バンビ。初めてのスターバックス in神戸国際会館
四月。
木々の梢がそっと色づき、世界が新しい絵の具で塗り替えられる季節がやってきた。
新しい学年が始まった。
その日も、すずは朝から『ベーカリー ツバメ』でアルバイトに励んでいた。
ただ、今日は始業式だけなので、学校が始まる時間がいつもより遅い。
十二時にバイトを終えてから三宮へ向かっても、時計の針はまだ一時前を指しており、集合時間まで一時間ほど贅沢な空白が生まれてしまった。
三ノ宮駅の改札を出たところで、すずは所在なく立ち尽くした。
まっすぐ学校へ行くには早すぎる。
かといって、この大都会の真ん中で、どこかへ行くあてもない。
すずは、いつものようにイヤホンを耳につけた。
大好きなピアノ系ユーチューバーの、指先から光が零れ落ちるような演奏を流す。
軽やかなピアノの旋律が鼓膜を震わせると、知らない街の尖った雑音が、オブラートに包まれたようにやわらいでいく。
「……探検、してみよかな」
誰も聞いていないのをいいことに、すずは小さくつぶやいた。
それは、ひっそりとした冒険の始まりだった。
フラワーロードを大股で歩き、そびえ立つロフトに入ってみる。
文房具の階で、パステルカラーの小生意気にかわいい付箋を見つけ、手に取る。
だが、裏返して値札を見た瞬間、頭の中で「パン屋の時給」が電卓を叩き、そっと元の棚に戻した。
初めての給料日は3月だった。2月は少ししか働いていないので2万円もなかった。
すずは、ママとおばさんに何か買おうと思ったけれど、特に買えるものもなく、結局ケーキを買って帰ったのだった。ママとおばさんはとっても喜んでくれたけれど、お金はあっという間に1万円を切った。
自分で交通費くらいは払おうと思っていたので、残さなければならない。
そういう風に考えを巡らせると、おいそれとは使えない懐事情だった。
それでも可愛いお店は次々に現れる。
吸い込まれるように石鹸の店に入ってみる。
甘い果実の匂い、気高い花々の匂い、鼻に抜ける柑橘の匂いが、目に見えない煙のように混ざり合っている。
神戸、楽しい。
すずは、胸の奥を小さな指でくすぐられたように、少しだけそう思った。けれど、楽しいという感情が頭をもたげるたびに、底に沈んでいた澱のような罪悪感が、ゆらりと浮き上がってくる。
お母さんはあんなに必死に働いているのに。
私たちの家族は、あんなに呆気なく壊れてしまったのに。
お父さんはもう、別のどこかで生きているのに。
春休みの間、父からの連絡は一度たりともなかった。
自分自身がアルバイトや新しい生活に追われ、この街を「楽しい」と感じてしまう日々の中で、ふと思う。もしかしたら、お父さんも、あの女の人と、同じように「楽しい」日々を送っているのかもしれない、と。
小さかった頃は、二人でよく出かけた。
吉野の山に登って、降るような桜の下でお弁当を食べたり。
三郷町の町民プールで、父の広い背中にしがみついて波に揺られたり。
黄金色に波打つ曽爾高原へ、秋の風に吹かれながらススキを見に行ったり。
イオンモールのきらびやかなおもちゃ屋で、顔を上気させながらクリスマスプレゼントを選んでもらったり。
数え上げればキリがないほど、そこには確かな「愛された記憶」があった。
高校は、父の母校に行くことが決まった時、あの人がまるで自分のことのように破顔して喜んでくれたことを、今でも鮮明に覚えている。
思えば、自分とお父さんは、決して仲が悪かったわけではなかったのだ。
ただ、大人の世界の複雑な噛み合わせの悪さが、私たちを切り離しただけで。
そう思うと、鼻の奥がツンとして、視界がじんわりとにじむ。
(パパ、すずは元気だよ。パパは今、どこでどんな顔をして笑ってる?)
