キラキラ生きる。
二次試験が終わった翌日。
すずは、人生でいちばんだらしない生き物になっていた。
ベッドの上。
布団の上。
枕の横。
右へごろごろ。
左へごろごろ。
うつ伏せになって、また仰向けになって、掛け布団を足で蹴り、また引き寄せる。
着ているのは、なぜかチキンラーメンのひよこが大きく描かれた、オーバーサイズのTシャツだった。
太ももの半分まで隠れるくらい大きい。
部屋着としては最高。
人に見せるものとしては、たぶん終わっている。
「あーん……」
すずは、枕に顔を埋めながら、心の底から地鳴りのような声を漏らした。
「勉強しなくってもいいって、なんて幸せなんだろう……」
昨日まで、目を開ければ単語帳。
寝ても覚めても過去問。
お風呂に入っても志望理由書。
ご飯を食べても小論文。
何をしていても、頭のどこかで「あと何点」「あと何日」「あと何問」と呪いのインコみたいに声がしていた。
それが、今はない。
ない。
何もない。
問題集を開かなくても誰にも怒られない。
英単語を覚えなくても世界は滅びない。
小論文の構成を考えなくても朝は来る。
「自由……」
すずは、チキンラーメンのひよこと完全に一体化しながら、天井を見上げた。
「私は今、自由のひよこ……」
その時、部屋のドアが軽くノックされた。
「すず」
「はーい」
返事をしたものの、起き上がる気力は1ミリもなかった。
ドアが開く。
そこに立っていたのは、天馬だった。
グレーのパーカーに、色落ちしたデニム。
髪は少し伸びていて、前よりもやわらかく額にかかっている。
耳には、しばらく外していたピアスがまた光っていた。
服の下、胸元には、父から届いた酸素ボンベの十字架。
黒い革紐が、首筋に少しだけ見えている。
試験が終わったせいか、表情からもほんの少し力が抜けていた。
それでも、かっこいい。
腹立つくらい、いつ見ても少女漫画の住人みたいにかっこいい。
すずは、ベッドの上に転がって液体化したまま、天馬を見上げた。
「おはよう」
「もう昼やけど」
「じゃあ、おひるよう」
「何それ」
天馬は呆れたように言いながら、部屋の中に入ってきた。
そして、すずの姿を見て、少しだけ目を瞬かせた。
チキンラーメンのTシャツ。
爆発した髪。
枕を抱えたまま、布団の上で完全にスライムと化しているすず。
数秒、密度の濃い沈黙が落ちた。
「……すずって」
「うん」
「意外とだらしないんやな」
すずの心臓が、ぎくりと跳ねた。
終わった。
見られた。
彼氏に見られてはいけない、人類の進化前の姿を見られた。
過酷な受験を乗り越えた直後に、私の恋が終わるかもしれない。
すずは、枕をぎゅっと顔の前に抱きしめた。
「嫌いになった……?」
天馬は、ベッドの横にゆっくりと腰掛けた。
そして、すずの顔を隠していた枕を、大きな手で優しく引き剥がした。
ぐしゃぐしゃになった前髪を、長い指先でそっと直す。
「いや」
低くて、鼓膜に心地よく響く声。
「もっと好きになった」
「え」
「猫みたいで」
すずは、完全に固まった。
「猫……?」
「うん。だらっとしてる猫」
「それ、褒めてる?」
「めっちゃ褒めてる」
天馬は、少しだけ意地悪く、でもたまらなく愛おしそうに笑った。
その顔を見た瞬間、すずの胸がきゅうっと甘く苦しくなった。
「頑張ったな」
「天馬くんも」
「うん」
天馬の手が、すずの頬に触れた。
冷たいはずの指先が、すずの肌の熱を吸って、じわりと温度を上げていく。
そのまま、すずの体を包み込むようにして、天馬がゆっくりと覆い被さってきた。
「天馬、く……」
呼ぶ声は、すぐに塞がれた。
唇が重なる。
最初は、お互いの無事を確認するような、触れるだけの優しいキス。
