喜びを積み重ねて。
三月。
合格発表の日が来た。
すずは、朝からずっと壁の丸い時計を親の仇のように睨んでいた。
秒針が、カチ、カチ、カチ、と律儀に音を立てている。
九時五十二分。まだ。
九時五十三分。まだ。
九時五十四分。まだ。
たった一分が、信じられないくらい長い。
すずは、ローテーブルの前に正座して、膝の上で両手を白くなるほど強く握りしめていた。
スマホは目の前にある。神戸大学の合格発表ページは、すでに開いてある。
受験番号も、狂ったように何度も確認した。暗唱できるレベルだ。
心臓が喉のすぐ下までせり上がってきて、口から飛び出しそうだった。
すずは、ギュッと目を閉じて、頭の中で何度も最悪のシミュレーションを繰り返していた。
(もし落ちてたら、笑って振り返ろう。『ダメだったー! でも通信で取るね!』って、最高に元気に言おう。大丈夫、完璧に笑顔を作れる。絶対に泣かない。大丈夫、大丈夫……)
「すず、紅茶飲む?」
母が、妙に優雅な声で言った。
すずは時計から目を離さないまま答える。
「いらない」
「ミルクティーにする?」
「いらない」
「じゃあ、ママ飲むわね」
母は、すずの極限の緊張などどこ吹く風といった様子で、キッチンでやけに優雅な手つきで紅茶を淹れていた。
白いポット。温めたカップ。小さなミルクピッチャー。所作が完全に英国貴族だ。
絶対に緊張している。緊張しているから、無駄に優雅にしているのだ。
「天馬くん、クッキー食べる? 美味しいでこれ」
すずの伯母――母の姉である紗英が、皿に乗せたクッキーを天馬の前に差し出した。
同時に、彼女のもう片方の手にはしっかりとスマホが握りしめられ、すでに動画撮影のスタンバイが完了していた。
天馬は、すずの少し後ろに座っていた。
黒いパーカーにデニム。首元には、父から届いた酸素ボンベの十字架が、服の下に隠れている。
そんな天馬は、丁寧にお辞儀をしてクッキーを受け取りながら、内心ひっそりと虚無の顔になっていた。
(なんで俺、ここにいるんやろ……完全に場違いな気がする)
今朝、まだ寝ぼけ眼だった天馬の家に、紗英の運転する車が突撃してきた。そして、すずと紗英によって、半ば拉致されるようにこの家に連行されてきたのだ。
(正直、家で一人でゆっくり見たかった……)
そんな本音はおくびにも出さず、天馬はにっこりと愛想よく笑って、紅茶を啜り、クッキーをかじった。
(……うま。手作りか。……にしても、これ、もしすずと結婚したら、女三人の中に俺一人になるってことか? それはきついな。陸のとこと真逆やな。あっちは陸と、玲花の弟四人で、女は玲花一人やし。俺ら足して二で割ったらちょうどええな。正月は絶対、合同にしてほしいわ……)
そんな現実逃避の思考を悶々と巡らせていると、紗英がレンズを向けながら言った。
「ええのよ。天馬くん、今日もえげつないくらいイケメンねぇ。画面映えがすごすぎるわ。視聴率取れるわこれ」
「いや、そんな……あの、撮ってます?」
「撮ってるよ! 一生に一度のドキュメンタリーやからね。情熱大陸のテーマ流したい気分やわ」
すずは時計を睨んでいた。
九時五十八分。
すずの指先が、氷のように冷たくなってきた。
英国貴族のティータイムを終えた母が、紅茶のカップを持ってすずの隣に座る。
「手、冷たいわよ」
「うん」
「大丈夫」
その声は、朝の紅茶みたいに温かくて、母の匂いがした。
九時五十九分。
カチ。カチ。
天馬も背後で息を殺し、紗英もスマホを構えて監督の目になった。
十時。
スマホの画面の時刻が変わった。
すずは、画面を見た。『合否照会はこちら』のボタン。
指を伸ばす。でも、押せなかった。
画面の上で、指先がブルブルと痙攣するように震える。
(大丈夫、落ちてたら笑う。大丈夫……)
「……無理」
声が震えた。母は、すずの冷え切った手に、自分の温かい手を重ねた。
「ママが一緒にタップする。せーので押そう」
すずは頷いた。
母の手と、自分の手。二つの指先が、画面の上に重なる。
「せーの」
タップ。
画面が、白くなる。
読み込みの丸が、くるっ、くるっ、と回る。
一秒。
二秒。
三秒。
そして――。
バーーーン!!
