嫉妬の嵐と火傷に包帯。
(うう……なんかちょっとヒリヒリしてきたかも)
すずは、教室の壁に掛かった丸い時計を盗み見た。十四時半。
佐伯の授業の最中だったが、「守衛室から電話が入った」とのことで、佐伯は舌打ちを残して廊下へ消えていった。自習という名の無法地帯となった教室の喧騒に紛れ、すずはそっと右腕のカーディガンをまくった。
そこには、普段なら絶対にあるはずのない、やけに物々しい白いテープがぴたりと貼られている。
誰かに見咎められる前に、すずは慌てて袖を下ろし、布の上からそっと腕をさすった。
――さかのぼること、数時間前。
その日、すずは朝から特大のトラブルに見舞われていた。
朝七時半の開店に向けて、パン屋の厨房は戦場と化していた。焼きたてのメロンパンが並ぶ重い鉄板をトレーラックに収めようと、すずが振り返ったその瞬間だった。
ドンっと言う衝撃の後に、じゅじゅっ、という嫌な音。
突き抜けるような熱さが同時に走った。
「きゃあ!」
「うわ! まじか!」
悲鳴と同時に聞こえたのは、聞き覚えのない男の子の声だった。
驚いて顔を上げると、先輩の真帆さんにそっくりな顔立ちの、メガネをかけた少年が至近距離に立っていた。黒い学ランのボタンは全開で、だらしなく覗く白いシャツ。肩には通学カバンや水筒やらを重そうにぶら下げている。彼が慌てて飛び込んできた拍子に、すずの持っていた鉄板と激突してしまったらしい。
少年は、すずの腕に走った赤い線を見るなり、荷物を床に放り投げた。
一方のすずは、痛みよりも驚きが勝ってしまい、完全にフリーズしていた。
「やばい! 待って待って、とりあえず鉄板置いて! 母さん! 父さん! アルバイトさん火傷させてもーた! ちょ、お姉さん、鉄板置いてってば!」
少年は、石像と化したすずに痺れを切らしたのか、背後に回り込むと、すずの両腕ごと鉄板を掴んで強引に作業台に置かせた。
二階から「えええ!」という真帆の悲鳴が聞こえ、キッチンからも店長の太い声が上がる。
「何ぼーっとしてんねん! こっち!」
少年はすずの手首を掴むと、手洗い場へ引きずっていき、蛇口を全開にした。冷たい水が勢いよく腕に叩きつけられる。
「ミトン!ミトンとって! 手ぇすぐ冷やさなあかんねんって……うわー、痕残ったらどないしよう。冷やしとけよ! ここ!」
嵐のように喋り倒し、かと思えばダッシュで消え、今度は巨大な保冷剤を抱えて戻ってきた。
冷水に当てられた腕には、手首の少し上から肘の裏にかけて、ぷっくりと赤い線が浮かび上がっている。
(あれ、さっきまで痛みも何も感じなかったのに……なんだか段々、痛く……あれ! 痛い! ひ、ヒリヒリする……!)
時間差で襲いかかってきた鋭い痛みに、すずは思わず眉間にシワを寄せ、奥歯を噛み締めた。
その時だった。
「圭太! 何してん!」
葉鳥店長の怒声がキッチンに轟いた。
普段は温厚な店長の珍しい大声に、すずはビクッと肩を跳ね上がらせた。その拍子に、堪えていた涙腺のダムが決壊し、ぽろりと大粒の涙がこぼれ落ちてしまった。
「ご、ごめん……鉄板持って歩いてるとこに、俺が後ろからぶつかったんや」
「すずちゃん大丈……うわ! めっちゃ泣いてるやん!」
二階から転がり落ちてきた真帆さんが、すずの顔を見てぎょっとする。
すず自身が一番驚いていた。
「えっ、な、泣いて? わ、ど、どうしよ、あの、え……っ」
「うわ、まじか。ご、ごめんな? 痛いよな? えーどうしよう、えー!」
少年――圭太もパニックを起こし、店長は頭を抱えた。
「圭太! 上からでかいバンドエイドのシートと保冷剤もっと持ってこい! 一番長いやつや! すーちゃん、もっとちゃんと腕冷やして!」
「は、はい!」
「すーちゃん……ごめんな、うちのバカ息子が。うわー、くっきり長くいってんなー、これは……お母さんに電話で謝らんとあかんわ」
「えっ、そんな! ただの事故なので!」
「いや、これは下手したら一生の傷跡になるかもしれへんから……」
ズーン……と、キッチンに目に見えるほどの重い空気が立ち込めた。すずは慌ててちぎれるほど首を振ったが、店長はわかりやすく撃沈し、肩を落としている。
「お、女の子の白魚のような肌に、き、傷を……」
普段は二語以上喋らない寡黙な店長が、ポエムのような台詞を吐いて項垂れている。
「あ、ああああの! 本当に気にしないでくだ……」
「かせ」
救急箱を抱えて二階から戻ってきた圭太が、すずの腕を水道から引き上げ、じっと見つめた。
「染みるかも……」
圭太はそっと清潔なタオルを当てて水気を拭き取ると、大きなシートを開け、慎重に火傷の跡を覆っていった。
ピーピーピー!
