爆速!尼崎の男、西宮戎を駆け抜ける!!!
ガァン!!
開門の轟音とともに、西宮神社の表大門から男たちが雪崩を打って飛び出した。
その先頭集団の中に、見慣れた金本道路建設のジャージがあった。
爆速。
いや、そんな言葉では足りない。完全に狂ったようなロケットスタートだった。
「陸くん、速っ!!」
すずはテレビの画面に張り付くようにして叫んだ。
天馬も思わず身を乗り出し、食い入るように画面を睨みつける。
「……速い」
「速いとかのレベルじゃなくない!? なんか一人だけモーターついてるみたい!」
画面の中では、朝の冷たく重い空気を真っ二つに切り裂くように、男たちが疾走している。
石畳。
鋭い曲がり角。
前に出ようと互いの肩をぶつけ合う者。足を取られて無様にバランスを崩す者。
怒涛のように押し寄せる人の波。
そのカオスの中で、陸は異常なほど低い姿勢を保ったまま、現場で鍛え抜かれた丸太のような太ももを回転させ、ぐんぐんと前に躍り出ていた。
いつもの現場で、何十キロもの資材を担いで足場を歩く重厚な体とは違う。
今の陸は、ただ前へ、ただ一番に福を掴み取るためだけに解き放たれた、飢えた獣だった。
『おおっと、先頭集団、第一コーナーを曲がってかなり混戦です! 今年もものすごい熱気、ものすごいスピードだ!』
アナウンサーの絶叫が、テレビのスピーカーが割れそうなほどリビングに響き渡る。
「陸くん、いけええええっ!」
すずが叫ぶ。
横で、母もいつの間にか両手をぎゅっと祈るように握りしめていた。
「すごいわね、あの子! 転ばないで! 気をつけて!」
天馬は無言だった。
けれど、無意識のうちにすずの手を握る力が、ギリギリと強くなっていく。
「天馬くん、手、痛い……!」
「……ごめん」
そう謝りながらも、天馬の視線は画面から一瞬たりとも離れなかった。
■■■■
その頃。
聖ミカエルこどもの家の食堂でも、まったく同じ中継画面が流れていた。
「陸! 陸! 陸ゥゥゥ!!」
玲花はテレビの真正面に陣取り、完全にチアリーダー兼応援団長と化していた。
早朝にもかかわらず叩き起こされた施設の子どもたちも、何が何だかわからないまま、玲花の熱に当てられて一緒に叫んでいる。
「りくー!」
「はしれー!」
「くまさん、ぶっちぎれー!」
「誰がクマやねん! でも今日はそれでええ! 走れ陸、誰にも負けんなぁぁぁ!!」
シスターが少し離れた場所で、にこにこと聖母の微笑みで見守っていた。
「朝から大変な活気ですね」
「シスター! 今日だけは、今日だけは主の前で絶叫させてください!」
「ほどほどにね」
「絶対無理です!!」
玲花は、両手を胸の前で強く握りしめた。
陸が、走っている。
自分と、自分の大切な弟たちのために。
たぶん、本人はそんなキザで綺麗な言葉は口にしない。
『そこに一番福があるから、引っこ抜いてくる』。
ただ、それだけの野性的な顔をして走っている。
だから余計に、玲花の胸はぎゅっと締め付けられるように苦しく、そして熱くなった。
「陸……!!」
テレビの中で、レースは最大の難所である急カーブに差し掛かっていた。
先頭は三人。
そのすぐ後ろに、陸。
その時だった。陸の斜め前を走っていた男が、石畳に足を取られて激しく体勢を崩した。
「あっ!」
すずが息を呑む。
ふらついた男のせいで、周囲の足が連鎖的に乱れる。
後ろから押し寄せる後続の集団。ブレーキをかければ間違いなく将棋倒しに巻き込まれる。かといって、横に避ければ大きくタイムロスをして先頭から脱落する。
絶体絶命の瞬間だった。
その時、陸の体が沈み込んだ。
次の瞬間――陸は、空を飛んだ。
『おおおおおっとぉぉぉぉぉぉ!!? 跳んだぁぁぁぁぁっ!!?』
実況のアナウンサーが、声の裏返る限界で絶叫した。
陸は、現場で危険な足場を飛び移る時と全く同じ、いや、それ以上の爆発的なバネで石畳を蹴り上げ、転倒しかけた男たちの頭上を特大のジャンプで飛び越えたのだ。
宙を舞う金本道路建設のジャージ。
着地と同時に、一瞬のロスもなく再び爆発的なダッシュへと移行する。
沿道の観衆から、地鳴りのような「うおおおおお!!!」という歓声が沸き起こった。
「陸さん……今、跳んだぞ……」
天馬が、信じられないものを見たように低く呟いた。
「え? 人間ってあんなに跳べるの!?」
すずは目を丸くする。
ぶつかって押し除ければ、もっと楽に前へ出られたかもしれない。
