お前、なんか、めっちゃ甘い匂いする
次の週の水曜日も、すずは朝からパン屋でアルバイトをしていた。
指定された黒いワンピースに、白いフリルのエプロンをつけ、三角巾を頭に巻く。
鏡の前で「よし」と小さく気合を入れて、厨房のドアを開けた。
『ベーカリー ツバメ』で働き始めて、まだ数日しか経っていない。 けれど、朝七時の店の空気には、少しだけ慣れてきた。
オーブンの熱。 次々と焼き上がるパンの香ばしい匂い。 バターと小麦粉と砂糖の混ざった、甘くて幸せな空気。 厨房の奥では、店長が職人の顔つきで黙々と生地を捏ねている。
2階の居住ゾーンからは、お子さんたちの元気な声が聞こえてくる。二階から「母さん、弁当どこー!」という男の子の声がして、真帆さんが「あーもう圭太! 遅刻するで!」と怒鳴った。真帆さんは子どもたちを送り出すとお店に降りてくる。
「鈴木さん! それクリームパンちゃう、カスタードデニッシュやで! 形、よく見て!」
奥さんの明るい声が飛んでくる。
「ああっ、すみません! どっちも黄色くて丸いからつい……!」
今日は、カスタードクリームを煮る手伝いもさせてもらった。 大鍋の中に、卵と牛乳をたっぷりと入れる。かき混ぜていると、砂糖が少しずつとろりとしてくる。
焦がさないように、ひたすら木べらで混ぜ続ける。 これが、思っていたよりも腕が疲れるのだ。
甘い匂いは最初こそ天国のように幸せだったが、十分も火の前に立っていると、全身の毛穴という毛穴にカスタードが染み込んでいくような気がした。
「鈴木さん、混ぜる手ぇ止めたらあかんで。クリームはな、男心と一緒や。目ぇ離したらすぐ拗ねるし、ちょっと放置したら焦げ付いて修復不可能になる」
奥さんが真顔で、とんでもない持論を展開し始めた。
「お、男心って、拗ねるんですか?」
「拗ねる。めちゃくちゃ面倒くさいで」
「それに……焦げるんですか!?」
「焦げる焦げる。真っ黒こげや。うちの店長なんかしょっちゅう焦げてるわ」
「俺は焦げてない」
奥のオーブンから、店長の低い声がボソッと挟まる。
「細かいなあ、もう」
奥さんがケラケラと笑う。 すずもつられて、ふふっと笑ってしまった。
十二時にバイトを終え、帰り際、店長がまた「余った」と言って、具がぎっしり詰まった小さなサンドイッチを持たせてくれた。
(開店してまだ五時間しか経ってないのに、もう余るのかな……?)
すずは、もうそれが本当に余ったものかどうかを追及しないことにした。
「あ、ありがとうございます!」と深くお辞儀をして、店を出る。
更衣室で着替えて駅に向かう途中、すずは何度も自分の髪の毛の匂いを嗅いだ。
シャンプーの匂いは完全に消え去り、パンとカスタードの甘い匂いがしっかりと住み着いている。
(うう……私、今、完全に歩くカスタードクリームや……)
そんなことを気にしながら、三宮行きの電車に乗った。
二十五階へ上がるビルのエレベーターは、相変わらず混んでいた。 授業開始の少し前。 生徒たちが一斉に上へ向かう時間だ。
すずは、奥の方へ押し込まれないように、でも人の邪魔にならないように、壁際でできるだけ小さくなって立っていた。
その時だった。
「――お前、なんか、めっちゃ甘い匂いする」
頭の上から、低い声が降ってきた。
すずは「ひゃっ」とカエルが潰れたような声を上げて、肩を跳ねさせた。
バッと振り向くと、すぐ隣に天馬が立っていた。 黒いマウンテンパーカーのチャックを上までしっかりしめて、タートルネックで口元を隠している。 その少し眠たそうな目で、すずをじっと見下ろしていた。
(ち、近い近い近い!! いつの間に!?)
「おはよー」
耳には相変わらず、丸いピアスがいくつも光っている。 人が多いせいで距離が近く、そのハスキーな声は、すずの耳の奥に直接響いた。
「あ、え、あ、わ、私……?」
すずが慌てて自分を指さすと、天馬は無言でこくりと頷き、少しだけ顔を近づけてきた。
すん、と鼻を鳴らす。
「っ……!」
(嗅がれた!? 今、完全にカスタードの匂い嗅がれた!!)