けれど、天馬の腕がすずの腰を強く引き寄せた瞬間、キスの深さが一気に変わった。
「ん……っ」
溜め込んでいた数ヶ月分の我慢が、一気に弾けたような熱いキスだった。
何度も角度を変えて、深く、深く、唇を吸い上げられる。
すずの小さな手が、すがるように天馬のグレーのパーカーを掴んだ。
服の隙間から滑り込んできた天馬の手が、すずの背中を愛撫する。
熱くて、大きくて、触れられている場所から頭が溶けてしまいそうだった。
「ふ……、ん……」
息が苦しくてすずが小さく身悶えすると、天馬は一度唇を離し、すずの濡れた唇を見つめた。
ヘーゼルの瞳が、見たこともないくらい色っぽく潤っている。
そして、すずの耳元に顔を寄せ、熱い吐息とともに低く囁いた。
「……なぁ、俺ら、めっちゃ頑張ったよな」
「え……?うん」
「ご褒美がいると、思わへん?」
天馬はそう言って、すずのおでこにチュッとキスした。
その瞬間、すずの瞳は輝いた。
「ほんまやご褒美!!!!」
すずは、大爆発した顔のまま、天馬の胸を突き飛ばして布団から飛び起きた。
「映画見たい! クレープ食べたい! 海も見たい! 神戸っぽいこと全部したい!」
天馬はベッドの上に残されたまま、しばらく呆然としていた。
そして、片手で顔を覆い、深すぎる溜息をついた。
「……ご褒美って、そっち?」
「そっちとは!?」
天馬はしばらく天を仰いでいたが、やがて観念したように息を吐き出した。
「……いや、何でもない」
「え、何? 天馬くん、どしたの?」
天馬はふりふりと頭を振った。
「じゃあ、着替えるから出てて!」
「はいはい」
「覗いたら怒るよ」
「覗かへん」
sneakingする気力もないわ、と天馬は英語が混じってボソボソ呟いている。
「ほんま?」
「ほんま」
「信じてる」
「信じられてるなら早くドア閉めて。目が泳ぐ」
天馬が部屋を出ると、すずはクローゼットの前に立った。
今日は、ご褒美の日だ。
試験が終わった。まだ結果は出ていない。
でも、今日だけは頑張った自分を全力で甘やかしていい。
すずは、黒のタートルネックを選んだ。
下はベージュのキュロット。
寒いから厚めのタイツ。髪は高めのお団子にまとめる。
鏡の前で、少しだけ首を傾ける。
天馬からもらったティファニーのネックレスが、黒いタートルネックの上で上品に小さく光った。
「よし」
チキンラーメンのひよこから、なんとか人間に戻った。
リビングへ降りると、天馬がスマホを見ながら待っていた。
すずの階段を下りる音に、天馬の目が止まる。
じっと見つめられ、すずは少し照れながら聞いた。
「どう……?」
「可愛い」
一拍遅れて、天馬はまっすぐに答えた。
「ほんま?」
「ほんま」
「チキンラーメンの時より?」
「どっちも好き。……いや、チキンラーメンの方が防衛力は高かった」
「それ褒めてないよね!?」
「本音です。行こか」
すずは、嬉しくなって少しだけ笑った。
そのまま、二人は三宮へ向かった。
電車に乗るだけで、なんだか特別だった。
参考書を開かなくていい電車。
英単語を覚えなくていい車内。
窓の外を見て、ただ「今日は遊ぶ」と思っていい時間。
それだけで、すずは何度も頬が緩みそうになった。
「すず」
「ん?」
「顔、ずっと緩んでる」
「だって、勉強しなくていいんだもん」
「そんなに嬉しい?」
「めちゃくちゃ嬉しい! 天馬くんは?」
「嬉しい」
「顔に出てない」
「出てる」
「出てないよ、いつも通りのすまし顔」
「中で盛大に出てる。ドラムロール鳴ってるわ」
「中なんや」
すずは声を上げて笑った。
三宮に着くと、すでに待ち合わせ場所には玲花と陸がいた。
