表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/31

ベーカリー ツバメ

 鈴木すずは、丸テーブルの上で、求人誌・タウンワーク関西と睨めっこをしていた。


「すず! もうちょっと離れてみなさい、目悪なるよ!」


 そう言いながら、伯母の紗英がテーブルにパンを並べていく。


「これねぇ、ドンクのパンよ。美味しいねんから」


 昨日のうちに買ってきてくれたドンクのパンが並んでいる。

 クロワッサン、くるみパン、チーズの入った小さなパン。


 さらに、甲子園口駅の近くにある有名な紅茶屋、ムレスナティーハウスのかわいいパッケージの紅茶まで淹れてもらう。

 パッケージには、可愛くておしゃれな女の子のイラストが書かれていて、朝のすずは、ほんの少しだけ浮かれていた。


 紅茶からは、甘い果物みたいな香りがした。


(なんか……めっちゃお洒落な匂いする。マスカット? いや、桃? そもそも紅茶に果物の匂いがついてる…なんか不思議や)


 奈良の家では、朝はいつも冷蔵庫の麦茶か、お湯を注ぐだけのインスタントのカフェオレだった。

 可愛い名前のついた紅茶を、わざわざお洒落なポットで淹れる生活など、すずの知っている日常には存在しなかった。


 けれど、その小さな高揚は長く続かなかった。


 金曜日、学校はない。

 土曜日も、日曜日も、月曜日も、火曜日も、ない。


 水曜と木曜の午後だけ高校生になるというのは、つまり、それ以外の五日間は、高校生ではない「何者でもない時間」を自分でどうにかしなければならない、ということだった。


 母の恵美は、朝から慌ただしく身支度を整え、大阪の淀屋橋駅というところへ出勤していった。

 大阪で一番のビジネス街で、西宮から四十分ほどかかるらしい。

 黒いボブの髪をきちんと整え、化粧をして、保険会社の営業員らしい「大丈夫そうな顔」を作って玄関を出ていった。


 紗栄もそのあとすぐ、保育所へ出勤した。


「お昼、冷蔵庫に昨日の残りあるから食べや。困ったら電話してな。ほんまにしてな。遠慮したら怒るで」


 そう言い残して、紗栄は風のように自転車の鍵を持って飛び出していった。


 そして、リビングは一気にしんとなった。


 段ボールがまだいくつも積まれた部屋。

 片づききらない食器。

 祖母のものだった古い棚。

 カーテンの向こうから差し込む、二月の終わりの薄い光。


 その中で、すずは昨日、甲子園口駅でなんとなく手に取ってきたタウンワークを開いていた。


 カフェ。ファミレス。パチンコ屋。紅茶専門店。コンビニ。スーパーのレジ。ドラッグストア。

 求人情報は、思っていたよりもたくさんあった。


 それなのに、ページをめくればめくるほど、すずの気分はみるみる下がっていった。


『経験者歓迎』

『経験者優遇』

『明るく接客できる方』

『元気に挨拶できる方』

『土日祝入れる方歓迎』


(……うっ、全部、私じゃない気がする。「経験者歓迎」ってことは、裏を返せば「未経験者は足手まといです」ってこと? 「明るく接客できる方」って、私みたいな日陰のキノコみたいな人間は、もうその時点で書類選考落ち……)


 すずは、接客をしたことがない。

 レジを打ったこともない。

 パチンコ屋には入ったことすらない。


 明るく接客できる方、と書かれると、それだけで喉の奥がきゅっと固まる。


 昨日の教室で、西倉天馬に言われた言葉を思い出す。


 ――声、ちぃっさ。


(ううう、なんで思い出してしまうん、ばかすず! 声くらい…出るやろ?)