シンと静まり返ったキッチンに、オーブンのタイマーが間の抜けた音を響かせる。同時に、二階から「ままー!!」と幼い声が降ってきた。
「圭太! あんたちゃんと貼ってあげてよ! すーちゃん、子どもら保育園送ったらすぐ診るからね!」
「すーちゃん、僕はキッチンに戻る。痛みが引くまで、そこで休憩しといてもらっていいから」
「は、はい!」
店長と真帆さんは、未だに涙が止まらないすずを痛ましげに見つめながら、それぞれの持ち場へ散っていった。
一方のすずは、自分の涙の止め方がわからず、ひたすら焦っていた。
「めっちゃ泣くやん……そんなに痛いですか?」
「ご、ごめんなさい、すぐ止めます……っ」
「や、そういう意味じゃ……すみません」
「ずびっ」
「あー、長さが足りへんな。もう一枚いきます。これラス1や」
圭太はビッと保護シートを剥がし、すずの腕を少し引っ張って、もう一枚のテープを重ねて貼った。
「白いから、余計に目立つな……」
圭太は自分のしでかした不始末を前に、深く顔を顰めた。
「よし、できた。でもこれ、傷跡なおす専用のやつじゃないんよなぁ……お姉さん、今日何時まで?」
「あ、十二時です。その後、学校で……」
「僕が後で学校まで、ちゃんとした薬、届けます。学校、どこですか?」
「え、えぇ? さ、三ノ宮ですけど……」
「ラッキー! 僕も三ノ宮です。一緒ですね」
圭太はテープを貼り終えると、その上からタオルを置き、保冷剤を当て、さらにタオルでくるむという念の入れようだった。
「よし。僕、今から高校なんで、一旦いきます。後で母さんに聞いて行くんで、絶対に出てきてくださいね」
「え、な、ええ!?」
「僕、葉鳥圭太。お姉さんは?」
「あ、鈴木すずです」
「あー、母さんが言うてた子か! 『声の小さい子が入った』って言うてたわ。確かに小さい!」
「! す、すみませ……」
「謝らんでいいよ」
圭太はサッと立ち上がると、直角に腰を折って頭を下げた。
「ほないきます。ほんまに、すみませんでした!」
そして、嵐のように店のドアを蹴破る勢いで飛び出し、自転車に跨って疾風のごとく消えていった。
「はっ! パン並べないと!」
すずは慌てて立ち上がった。幸い、痛みは引いており、動くのには支障はなかった。
ーーーーー
その後、店長たちからは激しく病院行きを勧められたが、すずは「痛くないから大丈夫です!」と押し切って学校へやって来た。
だが、学校に着いたはいいものの、今度は隣の席の天馬の様子がおかしい。
すずはわかりやすくソワソワしていた。
(な、なんか今日は天馬くんの様子が変……です。もしかして、また私からパンの匂いがしてるのかな……?)
すずは授業中、天馬がガッツリとこちらに体を向け、射貫くような視線を飛ばしてくることに、生きた心地がしていなかった。
おそらく天馬は、ただ無意識にすずを視界に入れているだけなのだろうが、すずには「お前、なんか臭いぞ」と睨まれているようにしか思えなかったのだ。
(わ、私何かしたかな……ていうか、ひょっとして顔に粉とかついてる!? あーん、わからないよー!)
