エベレストより、愛を込めて。
共通テストの数日前。
天馬の部屋に、海外から小さな小包が届いた。
差出人の名前を見た瞬間、天馬はわずかに眉を寄せた。父だった。
何度も人の手を渡ってきた証拠に、薄い段ボール箱は角がひどく潰れている。
カッターでテープを切り裂くと、土と乾いた風の匂いが微かに漂う紺色の布袋が入っていた。
袋の中から滑り出たのは、銀色の小さな十字架だった。
指先に乗るほどのそれは、新品のアクセサリーのような輝きはない。
表面には無数の細かい傷が刻まれ、ところどころに青い塗装が剥げたように残っている。
黒い革紐が通された、無骨なネックレスだった。
箱の底に、折りたたまれた紙切れが落ちていた。
日本語と英語が乱暴に混ざった、見慣れた父の癖字。
『山の石は送れない。山のものは山に置く』
天馬は小さく息を吐いた。父らしい理屈だ。
『これは、山から下ろされた酸素ボンベの金属で作られたものだ。人間が置いていったものを、誰かが拾い、溶かし、磨き、形を変えた。
お前の母は、まだ見つからない』
その一文で、天馬の指が止まった。
部屋の空気が、急にシンと冷え込んだ気がした。
エベレスト。デスゾーン。酸素。渋滞。帰ってこなかった母。
写真の中でいつもヘーゼルの瞳を細めて笑っている母を、父は今も、薄い空気と氷の世界で探し続けている。ずっと。
『お前の母は山にいる。俺もまた、山にいることが多い。
でも、お前が困っている時にはかけつける。
その十字架に宿って。
お前の挑戦を祝福する。
お前が、お前の山を登れるよう、祈っている。
エベレストより、愛を込めて。』
天馬は、冷たい十字架を強く握りしめた。
金属の冷たさが、掌から脈を打って胸の奥へと落ちていく。
親方の声と、父の字が重なる。
お前の山は、お前が決めろ。
棚の上に置いた写真の母を見る。
『学校なんか行かなくたっていいじゃん。天馬が死ぬわけじゃないし。……でも、行きたくなったら、また行けばいいじゃん』
あの日の明るい声が、耳の奥で蘇る。
天馬は、十字架の紐を首にかけた。
服の下で冷たく沈んだ金属が、天馬の体温を吸って少しずつ熱を持ち始める。
「行ってくるわ」
天馬は写真の母に向かって、静かに言った。
「俺の山、登ってくる」
■■■
共通テストから二次試験へ至る日々は、まるで一本の張り詰めたワイヤーの上を全力疾走するような時間だった。
共通テストの自己採点結果を見た佐伯先生は、腕を組んで低く唸った。
『……悪くない。すず、神戸大、勝負できる。かなりヒリヒリやけどな。西倉、教育大行ける。あとは二次や。気ぃ抜いたら、今までの努力が全部焼肉の煙になるぞ』
その言葉通り、二人はヒリヒリとした焦燥感の中でひたすらに己の刃を研ぎ続けた。
すずは神戸大学の過去問と格闘し、志望理由書を血の滲むような思いで書き直した。
母の病気、玲花の弟たち、学校の仲間たち。
自分が見てきた世界のすべてを言葉に変えるために。
天馬もまた、小論文という得体の知れない魔物と戦っていた。
佐伯先生に赤で真っ赤に染められ、圭太に理詰めで刺されながらも、何度も、何度も書き直した。
会うたびに甘い言葉を囁く余裕なんてない。
キスは帰り際に一回だけ。
それでも、同じ方向を向いて走っているという事実が、二人の背中を確かに支えていた。
そして、二月。前期試験当日。
朝の凍てつく空気の中、二人は別々の改札の前に立っていた。
すずのポケットには、母が「陸くんの福のおすそ分け」と渡してくれた西宮戎のお守り。
天馬の胸元には、山から下りてきた酸素ボンベの十字架。
【大丈夫?】
【大丈夫。山から下りてきた十字架持った】
【強そう。じゃあ、勝てる】
【勝つ】
【私も勝つ】
すずは神戸へ。天馬は兵庫教育大へ。
交わした言葉はそれだけ。
けれど、胸の奥で静かに燃える熱は、間違いなくシンクロしていた。
試験会場の空気は、共通テストの比ではないほど張り詰めていた。
天馬は机に受験票を置き、服の上から胸の十字架にそっと触れた。
『捨てられたものだ。だが、拾われ、形を変え、誰かを守るものになった』
開始のベルが鳴り響く。
天馬は問題用紙を開き、小論文のテーマを睨みつけた。
大きく息を吸い込む。
一度は学校からドロップアウトし、世間から見れば「捨てられた」レールの上にいた自分。
でも、親方に拾われ、すずに出会い、佐伯に背中を蹴り上げられ、今、こうしてここにいる。
この十字架と同じだ。
形を変えて、今度は自分が誰かを守るために。
天馬は、力強くペンを走らせた。
最初の一文は、もう決まっている。
何度書き直しても、絶対に消さなかった言葉だ。
『私は、学校にいていいと思えなかった子どもが、学校にいていいと思える教師になりたい』
ペン先が紙を擦る音が、静寂の教室に響く。
迷いはない。頭の中にある熱を、論理という冷たい型に流し込んでいく。
同じ頃、遠く離れた神戸の試験会場でも、すずが己のすべてを解答用紙に叩きつけていた。
焦らない。感情だけで走らない。
培ってきた武器を、一番鋭い形で繰り出す。
書いて、書いて、書き抜く。
息をするのも忘れるほどの集中力の中で、時間は容赦なく削られていく。
己の過去と、今の限界と、これからの未来。そのすべてを懸けた戦い。
「――そこまで。筆記用具を置いてください」
試験監督の声が響いた瞬間、天馬はペンを置き、小さく息を吐いた。
終わった。
胸の奥にあったものを、一滴残らず絞り出した。
会場を出ると、冬の空は痛いくらいに高く澄み渡っていた。
冷たい風が、火照った頬を撫でていく。
スマホを取り出すと、ほとんど同じタイミングで、すずからのメッセージが光った。
【終わった】
【頑張った】
天馬は、画面を見つめながら、フッと肩の力を抜いて笑った。
冷たかったはずの指先が、不思議と温かい。
【俺も終わった】
【頑張った】
たったそれだけのやり取り。
合否なんて、まだ誰にもわからない。
でも、確かなことは一つだけあった。
今日、すずと天馬は、誰の力でもなく、自分の足で己の山を登りきったのだ。
見上げる空の向こう側に、春の気配が、もう確かに近づいていた。
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