スマートフォンの画面を開き、メッセージを送ろうと文字を打ちかけては、指が止まる。
結局、一文字も送れずに画面を閉じた。
(もう、赤ちゃん産まれたかな……)
ふとした拍子に、そんな思考の迷路に迷い込んでしまう。
でも、三宮の賑やかな街を探検していると、その足取りが思考を物理的に振り払ってくれた。
かわいいものは、理屈抜きにかわいい。
ロフトの文房具を見て回るだけでも、胸の弾みは止まらない。
三宮の街は、歩みを進めるたびに、見たこともない万華鏡のように新しい景色を差し出してくる。
すずは、少しだけ胸の荷物を軽くして、神戸国際会館の中へ足を踏み入れた。
エスカレーターを乗り継ぎ、上へと上がっていく。
そこに広がっていたのは、都会の喧騒が嘘のように静まり返った、息をのむような空間だった。
外の人混みが幻だったかのように、空気がひんやりとやわらかい。
美しく手入れされた緑のある庭園。
ガラス越しに降り注ぐ、惜しみない春の光。
巨大なガラス窓に映し出された、吸い込まれそうな青空。
すずは宝物を見つけた子供のようにスマホを取り出し、何枚かシャッターを切った。
その時だった。
空間の角、大きな柱の裏に、ぽつんと佇む影に気づいた。
スロープの壁に沿うようにして、一台のアップライトピアノが置かれている。
すずは、磁石に引き寄せられるように足を止めた。
電子ピアノではない。
木と鉄とフェルトが呼吸する、本物の、生のピアノだ。
艶やかな黒い木目は鏡のように光を返し、足元には少しだけくすんだ金色のペダルが三つ、静かに並んでいる。
鍵盤の蓋の向こうには、整然と並ぶ白と黒のストライプ。
それを見た瞬間、胸の奥のいちばん柔らかい場所が痛んだ。
奈良の実家に置いてきてしまった、あのピアノの姿が重なる。
小さい頃から、嬉しい時も、泣きたい時も、ずっと鍵盤に触れてきた。
飛び抜けて上手くなりたかったわけじゃない。
コンクールに出て、華々しい賞をかっさらうような才能もない。
けれど、譜面を開き、音を紡いでいる時間だけは、誰にも侵されない「自分の部屋」にいるように安心できた。
けれど、ピアノという楽器は、あまりにも重く、大きすぎる。
ただ移動させるだけでも、高校生の手には負えない大金がかかる。
西宮のけっして広くないマンションにあのピアノを連れてくるには、場所も、お金も、何もかもが足りなかった。
「そんなん、またいつかお金が貯まったら、新しいの買えばいいやん」
荷造りの最中、お母さんは何気ない調子でそう言った。
悪気はなかったのだと思う。
日々の生活を立ち上げるだけで精一杯だったのだから。
でも、そのあまりにも軽い一言で、ピアノの引っ越しはあっさりとなかったことにされた。
すずは、口をキュッと結んで、口角だけを無理やり上げて、頷いたのだった。
ほとんど無意識にピアノへ歩み寄っていた。
そっとあたりを見渡す。
誰もいない。
いや、厳密には人は行き交っているけれど、こちらに注意を向けている者は一人もいない。
(どうせ、ここには私の知っている人なんて誰もおらんし。)
そう自分に言い聞かせ、ピアノの椅子を引いた。
かたん、と乾いた小さな音が空間に響く。
椅子に腰掛け、もう一度だけ、世界を確認するようにあたりを見渡す。
やはり、誰もこちらを見ていない。誰もすずに関心を持っていない。
すずは耳からイヤホンを外し、ポケットに入れた。
ふう、と深く張り詰めた息を吐き出す。
そっと、鍵盤の上に指を乗せた。
鍵盤から指先へと伝わる、ほんのりとした冷たさ。
最初の一音を、そっと押し込む。
ポーン――。
その瞬間、すずの口角が自然と上がるのを、自分自身で確かに感じた。
