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乗り過ごしてしまった、立花駅。

「はーい、そこまでー!」


 二人の顔と顔の間に、黒いビニール張りの分厚い出席簿が、まるでギロチンのように容赦なく割り込んできた。

 現れたのは、ニヤニヤと人の悪い笑みを浮かべた佐伯先生だった。


「西倉。距離感バグっとるぞ」

「……バグってません」

「バグっとる。鈴木が小鹿から干し鹿になる寸前やったぞ。圧で乾燥させるな」

「してません」

「してる。お前の圧で二十五階の気圧が一瞬変わった」


(ほ、干し鹿って何!? いやそれより、いつの間に佐伯先生が……!)


 すずは出席簿の向こう側で、かちこちに固まっていた。

 天馬はようやく自分がすずの袖をがっちりと掴んだままだったことに気づいたらしく、火にでも触れたようにぱっと手を離した。


「……悪い」

 地を這うような低い声で言われ、すずはぶんぶんと慌てて首を振る。

「あ、い、いえ! 全然! 大丈夫です!」

「大丈夫ちゃう顔しとるぞ、鈴木」


 佐伯先生がすかさずツッコミを入れる。


「は、はい、すみません」

「謝るな。報告しろ。あと怪我したなら先生に言え。火傷してんのに普通に授業受けて、放課後になって他校の男に手当てされて、横の西倉が圧力鍋になる。情報量が多いねん」

「圧力鍋……」


 後ろで様子を見ていた玲花が耐えきれずに吹き出した。陸も机に突っ伏したまま、肩を揺らして低く笑っている。


「まあええわ。鈴木、腕はほんまに大丈夫か」

「はい。痛みは、少しだけなので」

「少しでも痛かったら言え。」

「……はい」

「で」


 佐伯先生は、教卓の上に置きっぱなしになっていた課題プリントの束を指でピンと弾いた。


「課題はきっちりせーよ。怪我してるからって白紙提出したら、俺が火傷しそうな勢いで怒る」

「は、はい」


 すずは自分の分のプリントをぎゅっと握りしめた。


「今日、帰る前にやっていきます」

「お、えらいな」

「マクドで、少しやって帰ろうと思って……」


 すずが消え入るような声で言うと、天馬が即座に顔を上げた。


「俺も行く」

「えっ」

「行く」

「でも、天馬くん帰るって……」

「帰らん」


 食い気味の即答だった。


(えええっ、機嫌悪いっぽい 天馬くんと、マクドナルド行くとか無理無理無理無理…リョンファちゃん!)


 助け舟を求めて玲花をみる。にやにやしながら鞄を肩に引っ掛ける。

「はいはい、決定。マクド行こ。すずの怪我反省会と、天馬の圧抜き会な」

「圧抜き会って何」

 天馬が眉間を寄せて低い声で言う。

「今のあんたに一番必要な会や」

 陸がのそのそと、冬眠から目覚めた熊のように立ち上がった。

「俺は帰りたい」

「却下」

「人権は」

「一枚目終わったら返す」

「ひどい」


 わちゃわちゃとしたやり取りを聞きながら、すずは慌てて鞄にプリントをしまおうとした。けれど、右腕に少し力を入れた瞬間、分厚いテープの下の火傷のあたりが、ぴりっと鋭く痛んだ。

「っ」

 声にならない引きつった息が漏れる。

 その瞬間、天馬が横からすっとすずの鞄を掴み取った。


「持つ」

「え、いいよ」

「火傷してるやろ」

「左手で持てるし」

「持つ」

 取りつく島もない、岩のように固い声だった。

 すずが困惑して見上げると、天馬は少しだけ気まずそうに目をそらした。

「……重いもん持つなって言われたやろ。たぶん」

「言われ?……て?」

「持つ」


 天馬はすずの返事など鼻から待つ気がないらしく、自分の鞄とすずの鞄を無造作に肩にかけた。

(両肩にリュック……ちょっと不審者っぽい……)


 リョンファが大仰に両手で顔を覆う。

「はい、出た。火傷を理由にした合法荷物持ち」

「うるさい」

「いや、正当性あるから余計に強いわ」

 陸が眠そうに目をこすりながら言った。

「今日の天馬、理由つけるの上手いな」

「黙れ」


 すずだけが、また何の話かわからず、ただひょいっと空っぽにされてしまった自分の手元を、ぽかんと見つめていた。

 右腕は少し痛い。でも、それとは別に、胸の奥がなんだか変なふうに、じんわりと熱かった。


 ***


 そのあと四人は、喧騒に包まれた三宮センター街のマクドナルドへ向かった。

 買ったのは、それぞれドリンクだけだった。すずはアイスティー、リョンファはカフェラテ、陸はコーラ、天馬はアイスコーヒー。

 夕方の店内は、学校帰りの高校生や買い物客でごった返していた。二階も三階も席が埋まり、結局、トイレがないぶん少しだけ人口密度の低い四階まで、細い階段を延々と上がることになった。