でも、陸は誰かを踏み台にしてまで行かなかった。
転びかけた人間を巻き込まず、自分自身の脚力だけで、すべてを飛び越えたのだ。
自分が痛い思いをしてきたからこそ、絶対に他人を傷つけない。
その圧倒的な優しさと、人間離れした身体能力。
『信じられない身体能力です! 障害物を軽々と飛び越え、スピードがまったく落ちない! 金本道路建設のジャージ、現在トップに躍り出たぁぁぁっ!!』
「会社名出たぁぁぁ!」
すずがテレビの前で跳ねる。
「親方、見てるかな!?」
その頃、金本道路建設の事務所では。
「出た! うちの看板が出たぞォォォ!!」
親方が、テレビの前でパイプ椅子を蹴り飛ばして立ち上がっていた。
朝の事務所に、缶コーヒーとコンビニおにぎりが散乱している。
これから現場に向かうゴツい職人たちが、全員肩を組んでテレビに釘付けになっていた。
「松本! そのまま行けぇぇ!」
「主任! 絶対コケんなよ!」
「俺らの金本道路の看板、全国放送やぞ!!」
親方は腕を組みながら、テレビの画面に頭が突っ込むんじゃないかというほど前のめりになっていた。
「陸! 足元見ろ! 最後の石畳は滑るぞ!!」
画面の中の陸には、もちろん聞こえるはずがない。
けれど、親方は本気で、腹の底から怒鳴っていた。
「その足で、福、引っ掴んでこいッ!!」
■■■■
最後の直線。
本殿へ向かう、長く神聖な参道。
陸と、もう一人の男が完全に並んでデッドヒートを繰り広げていた。
すずは、もう座っていられなかった。
「陸くん! 陸くん! いけえええええ!!」
母も完全に立ち上がって、謎のステップを踏んでいる。
「がんばれ! 玲花ちゃんの彼氏さん! 負けないで!!」
「ママ、呼び方長い!」
天馬は、ただ一言だけ言った。
「行け」
地の底から響くような、低い声だった。
「陸さん、行け」
その瞬間、陸の体が、まるで背中を力強く押されたかのように、さらに一段階ギアを上げて前へ出た。
本当にわずか。
ほんの一歩。
でも、その一歩が、勝負のすべてを決めた。
陸は最後の石畳を力強く蹴り上げ、そのまま本殿前へ飛び込んだ。
周囲の男たちが雪崩れ込み、神社の神職たちが全身でそれを受け止める。
狂騒の波が、本殿の前でピタリと止まった。
テレビの中で、アナウンサーが酸欠になりそうな声で絶叫した。
『決まったぁぁぁぁぁぁ!!! 今年の一番福は……金本道路建設の、松本陸さんです!! ぶっちぎりの一番福です!!!』
鈴木家のリビングが、爆発した。
「きゃああああああああああああ!!」
すずが飛び上がって叫ぶ。
母もすずと抱き合って叫ぶ。
「すごい! すごいわ! 一番福よ!?」
天馬は、珍しく限界まで目を見開いていた。
「陸さん……」
そして、肩の力を抜き、心の底から嬉しそうに笑った。
「あの人……ほんまに一番、取った」
聖ミカエルこどもの家では、玲花が膝から床に崩れ落ちていた。
「……うそやん」
でも、一秒で立ち上がった。
「うそやん! 陸! 陸、取った!! 一番福! 玲花、一番福の女になった!!」
子どもたちが一斉に跳ね回る。
「いちばんふくー!」
「くまさん、いちばーん!」
「玲花お姉ちゃんのくまさん、すっごーい!」
「私のクマさんちゃう! いや、私のやけど! 最高にカッコええ私のクマや!!」
玲花は泣いていた。
顔をくしゃくしゃにして、泣きながら大口を開けて笑っていた。
シスターがそっとハンカチを差し出す。
玲花はそれを受け取りながらも、テレビから一秒たりとも目を離せなかった。
画面の中で、陸がもみくちゃにされながら息を切らしている。
髪は汗で額に張り付き、顔は真っ赤。肩を大きく上下させて、荒い息と真っ白な吐息でぐちゃぐちゃになっている。
それでも、その野生の瞳だけは、ギラギラと眩しいほどに光っていた。
『見事な一番福、おめでとうございます! お名前をお願いします!』
マイクを向けられた陸は、まだ息を整えきれていなかった。
「はぁ、はぁ……っ、松本、陸です」
『あの障害物を飛び越えた大ジャンプ、ものすごい走りでした! 今のお気持ちは!?』
「……しんどいです」
テレビの前の全員が、一斉にズコーッとずっこけて笑った。
陸は、胸に手を当て、二度、三度と深呼吸をして何とか息を整える。
『この素晴らしい一番福、どなたに届けたいですか?』
アナウンサーが、満面の笑みで聞いた。
玲花は、テレビの前で息を止めて固まった。
