奈良県民JK、神戸の高校生の群れに放牧される。
「ほな、バンビの放牧エリアはあそこな」
佐伯が、ボロボロの出席簿の角で、窓際の最後列をビシッと指し示した。
すずは、指された先を見て、完全に固まった。
(うぇぇええ!? 待って待って待って待っておかしない!?あのゾーンだけなんかすごいオーラ漂ってるんだけど、よりによってあそこ!?)
窓際の最後尾には、さっきのピアスだらけの異国風美形男子が、ここだよとでも言うふうにひらりと手を上げて、長い脚を持て余すようにして座っている。その隣の席たちが、ぽっかりと不自然に空いていた。
その前の席には、作業着姿で突っ伏している男の子。
その横には韓国の音楽番組から抜け出してきたようなロングヘアの美少女。
そして最後尾の美少年の隣から教室の扉に向かって、五つほど空席が続いている。
どうやらこのクラスでは、転校してきた順番に問答無用で席が埋まっていくシステムらしい。
すずは、絶対に逃げられないすごろくで、いきなりラスボスの隣のマスに駒を置かれたような絶望を味わった。
「あ、えっと……あの、私、あそこ?ですか?」
「…なんやてぇ?」
佐伯は、小さすぎるすずの声を聞くために、体を横に傾け、耳を近づけた。
「あのっ私の席……」
「そこや」
「あの、窓際の、いちばん後ろの」
「そこや」
「あのピアスたくさんな人の、隣の」
「そこや言うとるやろ! 何回確認すんねん、業者か!」
佐伯は呆れたように言い放った。
すずはわかりやすくビックゥと肩をすくめた。
「嫌なら、転校してくる順番をあと五人くらい早めるしかなかったな」
「……た、タイムマシンはないので、無理です」
「せやな。ほな腹くくって進め。バージンロードや!」
バージンロードというよりは処刑台への階段だ、と思いながら、すずは両手で鞄をぎゅっと抱え直し、おずおずと机の間を進み始めた。
視線が、痛い。
クラスの人数は二十五人くらいだろうか。
その中を、静々と最後尾まで行く。
ただ歩くだけのことなのに、震えるほどの緊張が襲う。
誰も真正面からガン見しているわけではない。
スマホをいじりながら、あるいは友達と喋りながら、横目でちらちらと「新しい異物」を観察している。それだけで、すずは耳の後ろから首すじにかけて火がつくように熱くなった。
「ちっちゃ」
どこからか、ひそひそ声が聞こえた。
「服、子どもみたいちゃう?」
「めっちゃ奈良っぽい」
(奈良っぽい服とは!?
無意識のうちに鹿と同化するような保護色を着てきてしまった!?いやまさか!?)
すずは歩きながら、自分の白いブラウスを見下ろした。
心の声がさっきから異様にうるさいのに、何も言葉が出ない。
今朝、父が丁寧にアイロンをかけてくれたはずなのに、三宮の狂った人混み、そして二十五階へ昇るエレベーターの異常な緊張感のせいで、すっかりヨレヨレのシワが寄っていた。
何か、愛想のいいことを言った方がいい気がした。
けれど、声帯の使い方がまったく思い出せない。
通路の途中でぎこちなく立ち止まりかけた時、ロングヘアの女の子が、机の下で足を組んだまま、ひらひらと明るく手を振ってきた。
「私、白・玲花! よろしくな!」
(はくれいか?え?苗字がハク?な、何人!?)
声が大きい。
そして、顔もオーラも、使っている香水も、全部が暴力的にまぶしい。
「あ……よ、よろしく、お願いします」
「敬語かたいわー! まあ初日やしええけど」
玲花、と名乗った女の子は、長いまつげに縁取られた目を細め、すずの顔を下から覗き込むようにして笑った。
「ほんまにバンビっぽいな。目ぇでっかいし、隙あらば窓突き破って逃げそう」
「……に、逃げません」
「逃げそうな裏声で言うなや!」
教室の何人かが、くすくすと笑った。
(ううう、もう体が縮んでしまったような気すらする!)