生のピアノの音だ。
電子ピアノのスピーカーから出るデジタルな音とは、根本から違う。
指にかかる鍵盤の適度な重み、音が立ち上がる瞬間の鋭さ、そして、楽器全体が身震いして周囲の空気を震わせる震動。
すべてが、すずの身体を歓迎するように包み込んだ。
そして少しだけ、風の中に海の匂いを感じた。
(海の匂い…よし、この曲だ)
すずは、小さい頃から何度も何度も弾いてきた、大好きな曲を弾き始めた。
海の世界の人魚姫が、人間の世界、自分の知らない眩しい世界に憧れ、焦がれる曲。
海の向こう。
まだ見ぬ、光の満ちる場所。
決して届かないかもしれない世界へ、それでも切実に手を伸ばす旋律。
曲名を頭に思い浮かべるだけで、すずの中にある言語化できない何かが、切なく、激しく震え出す。
指先は、さっきまでの迷いが嘘のように滑らかに動き始めた。
クレッシェンドしていく音の波が、国際会館の静かな庭園を満たしていく。
すずの心は、音の翼を得て、どこまでも高く舞い上がっていくようだった。
その頃。
天馬、陸、玲花の三人も、始業式までの所在ない時間を潰すために、たまたま国際会館へと立ち寄っていた。
「庭園でも行くー?あそこ穴場やし」
玲花が長い髪をかき上げながら言った。
「俺、静かなとこなら、どこでも秒で寝られる」
陸が気怠そうに、長い手足を揺らす。
「陸さん、いっつも寝る前提やんけ」
天馬がマウンテンパーカーのポケットに手を突っ込んだまま、呆れたように笑う。
三人がエスカレーターを降り、光の差し込む庭園の方へと足を踏み入れた、その時だった。空間の静寂を切り裂くように、美しいピアノの旋律が響いてきた。
玲花が、履いていたヒールをピタリと止める。
「あれ……?」
柱の向こう、陽だまりの中に置かれたピアノの影を覗き込んだ瞬間、玲花の切れ長の目が、こぼれ落ちそうなくらい大きく見開かれた。
「あ、ちょっと待って! あれ、バンビやん!?」
その声に反応して、陸も眠そうな瞼を押し上げた。
「……え、マジで? めっちゃくちゃうまいやん」
天馬は、何も言わなかった。
ただ、言葉を失ったように、その場に釘付けになっていた。
ピアノの前に座るすずは、いつもの教室で見せる、借りてきた猫のようなすずとは、完全に別人だった。
いつもは小さく内側に縮こまっているはずの肩が、今は美しく、まっすぐに伸びている。
小さな指が、鍵盤の上を一条の光のように迷いなく躍動している。
春の柔らかな日差しをその身に浴びて、すずの黒い髪が、光の加減で少しだけ淡い茶色に透けて見えた。
抜けるように白い頬に光が反射し、アップライトピアノの漆黒のボディに、彼女のはかなげな横顔がぼんやりと、だが美しく写り込んでいる。
パン屋でバイトしたからだろうか。いつもは下がっている髪が、今日は高い位置でかわいいポニーテールになっている。服装も、転校してきたばかりの頃と少しばかり、この2ヶ月で神戸らしくなっていた。
白いシャツワンピに、ファミリアのショルダーストラップにスマホをつけて肩からかけている。中に黒のキュロット。黒い靴下に黒いローファーを履いていて、どこかおしゃれだ。(本人は伯母の言う通りに着ているだけなのだが)
天馬は、ほとんど本能的にポケットからスマホを取り出していた。
画面を向け、親指を動かす。
カシャッ。
静かな空間に、無情にもシャッター音が響いた。
鋭い聴覚を持つ玲花が、すぐさま天馬の脇腹を小突いて突っ込んだ。
「ちょっと天馬、無断撮影はJKのコンプライアンス的にアウトやで」
「……ピアノ撮っただけや」
天馬は顔を耳まで赤くしながら、ぶっきらぼうに言い張る。
