表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/32

西宮と尼崎。

 三宮駅までは、思っていたよりも近かった。

 けれど、すずにとっては十分すぎるほど遠く、まるで別世界への入り口のように感じられた。


 フラワーロードと呼ばれる商店街の冷たい風から逃れるように地下へ降りると、またしても圧倒的な人の波に飲み込まれそうになる。頭上を見上げれば、そこには見慣れない色の看板がいくつもぶら下がっていた。JR、阪急、阪神、地下鉄、ポートライナー。それぞれが違う方向を指し示す無数の矢印となって、すずの目を回させる。

 奈良の三郷駅なら、無人の改札を抜ければホームはすぐそこだった。迷う余地など、物理的に存在しない。

 それなのに三ノ宮駅は、駅そのものが一つの巨大な意志を持った生き物みたいだった。あちこちに口を開けた階段があり、血脈のように入り組んだ通路があり、いくつもの改札があり、絶え間なく人が湧き出しては吸い込まれていく。


「三宮、ややこしいやろ」


 前を歩いていた天馬が、人の波を器用に避けながら振り返った。


「や、ややこしいです。ほんまにダンジョンみたい……」

「最初、俺も迷った」

「天馬くんも?」

「うん。JR行きたいのに、気づいたらポートライナー乗りかけてた」

「それはだいぶ迷ってるな」


 後ろからついてきていた陸が、けだるそうに横から口を挟んだ。


「陸さんは迷わなかったんですか?」

 すずが聞くと、陸はキャップのつばを少し上げ、眠そうな目でこちらを見た。


「俺は迷ったら人の流れについていく」

「それ、大丈夫なんですか」

「だいたいどっかには着く」

「目的地には着かへんやろ」


 天馬が吹き出すように笑った。

 その屈託のない笑い声に、すずの肩に入っていた力が少しだけ抜けた。


 改札を通り、長いエスカレーターを上ってホームへ出る。

 途端に、冷たい風が線路の向こうから容赦なく吹き上がってきた。二月の夕方のホームは、暖房の効いたビルの中よりもずっと寒く、空気が鋭い。すずはダッフルコートの前をぎゅっと合わせ、首をすくめた。


 やがて、まるさざなみのようなメロディがホームに響き、重たいモーター音を響かせて電車が滑り込んできた。乗り込んだ車内は、帰宅途中の会社員や学生たちでほどよく混み合っていた。座席はほとんど埋まっている。けれど、運よく二人掛けの席が一つだけぽっかりと空いていた。


「お前ら座れ」


 陸が、当然のように言って通路側に立った。


「え、でも」


 すずは思わず振り返った。

 陸は今日、朝から現場で重労働をしてきたのだ。授業中も机と完全に一体化しかけていたし、エレベーターの中でもずっと立ちながら眠りそうだった。どう考えても、一番に座るべきなのは陸の方だ。


「陸さん、座ったら?」

 天馬も気遣うように言った。


「ええ。俺、座ったら絶対寝る」

「寝たらええやん」


「尼崎で降りられへんやろ」

「起こすし」


「お前、絶対すずちゃんと喋って忘れるやろ」

「忘れへんわ」


「信用ならん」

 陸は太い腕で吊り革をがっちりとつかみ、顎で空いている席を示した。


「ええから座り。転校初日で顔死んでる」

「顔……、死……」


「半分な」

「半分……」


「俺よりマシや。俺はもう九割死んでる」

 すずはもう何も反論できなかった。

 天馬が先に窓側に座り、すずはおずおずとその隣に腰を下ろした。陸は二人の前に立ち、大きな背中で壁を作ってくれる。電車が動き出すと、陸は片手で吊り革をつかんだまま、もう片方の手でスマホをスクロールし始めた。


 すずは、膝の上で鞄をぎゅっと抱え込んだ。


 隣に天馬がいる。

 近い。

 教室でも隣だった。エレベーターでも近かった。けれど電車の二人掛けの座席は、物理的な逃げ場がない。天馬の黒いマウンテンパーカーの袖が、すずのダッフルコートにわずかに触れている。そこから、さっき一瞬だけ香ったあの不思議な、冷たいけれど甘い香水のような匂いがした。