 階段を上りながら、リョンファがぜえぜえと恨み言をこぼす。

「四階遠い……マクドで登山させんといて……」

「お前、体力なさすぎ」

 陸はまったく息を切らしていない。

「陸と比べんといて! あんた現場で鍛えられてるやん!」


 すずも、三階を越えたあたりでふっと息が上がってきた。

(だめだ、足が重い……。朝からパン屋さんでずっと立ってたし、火傷で変に力入ってたし……)

 思っていた以上に、体が鉛のように疲労を溜め込んでいたらしい。

「ふ……」

 小さく、情けないため息が漏れた瞬間、前を歩いていた天馬がくるりと振り返った。


「バンビ?」

「あ、大丈夫」

「大丈夫って顔ちゃう」

 天馬は、自分が持っていたアイスコーヒーのカップをひょいっと陸に預けると、すずのいる一段下まで戻ってきた。

「トレー貸して」

「え、いいよ」

「火傷してる」

 その伝家の宝刀のような一言で、すずはまたしても反論できなくなった。

(火傷してるのは右腕だけで、左手は元気なんだけどな……)

 おずおずとドリンクの乗ったトレーを渡すと、天馬は危なげなく片手でそれを持ち、空いたもう片方の手を、すずの目の前にすっと差し出した。


「手」

「え?」

「あと少しやから」


(手!? 今、「手」って言った!? 引っ張ってくれるってこと!?)


 すずは一瞬、激しく迷った。けれど、目の前に差し出された大きな手は、それが世界の理であるかのように、当たり前みたいにそこにあった。


 恐る恐る自分の指先を乗せると、天馬はその手を包み込むように、軽く、優しく握った。

 強くはない。でも、絶対に離さないという確かな意思を感じる、ちゃんと引っ張ってくれる力だった。


「ゆっくりおいでや」

 普段の苛立ちを含んだものとは違う、ひどく穏やかで低い声が、階段の狭い空間にぽとんと落ちる。

 すずの心臓が、階段を上ったせいではない、おかしな速さで跳ね上がった。

「う、うん」


 リョンファが後ろから、親戚のおばちゃんのようににやにやと見ている。

「バンビ待遇ええなあ」

「火傷してるからやろ」

 天馬が振り返らずに、淡々と返す。

「はいはい、火傷ね。火傷が悪いね」

 陸がぼそっと、的確な合いの手を入れた。

「この店の階段、今日一番いい仕事したな」

「黙れ」

 天馬が低く唸る。


(な、何の話!? 階段が何の仕事をしたっていうの!?)


 すずは、男の子特有のごつごつした手に引かれながら、顔から火が出そうなのを必死に堪え、何も聞こえないふりをしていた。


 四階の窓際、一番奥の席に腰を落ち着けると、四人はようやく皺くちゃのプリントを広げた。

 だが、すずはちっとも本文の活字に目を落とせなかった。

 右腕の火傷のひりつき。廊下に突然現れた圭太の真っ直ぐな瞳。ずっと不機嫌そうだったのに、階段で手を引いてくれた天馬の体温。


(だめだ、今日一日で処理しなきゃいけない情報量が多すぎる……キャパオーバーです…)


「じゃ、じゃあ、課題しよ」

 すずが無理やり空気を変えようとプリントを広げると、リョンファも観念したように大きく頷いた。

「せやな。今日の目標、一枚目終わるまで帰らん」

「ええ……」

 陸が、コーラのカップを両手で持ったまま、この世の終わりのような声を出す。

「俺、今日もう無理やで。三連勤明けやぞ」

「知ってる。でもやる」

「白さん、鬼」

「鬼ちゃう。未来の陸を救う女神」

「女神はもっと優しい」

「優しい女神は課題を終わらせてくれへんねん」


 テンポの良い漫才のようなやり取りに、すずは思わずふふっと笑ってしまった。

 けれど、陸が本当に疲労困憊なのは、その姿勢を見ればすぐにわかった。国語の読解問題を前に、陸はたった三行読んだところで、完全に機能停止してしまったのだ。

「無理。字が多い。全部ミミズに見える」

「まだ三行やで」

 天馬が呆れたように言う。

「三行も読んだ。えらい」

 陸のトーンは真剣そのものだった。


 すずは、そっと自分のプリントに視線を落とした。

 長く、少し小難しい文章。問いは「筆者の考えに最も合うものを一つ選べ」というオーソドックスなもの。難しそうに見えるけれど、ゆっくり言葉を追えば、きっと陸にもわかるはずだ。