すずが内心で大パニックを起こしていた、その時だった。
「鈴木すずー、なんか兵庫高校の男が来とるぞ。『葉鳥圭太、薬持ってきたって言うたらわかる』って言うとるけど……」
守衛室に呼ばれてた佐伯が戻ってきて、廊下から手招きをした。
「えっ、え、あ、ええ!?」
すずは椅子をガタッと鳴らして立ち上がり、あたふたと廊下へ駆け出した。そこには、今朝のままの学ラン姿で、ドラッグストアの袋を下げた圭太が立っていた。
「すみません! 今朝、僕の家ですーちゃんの腕、怪我させてしまったんです。テープと軟膏、届けに来ました!」
葉鳥圭太は、佐伯先生に向かって、まるで表彰状を読み上げるかのように堂々と説明してのけた。
「おー! きみ、物おじせんな! てか鈴木! お前怪我してんのか?」
圭太は、すずの右腕をそっと掴むと、カーディガンの袖をめくり上げた。
そこに現れた痛々しい白いテープを見て、佐伯は派手に顔を顰めた。
「めっちゃでかいテープやん! そらわざわざ来なあかんわ君ー!」
「はい! なので、ちゃんとしたテープ貼って帰ります!」
「俺は教室戻るぞ! 鈴木、終わったら教室戻ってこいよ」
「は、はい……」
嵐のような佐伯が去ると、圭太はすずの怪我をしていない左腕を掴み、廊下の端にあるベンチにすずを座らせた。そして自分は、その前に片膝をついて向かい合うように屈み込んだ。王子様が靴を履かせるようなポーズである。
「すーちゃん、高2やったんですね。昼間から学校行くって言うから、僕、専門学校か大学生かと思ってました」
「え、はい、高2です。葉鳥さんは……」
「圭太でいいですよ。僕は今年から高1です。だから敬語じゃなくていいです」
すずは今日、少し丈の短いワンピースを着ていた。至近距離の足元に男子に座り込まれ、すずは焦って両膝をキュッとくっつけた。そんなすずの羞恥心など一ミリも気付かない圭太は、袋から高級そうな医療用テープを二枚取り出し、手際よくパッケージを剥いた。
「僕、いつもは反対側の勝手口から出るんですけど、今朝は自転車を店の前に置いてたから。寝坊して慌ててたし、不注意でぶつかっちゃいました。ほんますみませんでした」
圭太はカバンから小さなハサミを取り出すと、すずの火傷の長さに合わせて器用にテープを切り分けた。
「僕、この後すぐ部活あるから、来れる時間が今しかなくて、授業中やのにすみません。手ぇかしてください。痛かったら言うてくださいね」
「は、はい……」
圭太は、すずの腕に貼られた仮のテープの端を摘み、ゆっくりと剥がし始めた。時折、上目遣いですずの表情を伺いながら、慎重に、慎重に。
テープの下から、生々しいピンク色に腫れ上がった火傷の痕が現れる。
圭太の顔が、自分のことのように痛みに歪んだ。
「痛いですよね……」
「っ!」
「すぐ終わらせます。これ、傷跡が残りにくくなるテープなんで」
圭太の顔がすずの腕に近づく。彼が新しいテープを貼るために集中している間、すずは傷跡を見ようと少し首を傾けた。
その拍子に、すずのサラサラの髪が、圭太の手元へ滑り落ちてしまった。
「あ、髪の毛入る。ちょっとすみません」
圭太は何の気負いもなく、すずの髪をすくい上げ、彼女の耳にかけてやった。
その瞬間、圭太の指先がすずの耳介と首筋に触れ、すずの顔は一瞬にして沸騰したように赤く染まった。
「顔赤いですよ。痛みますか?」
「えっ、ち、違……」
「違うんや。じゃあ、恥ずかしい方か」
「な、ど、は、恥ずかしくなんか……っ」
すずがしどろもどろになっている間に、圭太は「よし」とテープを完璧に貼り終えていた。
圭太はすずの左手を取り、エスコートするように彼女が立ち上がるのを手伝った。そして、もう一度右腕のテープの定着具合をポンポンと叩いて確かめる。
「……あ、あの、これのお薬代」
「いいです。母さんからお金預かってるし、『責任とってちゃんと届けるように』ってキツく言われてるんで、気にせんとってください」
圭太はそう話している間も、なぜかずっと、すずの両腕をホールドしたまま離さなかった。距離感が完全にバグっている。
「あ、あああ、ああの、手、手を……」
「ふふっ! すーちゃん、反応が面白いなぁ! なんか小動物みたいでかわいい!」
「なっ、なになな!? かわ、か、かわ!?」
「あはは! ほな僕はもう行きます。すーちゃん、夜、様子聞くために電話するから出てくださいね!」
「で、電話!?」
「はい! 電話します!」
圭太は少し屈み込み、すずの目線にピタリと合わせると、内緒話をするように声を潜めた。