「いや、バンビが画角のど真ん中に黄金比率で収まっとるけど」
「……あとで消す」
「消す人間の顔ちゃうやん、それ。家宝にする顔やん」
天馬はそれ以上答えず、ただスマホの画面を凝視した。
曲が、最後の盛り上がりを見せ、劇的な和音が響き渡る。
人魚姫の祈りのような最後の残響が、ゆっくりと、ゆっくりと庭園の空気に溶けて、消えていった。
すずは、胸を優しく上下させながら、少しだけその余韻に浸っていた。
それから、宝物をしまうように、そっと両手を膝の上に戻す。
その静寂を切り裂いて、玲花が盛大に、頭の上でパチパチと拍手をした。
「わーーー! すごいやんバンビ!! ウチ、大感動したわ!!」
「ひゃぅあッ!?」
すずは文字通り、椅子の上で3センチほど垂直に跳ね上がった。
心臓が口から飛び出るかと思った。
慌てて振り返ると、そこには満面の笑みの玲花、眠そうなのに目が輝いている陸、そして、なぜかスマホを握りしめたまま固まっている天馬の三人が立っていた。
全身の血の気が一瞬で引いたかと思うと、次の瞬間、沸騰したお湯のように熱い血が顔面に駆け上がってくる。
「え、えええええ!?な、ど、え!? リョンファちゃん?! 陸くん?! 天馬くん?! い、いつからそこに、おったん!?」
「最初から」
玲花がこれ以上ないほどのドヤ顔で言った。
「さ、最初から……!?」
「うん。人魚姫が海の底でフォーク持ってウダウダ言うてるとこくらいから」
「そ、それほぼ曲の最初!!」
「せやな。ばっちり聴いてたわ」
陸が深く頷く。
「そ、わ、私、わ、わわ、わ、!」
「わ?」
玲花が楽しそうに首を傾げる。
すずはぎゅっと目を瞑った。
「わ!!忘れてくださーーーい!!」
すずは椅子から飛び起きると、リュックをひったくるように掴み、脱兎のごとく走り出した。
「あ、バンビ逃走!!」
玲花が声を張り上げる。
「野生のバンビや。捕獲せな」
陸が他人事のように言う。
「……俺が行く」
天馬が、その長い脚を活かして、すぐさま驚異的なスピードで歩き出した。
「来ないでください! これは、その、音楽性の違いですーーー!」
すずは迫り来る天馬の足音に恐怖し、振り向きもせずに絶叫した。
「ストリートピアノ弾いといて何の音楽性の違いやねん!」
玲花のキレのあるツッコミが、国際会館のスタイリッシュな空間に木霊した。
結局、すずは庭園から続くスロープを下りきる前に、あっさりと天馬に追いつかれた。
天馬は決して乱暴に腕を掴むような真似はしなかった。
ただ、すずの斜め前にすっと回り込み、その行く手を大きな体で優しく遮った。
ぽすん。。
すずの鼻先が胸板に当たることで、逃亡劇はあっという間に終わった。
わわわ!と声を出して慌てて離れようとすると、そっと肩を掴まれたと思えば、屈んで首元に顔が伸びてきた。
「あ、今日も甘い匂いする。」
「ち、近い近い!近いですって!」
「なーなんで逃げたん?」
「に、逃げてないっ」
すずは息を荒くしながら、必死に距離を取ろうとする。
「めちゃくちゃ逃げてたやん」
「い、いいい移動!高速移動です!」
「音楽性の違いで?」
「……はい」
自分で言っておいて、すずは穴があったらマントルまで掘り進んで埋まりたい気分になった。
恥ずかしさで耳まで真っ赤だ。
天馬は、そんなすずを見て、タートルネックの下で楽しそうに口元を緩めた。
「……綺麗やった」
その、低くて飾らない一言に、すずの動きがピタッと止まった。
「……え」
「ピアノ。」
「あ、あれは、その、昔からちょっと、習い事でやってただけで……」
「ふーん。だいぶ綺麗だった。」
すずは、もう完全にキャパシティオーバーだった。
ぼん!!!