今度は作業着姿の男の子の前まで来た。
机という平原に完全に突っ伏したままだった。
かぶったキャップのつばの下から、かろうじて右目だけが外界をうかがっている。
「松本陸」
それだけ言った。
自己紹介としては、あまりにも省エネを極めすぎていた。
「ま、松本さん……?」
「陸でええ」
「り、陸さん」
「さん、いらん。かゆい」
「陸……くん?」
「……まあ、それでええわ」
妥協案を受け入れつつも、陸は一ミリも顔を上げない。
声だけが、アスファルトの底から染み出してくるように低く響く。
すかさず、教卓から佐伯の爆音が飛んできた。
「松本ー! お前は水揚げされて三日経ったズワイガニか!それでもぴちぴちの二十歳か!!」
教室がどっと沸いた。
不意に先生が言った「ハタチ」の言葉に反応してしまう。
言われてみると確かに少し顔が大人びているような気がした。
陸は机に額を擦りつけたまま、右手の人差し指だけをかろうじて上げる。
「先生、今日、夜明け前から現場で舗装やってました。限界です」
「舗装の苦労はわかった! でも声だけ地中から聞こえてんねん、顔上げろ!」
「無理です。俺は今、アスファルトと完全に一体化してます」
「教室でインフラ整備すな! せめて哺乳類でおれー!」
佐伯の容赦ないツッコミに、玲花がバンバンと手を叩いて大笑いした。
「陸、今日もう人権ないやん」
「今日だけちゃう。昨日もなかった」
「明日は?」
「明日もない予定や」
「人生設計まであかんやん!」
「でも仕事はしてる」
「えらい!」
「やろ」
流れるような卓球のラリー的会話。
すずは、どういう顔でこのテンポに乗ればいいのかわからず、顔の筋肉を引きつらせて小さく笑うしかなかった。
怖い人たちだ、と思った。
けれど、ただ怖い不良というわけではないらしい。
それぞれの事情を持ち込みながら、奇妙なバランスで共存している空間だった。
そして最後に、すずは窓際の最終地点までたどり着いた。
「西倉天馬です」
美少年が、パイプ椅子の背もたれに斜めに寄りかかっている。
無数についた耳のピアスが、窓からの午後の光を乱反射して、ちかちかと小さく光った。
近くで見ると、ますます異常なほど顔が整っていた。
吸い込まれそうなほど大きな目は、薄い茶色。
肌の色が、すずの周りにいた幼い男子たちとは少し違って浅黒い感じがした。
その浅黒さが余計に大きな白目を際立たせている。
ただの無地の白いTシャツとジーンズなのに、一流ブランドの広告のように似合いすぎている。
座っているだけなのに、周囲の空気がそこだけ映画のスクリーンのように切り取られていた。
後頭部はすっきりと刈り上げられていて、長い前髪はサラサラと流れている。
すずは、無意識のうちにじりっと一歩後ずさった。
天馬はそれを見て、大きな目を見開き、ふっと口元だけで笑った。
「えー…にしくら、てんま、です?」
そういって、ぺこりと頭を下げる。
低くて、少し掠れた、やわらかい声だった。
「あ……」
すずは、慌てて九十度に近い角度でお辞儀をした。
「す、鈴木すずです」
自分では、はっきりと言ったつもりだった。
けれど、天馬は小首をかしげ、少し意地悪そうに目を細めた。
「……声、ちぃっさ」と言って笑った。
すずの顔が一気に沸騰した。
「小さすぎて、すすしすすって聞こえんねんけど」
「す、すみませんっ」
「いや、謝らんでええけど。今の、完全に窓ガラスに吸われたで」
「窓に……」
「ここ、海の引力強いからな」
意味がわからない。
でも、何となくからかわれていることだけははっきりとわかった。
すかさず、前の席から玲花が身を乗り出してくる。
「ちょっと天馬、初対面のバンビをいじめるなや!」
「いじめてへん。物理的に聞こえへんかっただけやろ」
「美形は、声の小さい純朴な子には無条件で優しくせなあかんっていう法律あるんやで」
「どこの法律やそれ」
「韓ドラ法第一条!」
「日本で適用されへんやろが」