 何か話した方がいいのだろうか。

 それとも、黙っていた方がいいのか。

 すずが視線を泳がせて迷っていると、天馬の方から口を開いた。


「すずって、どこから来てんの?」

「あ、甲子園口駅。です」

「えー、ええとこの子ぉやん」


 すかさず、陸が吊り革につかまったまま頭上から言った。


「金持ち?」

「か、金持ち!?」


 すずは慌ててブンブンと首を振った。


「ぜ、全然! ただ、お母さんの実家がそっちなだけで、うちは普通です」

「甲子園口って、名前からして金持ちっぽい」

「名前から?」

「園ってついてるし。西宮で園がつく地名はもれなく金持ちや。しかも甲子園球場あんねやろ?」

「あ、甲子園球場は、甲子園口の近くじゃないらしいです」

「え、罠やん」


 天馬が真顔でツッコミを入れた。


「わ、罠!?」

「甲子園って名乗ってるのに、球場ないんやろ?」

「な、ない、と思います。バスに乗らないと行けないって伯母さんが言ってました」

「じゃあ何口なん」

「私に聞かれても……」


 すずが困り果てていると、陸が大きなあくびをかみ殺しながら助け舟を出した。


「まあ、西宮やからな。閑静な住宅街やし、ええとこや」

「陸くんたちは?」

「俺らはアマやで」

「あ、あま?」


 すずは聞き返した。

 天馬と陸が、同時に「信じられない」というようにこちらを見る。


「尼崎やん、知らんの?」

「し、知らないです」

「嘘やん」


 天馬が、少しだけ目を大きくして覗き込んできた。


「尼崎、知らんってある?」

「名前は……聞いたことあるかも、電車のアナウンスとかで」

「奈良では尼崎、未発見の土地なん?」

「未発見ではないと思います」

「結構有名人多いで」


 陸が、吊り革につかまりながら空いた指を折り始めた。


「ダウンタウンやろ」

「松本人志、浜田雅功」


 天馬がリズム良く続ける。


「あと、じゅんいちダビッドソン」

「あ、そうそう、おったおったダビッドソン」

「その前に急に本田圭佑感出るな」

「なんせ、そっち系やから」

「そっち系って何ですか」

「強い感じ」

「雑やな」


 天馬が声を上げて笑った。


「つんくもそうちゃうかった?」

「それ東大阪ちゃうん」

「堤真一は?」

「それ西宮ちゃうかったっけ」

「もう阪神間まとめて有名ってことでええやろ」

「範囲広っ」


 すずは、二人のテンポの良すぎる会話の速さにまた少し圧倒されながらも、思わずくすっと笑ってしまった。

 地域の名前だけで、こんなに話が転がるのか。

 奈良にいた頃、自分の住んでいる場所について、こんなふうに誰かと冗談を交えながら笑って話したことはあまりなかった気がする。


 天馬がふいにこちらを見た。


「西宮の有名人って誰なん」

「えっ」


 すずは慌てた。

 西宮。有名人。急に振られても、今日引っ越してきたばかりの頭からは何も出てこない。


「む、村上春樹……?」


 なんとか記憶の底から絞り出すと、天馬が不思議そうに首をかしげた。


「誰それ」

「えっ」


 すずは思わず、素の声を上げた。


「の、ノルウェイの森とか書いてる…作家の、村上春樹さんですけど」

「本読む人?」

「た、多分、本読まん人でも知ってると思います。世界的に……」

「俺、教科書以外あんま読まん」

「社会の資料集はめっちゃ読むくせに」


 陸が上からチクリと言う。


「あれは資料やから。活字ちゃうもん」

「屁理屈や」


 天馬はまったく悪びれずに笑い、すずの方を向いた。


「ほな、西宮は村上春樹。尼崎はダウンタウン。甲子園口は球場がない。覚えた」

「最後だけ悪口みたいになってる」

「悪口ちゃう。正しい地理や」

「地理……」


 すずは小さく笑った。


 電車は、三ノ宮を出て、灘、六甲道、住吉、芦屋と、滑るように進んでいく。

 窓の外はすっかり夕方だった。

 びっしりと並んだ住宅の明かり、踏切のチカチカとした赤い光、線路沿いのマンションの窓から漏れる生活の灯り。奈良の山の黒く沈むような影とは違う、細かくて明るい、密度のある夜の始まりがずっと続いている。