音が鳴るんじゃないかて勢いで、赤くなる。
生まれてこの方、こんなにストレートに褒められた経験がない。
しかも、それを天馬の口から、あの真っ直ぐな瞳で見つめられながら言われると、視線をどこに泳がせればいいのか完全に迷子になる。
後ろから、ようやく玲花と陸がケラケラ笑いながら追いついてきた。
「バンビ、とんでもない隠し芸持ってるやん! ウチ聞いてない!」
「隠してたわけじゃ……」
「いや、あれは隠しすぎの財宝レベル。あんた、もっと自分を出していこ?」
「どこに、ですか」
「人生に」
「スケールが大きいな」
陸が真顔で、玲花の肩を叩く。
「まあ、でもマジでピアノは普通にリスペクトや。かっこよかった」
「あ、ありがとう……?」
「相変わらず声は小さいけどな」
「それはもう、生まれつきの仕様なんです!」
すずが頬を膨らませて抗議すると、三人の間に温かい笑いが弾けた。
そのまま、玲花の「バンビの素晴らしいピアノに乾杯せなあかん」という強引な提案により、下の階にあるスターバックスへ行くことになった。
「バンビのピアノ記念パーティーや!」
「や、やめてリョンファちゃん!恥ずかしい!」
「ええやん。ほら、始業式までまだ時間あるし。ウチがオシャレな注文の仕方教えたるわ」
「わ、私、スタバ、人生で初めてやし、そんなハイソなとこ行かれへんよ」
すずが蚊の鳴くような声で告白した瞬間、玲花が歩行者の誰もが振り返るほどの勢いで目を剥いた。
「えええええ!!!???」
国際会館のロビーがびりびりと震えた。
「スタバ初めて!? この令和の時代に!? 現役JKで!?」
「だ、だって! 奈良の家の近くにはマクドしかなかったし! おしゃれすぎて結界張られてるみたいで入れなかったし……!」
「奈良って、スタバないん?」
陸が素朴な疑問を投げかける。
「あ、ある。 多分? いや見たことはある! 大きいイオンの中とか、道路沿いに看板あったもん! ただ私の生活圏というか、人生の軌道上に存在しなかっただけで!」
「バンビ、今日ほんま未知の文明との接触、文化交流の日やな」
陸が眠そうに、しかしどこか楽しそうに言った。
スターバックスのレジ前に立つと、すずは頭上のメニューボードを見上げた。
そして、完全に石化した。
高い。
異次元に、高い。
呪文のような名前が並ぶ飲み物一杯で、ベーカリーツバメでの超過酷なカスタード撹拌労働(時給1100円)の、約半分が消し飛ぶ計算になる。
すずの目が、驚愕でこれ以上ないほど見開かれた。
「た、高い……。水筒のお水でいい……」
心の中で呟いたつもりが、完全に声に漏れていた。
天馬が横からスッとメニューを見上げる。
「……俺が奢ったる」
「えええ! いやいや、いいです! そんな天馬くんに悪いし、大丈夫です!」
「ええから。初スタバの記念」
「でも……」
「何がええねん。何系が好きなん」
「わ、わからないです。全部呪文に見える。グランデ? フラペチーノ?」
「甘いのと苦いの、どっちがいい」
「甘いのが、いいです。できれば苦くないやつ……」
「ほな、チャイティーラテとかどう?」
玲花が横から顔を突き出して、メニューの一角を指さした。
「シナモンとかスパイスが入った、甘くてエキゾチックなやつ。バンビ、絶対好きそう」
「スパイス甘い……? カレーみたいな匂いですか?」
「カレーは入ってへんわ! 飲んだらわかるって」
「じゃ、じゃあ、それで……お願いします?」
結局、天馬の有無を言わせぬ男気に押し切られる形で、すずはチャイティーラテをご馳走してもらうことになった。
天馬がスマートにスマホで払う姿を、すずは拝むような気持ちで見つめていた。
緑のロゴがついたカップを受け取り、割れ物を扱うような手つきで、少し緊張しながら一口すする。
温かい液体が口の中に広がった。
甘い。
けれど、ただ砂糖が甘いだけではない。
濃厚なミルクのコクと紅茶の風味、そして、今まで嗅いだことのない不思議で心地よいスパイスの香りが鼻腔をくすぐる。
どこか異国の、少し大人っぽい味がした。
「……お、おいしい……!」
すずは、パーッと視界が開けたような顔をして、天馬を見上げて笑った。
「天馬くん、私、これ、すごく好き!」
満面の、一点の曇りもない笑顔。
「大好き!」