「うるさい! あんた顔が国際派やから適用範囲内や!」
天馬は「はあ」と面倒くさそうに深いため息をついた。
けれど、まったく怒ってはいない。
むしろ、この騒がしいやり取りを少し楽しんでいるようだった。
すずは、指定された席にそっと腰を下ろした。
窓際最後尾。
右隣は天馬。前は、同化の進む陸。斜め前は、韓ドラ法を施行する玲花。
机の上に鞄を置くと、窓の外から海を反射した光が強烈に差し込んできた。
白いブラウスの袖に、淡く青い影が落ちる。
「はいはい、ホームルーム前の交流会はそこまで!」
佐伯が教卓をバンと叩いた。
「授業するで! 午後から来たからって、カフェに遊びに来てるわけちゃうからな。まあ、遊びに来てるみたいなナメた格好のやつは何人かおるけどな!」
「先生、それ絶対うちのこと見て言ったやろ!」
玲花が即座に抗議の声を上げる。
「自覚あるやつがいちいち反応すな! 傷つくのは勝手やぞ!」
また教室がドッと笑う。
陸が、ようやくプリントの束から顔を少しだけひきはがした。
その右の頬には、無惨にもプリントの罫線の跡がくっきりと赤く刻まれている。
佐伯が、それを見逃すはずがなかった。
「松本! 顔面にノートの罫線プリントされとるぞ! お前、このまま答案用紙に転生する気か!」
「……先生、俺、今なら、誰にも何も書かれない白紙答案の絶望的な気持ち、わかります」
「わからんでええわ! お前は書く側や! 鉛筆持て!」
天馬が隣で、小さく吹き出した。
すずは、その微かな笑い声をすぐ横で聞きながら、そっと窓の外に視線をやった。
視界の果てまで広がる青い海。
二十五階の教室。
机に要塞のように並んだスタバやドトールのカップ。
顔に罫線を刻んだ作業着の二十歳。
韓国アイドルみたいな強気な女の子。
放送作家みたいに声の大きすぎる担任。
そして隣には、ピアスだらけで、少し意地悪な綺麗な男の子。
何もかもが、すずの知っている「高校の教室」の定義から盛大にはみ出していた。
違いすぎて、情報量が多すぎて、まだ怖い。
でも、どうしようもなく、少しだけ可笑しい。
「よし、今日の確認事項は三つや」
佐伯は黒板に、乱暴な字で大きく数字を書いた。
一、出席。
二、課題。
三、進級。
「もう来月で一年は終わりや!そのために単位!!!死んでももぎ取れ!!まず出席な。お前ら、ここに来てる時点で偉い。これは冗談抜きでほんまに偉い。午前中汗水垂らして働いてきたやつもおる。家のややこしい用事片づけてきたやつもおる。松本みたいに道路と一体化しかけてるやつもおる」
「先生、俺を公共事業の成果物にしないでください……」
「しゃべれるなら顔上げろ言うとるやろが!」
陸はまた、ずぶずぶと机へ沈んでいった。
「けどな、偉いのと『単位が出る』のは全くの別問題や。ここテストに出るくらい大事。来ただけでは卒業できん。課題を出せ。レポートを出せ。期限を守れ。締切はお前らの歴代の恋人より冷たいぞ! 泣いても喚いても一秒も待ってくれへんからな!」
すずは慌てて新しいノートを開き、ペンを握った。
ふと周りを見ると、空気は思ったよりもずっと落ち着いていた。
玲花は伏せたスマホの上に手を置き、真面目な顔でルーズリーフに向かっている。
陸は死んでいるように見せかけて、なぜか器用にプリントだけは手元に引き寄せている。
そして天馬は、英単語帳の下から、しわ一つない綺麗なクリアファイルを出し、黒板の文字をノートに写し始めていた。
意外だった。
見た目が派手だったり、疲れていたりするから、もっと適当にやり過ごしているのかと思っていた。
でも、佐伯の授業が始まると、教室の空気がパキッと切り替わる。
ふざけた口答えをしながらも、彼らはちゃんと「高校生」をやろうとしている。
「鈴木」
「は、はいっ!」
突然名指しされて、すずはバネ仕掛けのように背筋を伸ばした。
「転校初日やから、今日は全部わからんでええ。ルールも場所も、一回で覚えられるわけない。わからんことがあったら、そのへんのやつに聞け。俺でもええし、そこの白でも、松本でも、西倉でもええ」