 陸は途中で何度かカクンと目を閉じかけ、そのたびにハッとして自分で首を振って起きていた。


「陸くん、やっぱり座った方が……」

「ええ。ここで座ったら俺の意識は終点まで飛んでいく」

「終点ってどこですか」

「知らん」

「知らんのに危ないですね」

「せやから意地でも立ってる」


 天馬が、肩を震わせて笑った。


「陸さん、今日ほんま限界やな」

「限界は昨日超えた。今日はその向こう側を歩いてる」

「向こう側って何があるん」

「無」

「哲学やん」


 すずは、また笑ってしまった。

 不思議だった。

 朝からずっと、胃が痛くなるほど緊張していたのに。今は少しだけ、息がしやすい。

 人の多い電車も、見知らぬ駅名も、隣にいる天馬の近さも、まだ怖い。けれど、陸が大きな背中で立っていてくれることや、天馬が何でもない顔でふざけた話しかけをしてくれることが、その怖さを少しずつ、確実に薄めてくれていた。


 

<まもなく、甲子園口、甲子園口です。お出口は、左側です。甲子園口の次は、立花に停まります>


車内アナウンスが流れ、電車が甲子園口に近づく。


「あ、私、次です」


 すずが言うと、陸が「おう」と短く応えて吊り革から手を離した。


「ほな、降りる準備」

「はい」


 天馬も立ち上がり、すずが通路に出やすいようにスッと体をずらして道を開けた。

 電車が完全に止まり、ドアが開く。

 外から冷たい空気が流れ込んできた。


 すずは、振り返って二人に向かってしっかりと頭を下げた。


「今日は、ありがとうございました」


 今度は、自分でもちゃんとお腹から声を出したつもりだった。

 けれど天馬は、また少しだけ意地悪そうに目を細めて笑った。


「さっきよりは聞こえた」

「……努力します」

「また来週」


 陸も眠そうに片手を上げた。


「バンビ、課題忘れんなよ」

「はい。陸くんも」

「俺は忘れるかもしれん」

「だめじゃないですか」

「白に写させてもらう」

「それもだめだと思います」

「真面目やな」


 プルー、と発車ベルが鳴り、ドアが閉まり始める。

 天馬が、最後にもう一度だけひらっと手を上げた。

 すずも、鞄を両手で持ったまま、小さく手を振り返した。

 電車がゆっくりと動き出す。

 窓の向こうで、天馬の耳元のピアスが一瞬だけホームの光を反射してキラリと光った。陸はもう、隣の席が空いたのを見つけて座り込み、完全に目を閉じていた。


 電車が遠ざかると、ホームは急に静かになった。


 JR甲子園口駅。

 名前に甲子園とつくのに、甲子園球場はここではないらしい、ちょっと不思議な駅。

 それでも、改札を出て南口のロータリーに立つと、街は思っていたよりずっと温かく、暮らしやすそうだった。


 まず、香ばしい匂いがした。

 駅の近くのパン屋から、焼きたての小麦とバターの甘い匂いが流れてくる。すずは思わず足を止めた。朝から緊張しっぱなしで、お昼に食べたおにぎりの味もよく覚えていなかったお腹が、急に「空腹」を思い出してきゅっと鳴りそうになる。