「たぶんこれ、“努力したら何でもできる”って話じゃなくて……努力するにも、時間とか場所とか、支えてくれる人がいるって話やと思う」

「……環境ってこと?」

 陸が、重い瞼を少しだけ持ち上げて聞く。

「うん。だから、選ぶなら二番かなって」

 陸はしばらく黙って、二番の選択肢の文章をじっと見つめた。

「……今、ちょっとわかった」

「ほんま?」

「ほんま。今だけ賢い」

「今だけなんや」

 リョンファがケラケラと笑う。


 ふと、天馬がすずのプリントを横からすっと覗き込んできた。

「今の説明、わかりやすかった」

「えっ」

「バンビ、教えるのうまいんちゃう」

 顔のすぐ横で、天馬の息遣いが聞こえそうな距離。すずは、一気に顔面が熱くなるのを感じた。

「そ、そんなことないよ。たまたま、わかっただけで」

「たまたまちゃうやろ」

 確信に満ちた低い声が、鼓膜をくすぐるように返ってくる。


(天馬くん、今日やけに近いよ……心臓もたないってば)


 すずはもう何も言えなくなり、必死でアイスティーのストローをくわえてやり過ごした。


 そうして、四人の課題はそれぞれのペースで少しずつ進んでいった。

 リョンファは要領よく本文から答えの箇所を拾い上げる。天馬はなぜか社会のプリントだけ異様なスピードで終わらせている。陸は一問解くごとに口から魂が抜けていく。すずは国語の文章を、陸にも咀嚼できるように少しずつ噛み砕いて通訳した。


 一枚目が半分ほど埋まったころには、陸の目は完全に接着剤でくっつけられたように閉じかけていた。

「陸くん、大丈夫?」

「大丈夫……ではない……」

 そう言った三秒後、陸は音を立てて机に突っ伏した。

 すー、すー、と規則正しい寝息が聞こえてくる。


「寝た」

 リョンファがストローで氷をかき混ぜながら言う。

「三連勤明けやしな」

 天馬は無理に起こそうとはせず、静かに言った。

 すずは、陸の手元に取り残されたシャーペンを、転がらないようにそっと横にどけた。

 ふと、陸の手の爪の間に、洗っても落ちきらない黒いオイルのような線が入り込んでいるのが見えた。

(……働いてる男の人の手だ)

 陸も、毎日一生懸命なのだ。


「私も明日仕事やし、今日は早めにお開きにしよ〜」

 三十分ほど眠って奇跡の復活を遂げた陸は、すっきりと晴れやかな顔で「っしゃ!」とみんなの答案を豪快に丸写しし、「いやー頑張ったな俺!」などと清々しく言い放っていた。


 ***


 帰りのJRのホーム。

 運良く、着いてすぐにガラガラの普通電車がやってきた。

 冷房の効いた車内でふかふかの座席に腰を下ろした瞬間、すずの体に溜まっていた疲労が一気に牙を剥いた。


(あ、だめ……急に、まぶたが……)