その瞬間、天馬が「ぶっ」と小さく吹き出すようにして、口元をガシッと手で押さえてしゃがみ込んだ。大好き!の文字がダイレクトにハートに直撃したような衝撃を受けた。
玲花が、それを見てニヤニヤと目を細める。
「あー……。わかりやす」
陸も、アイスコーヒーのストローをくわえたまま、生温かい目で天馬を見た。
「えー……。ごちそうさまです」
「……何やねん、お前ら」
天馬が、タートルネックに顎を埋めたまま、二人を鋭く睨みつける。
「別に? ウチら何も言うてへんよなー、陸?」
「おん。天馬の顔がチャイラテより赤くて綺麗やなーって思っただけ」
「その『別に』が一番別にちゃうねん! 」
天馬が完全にパニックを起こして顔をそらす。
すずは、そんな三人をよそに、初スタバを記念すべく、チャイティーラテのカップを持って写真を撮りまくっていて三人の会話に気づかなかった。とにかくチャイティーラテは最高に美味しかった。
甘くて、あたたかくて、新生活の始まりを祝福してくれるような、特別な味がした。
始業式の時間が近づき、四人は賑やかに喋りながら学校へ向かった。
ビルの二十五階に上がると、廊下の大きな掲示板の前に、黒山の人だかりができていた。
水曜木曜の午後クラスは、全体で2クラスに分かれており、今年度の新しいクラス分けがそこに貼り出されているのだ。
「え、待って。ウチら四人のうち、誰か一人でも離れたらガチで終わりやん」
玲花がいつになく真顔になって呟いた。
「終わりはせんやろ。同じフロアなんやし」
陸がいつもの調子でなだめる。
「終わる。ウチの精神衛生が著しく損なわれる。主に天馬の機嫌が悪くなって、ウチへの当たりが強くなる」
「俺はいつでも通常運転や」
天馬がフンと鼻を鳴らす。
すずも、胸の奥がぎゅっと不安で縮こまった。
この学校に来て、まだ知り合いと呼べる人は片手で数えるほどしかいない。
二十五階のあの教室に少しずつ馴染めてきたのは、他でもない、玲花と陸と天馬、そして佐伯先生がそこにいてくれたからだ。もし別のクラスになってしまったら、またあの、息もできないような孤独な初日からやり直しになってしまう。
すずは祈るような気持ちで、貼り出された名簿の文字を目で追った。
――白玲花。
――松本陸。
――西倉天馬。
――鈴木すず。
四人の名前が、同じ縦の列に並んでいた。
「あったーーー!!!」
玲花が廊下で快哉を叫んだ。
「全員一緒!! はいウチらの勝ちーーー!!」
「だから、何に勝ったんや」
陸が苦笑する。
「運命。神様の気まぐれに勝ったんよ」
「でかいな、相変わらず」
すずは、張り詰めていた肩の力が抜け、心の底からほっと胸をなで下ろした。
「よかったぁ……」
本当に安心しきった声が口から漏れると、玲花がすかさずこちらを振り返った。
「ちょっとバンビ、今のリアクション、めちゃくちゃ可愛いやん!」
「えっ、あ、え?」
「『よかったぁ……』って、ウルウルした目で。何それ、守りたい小動物感ギネス一級やん。ウチが一生守ったる」
「あ、ありがとう?でも、守らなくて大丈夫……」
「大丈夫ちゃうやろ」
横から、天馬がボソッと口を挟んだ。
すずは、少しだけむっとした。子供扱いされているような気がしたからだ。
「大丈夫!私、パン屋でカスタードも混ぜてるし、体力ついてきたし」
「二回言う時は、大体大丈夫ちゃうって玲花が言うてた。あと、カスタードは関係ない」
「もうっ! 天馬くん、そういう細かい変なセリフばっかり覚えやんでいいのっ!」
すずが少し声を張り上げて抗議すると、玲花が「あはは!」と大ウケして、天馬の背中をバシバシと叩いた。
教室に入ると、席順は一旦自由だそうで、四人は自然と教室の後の方、いつもの定位置に近い場所へ腰掛けた。
見渡すと、そこには見慣れた去年の顔もあれば、今日初めて見る顔もあった。
ネパールやフィリピンといった東南アジア圏から来たらしい生徒たちが、今年から一気に増えたと、以前、佐伯先生が話していたのを思い出す。
彼らは教室の後方の席で数人で固まり、すずには逆立ちしても聞き取れない早口の異国語で、熱心に話し合っている。
身振り手振りを交えて明るく笑っているだけのようにも見えるし、何か強い口調で言い合っているようにも見える。