化粧っけのないすずの顔が、みるみるうちに赤く染まっていく。 すずは慌てて、両手で自分の髪の毛を押さえた。
「あ、た、多分、今日、ああああアルバイトで!」
「うん?」
「か! カスタードクリーム、大鍋で煮て。だから……」
「クリーム?」
「う、うん。駅前のパン屋で、バイト始めたねん…」
「へえ」
天馬は、少しだけ目を細めた。 口元はタートルネックで隠れているけれど、なんとなく笑っているような気がした。
「ええやん。カスタード」
「う、うん。まだ全然慣れてなくて、毎日パニックやけど……」
「朝?」
「うん。七時から十二時まで」
「それで、そのまま学校来てんの?」
「うん。水曜と木曜は、ちょっと走らないと間に合わないんやけどね」
「……ようやるな」
感心したような声で言われて、すずは少しだけ照れくさくなった。 えへへ、と笑いかけて、ふと思い出す。
「あ、天馬くんは? 何かお仕事してるの?」
「俺?」
天馬は、少し考えるように視線を上へ向けた。
「色々。土方もするし、喫茶店でもバイトしとーし」
「えっ、力仕事もしてるんや。きょ、今日も?」
「おう。午前中、ちょっとだけ現場出てから来た」
「そっか」
すずの胸の奥がきゅっとした。 天馬も、朝から働いて、それからこの二十五階の教室に来ているのだ。 なんだか、同志を見つけたような、不思議なあたたかい気持ちになった。
すずは、天馬の顔を見上げて、ふわりと柔らかく笑った。
「そっか。……お疲れ様!」
それは、本当に何の気なしに出た言葉だった。 誰かに「お疲れ様」と言うことは、今までにもあった。母にも、先生にも。 でも、朝から汗を流して働いて、これから一緒に授業を受ける同級生にかける「お疲れ様」は、少しだけ特別な重さを持っている気がした。
その瞬間。 天馬の目が、見開かれた。
「――っ!」
「?」
すずは不思議に思って小首を傾げた。
「どうしたん?」
「……なんもない」
天馬は、タートルネックの上からさらに口元を手で覆い、バッと顔をそらした。
よく見ると、ピアスの光る耳たぶが、ありえないくらい真っ赤になっている。
(えっ? 私、何か変なこと言った……?)
その時だった。
スパーンッ!!
「ったぁっ!」
小気味良い乾いた音がエレベーター内に響き、天馬が頭を押さえてしゃがみ込んだ。 いつの間にか背後に立っていた佐伯先生が、ボロボロの出席簿で、天馬の頭を容赦なくフルスイングで叩いていた。
「もーやめてくれー!! バツイチの前で昼間っから甘ったるい空気出すなー!!!」
「いった……何すんねん!」
「エレベーター内の糖度が急上昇して胸焼けするわ! 俺の血糖値上げんといてくれー!!!!」
佐伯先生が叫ぶ。
「違います。そんなんじゃないです」
天馬が、頭を押さえながら、珍しく早口で言い返した。
「じゃあ何や今の赤い顔は。カスタードの匂いにやられたんか。西倉、お前は匂いから落ちてくタイプか」
「違います」
「ほな耳か? すずちゃんの純度100%の『お疲れ様』で鼓膜からやられたんか?」
「違いますってば!!」
「違うしか言えんのか。国語の語彙、もっと増やせ。ほら、着いたぞ降りろ」
チン、と間抜けな音を立てて、エレベーターの扉が開く。
すずは、二人が何の話をしているのかさっぱりわからなかった。
(糖度? 純度? なんの話……?)