 朝の火傷のパニック。授業の気疲れ。廊下での圭太の手当て。天馬の読めない機嫌に振り回され、マクドナルドの四階までの登山。

 体の芯が、もう限界だと悲鳴を上げている。隣には、天馬が静かに座っている。


「次、甲子園口やで」

 心地よい揺れの中、誰かの低い声が耳をかすめた気がした。

 返事をしようと思った。でも、まぶたに重りがついたように開かない。

 プシュウ、と電車が止まる。ドアが開く。人が降りていく足音が遠くで聞こえる。

 そして――無情にも、ドアが閉まった。


「……あ」

 天馬の焦ったような声で、すずはバチッと目を開けた。

「え?」

「今、甲子園口やった」

「えっ」

 すずはバネ仕掛けのおもちゃのように跳ね起きた。

 窓の外で、見慣れた「甲子園口」の駅名標が、無情にも後ろへすっ飛んでいく。


「ええええええ!? 降りる駅! 今の!?」

「うん」

「す、すみません! 私、爆睡して……!」

「俺も気づくの遅れた。ごめん」

 天馬はすぐに吊り革から手を離し、すずの前に立った。

「次、立花で降りる。戻ろ」

 向かいの席で船を漕いでいた陸が、薄目を開ける。

「俺ら、立花で降りるからちょうどええな」

「よくないです! 天馬くんの家、逆方向なのに!」

 すずは自分の失態に半泣きだった。

「大丈夫や。戻れる」

 天馬はどこまでも落ち着いていた。

「送る」

「えっ、でも」

「送る」

 この日何度目かわからない、絶対に拒否権を与えない声だった。


 立花駅のホームに降り立つと、夕暮れの空気は昼間よりも少しだけひんやりと冷えていた。

 陸は改札へ向かう階段を上りながら、ひらひらと片手を上げた。

「バンビ、今日は早く寝ろよ。腕も大事にしろよ」

「あ、ありがとう。陸くんも、ちゃんとベッドで寝てね」

「電車で寝た」

「それはちゃんとした睡眠じゃないと思う……」

 陸はフッと笑って、そのまま長い足で階段を上っていった。


 天馬とすずは、反対方向のホームへと肩を並べて歩いた。

「本当にごめんね。私が寝たから、余計な時間使わせちゃって」

「俺が起こすって言った」

「でも」

「だから俺のせい」


(な、なんでそんなに言い切るの……。私の自己管理が甘かっただけなのに)


 すずは申し訳なさでいっぱいになり、自分のつま先を見つめた。

 右腕が少しだけひりつく。でも、それよりも、今この瞬間、天馬と二人きりで夜の駅のホームにいることの方が、よほど心臓に悪かった。


「……今日は、いろいろありすぎたな」

 天馬がぽつりと、夜空に溶けるような声で言った。

「うん」

「火傷、大丈夫?」

「うん。さっきよりは、全然」

「痛かったら言え」

「はい」

「あと」

 天馬は、口の中で言葉を転がすように、少しだけ言い淀んだ。

「……あいつから電話来るん?」

「あいつ?」

「パン屋の」

「あ、圭太くん?」

 その名前を口にした瞬間、天馬の形の良い眉が、わずかにピクッと動いた。

「夜に様子聞くって言ってたから……たぶん、かかってくるとは思う」

「ふうん」

 ただそれだけ言って、天馬は前を向いてしまった。


(……また『ふうん』だ。怒ってるのかな…男の子、よくわからん…)


 甲子園口まで戻り、改札を出て駅前のロータリーに出るところまで、天馬は無言でついてきた。

「ここから一人で大丈夫です」

「ほんまに?」

「うん。家、すぐそこだから」

 天馬はしばらく黙って、街灯に照らされたすずの顔をじっと見下ろした。

「着いたらLINEして」

「あ」

 そういえば、同じクラスなのに、まだLINEを交換していなかった。

 すずがハッとした瞬間、天馬も同じことに思い至ったらしい。


「……LINE、教えてほしい」

「えっ」

「今さらやけど」

 天馬は、視線をすずの顔から外し、少しだけ気まずそうに夜の空を見上げた。

「……あかん?」



 その言い方が、いつもの天馬にしてはあまりにも弱気で、すずは鳩が豆鉄砲を食ったようにぱちぱちと瞬きをした。


「ぜ、全然いいよ!」

 自分でも驚くほど、大きな声が出た。駅前を歩いていたサラリーマンが少しこちらを見る。

 すずは慌ててスマホを取り出し、不慣れな手つきでQRコードを表示した。手間取りながらも、なんとか友だち追加が完了する。


 画面に、新しい名前がぽんと増えた。

『西倉天馬』。

 たった四文字のその名前を見た瞬間、すずの胸の奥で、カチリと小さな音が鳴った気がした。

「できた」

 天馬が短く言う。

「あ、うん。できたね」

「家着いたら、送って」

「うん」

 天馬の強張っていた口元が、ほんの少しだけ緩んだように見えた。

「じゃあ、また」

「うん。またね」

 すずは、天馬の背中が見えなくなるまで、何度も何度も振り返りながら夜道を歩いた。


 ***


 家に着き、玄関の鍵を閉めると、靴も脱がずにすぐにLINEを送った。

『suzu:着きました。送ってくれてありがとう。』

 送信した一秒後に、既読がついた。

『tenma:よかった』

『tenma:腕、冷やして』

『tenma:今日は早く寝ろ』


(お母さんみたい……でも、嬉しいな)

