Baby, baby, baby ooh,Like
翌朝。木曜日。
天馬は、シャワーの下でしばらく動けずにいた。
熱い湯が、額からまぶた、鼻筋、顎へと流れていく。
いつもなら、朝のシャワーなんて五分で終わる。
髪を濡らして、顔を洗って、寝癖をざっと直して終わり。
なのに今日は、なかなか蛇口を止められなかった。
頭の中で、昨日の夜に見た画面が何度もちらつく。
haruka。
すずの投稿に、当たり前みたいにコメントしていた名前。
――帰ってきたら連れてったるわ。
――俺のリクエスト。
「……誰やねん」
低く呟いた声は、シャワーの音にすぐ溶けた。
相手は、地元の奈良の男だ。
三郷とか王寺とか、すずが前にいた場所の地名を、当然みたいに使っていた。
マクドに行く生活圏も知っていた。 あのピアノも、天馬より先に聴いていた。
きっと、普通の高校に通っているのだろう。
朝から夕方まで、毎日学校へ行く。
制服を着て、部活をして、テストを受けて、文化祭があって、修学旅行があって。
たぶん大学にも行く。
親も普通にいて、進路の話をして、受験勉強をして、すずが奈良に帰ったら「おかえり」と言える場所にいる。
天馬は、濡れた髪を乱暴にかき上げた。
自分は何を考えているのだろう。
harukaがどこの誰だろうが、すずが誰と仲良かろうが、自分には関係ない。
関係ないはずだった。
なのに、胸の奥がずっとざらざらしている。
知らない男が、すずの過去を知っている。 奈良にいた頃のすずを知っている。
自分が昨日初めて見つけたと思ったピアノを、そいつはとっくに聴いていた。
それが、どうしようもなく腹立たしい。
「……だる」
天馬はようやくシャワーを止めた。
タオルで髪を拭きながら、洗面台の鏡を見る。
鏡の中には、いつも通りの自分がいた。
濡れた黒髪。 薄い茶色の目。 彫りの深い顔。
耳に開いた、いくつものピアスの穴。
普段なら、どうでもよかった。
学校なんて、髪を適当に後ろへ流して、Tシャツを着て、ピアスをつけて終わりだ。
誰にどう見られようが、だいたい関係ない。
でも今日は、なぜかそうできなかった。
天馬はワックスを手に取った。
いつもは流すだけの前髪を上げ、額を出す。
毛先を整え、鏡の角度を少し変えて確認する。
ピアスも、いつもの丸いものだけではなく、少し光るものを選んだ。
白いTシャツに、まっすぐ落ちるジーンズ。
黒いマウンテンパーカー。
最後に、棚の奥に置いていた香水に手を伸ばした。
つけてから、天馬は動きを止めた。
「……何してんねん、俺」
鏡の中の自分が、少しだけ気合いの入った顔をしている。
誰に勝つつもりなのか。
奈良の男か。
harukaとかいう、顔も知らない幼なじみか。
ばかばかしい。
そう思ったのに、香水を拭き取る気にはなれなかった。
リビングへ出ると、窓際の小さな棚に朝の光が落ちていた。
そこだけは、いつも綺麗にしている。
いくつもの写真立てには、家族が笑っている。
エベレストの山を背景に父と母が笑っている写真。
イギリスの宮殿の前で笑う父と母、その真ん中にいる幼い自分。
写真の中の母は、天馬の記憶の中より少し若い。
明るい髪を後ろでまとめて、こちらに向かって笑っている。
父と並んで写っているその顔は、もうどこにもない。
天馬は、棚の前で少しだけ足を止めた。
写真立ての前には、小さなガラスの皿がある。
一粒のダイヤがついている細い銀色のネックレス。
古い指輪。
母が好きだった青い石。
天馬は、その中からダイヤのネックレスを手に取った。
首元につけると、小さな石が朝の光を受けて、きらりと光る。
母のものだった。
父が、母に贈ったものだと聞いている。
普段は、つける日とつけない日がある。
だが今日は、どうしても身につけていきたかった。
理由は、自分でもよくわからない。
「……行ってきます」
小さく言う。
誰も返事はしない。
それでも、言わないまま出ていくのは、どうしても落ち着かなかった。
その時、スマホが震えた。
画面には、父の名前が表示されていた。
天馬は少し眉を寄せてから、通話ボタンを押した。
「Hello」
『Tenma. You okay?』
低い、少し掠れた声が耳に届いた。
「Yeah. I’m okay」
『You sound tired』
「It’s morning」
『You always say that』
父は少し笑った。
天馬は鞄を肩にかけながら、なぜか聞くつもりのなかったことを口にしていた。
「親父」
『What?』
「お母さんと親父って、実際どうやってくっついたん?」
電話の向こうで、父が一瞬黙った。
『……えっ、何。急に。情緒不安定?』
「別に。ふと気になっただけ」
『へえ。お前も年頃ってやつか』
「そんなんちゃう」
『そういう時の“そんなんちゃう”は、だいたい“そんなん”なんだよ』
「うるさい」
父は楽しそうに笑った。
『出会いは山だよ。趣味が同じだったんだ。登山』
「それはもう聞いた。山で恋に落ちたんやろ。ベタすぎ」
『いいじゃないか、ベタで。いつも言ってるけど、お前はメイド・イン・ヒマラヤ――』
そこまで聞いて、天馬は無言で通話を切った。
五秒後。
またスマホが震えた。
天馬は画面を見下ろし、深くため息をついてから電話に出た。
「何」
『いきなり切ることないだろう!』
「こっちが真面目に聞いてるのに、はぐらかすからやろ」
『今から真面目に話すんだよ』
「……」
『いいか、よく聞け。とにかく優しくするんだ』
「は?」
『優しくして、一生懸命尽くせ。相手が困っていたら助ける。寒そうなら上着を貸す。腹を空かせていたら食べさせる。重いものを持っていたら持つ。泣きそうなら、抱きしめる』
天馬は黙った。
『それで、相手がお前のことを少しでも信じてくれたと思ったら、勝負をかけろ。好きだと言うんだ』
「……それまで苦しいやん」
『苦しいよ』
父は、あっさりと言った。
『でも、年を取ったらわかる。誰かをほしくて苦しい時間は、悪くない』
「相手に、もう好きな人がいたらどうするん」
口にしてから、天馬は自分で少しだけ嫌になった。
父は、さっきまでの軽さを少し消した。
『状況による。でも、本当にその子が幸せそうなら、諦めるかな』
「……それ、苦しいだけやん」
『息子よ』
「何」
父はたっぷり間を取ってから叫んだ。
『それが恋だー!』
耳がキーンとなるレベルで叫ばれて、スマホを耳から離すと、テンションが上がった父親が周りに盛大に叫んでいる声が聞こえた。
Somebody cue up! 'Baby' by Justin Bieber! My boy is in love!