佐伯は出席簿で順番に三人を指した。
玲花が振り返り、ひらひらとネイルの光る手を振る。
陸は机に沈んだまま、右手だけをぬっと上げる。
天馬は、ペンを持ったまま、すずを見て軽く顎を引いて頷いた。
すずは、喉の奥がきゅっと締まるのを感じた。
「……はい」
「……声がちぃっさいなあ」
天馬が、隣でまたぼそっと呟いた。
すずは反射的に両手で頬を覆った。また赤くなっているのが自分でもわかる。
天馬はその様子を見て、おもしろそうに覗き込もうとした。
「おい西倉! いちいち小声拾うな! 鈴木の声は今、生まれたてや。絶賛育成中やねん」
「先生、それフォローのつもりですか」
「半分な。もう半分は揺るぎない事実や」
前の席で、玲花が笑いをこらえて肩をぶるぶると震わせている。
すずは、本気で穴があったら入りたかった。
できれば、二十五階から一階まで真っ逆さまに落ちる直通の穴ではなく、ちょうど自分ひとり分がすっぽり収まる浅い穴がいい。
授業のスピードは、思っていたよりもずっと速かった。
佐伯は息継ぎなしで雑談やツッコミをしているように見えて、黒板の要点は恐ろしいほど緻密に整理されている。
課題の提出方法、教科書のどこに載っているか、単位の計算式、次の登校日までに必ずやること。合間合間にフォローを入れる。日本語ついて来れんやつは職員室こい!どうしても期日間に合わんやつ、相談しにこい!
叫びながら、次々に白いチョークで書かれていく。
すずは必死でノートに写した。
だが、書き写している間に、佐伯の口はもう次の項目を説明している。
追いつけない。
パニックになりかけた時、隣の天馬が、涼しい顔でプリントの余白にさらさらと何かを書き込んでいるのが見えた。
ピアスだらけなのに。
着崩したTシャツなのに。
さっきまで「鹿の海進出」について真顔で語っていたのに。
彼のノートは、信じられないほど几帳面で綺麗だった。
すずが少し目を丸くして見つめていると、天馬が視線だけをこちらに寄越した。
「そこ、焦らんでええよ。あとで俺の写したらええから」
「あ……ありがとう、ございます」
「敬語」
「す、すみませ」
「やから、謝らんでええって」
天馬は小さく笑い、自分のプリントの端をシャーペンの先でトントンと叩いた。
「ここ、来週の小テストで出る」
すずは、コクコクと激しく頷いた。
そのやり取りを、玲花が振り向いて、猫のような目を細めてにやにやと観察していた。
「天馬、意外と優しいやん」
「普通やろ」
「へえー。普通ねえ」
「何やねんその顔」
「別にぃー」
「その『別に』が一番『別に』ちゃうやつやろ」
すると、地中から陸の声が響いた。
「お前ら、うるさい。俺の高度な睡眠学習の邪魔すんな」
「それ絶対ただ寝てるだけやん」
「学習や。耳から佐伯先生の声をダイレクトに脳みそにインプットしてる最中や」
「じゃあ今、先生何の話してた?」
「……単位は、歴代の恋人より冷たい」
「そこだけ聞いてたんかい!」
ツッコミを入れた玲花自身が吹き出した。
すずも、今度は我慢できずに、少しだけ声を出して笑った。
少しの休憩をいくつか挟み、あっという間に十七時になった。
窓の外の海は、いつの間にか色を落としていた。
まぶしかった青は、鉛色に近い灰色に変わり始めている。
二月の夕暮れは早い。
眼下に広がるビルの影が少しずつ伸びて、街のガラス窓が冷たい街灯の光をチカチカと返し始めていた。
すずが、今日配られた三枚の課題プリントを丁寧にクリアファイルへしまっていると、佐伯が帰り支度をしながら教卓から声をかけた。
「白」
「はーい」
「いいかよく聞け。奈良県には地下鉄というものがない!」
「「「え!!!」」」
何人かの生徒が驚いたというように反応した。
まさかそんな嘘だろうと言う顔ですずを見る者のいるほどの反応に、逆にすずがびっくりした。
「そんなルーキーは三宮駅のダンジョン覚えきれてへん。帰り、一緒に行ったってくれ」