 すずは、そのそっけないけれど温かい短い文面を見つめて、思わずへへっと笑った。


 その直後、手の中のスマホが震えた。

 今度は、LINEではなく、知らない番号からの着信だった。

「ひいいいっ」

 びくっと肩を跳ねさせて電話に出ると、昼間と同じ、快活で明るい声が鼓膜に飛び込んできた。


『あ、すーちゃん? 圭太です』

「あ、圭太くん」

『腕、大丈夫ですか? 痛み出てません?』

「うん。大丈夫だよ。薬も飲んだし、テープもちゃんと貼ってるから」

『よかった……ほんまにごめんなさい。明日、バイト来ます?』

「行きます」

『わーよかった!めっちゃ嬉しい!』

「えっ」


(う、嬉しいって……そんなストレートに……圭太くんって、本当に光属性の人だなぁ)

 あまりに裏表のないまっすぐな言葉に、すずは照れて言葉に詰まった。


『母さんも父さんも、すーちゃん怪我のショックで辞めへんかなって心配してたんで。僕も、ちゃんと直接もう一回謝りたかったし』

「あ、そんな、本当に大丈夫やよ。気にしないで」

『ありがとう!嬉しい!』

 すずの顔が、火傷とは違う理由でカッと熱くなる。

 その時、自室のドアがガチャリと少し開いた。

「すずー? あんた、まだ電話してるの? お風呂入りなさいよ」

 母の、日常そのものの何気ない声だった。

 すずは慌ててスマホの送話口を手で押さえる。

「あ、ご、ごめん圭太くん。もういかないと」

『じゃあ、また明日。ほんまに無理せんといてくださいね』

「う、うん。ありがとう」


 通話が切れた。すずは、ベッドに倒れ込んでほっと息を吐いた。

 その直後、今度はLINEの短い通知音が鳴った。

『tenma:起きてる?』

 すずの心臓が、どきん、と大きく跳ねた。

『suzu:起きてます。』

 返信した瞬間、画面が切り替わり、LINE通話の着信画面になった。

「えっ」

 慌てて通話ボタンをスワイプする。

「も、もしもし」

『寝てへんやん』

「今、寝ようとしてたところで……」

『腕、どう』

「大丈夫。さっきも聞いたよ」

『何回でも聞く』


(っ……!)


 スピーカー越しに聞こえる声が、昼間よりずっと低くて、まるで耳元で直接囁かれているようで、すずは思わず布団の上で背筋を伸ばし、正座してしまった。


「だ、大丈夫です」

『ならええ』


 ふっと、柔らかな沈黙が落ちた。

 それから、天馬がぽつりと、探るような声で言った。


『……誰かと電話してたん?』

「えっ」

 すずの心臓が、ひゅっと縮み上がるような変な音を立てた。

『さっき、出ぇへんかったから』


(電話かけてきてたの!? 気づかなかった……!)


「あ、あの……パン屋の、店長さんの、お子さんと」

 電話の向こうの空気が、ぴたりと凍りついたように静かになった。

「今日、傷テープ届けてくれた、圭太くん。腕、大丈夫かって気にしてくれて……」

『……ふうん』


 たった3文字。

 でも、すずの耳には、その声がさっき駅で聞いた時よりも、さらにワントーン低く、冷たく響いたように聞こえた。


(『ふうん』って! なんでそんなに重低音なの!? お腹の底に響くんですけど!)


 なぜか、また胸の奥がざわざわと波立って落ち着かなくなる。


「あ、あの、でも、怪我の確認だけで、用件はすぐ終わったから……」

 なぜ自分が言い訳めいたことを言っているのか、すずにもわからなかった。

『明日も会うん?』

「バイトだから……お店に行けば、会う、かも」


 沈黙。

 布団の上で、すずはスマホを両手でぎゅっと握りしめた。天馬の呼吸の音だけが、微かに聞こえる。

 天馬はしばらく何も言わなかった。

 そして、すべての感情を押し殺したような低い声で言った。


『……おやすみ』

「あ、う、うん。おやすみ」


 ぷつり、と通話が切れた。

 画面が暗くなる。

 すずはしばらく、自分の顔がうっすらと反射するその黒い画面を、呆然と見つめていた。


 今日一日で、自分の中に、今まで知らなかった感情がいくつも増えた。

 ひやりとする火傷の痛み。

 圭太の、太陽のような明るい声。

 階段を上る天馬の、大きくて熱い手。

 スマホの画面に光る、天馬の不器用なLINE。

 そして、電話越しのたった二文字の「ふうん」が、こんなにも胸を締め付け、ざわつかせるということ。


「……なんで、こんなに落ち着かへんのやろ」

 すずはベッドに倒れ込み、小さく呟いて、布団を頭まですっぽりとかぶった。

 右腕の火傷が、まだ少しだけ、熱を持ってひりひりしていた。




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