玲花は、ベージュのニットワンピースに黒のタイツ。
髪はふわふわに巻かれていて、冬の光の中で柔らかく揺れている。
落ち着いた色なのに、どうしてこんなに華やかでギャル可愛いのか、すずにはよくわからない。
対する隣の陸は、黒のロンTにデニム。
シンプルすぎるにもほどがある格好なのに、服の上からでもわかる大胸筋と上腕二頭筋が、周囲の空気を威圧していた。
完全に、服ではなく筋肉が本体だった。
「バンビー!」
玲花が両手を広げて、ヒールの音を響かせながら走ってくる。
「受験おつかれー! 地獄からの生還おめでとうー!」
「玲花ちゃん!」
すずが駆け寄ると、玲花はぎゅううっと折れそうなほど抱きしめてくれた。
「ちょっと痩せてへん!? ちゃんと白米食べてた!? あかん、完全に受験生の顔なってるわ。今日は玲花が糖分を限界までぶち込むからな!」
「あはは、ありがとう。食べてたよ」
「天馬もおつー」
「ありがとうございます」
天馬が軽く頭を下げると、玲花は彼の姿をまじまじとスキャンした。
「おお、ピアス復活してるやん! 髪もちょっと伸びて、付き合いたての頃の『ちょい悪野良犬感』が戻ってきたなぁ。何これ、受験終わった男の色気? ヤバ、ちょっと合格」
「色気……!」
すずが過剰に反応して天馬の前に一歩踏み出すと、玲花はにやにやと笑った。
「すず、独占欲の反応スピードが光速やん。大丈夫、玲花には世界一の筋肉ダルマがおるから」
そう言って、玲花は陸の太い腕に自分の腕を絡めた。
そして、陸の胸元をパーンと手のひらで叩く。
「見てよこれ、すず! 今日の陸の胸筋、ピクピクしててめっちゃ可愛くない!?」
「可愛くねーよ。殺傷能力あるわ、これ」
陸がドスの効いた声で低く唸る。
「えー、何言うてんの。この盛り上がり方、完全に小鳥のヒナの威嚇やん。可愛いー!」
「小鳥が胸筋で威嚇するか。ダチョウでもせんわ、そんなおぞましいこと」
「でもな、こうやってなでなでしたらおとなしくなるねんで? よしよし、いい子やねー」
玲花が陸の胸板を猫のように優しくなでなですると、陸は天を仰いで、はぁぁぁ、と重低音の溜息をついた。
「お前な……人前で揉むな。あと可愛くねえ」
「あ、照れてるー! 一番福の男が照れてるー!」
「シバくぞ、ホンマに」
陸の耳がほんのり赤くなっているのを見て、すずと天馬は爆笑した。
「陸さんも、福男お疲れ様でした」
「それもう、どこ行っても言われすぎて、一生分のプロポーズってイジられて照れるわ」
「全国プロポーズ男」
「天馬、お前まで乗っかるな。シバくぞ」
陸が拳をポキポキ鳴らすと、玲花がすかさず腕を引っ張った。
「ええやん、全国に愛を誓った男! 玲花はな、一番福の男をゲットした『一番福の女』やからね!」
「自分で言うな、恥ずかしい」
「言うよ! 肩書き強すぎるもん。一生使う〜!」
四人で賑やかに笑いながら、ハーバーランドへ向かった。
まずは映画だった。
犬が主役の、見るからに涙腺を崩壊させにきている感動映画を見ることになった。
映画館の暗闇は、本当に久しぶりだった。
隣には天馬が座っている。ポップコーンの甘い匂い。スクリーンの光。
すずは、中盤からずっとハンカチが手放せなかった。犬が健気すぎる。主人のために走りすぎる。
ふと隣を見ると、天馬も無表情のままスクリーンを見つめていたが、やけに瞬きが少なかった。
「……泣いてる?」
すずが小声で耳打ちすると、天馬は正面を向いたまま、微動だにせず答えた。
「泣いてない」
「ほんまに?」
「犬の演技力が、アカデミー賞級なだけや」
「それ泣いてるやん」
「泣いてない。目が脱水症状起こしてるだけ」
独特の言い訳をする天馬の反対側では、玲花が「ううっ、ズビッ……!」と普通に号泣していた。