「おけおけ。バンビ、責任持って回収します」
「……誰が回収される荷物ですか」
すずが思わず小さく反論すると、玲花が目を輝かせて振り返った。
「おっ、バンビがいっちょ前に抗議したで!」
「抗議というほど大げさなものでは……」
「小声の抗議」
天馬が隣で、容赦なく合いの手を入れる。
「西倉くんまで……」
「西倉ちゃうと、天馬でええよ」
何でもないことのようにさらりと言われて、すずは一瞬、心臓が変なリズムで跳ね、言葉に詰まった。
天馬。
下の名前で呼ぶのは、さすがにまだハードルが高すぎる。
「て、天馬……くん」
か細く絞り出してから、すずは自分の声の情けなさにまた恥ずかしくなった。
天馬は聞こえたのか聞こえなかったのか、長い腕で鞄とコートを持って、無造作に立ち上がった。
陸も、机からベリッと引き剥がされるように立ち上がる。
二人が同時に立ち上がった瞬間、思ったよりもずっと背が高くて驚いた。
身長が175センチはゆうに超える。
作業着の膝や肘には、コンクリートの粉のような白い汚れがこびりついている。
「陸、見事な生還」
玲花が拍手で迎える。
「まだ半分死んでるけどな」
「半分生きてたら家には帰れるやろ」
「扱い雑やな」
「人生は雑なくらいがちょうどええねん!」
四人は、連れ立って教室を出た。
廊下には、同じように「下校」しようとする生徒たちがあふれ返っていた。
飲みかけのスタバのカップを持った女の子。
派手な原色のジャージを着た男の子。
すずの知らない外国の言葉で、楽しそうに早口で話し合う三人組。
大人なのか、高校生なのか、まったく判別がつかない人々。
その全員が、大移動する群れのように、二十五階のエレベーターホールへと吸い込まれていく。
エレベーターは二機あった。
けれど、この人数に対して明らかにキャパシティが足りていない。
「……すごい、多い」
すずが圧倒されてつぶやくと、玲花が隣で豪快に笑った。
「17時の下山ラッシュやからな」
「下山……」
「二十五階から地上に降りるんやから、標高的にほぼ山下りやろ」
「山……」
「バンビにはなじみ深いシチュエーションやん」
「私は山は好きですけど…これは山じゃないと思います」
「出た、真面目か!」
玲花は、エレベーターを待っている間も、マシンガンのようにずっと話しかけてくれた。
「バンビ、引っ越してきたって言ってたけど、どこ住んでるん?」
「甲子園口、です」
「へえ、ええやん。めっちゃ西宮やん」
「お母さんの実家がその辺りで……」
「あの辺、美味しいパン屋多そう」
「はい、駅の近くにあります」
「よし、それはもう人生勝ちやな。駅前に美味いパン屋がある街は、だいたい勝ち組や」
すずは、世の中にはそんな独自の幸福度判定基準があるのかと感心した。
後ろでは、陸と天馬が男同士の低い声で話し込んでいる。
「今日、現場どこやったん」
「武庫川団地の方。海風直撃で、朝寒すぎて指もげそうやったわ」
「二月の海沿いはエグいな」
「お前、明日バイト入ってんの?」
「午前中だけ」
「ようやるわ。体力オバケか」
「今朝現場出てる陸さんにだけは言われたないわ」
三人は、どうやら一年生の頃から仲がいいらしい。
玲花は前でずっとすずを楽しませようとしゃべっているし、陸と天馬は後ろで気負いのない会話をしている。
すずだけが、その見えない輪のすぐ外側で、まだ借りてきた小鹿のまま立ち尽くしていた。
チーン、という無機質な音が鳴り、到着を知らせるランプが点灯した。
待っていた群衆が一斉に動く。
すずは、その波の圧に反射的に身をすくめた。
ドアが開いた途端、まるで満員電車のドアが開いた時のように、生徒たちがなだれ込んでいく。
玲花も迷いなく一歩踏み出した。
その細い背中を、後ろにいた陸がドンと手のひらで押した。
「お前、一番奥詰めろ」
「扱いの差!!」
玲花が即座に振り返って吠えた。
「今、背中押したやろ! 絶対雑に押したやろ! うちのこと、資材運ぶ台車か何かやと思ってる?」