「い、いらっさいませ」


 一人で言ってみて、誰もいないのにすずは赤面した。

 タウンワークの紙面に並ぶ文字が、急に遠くなった。


 働きたい、とは思っていた。

 父の稼ぎがなくなった。母と二人で暮らしていく。

 伯母の紗栄に住まわせてもらっている。いつまでも甘えているわけにはいかない。

 試験なし、面談のみで入れる定時制高校を選んだのも、働ける時間があるからだった。


 働ける。働かなければ。


 そう思っていたのに、求人誌を前にしただけで、すずはすっかり怖くなってしまっていた。


「……うー、あかん!」


 すずは、タウンワークをそっと閉じた。


 気分を変えようと思った。

 リビングの隅には、伯母の紗英が保育の練習や行事の伴奏に使っている電子ピアノが置いてある。

 白ではなく、少し古い黒い電子ピアノ。

 譜面台には、子どもの歌の楽譜が何冊か立てかけられていた。


 すずは椅子に座り、電源を入れた。


 小さい頃から続けている習い事は、ピアノだけだった。

 得意、と胸を張れるほどではない。

 コンクールに出て賞を取ったこともない。

 けれど、譜面を見れば、だいたいの曲は弾けた。

 音符を追って、指を動かしている時だけは、余計なことを考えなくて済む。


 すずは、昔よく弾いていた曲を選んだ。

 最初の一音が、静かなリビングに落ちる。音は、思っていたよりも柔らかかった。


 指は少し硬い。昨日の緊張がまだ残っているのか、思ったより滑らかに動かない。

 それでも、二小節、四小節と進むうちに、体が少しずつ覚えていた感覚を取り戻していく。


 けれど、途中で、前の学校の合唱コンクールを思い出してしまった。


 高校に入ってすぐ、クラス対抗の合唱コンクールがあった。

 すずは伴奏をした。

 大きな体育館、舞台の上のグランドピアノ、緊張で冷たくなった指先。


 終わったあと、クラスの子が言った。


「来年も、すずが弾いてよ」


 何気ない言葉だった。でも、すずは嬉しかった。

 来年も。当たり前のように、そこに自分がいると思ってくれたことが、嬉しかった。


(その「来年」は、もうないんよ……)


 高校のクラスの面々の中には、保育園から一緒だったメンバーもいた。


 保育園の前には、龍田大社と言う有名な神社があり、境内にある公園でよく遊んだ。

 小学校に行っても、

 中学校に行っても代わり映えのないみんな。

 その半分が進学する高校に行った。

 顔見知りが多いからこそ、内気なすずでもすぐに馴染めた。

 それなのに…。


 境内の公園で、幼なじみがくれた引っ越し祝い。

 お揃いのスマホのストラップが、ピアノと一緒に少しだけ揺れた。


 すずは、曲の途中で手を止めた。鼻の奥がツンとする。

 電子ピアノの音が、リビングに薄く残って、すぐに消えた。


 静かだった。静かすぎた。


 この部屋は、まだ自分の家の匂いがしない。

 紗英の生活の匂いと、段ボールの紙の匂いが混ざっている。

 母の荷物も、すずの荷物も、まだ部屋の中に「置かれている」だけで、暮らしになっていなかった。


 すずは椅子から立ち上がった。

 このままここにいたら、気分が沈んで底につきそうだった。


 課題のプリントと、スマホだけを鞄に入れる。

 ダッフルコートを羽織り、玄関で靴を履く。


 外へ出ると、二月の空気が頬に冷たかった。


 すずはイヤホンを耳につけた。

 大好きなピアノ系ユーチューバーの演奏を流す。

 軽やかなアレンジの音が耳に入ってきて、少しだけ呼吸が楽になる。

 ピアノの音は、自分が弾いても、人が弾いているのを聴いても、すずにとっては小さな逃げ道だった。


 甲子園口の駅前まで歩いた。

 昨日は緊張で気づかなかった細かいものが、今日は少し見える。


 自転車で通り過ぎる人。

 スーパーの袋を下げたおばあさん。

 学校帰りらしい小学生。

 パン屋の前を通るたびに流れてくる、香ばしい匂い。


 スマホで検索すると、近くに図書館があった。行ってみることにした。


 図書館は、思っていたよりも落ち着いた場所だった。

 外の冷たい風と人の声が、ドアを一枚隔てただけで遠くなる。

 すずは勉強できる席を見つけ、佐伯先生からもらった課題プリントを広げた。


 課題は難しかった。

 でも、黒板に書いてあった天馬の丸印を思い出しながら教科書を開くと、少しだけ解けた。


 ――ここ、来週の小テストで出る。


 天馬の声が頭の中でよみがえる。

 声ちぃっさ、と言われた時の、あのちょっと面白がるような顔も一緒に思い出してしまう。


(あーもう、なんで思い出してしまうん?)