陸が無言で、自分の顔ほどもある巨大なハンカチを差し出している。
映画が終わって照明がついた頃には、四人全員がやけに目を赤くしてロビーに出てきた。
「犬はあかん」
陸が、いつもよりさらに低い声で、鼻をすすりながら言った。
「犬は、男の心に真っ直ぐ刺さる」
「陸くん、思いっきり泣いてた?」
「泣いてへん。目からプロテインが漏れただけや」
「成分おかしいやろ! それただの塩分含んだ涙や!」
「犬は、裏切らへんからな……あいつは漢や……」
「犬を『漢』呼ばわりすな。完全に涙腺崩壊してるやん」
玲花が笑いながらツッコむ。
その後、四人はお目当てのクレープを食べた。
すずは苺と生クリーム。天馬はチョコバナナ。玲花は期間限定のキャラメルナッツ。
そして陸は、なぜか『てりやきチキンマヨネーズ・レタス増し増し』という、クレープの皮に包まれたガッツリおかず系を頼んだ。
「ちょっと陸。それ、クレープである必要ある?」
玲花が本気で嫌そうな顔で眉をひそめる。
「肉が入ってるやろ」
「理由が原始人やん! クレープの概念への冒涜、もはやテロやで!」
「アホ言え。このタイミングで甘いもんだけ摂取したら、インスリンが急上昇して筋肉が分解されるんや。俺の筋肉が『肉をくれ』と鳴いとる」
「クレープ屋のテラスで筋肉の会話すな! 可愛さよりバルクアップを取る男、お色気ゼロ!」
「生きるためや。なぁ天馬」
「俺はチョコバナナ一択です。陸さんとは分かり合えません」
「天馬、お前裏切るんか」
すずは、苺のクレープを両手で大事に持ちながら、お腹が痛くなるほど笑った。
甘い。ちゃんと甘い。
受験勉強中に、脳のエネルギー補給のためだけに機械的に食べていた糖分とは違う。
点数のためじゃない。ただ、大好きな人たちと笑いながら食べる甘さだった。
次は、屋外のスケートリンクへ移動した。
umieアイスマリーナは冬季限定のスケートリンクが、キラキラと輝いている。
冬休みの名残のように人が多く、子どもたちが氷の上をすいすいと滑っている。
すずは、スケート靴を履いて氷の上に立った瞬間、生まれたての小鹿になった。足元がガタガタと震える。
「これ……本当に立てるの……?」
「立つだけやろ、床なんやから」
天馬は簡単に言う。
実際、天馬はリンクに出た瞬間から、何事もないようにスッと立っていた。
建築の親方のところで鍛えられたのか、元々のセンスなのか、体幹の軸がまったくブレない。
長い脚で、優雅に、滑らかに氷の上を滑っていく。
悔しいくらいに、絵になりすぎていてかっこいい。
「天馬くん、なんで最初からできるの!?」
「えわからん滑ると思ったら滑る」
「天才の感覚派はこれだからずるい!」
一方、陸も意外なことに、巨体に似合わずちゃんと立てていた。
ただし、滑り方は全く優雅ではない。
ひと蹴りのパワーが重すぎて、氷を削るような音がしている。
ゴリ、ゴリ、ゴリゴリ、と、完全に力技で氷を制圧していた。
「ちょっ陸、氷が割れそう! 滑り方が削岩機なんよ!」
玲花が叫ぶ。
「割れへんわ! もし割れたら、そのまま泳ぐから安心しろ!」
「リンクでバタフライすな! 大迷惑や!」
そんな玲花は、最初から陸の太い腕に、コアラのようにしがみついていた。
「無理無理無理! 玲花、足が完全に棒! ごぼうになった!」
「俺に掴まっとけ」
「掴まってる! 陸の上腕二頭筋、世界一頑丈な命綱やわ! これだけは感謝する!」
「褒めてるんかそれ」
「褒めてる! あと、もし転んだら敷布団になってな!」
「保険のクセが強いな!」
すずは、壁の手すりにしがみつきながら、一歩ずつすり足で進んでいた。