「思ってへん。ええから奥行け」
「言い方!」
陸は玲花の抗議を完全に無視し、すずの方を見て、少しだけ声のトーンを落とした。
「すずちゃん、奥どうぞ」
「え、あ、はいっ」
「ちょっと待って、露骨な扱いの差!」
玲花がまた声を上げる。
「何でバンビには紳士なん? うちは?」
「お前は物理的に強いやろが」
「強い女にも平等に優しくしろ!」
「はいはい」
「はいは一回!」
「はーーー…」
「腹立つわー!」
陸が「い」の言葉を言う前に玲花が遮る。
すずは、どうしていいかわからないまま、陸に促されるようにエレベーターの奥へ進んだ。
奥の角。冷たいガラス壁の近く。
ぷんぷん怒っている玲花がその隣に入る。
そして、すぐ後ろに陸が立ち、その横に天馬が並んだ。
次々と人が乗り込んでくる。
肩が触れそうになる。
知らない男の子の大きなリュック。
誰かの甘いコーヒーの匂いと、強い柔軟剤の匂い。
金属の重い扉が閉まる音。
密室は、あっという間にぎゅうぎゅう詰めになった。
すずは息を止めそうになった。
けれど、すぐに気づいた。
陸と天馬が、すずと玲花の前に、絶妙な位置取りで立っていることに。
知らない人の体が二人の女の子に直接ぶつからないように、二人で防波堤のような壁を作ってくれているのだ。
陸は太い腕で頭上の手すりをがっちりとつかみ、もう片方の肩で、後から乗り込んでくる人の波の圧力を黙って受け止めていた。
天馬は、何でもないような涼しい顔ですずの目の前に立っている。けれど、少しだけ体を斜めに開き、すずの目の前に、ほんのわずかな「呼吸するための空間」を作ってくれていた。
だから、すずは誰にも押されていなかった。
玲花を見やると、さっきまであんなに怒っていたくせに、今はスマホを取り出して平然としている。
「いつものこと」という顔をしている。
すずは、胸の奥が、ぎゅっと変なふうに熱くなるのを感じた。
奈良にいた頃の、同じ教室の男の子たちとは、何かが決定的に違う。
優しい、というより、大人の社会に「慣れている」のだ。
人が密集する場所で、誰をどこに配置すれば一番安全か、パッと見て判断できる。
言葉で「守るよ」なんてキザなことは言わない。
体が勝手に、一番合理的な動きをしている。
すずは、こういう種類の実用的な優しさを、あまり知らなかった。
エレベーターが、重力を感じさせながら降りていく。
二十四階。
二十階。
十七階。
数字が下がるたびに、気圧の変化で耳の奥がまたツンと詰まる。
「バンビ、大丈夫?」
玲花が、スマホから目を上げて小さく聞いた。
「だ、大丈夫です」
「今、全然大丈夫じゃない顔してるで」
「大丈夫です」
「二回連続で言う時は、だいたい大丈夫ちゃうねん」
見透かされていて、すずは何も言い返せなかった。
すると、前に立っていた天馬が、少しだけ首を巡らせて振り返った。
その瞬間、嗅いだことのない香水のような香りが鼻を掠めた。
「下、見ん方がええで」
「え?」
「ここ、背面ガラス張りやから。下見たら怖いやろ」
すずは、ハッとして床の隙間から視線を上げた。
気づかれていた。
自分が高い場所を少し怖がっていること。
人の多さにフリーズしていること。
声がうまく出ないこと。
そのすべてを、天馬は何でもないことのように拾い上げ、そっと布をかぶせてくれた。
「あ……ありがとうございます」
「また小さい」
「す、すみません」
「やから、謝らんでええって」
天馬は前を向いた。
たったそれだけだった。
それだけなのに、すずは強張っていた肩の力を抜き、肺の奥まで息を吸い込むことができた。
ゆっくりと息を吐き出しながらふと顔を上げると、目の前に二人の背中が並んでいた。
これまで奈良の高校で接してきた男子たちとは、まるで違う背中だった。
すずの知っている同級生の男子たちは、まだ線が細く、指定の制服に「着られている」ような成長途中の少年ばかりだった。
