゃうけど、隣の王寺にあるで。スタバ。

 suzu: え、やっぱり!? でも行ったことなかったや〜

 haruka: すず、チャリ乗らんもんな。帰ってきてよ。俺が連れてったるから。

 suzu: スタバのために?!

 haruka: 草 やっぱいつものマクドでもいい? DMする


<俺が連れてったるから>

<DMする>


 天馬の胸の奥で、カチリと何かが嫌な音を立てた。


 暗い部屋の中、スマホのブルーライトに照らされた天馬の顔から、一切の表情が消えている。


 この名前を、すずの投稿の中で見たのは初めてではなかった。

 でも、勝手に女だと思っていたのだ。



 三郷。王寺。

 すずの地元の地名だ。

 そして、「いつものマクド」という、日常を共有していた者だけが使える特権的な響き。


 天馬は、無意識のうちに画面を強くタップし、その『haruka』というアカウントのアイコンに飛んでいた。


 見たくないような気もした。

 自分には関係のないことだと言い聞かせる理性もあった。

 けれど、指を止めることはできなかった。


 相手のプロフィール画面には、地元の風景、満開の桜の下で笑う男子高校生たちのグループショット、こってりとしたラーメンの写真が並んでいる。


 その中に、一つだけ、明らかに異質の投稿があった。


 女の子が一人で映っている動画。


 天馬は息を止め、そのサムネイルをタップした。


 画面の中で動いているのは、紺色のセーラー服を着たすずだった。

 長い黒髪を下の方で緩く二つ結びにして、奈良の実家にあるであろうアップライトピアノの前に座っている。


 キャプションには、短い一言だけが添えられていた。


『#俺のリクエスト』


 動画が再生される。


 スマホの小さなスピーカーから流れ出たのは、今日、国際会館の陽だまりの中で、すずが弾いていたあの曲だった。


 人魚姫が、手の届かない世界へ切実に手を伸ばす、あの旋律。

 今日、天馬の心を激しく揺さぶり、無断で写真を撮ってしまうほど魅了した、あの圧倒的なピアノ。


(――『俺の』リクエスト?)


 天馬は、スマホを握りしめる手に、ギリッと力を込めた。


 今日、初めてすずの本当の姿を見たと思っていた。

 初めて彼女の音を聴き、初めて彼女にスタバの味を教えたのは、自分だと思っていた。


 だが、すずには、自分の知らない過去がある。


 この「haruka」という男の前で、あのセーラー服を着て、あの美しい曲を弾いて聴かせていた時間がある。

「いつもの」場所で、当たり前のように時間を共有していた男がいる。


 ズキリと、胸の奥の柔らかい部分が、焼け焦げるように痛んだ。


 低く、ドスの利いた声が部屋に落ちる。


「……誰やねん、こいつ」


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