怖い。床なのに、つるつるしていて全く信用できない。
「すず」
天馬が、音もなくすっと近づいてきて、大きな手を差し出した。
「手、貸して」
「もし転んだら?」
「俺が受け止める」
「絶対に?」
「絶対」
すずは、息を呑んで、そろそろと手を伸ばした。
天馬の手は大きくて、手袋越しでもわかるくらい温かかった。
その手にしっかりと支えられながら、すずは少しずつ氷の上を滑り出した。
「わ、わ、わ、進んでる……!」
「大丈夫、見てるから」
「足が、足が勝手にどこかへ旅に出ようとする!」
「帰ってこさせて」
「どうやって!?」
「気合い」
「天馬くんまで気合いとか言うの!? 気合いでどうにかなる?」
「ほら、あそこの陸さんは全部気合いで解決してる」
「陸くん基準は人類には危険や!」
すずが笑った、その瞬間だった。足元がつるりと大きく滑った。
「きゃっ!」
重力が消え、体が後ろへひっくり返りそうになる。
だが地獄には落ちなかった。天馬が瞬時に腕を回し、すずの腰をがっしりと抱き止めたからだ。
すずは、天馬の広い胸元に完全にしがみついていた。トクトクと、天馬の心臓の音が響いてくる。
「……にょわ〜、心臓止まるかと思った……」
「俺も。すずが転ぶの、本気で怖い」
「天馬くん、過保護すぎるよ」
「うん、自覚ある」
天馬は少しだけ困ったように笑うと、すずの手を、指を絡める『恋人繋ぎ』で握り直した。
その手の温もりが、体中に染み渡っていく。
その時、遠くから玲花のド派手な悲鳴が響き渡った。
「陸! 陸! 速いって! 違う、それスケートちゃう、ただの物資の運搬!!」
「風を感じろ、玲花!」
「感じたくない! G(重力)しか感じてない!」
陸が玲花を引っ張るパワーが強すぎて、遠心力で二人が猛スピードでぐるぐると回り始めた。
そして最終的に、陸がバランスを崩し、玲花を自分の体でがっちりホールドしたまま、尻もちをついた。
ズドオォォォン!!!
屋外リンクに、およそスケート場とは思えない地響きのような爆音が響く。
「陸ーーー!」
「……生きてる」
「玲花の王子様が、氷上で粉々に大破した!!」
「大破はしてへん……。ちょっとリンクに、マイナスのクレーターができただけや……」
「あかん、営業妨害や!!」
すずは笑いすぎてお腹がよじれ、また氷の上で転びそうになった。
天馬が無言で、当然のように、ずっと抱きしめるように支えてくれていた。
その腕が、たまらなく心地よかった。
■■■
夕方。
四人は、帆船型の優覧船「ロイヤルプリンセス」に乗船した。
港の風は、肌を刺すように冷たかった。
でも、ライトアップされた大きな船を見るなり、玲花が目を輝かせて歓声を上げる。
「なになにこれ! 貴族!? 貴族の乗り物やん!」
「いや、庶民も大人1500円くらいで乗れるぞ」
陸が冷静に現実を突きつける。
「黙って筋肉ダルマ。今日、玲花は神戸の貴族になるの」
「了解です、お嬢様」
「よし。じゃあ、愛の奴隷、この重いバッグ持ってて」
「急に奴隷制度すな」
小気味いいやり取りを聞きながら、すずは船のデッキから海を見つめた。
船がゆっくりと動き出し、神戸の街が遠ざかっていく。
ハーバーランドのきらびやかな建物。
大きな観覧車。
真っ赤にそびえ立つポートタワー。
鏡のように滑らかな、深い海。
冬の夕方の空は、淡い青から、燃えるような茜色、そして深い紫へと、美しいグラデーションを描きながら移り変わっていく。
やがて、街にぽつり、ぽつりと灯りがともり始めた。
ひとつ。
また、ひとつ。
ビルの窓が星のように光り、港のイルミネーションが海の小波に揺れ、観覧車が光の輪になってゆっくりと回りだす。