女の子に対する優しさも、どこか不器用で、照れ隠しや冷やかしの延長線上にしかなかった。
でも、今目の前で壁になってくれている二人は違う。
陸の背中は、毎日重い資材やアスファルトと向き合っている証拠のように、驚くほど分厚くがっしりとしている。
首から肩にかけての筋肉が、作業着の上からでもはっきりとわかるほど隆起していた。
隣に立つ天馬も、一見すると細身で華奢に見えるが、白いTシャツから覗く肩回りや首筋には、しなやかで男らしい筋肉の筋が通っている。
その耳元や手首では、彼らが歩んできた時間や個性を主張するように、冷たいシルバーのアクセサリーが鈍い光を放っていた。
筋肉質で、アクセサリーをつけていて、大人の装いをしている。
見た目だけなら、すずがこれまで一番避けてきたタイプの人たちだ。
それなのに、この背中から伝わってくるのは、ひたすらに無言で実用的な優しさだった。
すずが知っている「男子高校生」の枠には決して収まらないその頼もしさに、すずは息苦しいはずの密室の中で、不思議なほどの安心感を覚えていた。
一階に着くと、圧縮されていた人の流れが一気に外へ吐き出された。
ビルの外は、本格的な夕方の冷たい空気に包まれていた。
すずは腕に持っていたダッフルコートをいそいそと羽織ると、天馬も黒のマウンテンパーカーを羽織っていた。真冬なのに中身は半袖なんて、元気だな、と思って見つめていると、にこりと笑われて焦る。
「いこ?」
「は、はい!」
フラワーロードのアスファルトの上を、二月の鋭い風が蛇のように走っている。
昼間よりも空が低く感じられ、立ち並ぶビルの窓には、夜を急ぐような街の灯りがにじみ始めていた。
「じゃあね、バイバーイ!」
外に出るなり、玲花はあまりにも軽く手を振った。
「えっ!!!?」
すずは思わず、今日一番の大きな声を出した。
案内してくれるのではなかったのか。
三宮駅の改札まで一緒に帰ってくれるのではなかったのか。
佐伯先生の「責任持って回収しろ」という指令はどうなったのか。
玲花は、すずのパニックになった表情を見て、小悪魔のようににやっと笑った。
「大丈夫大丈夫! こいつらもJRやし、ガードマンとしては優秀やから!」
こいつら。
すずは、ぎぎぎ、と錆びた機械のように首を動かし、天馬と陸を見た。
陸は「早く帰って寝たい」と顔に書いてあるように、眠そうに頭をかいている。
天馬は画面の割れたスマホをジーンズのポケットに突っ込んだところだった。
待って。
待って待って待って。
この二人と「同じ枠」にしないでほしい。
まだ名前を覚えたばかりで、声が小さいと指摘されたばかりで、エレベーターで物理的に守られたばかりで、一体どういう顔をして、どのくらいの距離感で歩けばいいのか、まったく、微塵もわからないのだ。
「れ、玲花さんっ」
「玲花でええよー! ほな、私阪急やから〜!バンビ、また来週な!」
「あ、あの!」
「逃げんなよー!」
玲花は、美しい長い髪をふわりと揺らし、颯爽と人混みの中へ消えていった。
すずは、フラワーロードのど真ん中で完全に取り残された。
冷たい海風が、白いブラウスの上の薄いカーディガンを容赦なく通り抜けていく。
鞄の中には、今日初めてもらった課題のプリントが三枚。
右隣には、顔に罫線をつけた作業着の二十歳。
その少し前には、夕暮れの街灯にピアスを光らせた美形。
どうしよう。
すずが銅像のように固まっていると、天馬が振り返った。
「一緒に帰ろー?」
あまりにも自然に、そう言った。
すずは、はい、と返事をしようとして、見事に失敗した。
かすれた息の音だけが、三宮の夕方の人混みのノイズに吸い込まれて消えた。
「ふ。声、ちぃっさ」
天馬が、今日一番の柔らかい顔で笑った。
すずはどうしていいかわからず、ただ鞄の持ち手をぎゅっと強く握りしめ、うつむいてしまった。
今すぐこのフラワーロードのタイルと同化してしまいたかった。
そんな怯えきっている小鹿の様子を見て、天馬は小さく息をつくと、少しだけ首を傾けて視線の高さをすずに合わせた。