 すずは慌てて頭を振った。今は課題だ。

 そう思い直して、プリントに鉛筆を走らせる。


 一時間ほどたった頃には、一枚目の半分くらいが埋まっていた。

 完璧ではない。間違っているかもしれない。でも、真っ白ではなくなった。


 それだけで、すずは少しだけ安心した。


 帰り道。

 駅の近くのパン屋の前を通りかかった時、すずの足が止まった。


『ベーカリー ツバメ』

 そう書かれている看板の下、紺色の窓枠のガラス戸の横に、小さな紙が貼ってあった。


<求人 朝七時から十二時まで アルバイト募集

 初心者歓迎 丁寧に教えます。ツバメ店主、葉鳥誠一郎>


 すずは、その文字を食い入るように見つめた。

 店主の名前の横に、四つ葉のクローバーをくわえた、かわいいツバメのイラスト。


(かわいい…お店もおしゃれや…)


 朝七時から十二時まで。水曜と木曜の学校は十三時からだ。間に合う。

 他の日も、午前中なら働ける。


 初心者歓迎。

 経験者優遇ではない。経験者歓迎でもない。


(え、こんなん昨日貼ってあったかな…高校生でもいいんかな…初心者歓迎って、私も含まれる?)


 初心者歓迎。


 その言葉だけで、すずの胸の奥に小さな明かりが灯ったような気がした。


 店の中をそっと覗く。

 お腹の大きな女の人が、にこやかにレジを打っていた。

 頬がふっくらしていて、明るい声でお客さんに「ありがとうございます」と言っている。

 棚には、焼きたてのパンがぎっしり並んでいた。


 その時だった。


「あっ」


 店内で、おばあさんが小さく声を上げた。


 足元が少しもつれたのだろう。手に持っていたトレイが斜めになり、パンがいくつか床へ落ちた。

 おばあさん自身も、ゆっくりと膝をつきそうになる。


 すずは、考えるより先に体が動いていた。

 ドアを開けて店に入る。


「だ、大丈夫ですか」


 声は小さかったかもしれない。でも、足はちゃんと動いた。


 すずは、おばあさんのそばにしゃがみ込んだ。

 落ちたパンを直接棚へ戻さないよう、トレイの端にそっと寄せる。

 それから、おばあさんに手を差し出した。


「ゆっくりで、大丈夫です」


「あら、ごめんなさいねえ」


 おばあさんが、すずの手につかまって立ち上がる。

 すずはその腕が細いことに少し驚いた。


 レジにいたお腹の大きな女の人が、慌ててこちらへ来た。


「すみません、ありがとうございます! お怪我ないですか?」

「私は大丈夫です」


 おばあさんが言う。


「パン、落としてしもて」

「いえいえ、それは大丈夫です。お怪我がなくてよかったです」


 奥から、無口そうな男の人も出てきた。

 体格がよく、白いエプロンに小麦粉がついている。店長らしい。


 男の人は、落ちたパンを見てから、すずの方を見た。


「ありがとう」


 低い声で、それだけ言った。


「あ、いえ」


 すずは慌てて首を振った。


「たまたま、外にいて」


 お腹の大きな女の人が、すずの顔と、入口に貼られた求人の紙を交互に見た。

 そして、ぱっと表情を明るくした。


「ねえ、ひょっとして、アルバイトに興味ある?」

「えっ」


 すずは固まった。


「さっき、求人の紙見てたよね?」

「み、見てました……」


「ちょうどいいやん! ちょっとお茶飲んでいきなよ」

「え、いえ、そんな」


「いいからいいから。寒かったやろ。紅茶淹れるし」

「いえ、本当に」


「ほら、店長。奥の席、片づけて」

 店長は無言で頷き、奥へ引っ込んだ。


(うー! 待って待って待って! 断る隙が1ミリもないけど、どうしたらいいの!?)


 すずは完全に流れに飲まれていた。

 気づけば、店の奥の小さなテーブルに座っていた。


 目の前には、シフォンケーキが置かれている。

 ふわふわの生地に、軽い生クリーム。小さく切られたいちごとキウイが散らしてあって、見るだけで甘い。

 隣には、ムレスナティーの紅茶がカップに注がれていた。


 朝、伯母に淹れてもらったものと同じ店の紅茶だ。

 甲子園口では、ムレスナティーは思っていたよりずっと身近な存在らしい。


「食べて食べて。試作品やから」


 お腹の大きな女の人が言う。


「あ、ありがとうございます」


「名前は?」

「鈴木すずです」


「ほとんど、すやん!あはは!」

「よ、よく言われます」


「私、葉鳥真帆、よろしくね!見ない顔やね。最近引っ越してきたん?」

「はい。奈良から来ました」


「奈良! 遠いとこから来たねえ」

「母と、昨日……」


 すずは、そこまで言って少し言葉を止めた。

 離婚して、とは言えなかった。

 女の人は、それ以上無理に聞かなかった。


「高校生?」

「はい。一年生です。三宮の、定時制高校に昨日転校したんです」


「え、ちょうどええやん!」


 女の人は、手を打つようにして言った。


「うち、朝の時間の人が欲しかってん。私、もうお腹大きいやろ。朝からずっと立ってるの、そろそろしんどくて。上にも子どもが三人もおるのよ。七時から十二時まで入れる子、探しててん」