気がつけば、海の上からしか見ることのできない、息を呑むような神戸の夜景が一面に広がっていた。
「すごい……綺麗……」
すずは、ただただその圧倒的な美しさに息を呑んだ。
玲花が隣で、スマホを掲げながら大興奮している。
「やっば! 何これ、異次元! キラキラの暴力やん! 神戸、偏差値高すぎてツラ!」
「街に偏差値とかあるんか?」
陸が素朴な疑問を投げかける。
「あるに決まってるやん! これは文句なしの、港町の本気モード、イケメン夜景! 映えの極み!」
玲花は、もっと写真を撮ろうと手すりから身を乗り出しそうになり、陸に後ろからガシッとウエストを掴まれた。
「落ちるな、危ない」
「落ちへんって! 玲花は今、映えの光線を全身に浴びてんの!」
「浴び方が猪突猛進すぎる」
すずは、きらめく光の海を見つめたまま、小さく呟いた。
「私……こんなに綺麗な街の中で、毎日過ごしてたんだね」
言葉にして、自分でも少し驚いた。
奈良から兵庫の学校に転校してきた日。
何もかもが知らない駅。
知らない学校。
お母さんの病気。
募っていく不安。
押し潰されそうな怖さ。
あの頃の自分は、ただ一日を生き延びるために必死だった。
目の前の課題や現実をこなすだけで精一杯で、自分がどんなに美しい街にいるのか、ちゃんと立ち止まって見る余裕なんて、これっぽっちもなかった。
でも今、こうして海の上から見る神戸は、眩しいほどに優しく、新生活を祝福してくれるように輝いていた。
「このキラキラの中に、うちら毎日おったんやね」
玲花が、少しだけ大人びた優しい声で言った。
「ほんま、すごいね」
「うん……。本当に、すごい」
すずが深く頷くと、いつの間にか天馬が隣に立っていた。
海風が、彼の少し伸びた髪を揺らす。
耳元の銀のピアスが、街の数千の灯りを反射して、星のように小さく光った。
パーカーの襟元からは、あの山から下りてきた酸素ボンベの十字架が、静かに覗いている。
そして、すずの首元には、天馬から贈られたティファニーの小さな光。
それぞれ全く違う場所から、色々な想いを抱えてここへ辿り着いた二つの金属が、同じ神戸の夜の中で、静かに、でも確かに光を交わし合っていた。
「綺麗やな」
天馬が、夜景を見つめたまま言った。
「うん、すっごく綺麗」
「すず」
「ん?」
「……今日、ここに来てよかったな」
すずは、少しだけ天馬を見上げて、心の底から微笑んだ。
「うん。天馬くんと一緒に、今日ここに来られて、本当によかった」
受験が終わったから。
死ぬほど頑張ったから。
そして、合否の結果が出る『前』の、何者でもない今だからこそ。
今だけは、何もかも忘れて笑っていていい。
神様から許されたような、奇跡みたいに優しい夜だった。
■■■
帰り道。
四人で三宮の駅まで戻り、改札の前で玲花と陸とは別れることになった。
「バンビ、天馬! 今日は最高に楽しかったわ、ありがと!」
玲花がブンブンとちぎれんばかりに大きく手を振る。
「いい? 合格発表の日まで、絶対に病まんこと! もし心がメンヘラになりそうになったら、いつでも玲花に電話しぃや!」
「うん、ありがとう、玲花ちゃん」
「天馬。もし結果が出るまでにバンビを泣かせるようなことがあったら、次はスケートリンクじゃなくて、陸の胸筋で挟んで大気圏まで飛ばすからな」
「……物理的に、今まで聞いた脅しの中で一番怖いです」
天馬が本気で身震いすると、陸が天馬の肩をポン、と大きな手で叩いた。
陸の声は、相変わらず不器用で、低くて、ぶっきらぼうだった。
でも、毛布みたいに温かかった。
すずは胸の奥がじーんと熱くなった。
「ありがとう、陸くん」
「おう。じゃあな」
玲花と陸は、仲良く腕を組んだまま、三宮のにぎやかな人混みの中へと消えていった。