 その先には、古い本屋があった。

 看板の文字が少し色あせている。店先には雑誌と文庫本がずらりと並んでいて、冷たい風よけのための透明なビニールシートがかかっていた。

 駅前の通りには洒落た外観のミスタードーナッツがあり、窓越しに温かいコーヒーを飲みながらゆったりとくつろぐ大人たちの姿が見える。


 カレー屋の前からはスパイスの刺激的な匂いが漂い、赤提灯の揺れる焼き鳥屋からは、炭の煙と甘辛いタレの匂いが食欲をそそる。

 コンビニがあり、スーパーがあり、薬局があり、厚着をして自転車に乗った人たちが忙しそうに家路へ向かって行き交っている。


 奈良の三郷とは違う。

 でも、あの狂騒的な三宮ほど速くはない。

 ここには、地に足のついた「生活の速さ」があった。


 誰かが夕飯の材料を買い、誰かが仕事帰りにパンを買い、誰かが自転車のかごにネギを差して帰っていく。まったく知らない街なのに、ここなら少しだけ、息をして住んでいけそうだと思った。


 すずは駅前を抜け、武庫川の方へ向かって歩き出す。

 やがて、大きなマンションが見えてくる。

 少し古いけれど、どっしりとした立派な建物だった。同じ形の窓が幾重にも並び、夕方の温かい明かりがところどころに灯り始めている。

 すずと母がこれからお世話になるのは、その三階だ。


 エントランスを抜け、階段を上がる。

 まだ手になじまない新しい鍵を鞄から出していると、鍵穴に差すよりも早く、ガチャリと内側から扉が開いた。


「おかえりー!」


 パンッと弾けるような明るい声と一緒に、伯母の紗栄がエプロン姿で顔を出した。

 小柄で、明るい茶色の髪。すずと少し似たぱっちりとした目元をしているけれど、表情はずっと華やかで、生命力にあふれていた。


「どおやった? 大丈夫やった? 迷わんかった? なんか飲む? 寒かったやろ。ココアあるで、紅茶もあるで、麦茶は冷たいから今日はやめとき」


 機関銃のような関西弁で一息にそれだけ言われて、すずは玄関で少し圧倒されて固まった。


「た、ただいま」

「はい、おかえり。靴脱ぎ。鞄重いやろ。プリントもらった? 先生どうやった? ヤンキーおらんかった? 怖かった?」


 とにかく質問が多い。

 けれど、不思議と嫌ではなかった。その過剰なまでのお節介が、冷え切った体にじんわりと染み込んでくる。


 廊下の奥のまだ雑然としたリビングでは、母の恵美が段ボールの山の前に座り込み、必死で荷物を解いていた。黒髪のボブが少し乱れている。普段は保険会社で働く母が、「仕事の顔」ではなく、どこか日々の生活に追い立てられているような、少し疲れた横顔だった。


「すず、おかえり」


 母が手を止めて顔を上げる。


「学校、どうだった?」


 心配そうなその声と視線に、すずはすぐには答えられなかった。


 声が大きすぎる担任の佐伯先生。

 二十五階にある、オフィスのような教室。

 机の上に要塞のように並んだスタバのカップ。

『鹿せんべいではありません』と自己紹介で言われたこと。

 つけられた「バンビ」というあだ名。

 

 息もできないほどぎゅうぎゅうのエレベーターの中で、何も言わずに前に立ってくれた、分厚い作業着の背中と、華奢で少し意地悪な背中。

 

 電車の中で、地域ネタで笑い合ったこと。

 甲子園口には球場がないという罠。

 

 そして、大きな窓の向こうに果てしなく広がっていた、あの冬の海。


「……海が見えた」


 すずは、今日一番印象に残ったことを、ぽつりと言った。

 母と伯母が、意外な答えに同時に瞬きをした。

 それから紗栄が、ふっと柔らかく笑った。


「そら、ええ学校やな」


 すずは、少しだけうなずいた。


 まだ、楽しかったとはっきり言えるわけじゃない。

 まだ、完全に安心したとも言えない。

 まだ、自分がこの情報量の多すぎる街と学校でうまくやっていけるのかも、全然わからない。


 けれど、今日は二十五階から海が見えた。

 それだけは、確かな本当のことだった。

リアクションや、感想などいただけると執筆の励みになります。もう最後まで書いてますので、手直ししながらどんどん上げていこうと思います!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