 すずは、求人の紙を思い出した。

 朝七時から十二時まで。初心者歓迎。丁寧に教えます。


「あの……私、バイトしたことないんですけど」

「最初はみんなそうよ」


「レジも、したことなくて。それに、声も、あんまり大きくなくて……」

「教える教える。パンの名前も最初は覚えられへんよ。私も最初、クロワッサンとパンオショコラの違い、毎回確認してたもん。声なんか、やってたらそのうち出るようになるわ」


 明るく言われて、すずは少しだけ肩の力が抜けた。


「さっき、おばあちゃん助けてくれたやん」


 女の人は、ふっと優しい顔になった。


「パンも、棚に戻さんとちゃんとよけてくれた。ああいうの、いいなって」


 すずは、膝の上で手を握った。

 自分では、ただ体が動いただけだった。でも、それを見てくれた人がいた。


「明日から、どう?」

「明日……」


「七時、来られる?」


 すずは少し考えた。


 怖い。レジもできない。声も小さい。パンの名前も覚えられるかわからない。

 でも、初心者歓迎と書いてあった。丁寧に教えます、と書いてあった。


 そして今、目の前の人は、ちゃんとそういう顔で笑っている。


 すずは、深く息を吸った。


「お、お願いします」


 声は、少し震えた。でも、言えた。

 女の人がぱっと笑った。


「決まり! 明日からよろしくね。あ、制服かわいいで。黒のワンピースにエプロンよ」


 かわいい制服。

 その言葉だけで、すずの心は少し跳ねた。

 頭の裏に、もう着ることのない高校の制服が思い浮かんで、すぐに消えていった。


 店を出る頃には、空はすっかり夕方になっていた。


 すずは、胸の中に小さな紙切れをしまっているみたいな気分で歩いた。


 アルバイトが決まった。自分で見つけた。自分で入った。自分で、お願いしますと言った。

 たったそれだけのことなのに、帰り道の甲子園口の街が、朝よりも少しだけ明るく見えた。


 家に帰ると、母と紗英がリビングにいた。


「ただいま」

「おかえりー。遅かったやん。どこ行ってたん?」


 紗英が顔を上げる。すずは靴を脱ぎながら、少しだけ弾んだ声で言った。


「あのね、バイト、決まった」


 母の恵美が、段ボールから顔を上げた。


「え、もう?」

「駅の近くのパン屋さん。朝七時から十二時までで、初心者でもいいって」


「いいやん!」

 紗英がすぐに明るい声を出した。


「すごいやん、すず。自分で見つけたん?」

「うん」


「えらいえらい。で、時給いくら?」

 恵美が何気なく聞いた。


「えーと、千百円やって」

「えっ、ひっく!」


 反射みたいな声だった。

 たぶん、母に悪気はなかった。保険の仕事をしていて、お金のことに現実的な母だから、時給を聞いて、ただ率直にそう思っただけなのだろう。


 けれど、その瞬間、すずの胸がずきんと痛んだ。

 さっきまで少し弾んでいた気持ちが、急にしぼんでいく。なぜだか鼻の奥までツンとして、涙が出そうになるほどに。


(低い……。そうか、千百円って低いんや……)


 自分が初めて見つけた場所。自分でお願いしますと言えた場所。制服がかわいいと言われて、少し嬉しくなった場所。

 それを、たった一言で、値段だけのものにされた気がした。

 キュッと口を結んで、でもなんとか口角を上げる。


 恵美は、すぐに「あ」と小さく口を開けた。しまった、という顔だった。

 すかさず紗栄が声をかぶせる。


「まぁまぁ、初めてのバイトなんてそんなもんやって! 時給より、最初は続けられる場所かどうかやで。パン屋さんええやん。朝だけやろ? 学校とも両立しやすいし」


「……う、うん」


 すずは頷いた。

 母に悪気はない。悪気はないのだ。


 そう思った時、奈良の家のリビングを思い出した。


 母の何気ない一言が、いつも父の怒りの口火になった。

 母はただ、思ったことを言っただけ。

 父はそれを責めた。母は黙った。

 すずは、その空気の中で息を止めていた。


(今、私があの時の空気を繰り返したらあかん。泣いたら、あかん)