Oh~ I can't just sit around... I gotta get my ass to Japan right now!
天馬は、盛大にため息をついてもう一度、無言で通話を切った。
今度は、父から電話はかかってこなかった。
今頃爆音でジャスティンビーバーのベイビーでもかけているんだろう。
天馬は、しばらくスマホを見下ろしていた。
父に何を聞いているのだろう。 母をどう口説いたか、なんて。
自分でも意味がわからない。
けれど、頭のどこかではもうわかっていた。
すずに会う。
今日、すずに会う。
そう思っただけで、胸の奥がざわつく。
harukaのことを聞く気はない。
聞いたところで、自分が何を言えるわけでもない。
でも、もし今日もすずが、何も知らない顔で笑ったら。
たぶん、自分はまた負ける。
天馬は玄関の鍵を閉めた。
外に出ると、尼崎の湿った朝の空気が、肌を冷たく撫でた。 武庫川の土手を吹き抜ける風が、少しだけ冷たい。
父の声が、耳の奥でリフレインする。
――それが恋だ。
参った。
そんな気持ちになって、天馬は空を仰いだ。
「……ほんま、だるい」
けれどその足取りは、いつもより少しだけ速かった。
自転車にまたがって、スピードを上げる。
駅について自転車おきばに止めると、柱にかけられている鏡を見てヘアスタイルを直した。
立花駅の改札へと続く階段を、二段飛ばしで駆け上がる。
電車が来るまでの短い時間、天馬はスマホの画面を閉じ、ただ強く、すずの笑顔が待つ三宮へ向けて、心を真っ直ぐにセットした。
昼過ぎ。
天馬が教室に入った瞬間、リョンファが顔を上げた。
「……え、天馬。今日なんか気合い入ってない? その髪のセット、あれやん。これからずっと憧れてたカフェの面接行く時のテンションやん」
「入ってへん」
「香水変えた? 絶対変えたっしょ。何それ、嗅いだ相手を合法的にマヒさせるやつ?」
「変えてへん」
「髪、いつもよりちゃんとしてる」
「いつもちゃんとしてる」
陸が机に突っ伏したまま、片目だけ開けた。
「嘘つけ。今日は完全に勝負の日の男や」
「黙れ」
「誰殺しに行くん。金さえ払えば足つかん業者でも紹介しよか?」
「黙れって」
玲花が、にやにやと口角を上げる。
「もしかして、バ…」
「違う違う違う違う」
「まだ何も言ってへんやん」
「言ったやろバンビって」
「…言ってないんだなー!それが!!」
「やめろニヤニヤ!」
天馬は、舌打ちをして自分の席に座った。
窓際の一番後ろ。 その隣は、まだ空いている。
すずの席だ。
天馬は、鞄から教科書を出そうとして、やめた。
机の上に置いたスマホを、意味もなく裏返す。
それからまた戻す。
「待ってくれ、もう。マジかお前!」
陸が言う。
「うるさい」
「完全にバンビのことをすk…」
「違う違う違う違う」
「じゃあ何」
「寝不足」
「便利な言葉やな」
その時、教室の扉が開いた。
「お、おはようございます」
すずだった。
白いブラウスに、少し大きめのカーディガン。 肩にかかった髪は、いつものようにまっすぐで、頬は少し赤い。 たぶん、階段か駅からの道を急いできたのだろう。
すずは、天馬が自分を見ていることに気づいて、小さく笑った。
「あ、天馬くん。おはよお」
その瞬間、天馬は、自分が朝から何と戦っていたのかを思い知った。
勝てるわけがない。
天馬は、目をそらしながら、低く返した。
「……おはよ」
玲花が、机に頬杖をついて、にこにこと笑っていた。
「はい、勝負終了」
「何が」
「天馬の負け」
「黙れ」
すずは、何の話かわからないという顔で、きょとんと首を傾げた。
その仕草に、天馬の首元で、母のネックレスが小さく光った。
天馬は顔をその大きな手で覆って、隠した。
完敗であった。
天馬が恋を自覚したこの日。
帰りの時間にどん底に落とされるとも知らずに、ソワソワとすずを見つめ続けたのだった。
可愛い恋の始まりです!