「俺もさ、」
不意に、からかうような響きが消え、少しだけ真面目なトーンになった。
「この学校入った時は、右も左もわからんくて。玲花と陸にだいぶ教えてもらってんやん」
すずは、思わず顔を上げた。
この何事にも動じない完璧な容姿の男の子にも、自分と同じように「何もわからない新入生」の時期があった。
そして、それをあの強気な玲花や、眠そうな陸が支えていた。
その事実が、すずの中で少しだけこの異質なクラスメイトたちの輪郭を温かいものに変えた。
「やから、今度は俺がすずに教える。学校のルールも、先生のいなし方も、三宮の駅の迷路も。だから、そんなガチガチにならんで、安心してえーよ」
真っ直ぐに見つめてくる大きな瞳。
さらりと言われた言葉の中に、しかし、すずにとってはとんでもない爆弾が紛れ込んでいた。
すず。
今、下の名前で呼ばれなかっただろうか。
それも、まるでずっと昔からそう呼んできたかのように、息をするのと同じくらい自然に。
「あ、あの……ありがとうございます?」
頭の中で処理しきれない驚きと戸惑いが大渋滞を起こし、すずの口から出たお礼は、情けないほど見事な疑問形になってしまった。
「何で疑問形やねん」
天馬がくすっと笑う。
すると、その後ろでだるそうに首を回していた陸が、ぼそりと低く呟いた。
「天馬、お前、自分が入ってきた時、もっと触るもの皆傷つける狂犬みたいやったやろが」
「うるさい。過去の話や」
「あの頃の天馬なら、今の鈴木さん見て『チッ、歩くのおっそ』とか言うて舌打ちしてるで」
「してへんわ。ほら、はよ行くぞ。陸さんも道塞がんと歩いて」
天馬が軽く陸の分厚い背中を押し、二人が駅の方角へ歩き出す。
すずは慌ててその背中を追った。
気がつけば、すずは自然と二人の間に入るような位置取りになっていた。
冷たい海風が吹き抜けるフラワーロード。
見上げれば、ビルの合間からポートライナーの高架が見え、家路へ急ぐ大人たちの波が途切れることなく続いている。
すずが奈良県に住んでいた頃、毎日当たり前のように使っていたのは「JR三郷駅」だった。
改札を抜けると、目の前にはおおらかな大和川がゆったりと流れている。
夏になれば水面が太陽を反射してきらきらと光り、やんちゃな子どもたちが無邪気に川遊びの歓声を響かせるような場所だった。
電車の本数も少なく、時間帯によっては駅員すらいなくなるほどの無人駅。
川の匂いと、のどかな風の音しかしない、静かで小さな駅だ。
それに比べて、今すずが歩いているこの街の中心は、一体どうだろう。
そびえ立つ商業ビル群、ひっきりなしに行き交う車のエンジン音、そしてどこから湧いてきたのかと思うほどの圧倒的な人の波。
「三郷」と「三宮」。
真ん中の文字が、たった一文字違うだけなのに。
のどかな「郷」からきらびやかな「宮」に変わっただけで、ここまで天地の差がある別世界になってしまうなんて。
ネオンや信号機の光が少しずつ瞬き始めた三宮の街は、三郷駅ののどかな駅前とは何もかもが違って、やっぱりまだ情報量が多すぎて怖い。
すずは早速奈良県が恋しくなってしまっていた。
けれど、両脇を歩く二人の存在が、人混みの圧からすずを確実に守ってくれていた。
右を見れば、顔にプリントの罫線を残したまま、あくびを噛み殺している作業着の二十歳。
左を見れば、夕暮れの街灯にシルバーのピアスを光らせながら、何も言わずに歩幅をすずに合わせてくれている異国風の美形男子。
こうして鈴木すずは、転校初日の夕暮れに、これまで出会ったどんな「男子高校生」とも違う二人に挟まれて、駅までの道を歩くことになったのだった。
すずはリュックを持つ手にぎゅっと力を入れて必死に歩いた。
(な、な、な!何を喋ったらえーの!???)
無口な口とは裏腹に、心の声は大暴走中なのであった。
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