 胸は痛い。でも、母を責めたくはない。母も、働きに出たばかりで余裕がないのだ。

 すずは、ぐっとこらえて笑った。


「明日から行くねん!」


 そう言うと、紗英がうんうんと何度も頷いた。


「かわいい! すず! ええやん! 初出勤やな。朝早いから、今日は早よ寝よ」


 恵美も少し遅れて、やわらかく笑った。


「……そうやね。すず、頑張ってね」


「うん」


 その「頑張ってね」は、さっきの「ひっく」よりも少し小さかった。

 でも、すずはその小ささを受け取ることにした。


 次の日。

 すずの初めてのアルバイトが始まった。


 朝六時過ぎの甲子園口は、まだ少し暗かった。

 空は薄い灰色で、吐く息が白い。

 すずはダッフルコートの襟元を押さえながら、パン屋へ向かった。


 店に着くと、真帆さんが、エプロンと三角巾を渡してくれた。


「おはよう。今日からよろしくね」


「よ、よろしくお願いします」


 エプロンは、思っていた通りかわいかった。

 黒いワンピースには白いえりがついており、白のフリルがついているエプロン。胸元に小さな店のロゴが入っている。

 髪を後ろで結ぶと、鏡の中の自分が、少しだけ「働く人」に見えた。


 最初は、パンの名前を覚えるところからだった。

 塩バターパン。クロワッサン。カレーパン。あんバター。ミルクフランス。季節のデニッシュ。

 すずは何度も名前を確認し、何度も間違えそうになった。


(えっ、待って、これどっちがウインナーロールでどっちがフランクパイ!? 見た目一緒じゃない!? それにレジのボタン多すぎ!)


 心の中ではパニックになりながらも、袋に入れる順番や、トングの置き場所を必死に頭に叩き込む。

 それでも、お客さんは思っていたより優しかった。


「新人さん?」

「あ、はい」


「頑張ってね」

 そう言ってくれる人がいた。


「このパン、昨日も買ったんよ。おいしかったわ」

 そう話しかけてくれるおばあさんもいた。


 店長は無口だった。

 けれど、すずが袋詰めにもたついていると、何も言わずに横から手を出して、潰れやすいパンを上に置き直してくれた。


「これ、上」


 それだけ言う。


「あ、ありがとうございます」

「うん」


 奥さんの真帆さんはずっと明るかった。


「すーちゃん!ぼーっとしてたらクリームパンに人生吸われるで」

「人生、吸われるんですか」


(す、すーちゃん!?、ていうかどういう物理法則!? クリームパンに吸われる人生って何!?)


「吸われる。クリームパンは意外と強い」


 すずは、思わず笑った。


 気づけば、十二時になっていた。あっという間だった。


 足は少し疲れた。レジもまだ怖い。声も、ときどき小さくなった。

 でも、お客さんに「ありがとうございました」と言えた。

 パンの名前を三つ、間違えずに覚えられた。袋詰めも、少しだけ早くなった。


 帰り際、店長が紙袋を差し出した。


「余った」


 中には、小さなサンドイッチが入っていた。


「あの、これ」

「余った」


 店長はもう一度言った。

 本当に余ったのかどうか、すずにはわからなかった。

 でも、胸の奥がじんわりと温かくなった。


「あ、ありがとうございます!」


 今度は、ちゃんと聞こえる声で言えたと思う。


 店を出ると、昼の甲子園口は朝よりもずっと明るかった。


 ヘッドフォンを耳につける。再生ボタンを押すとピアノが軽やかになりだす。

 今日はMr.Childrenの『彩り』のピアノアレンジだ。

 優しいメロディが、疲れた足取りを少しだけ軽くしてくれる。


 すずは紙袋を大事に持ち、駅前の道を歩いた。


 水曜と木曜だけ高校生になる。

 でも、それ以外の日にも、自分ができることはあるのかもしれない。すずは、ほんの少しだけそう思った。


 足元はまだ頼りない。

 声もまだ小さい。

 知らないことばかりだ。


「でも、それでもいいねん……!」


 すずは小さくつぶやいた。


 それでも、今日はパンの匂いの中で、ちゃんと五時間立っていられた。

 それは、すずにとって、小さくない一歩だった。


 「うん、いい感じ…!」


 すずは、家に帰ると紅茶を入れた。

 伯母さんが引っ越し祝いにとくれた、かわいいカップセットに注ぐ。

 

 そして店長がくれたサンドイッチをお皿に並べると、スマホでパシャリと撮った。

 インスタグラムに投稿する。

 

 <アルバイト、決まった!>

 

 サンドイッチを頬張る。

 今まで食べた、どのサンドイッチよりも美味しく感じた。




リアクションや感想を頂けたら嬉しいです!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