すずと天馬は、JRのホームへと向かった。
夜の駅のホームは、楽しかったお祭りの終わりを告げるように、少しだけ冷たい現実の匂いを漂わせている。
光る電光掲示板。
規則的に響く線路の重低音。
疲れた顔で家路につくサラリーマンたち。
今日という特別な「ご褒美の時間」が、砂時計のように終わっていく気配。
電車を待ちながら、すずは天馬のすぐ隣にぴったりと寄り添った。
「楽しかったね、本当に」
「うん」
「ご褒美、大成功?」
「大成功。クレープも美味かったし」
「スケートも楽しかったし」
「船からの夜景も最高やったし」
「うん」
「……すずが、氷の上で三回転びかけたし」
「ちょっと、二回だよ! 盛らないで!」
「三回」
「二回半! 最後のは天馬くんがすぐ抱きしめてくれたから、カウントされないの!」
「何それ、新ルール?」
天馬が、フッと肩の力を抜いて笑った。
すずも、つられて笑った。
笑い合ったあと、ふっと、隙間に滑り込むように静かな沈黙が落ちた。
線路の向こう側から、夜の冷たい風が吹き抜けていく。
三月。
合格発表。
一日中、頭の奥に押し込んで、忘れようとしていた言葉が、冷たい風と一緒に胸の奥へと戻ってくる。
完全に消し去ることはできない、現実の重み。
すずは、手袋の中で、自分の指をぎゅっと握りしめた。
「……天馬くん。わたし、少し、怖いよ」
掠れた声で、小さく吐露した。
天馬は、すぐにスマホから目を離し、すずを真っ直ぐに見つめた。
「合格発表のこと?」
「うん」
「……俺も、怖いよ」
天馬の口から出たその言葉は、とても意外で、でも、すずの心をどうしようもなくホッとさせた。
あの無敵に見える天馬くんでも、同じように怯えているんだ。
天馬は、すずの手袋に包まれた手を、自分の素手で包み込むようにして握った。
ホームの端。
黄色い線の内側、乗客の流れから少しだけ外れた、自販機の影。
天馬がゆっくりと身をかがめる。
すずは、吸い寄せられるようにそっと目を閉じた。
短い、でも、お互いの存在を命綱のように確かめ合う、切実なキスだった。
駅の冷たい空気の匂いがする。
凍えそうな冬の風の中で、天馬の唇だけが、泣きたくなるほど温かかった。
すずは、天馬の手を、ちぎれそうなほどの強さで握り返した。
「 一緒に見ようね」
遠くから、電車の接近を告げるアナウンスが響き、ヘッドライトの強い光がホームに差し込んできた。
今日過ごした、キラキラとした楽しい時間が、胸の奥で宝物のように光っている。
そのすぐ隣には、確かに、冷たくて小さな「恐怖」がある。
三月が来るのが、やっぱり少しだけ怖い。
結果が出たら、私たちの何かが、強制的に変わってしまう。
良くても、悪くても。
それでも、今日のあの息を呑むような神戸の夜景を、天馬くんのこの手の温もりを思い出せば、どんな未来が来てもきっと乗り越えられる。そう思った。
神戸の街は、あんなに綺麗だった。
私たちは、その輝きの中で、間違いなく自分たちの足で生きていた。
ガタゴトと音を立てて、電車が到着する。
プシューッと音を立てて、目の前のドアが開いた。
すずは、天馬と繋いだ手を絶対に離さないように強く握り締めたまま、未来へ続く一歩を、しっかりと踏み出した。
三月は、もうすぐそこまで、確かに近づいていた。
リアクションや、☆☆☆☆☆を★★★★★に変えていただけると、執筆の励みになります^^
感想、ご指摘、ブクマも大歓迎です!
完結約束、ハッピーエンドです(^ ^)
よろしくお願いします!
あーもうちょいで終わります。書き溜めてたけど、いざアップするってなると色々気になって直して直してで。。。もうちょい頑張ります。