そして――彼らの視線が、玲花の方を向き、あからさまに何かを品定めするように、ニヤニヤと笑いながら大声で話している。
今日の玲花の服装は、いつも以上に刺激的、いわゆるセクシー系だった。
身体のラインにピチッと密着した白いTシャツは、彼女の豊かな胸の形をこれでもかと強調しており、短めの裾からは、動くたびにおへそが見え隠れしている。デニムのミニスカートは、驚くほど低い腰の位置で止められていて、そこから伸びる健康的な美しい生足が眩しい。そこにダボっとしたメンズサイズのカーディガンを羽織り、艶やかな長い髪はゆるく巻かれていて、すれ違うだけでクラクラするような甘い香水の匂いが漂っていた。
当の本人は、アプリを開いて、何やら漫画を熱心に読んでいる。時折、長い髪をかき上げると、「ヒュー」と口笛が飛ぶが、本人は全く気づいていない。
すずは、教室内を流れる不穏な空気に、少しだけ身を硬くした。
「言葉がわからない」というのは、想像以上に恐怖心を煽り、心細さを爆発させる。
始業式のチャイムが鳴る直前、教室の一角で、ついに張り詰めた糸が切れるような、小さなざわめきが起きた。
「……なあ!日本語で喋れや!!」
日本人の男子生徒のひとりが、不機嫌そうに言い放った。
声自体は、それほど大きくはなかった。
けれど、その言葉が引き金となり、教室の空気が一瞬で氷点下まで凍りついた。
ネパールとフィリピンの生徒たちが、ピタッと話すのをやめた。
一人が不快そうに眉をひそめる。
別の一人が、カッとなって何か言い返そうとしたが、隣の大人しそうな子に腕を掴まれて止められた。
「何言うてるかさっぱりわからんねん。女見てニヤニヤ笑うなや、気分悪い」
男子生徒がさらに言葉を重ねる。
「ニヤニヤしてない」
「僕たち、ただかわいいねって話してるだけ」
フィリピン系の男子生徒が、拙いながらも、少し怒りをにじませた日本語で言い返した。
その時だった。
ダン!!!!
机を叩く音が響いた。
「うわっびっくりした!なんなんいきなり!」
壁際に座る陸。その横の席で、そこでスマホをいじっていた玲花がびっくりして声をあげる。それまでずっと机に突っ伏して寝ていると思われていた陸が、ゆっくりと上半身を起こし、机を拳で叩いたのだ。その目は、いつもの眠そうな生ぬるいものではなかった。
凍てつくような、冷徹な光を宿した三白眼。
「きゃあ!」
陸は玲花の座る椅子をつかむと、無理やり自分の方へ引き寄せた。
ガリガリとパイプ椅子が床をする嫌な音がする。
「な、なんなん!急に!」
「そこに居れよ」
椅子を無理やり自分の後ろまで引っ張った。そして玲花が周りから見えないように胸を張って座り直すと、周りを睨みつけた。
そうして陸が放った一言は、教室中の全員の背筋を凍らせるほどに、強烈で、容赦のないものだった。
「――お前らの国籍とか事情とか、どーでもえーけどな」
陸の声は、驚くほど低く、ドスの利いた静けさを持っていた。
「さっきから、玲花の体ジロジロ見て、ニヤニヤ汚ねえ言葉で喋るなボケ。次同じことしたら、セクハラと侮辱罪で、その場で警察に通報したるからな。カス。」
一瞬、クラス全体の呼吸が止まった。
陸の放った剥き出しの敵意と、玲花を守ろうとする強烈なまでの男気に、海外アジア人グループも、最初に文句を言った日本人の男子生徒も、完全に威圧されて声を失った。
が、それでも挑発をやめないフィリピンの子たちがいた。
「それじゃあこっちも暴力罪で訴えてやる」
その言葉を受けて、陸が右の口角をスッとあげ、立ち上がった。そしてその横に、天馬が立つ。すずは、あまりの緊迫感に背中がひやっと冷たくなるのを感じた。
「さっき玲花を見ながら言った言葉を、日本語でそのまま言うてみろや」
天馬は、口笛を吹いていたアジア系の子を指差して言い放った。
「言わへんねやったら俺が言うたろか?
Linta?Malandi?Kalapating mababa ang lipad …やったか?
わかっとるぞ。You guys sexually insulted her, didn't you?」
「!」
「悪いけど、俺も喋れんねんやん。訳したろか?お前ら、停学か退学やぞ。」
(喧嘩になる――!)
新しいクラスが始まった瞬間に訪れた、最悪の一触即発の空気。
すずはゴクリと固唾を呑んだ。