ただ、自分がまた何か無自覚にやらかしてしまったのかもしれない、ということだけはわかる。 なので、とりあえず見なかったことにして、すずはそそくさと教室へ向かった。
その日も、玲花は太陽みたいに明るく声をかけてくれた。
「バーンビ! アルバイト始めたんやってー?」
「あ、う、うん! パン屋さん!」
「えー、いーやん! 絶対かわいい! バンビのエプロン姿、似合ってるの目に浮かぶわー」
「あ、え、か、かわいい……? へへ、ありがとう」
陸は相変わらず机に突っ伏して眠そうだったが、帰りのエレベーターでは、すずと玲花の前に自然に立って、他の生徒から押し潰されないように壁を作ってくれた。
天馬はというと、時々すずの方を見ては、何か言いたそうに口を開きかけ――結局、またタートルネックに口を埋めてプイッとそっぽを向く、という謎の行動を繰り返していた。
(やっぱり、カスタードの匂い、嫌だったのかな……明日から消臭剤振ろ……)
週2だけの学校。何日か、来るたびに、少しずつ、すずはこの教室に馴染んできた気がした。
すずの前の席は玲花だ。
授業でグループ活動をする時や休み時間、玲花はすずの方を振り返って、二人は楽しそうに喋った。
すずの何気ない一言に玲花が突っ込み、二人で笑う。そんな時間が過ぎていった。
そして数日経った、帰りのHRが終わった時だった。
「あ! バンビ! ラインとインスタ教えてよー」
「えっ、あ、う、嬉しい! ありがとう!」
その瞬間、
すずは慌ててリュックからスマホを取り出し、二人は頭を突き合わせてラインを交換した。
「やったー、バンビげっと! えへへ」
「あ、あの、玲花ちゃんのID、『ryon』なんやね」
すずが画面を見て言うと、玲花はサラッと笑った。
「うち、在日やねん。白怜華って書いて、学校ではレイカ。けど家ではリョンファって呼ばれてる」
「リョンファちゃん……かわいい名前」
「仲ええ子には、そっちで呼んでほしいねん」
「んー、もうちょっと慣れたら呼び捨てね! あ、インスタも教えてよ!」
可愛くウインクされて、すずはこくこくと何度も頷いた。
「わー三ノ宮駅初上陸は笑うwいいね押しとくー!」
玲花は流れるように、いいねをタップして、笑った。
「じゃあ記念に写真撮ろ! バンビ、手でハート作って!」
「ハ、ハート!? こ、こう……?」
「あはは、バンビの指、なんかカニみたいになってるー! 貸して、こうやってくっつけるねん!」
二人は指と指を合わせて不格好なハートを作り、窓から見える海に向かって写真を撮り、お互いのインスタのストーリーにあげた。
その日の夜。
布団に潜り込んだすずは、スマホの画面を見て目を丸くした。
アップした写真に、いくつか「いいね」がついていた。 その通知の中に――。
『tenmaがあなたのストーリーズを「いいね」しました』
「わぁ……! 天馬くんだ!」
すずは思わず、布団の中でバタバタと両足をばたつかせた。 胸の奥で、トクン、トクンと心臓の音が大きくなる。
(天馬くん、見てくれたんや……カニみたいなハート、笑ってないかな……)
画面を見つめていると、顔がじんわりと熱くなってきた。
その日から、すずが何気なくあげる写真に、『tenma』『ryon』『riku』のいいねが増えていった。
パン屋の帰り道。
甲子園口の空。
伯母が淹れてくれた紅茶。
少しだけ形の悪いハート。
そんな写真に、ぽん、と小さな通知がつく。
『tenmaがあなたの投稿に「いいね!」しました』
それだけで、すずは布団の中でスマホを握りしめてしまう。
こっそり『tenma』のアイコンを押してみると、そこには現場の空や、喫茶店のまかないらしい写真、川沿いの夕焼けが並んでいた。
(天馬くん、こういう写真撮るんや……)
すずは少し迷ってから、夕焼けの写真にそっといいねを押した。
しばらくして、フォロー通知が来た。
『tenmaがあなたをフォローしました』
「わ」
声が出た。
すずは慌ててフォローバックした。
続けて、『riku』からもフォローが来た。なぜか投稿は、作業靴とラーメンと、半分寝ている空の写真ばかりだった。
そして、奈良に残してきた友達からのいいねも嬉しかった。
haruka:友だちできたんやー!よかった!
suzu:ありがとう♡
ハルカは、奈良にいた頃からの幼なじみだった。
小学校も中学校も同じで、家も近かった。
急な引っ越しで、急に離れてしまったから、こうしてコメントをくれるだけで、胸の奥が少し温かくなる。
画面の向こうに、奈良の友達がいる。
画面のこっち側に、新しくできた友達がいる。
いいねやコメントがつくたびに、すずは布団を被って、一人でにやにやと笑ってしまうのだった。
水曜と木曜。
二十五階の教室。 海の見える窓。 パン屋の匂いが残った手。
そうやって、すずの二月と三月は、アルバイトと学校という新しい居場所の中で、不安定だけれど少しずつ、たしかな形を持ちはじめた。
そして、パン屋のバイトで、レジ打ちがスムーズにできるようになってきた頃。
春休みが明けた。
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