スマホの画面いっぱいに、鮮やかなピンク色の桜の花びらが、狂い咲くように舞い散った。
とてつもなく華やかなアニメーションと共に、画面のど真ん中に、力強い文字が飛び出してきた。
『合格おめでとうございます!』
すずは、息を呑んだ。
番号を探す必要なんてなかった。一目瞭然。誰が見てもわかる、圧倒的な「合格」の二文字。
「……え」
「え、うそ」
その瞬間、胸の奥で何かが爆発した。
「受かった……!」
すずは叫んだ。
「ママ、受かった! 桜散ってる! 合格って書いてる!」
母が、すずを力強く抱きしめた。
横から、スマホを持ったままの紗英が二人まとめて抱きついてきた。
「あああああっ! すずぅぅぅ!」
「やった! やったやん、すず!」
「おめでとおおおお! よかったぁぁぁ!」
紗英が号泣しながら叫んでいる。スマホの画面はブレブレだが、絶対に録画ボタンは止めない。
すずは、声にならない声で泣いた。
泣きながら笑った。母の肩に顔を埋める。
「ママ」
「うん」
「神戸大、受かったよ」
「うん。おめでとう。よく頑張ったね、本当に」
その言葉で、すずは完全に泣き崩れた。
ずっと張りつめていたものが、すべて溶けていく。
自分は、ここまで来た。本当に、来たんだ。
ひとしきり泣き叫び、母と紗英と抱き合って、すずはズズッと鼻をすすりながら涙を拭った。
(そうだ! 次は天馬くん!)
すずは、ハッとして勢いよく振り返った。
「あ、天馬くん! 今度は天馬くんの……!」
言葉が、途切れた。
部屋の隅。歓喜の渦から少し離れたソファの端で。
天馬は、自分のスマホをじっと見つめたまま、微動だにしていなかった。
画面を見たまま、両手で口元をきつく覆い、石像のように固まっている。
えっ。
すずの全身から、さあっと血の気が引いた。
(まさか……落ちた……?)
すずの頭の中が真っ白になる。
さっきまでの大歓喜が嘘のように、部屋の空気が一気に凍りついた気がした。
母も紗英も、天馬の異変に気づいて息を呑む。
「て、天馬くん……?」
すずは、震える声で呼びかけ、恐る恐る天馬に近づいた。
どうしよう。なんて声をかければいい。
私がはしゃぎすぎたから。天馬くん、一人でこっそり結果を見て……。
天馬は、スマホから目を離さないまま、ゆっくりと、震える手を口元から下ろした。
その目は、見たこともないくらい、真っ赤に潤んでいた。
「……合格してた」
掠れた、震える声だった。
「……えっ」
すずの目から、再び大粒の涙がぼろぼろとこぼれ落ちた。
安堵と、緊張の糸が完全に切れた反動で、すずは天馬の胸元めがけて全力で飛びついた。
「うわああああん! 天馬くぅぅん!! 脅かさんとってよおおおおお!!」
天馬の大きな腕が、すずの背中に回る。
すずを抱きしめるその力が、小刻みに震えていた。
「……ごめん。声、出んかった……」
天馬は、すずの肩に顔を深く伏せた。
すずの肩に、熱くて温かい滴が落ちたのが、はっきりとわかった。
学校にいていいと思えなかった少年が、自分の足で、自分の山を登りきった瞬間だった。
「うわああああん! えべっさんありがとうおおお!」
(えべっさん=西宮市の神)
背後で、紗英がダムが決壊したように泣き出した。スマホを持つ手がガクガクに震え、映像はおそらく使い物にならない大惨事になっている。
母も、そっと目元をハンカチで押さえながら、優しい声で言った。
「おめでとう、天馬くん。本当に、おめでとう」
天馬は、すずを抱きしめたまま、少しだけ顔を上げて、赤くなった目で母と紗英を見た。
「……ありがとうございます。本当に」
胸の底から絞り出すような声だった。
すずは、天馬の胸の中で泣きながら、ぐしゃぐしゃの顔で笑った。
「ケーキ……!!」
「えっ?」
「絶対ケーキ二個買う! 神戸大と、教育大のケーキ!! 一番大きいやつ!!」
すずが叫ぶと、天馬は赤い目のまま、ふっと吹き出した。
「うん……買いに行こ」
春の光が差し込むリビングには、これ以上ないほどの温かい笑顔と、紗英の派手なすすり泣きが響き渡っていた。
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