「……顔、真っ赤ですよ」
それだけ言い残し、圭太は脱兎のごとくエレベーターに飛び乗っていった。残されたすずの頭からは、物理的にシューッと湯気が立ち上りそうだった。
ーーーーー
すずは、火照った顔を両手でパタパタと扇ぎながら、教室の後ろのドアをそーっと開けた。
「おー! 鈴木! なんやあれ、お前の彼氏か!?」
目立たないように忍び込んだつもりだったのに、職員室から戻ってきていた佐伯に特大の爆弾を落とされ、すずの肩はビクンッ!と跳ね上がった。
「な、ななな、かか、か、彼氏!?」
「今日のバンビは、僕たちより日本語下手ね」
「否定はしてないってことは友達ではないね」
「お、ほんまやな! お前ら、ええツッコミするやんけー。うぇ〜い」
「うぇ〜い」
すずが完全にキャパオーバーを起こしていると、クラスの留学生たちが流暢な日本語で的確なツッコミを入れてきた。何が「うぇ〜い」だ!と心の中で叫びながら、すずは茹でダコのように真っ赤な顔で自分の席へ滑り込んだ。
一方、すずが廊下でドタバタ劇を繰り広げている間。
天馬は、自席で自分の机の木目を、親の仇のように睨みつけていた。
廊下から漏れ聞こえてくる声に、いちいち心臓を掴まれるように反応してしまう自分が、死ぬほど嫌だった。
『すみません! 今朝、僕の家ですーちゃんの腕、怪我させてしまったんです。テープと軟膏、届けに来ました!』
『すーちゃん、夜、電話するから出てくださいね!』
僕の家。
すーちゃん。
夜、電話する。
(……彼氏じゃなかったら、なんなんや、あれ)
今朝、鏡の前でわざわざ髪をセットし、柄にもなく香水まで振ってきた自分の姿が、最高に滑稽なピエロに思えてきた。天馬は深く眉間を寄せ、机に突っ伏した。
(家で怪我させたって……二人で、朝から何してたんや)
ぐるぐると、黒い泥のような感情が腹の底で渦を巻く。
そこへすずが戻ってきて、佐伯の「彼氏か?」というストレートな問いかけに対し、すずはパニックになるばかりで、明確に否定しなかった。
(……否定、せんのか)
胸がズキズキと痛んで、すずの顔を直視できる気がしなかった。天馬は机に突っ伏したまま、顔だけを窓側に向け、死んだふりを決め込んだ。
が。
「すずー! あの子、誰なん!?」
前の席の玲花が、野次馬根性丸出しで直球を投げ込んだ。
「あ、アルバイト先の店長のお子さんなんです。今朝、勢いよくぶつかってきて、私、焼きたての鉄板持ってたから火傷しちゃって……」
「ええ! 鉄板で火傷? うわ、ほんまやん! 大丈夫なん?」
「は、はい。ちょっとひりつくくらいで……」
ガバッ!
死んだふりをしていた天馬は、バネ仕掛けのおもちゃのように勢いよく跳ね起きた。
見れば、玲花がすずのカーディガンを無遠慮にめくり上げ、痛々しい医療用テープを凝視している。
彼氏じゃない。
ただのバイト先の息子。
でも、すずに火傷をさせた。
そして、すずの腕に触れて治療をし、ご丁寧に今夜電話までかけてくる約束を取り付けた。
彼氏ではない。彼氏ではないが――。
(……腹立つ)
天馬の脳内は、安堵と、嫉妬と、行き場のない苛立ちで大渋滞を起こしていた。
「……はぁ」
重すぎるため息を一つ吐き出し、天馬は結局、もう一度机に突っ伏すことしかできなかった。
ーーーーー
そうこうしているうちに、無情にも帰りのチャイムが鳴り響いた。
すずは、隣でため息ばかりつき、あからさまに機嫌が悪そうなオーラを放っている天馬を直視できず、逃げるように鞄を抱えて一人で帰ろうとした。
が、すずの右の袖口が、ぐいっと後ろから引っ張られた。
「……っ」
振り返ると、天馬が感情の読めない目でこちらを見下ろしている。
「あ、あああ、あの! なんでしょう……」
「一緒に帰ろ?」
有無を言わさない、低い声。
「え、あ、ああの、今日は私! よよよ、用事がありましてですね! さ、先に帰っててください!」
すずは裏返った声で早口にまくしたてた。
「……なんで?」
天馬が一歩、距離を詰める。
「な、きょ、今日は! 用事が!」
「誰かと約束でもあんの?」
さらに一歩。天馬の顔が迫る。
(ち、近い近い近い! ど、どうしたのですか天馬くん! 怒ってる!?)
すずが後ずさりしようとした、まさにその瞬間だった。
ズバァン!
二人の顔と顔の間に、黒いビニール張りの分厚い出席簿が、まるでギロチンのように容赦なく割り込んできた。
「はーい、そこまでー!」
現れたのは、ニヤニヤと人の悪い笑みを浮かべた佐伯先生だった。