すずも息を呑む。天馬の手にも、再びぐっと力が入る。
陸は、少しだけ照れくさそうに下を向いた。
それから、バッと顔を上げた。
真っ直ぐ、カメラのレンズの奥――その先にいる彼女を見据えて。
「この幸運を」
声は激しい走りの後で少し掠れていた。
でも、日本中に届くほど、はっきりと力強かった。
「俺の未来の嫁と」
玲花の目が、限界まで見開かれる。
「その、大事な弟たちと」
陸は、ニヤッと不敵に笑った。
「それから、俺の最高の親友たちに捧げます」
テレビの向こうの沿道から、「おおおおっ!!」という大きなどよめきと拍手が湧き起こった。
すずは、両手で口を強く押さえた。
「わぁ……っ!」
母が胸を押さえてうっとりとする。
「まあ……! なんて男前なの……!」
天馬は、一瞬だけ下を向き、額に手を当てた。
そして、堪えきれないように吹き出して笑った。
「……陸さんらしいわ、ほんまに」
施設の食堂では、完全にパニック映画のような大騒ぎになっていた。
「未来の嫁!?」
「お嫁さんだってー!」
「玲花お姉ちゃん、およめさーん!!」
「きゃあああああああああああああああ!!!」
玲花が、生涯最大の絶叫を放った。
顔は茹でダコのように真っ赤だった。涙と鼻水でメイクはぐちゃぐちゃだった。
でも、世界中の誰よりも、人生で一番幸せそうな顔をしていた。
「何言ってんの、陸のバカ! 全国放送! これ全国放送やで!? デジタルタトゥーやんか!!」
テレビの中の陸は、さらにマイクに向かって大きく息を吸い込んだ。
アナウンサーが、完全にノリノリで笑いながら聞く。
『未来のお嫁さんへ! 最後に何か一言、ありますか!?』
そこで、陸は一ミリも迷わなかった。
迷わず、カメラに向かって、腹の底から叫んだ。
「リョンファーッ!!!」
玲花の体が、ビクッと跳ねた。
「結婚してくれェェェェェ!!!」
世界が、一秒だけ止まった。
次の瞬間、すべてが爆発した。
鈴木家のリビングでは、すずが鼓膜が破れそうなほどの悲鳴のような歓声を上げた。
「きゃあああああああ! 言った! 陸くん言ったぁぁぁ!!」
母も両手で顔を覆って大興奮している。
「まあああああ! ドラマみたい! ドラマみたいやわ!!」
天馬は、天を仰いで笑い転げそうになっていた。
「あの人、やりよった……。公共の電波で、やりよった……!」
聖ミカエルこどもの家では、子どもたちが意味もわからず狂喜乱舞して飛び跳ねている。
「けっこん!」
「およめさん!」
「りょんふぁー!」
「ひゃあああああああああ!!」
玲花は、テレビの画面に向かって、泣きながら両手を伸ばしていた。
泣いて、笑って、顔を真っ赤にして怒りながら。
「ばか! 陸のばか! アホ! ……こんなん、断れるわけないやんかぁ……っ!!」
シスターが、目元を優しく拭いながら微笑む。
「ふふっ。お返事は?」
玲花は、涙を拭う暇もなく、テレビの向こうのクマみたいな男に向かって、ありったけの声で叫んだ。
「するー!! 結婚するに決まってるやろあほー!!」
もちろん、その声はテレビの向こうの陸には届かない。
でも、食堂中には間違いなく届いた。
小さな子どもたちが一斉にちぎれるほど拍手する。
「けっこんするー!」
「おめでとー!」
「玲花お姉ちゃん、およめさーん!」
玲花は、そのままその場にしゃがみ込み、両手で顔を覆った。
「もう無理……私、幸せすぎて今ここで死ぬかもしれん……」
その頃、金本道路建設の事務所では、親方が腕を組んだまま、ボロボロと大粒の涙を流していた。
「……親方、泣いてますやん」
職人の一人がニヤニヤしながら言うと、親方はズズッと豪快に鼻をすすった。
「泣いてへん。朝の冷気で目が乾燥しただけや」
「室内で暖房ガンガンですけど」
「うるさい。明日から松本の給料上げたれ」
■■■■
テレビの中で、陸はその場にいた全員から祝福されていた。報道陣からもランナーたちからも歓声を浴び、神職から木彫りのえびす様と立派な花を首にかけられ、一番福の男として誇らしげに笑っていた。
少し冷静になったのか、顔が耳まで真っ赤になっている。
でも、その目はどこまでも真っ直ぐだった。
すずは、テレビを見つめたまま、胸がいっぱいで息が詰まりそうだった。
陸は、本当に福を取りに行ったのだ。
玲花と、弟たちと、親友たちの未来を切り開くために。
自分の強靭な体ひとつで。
全力で、ただひたすらに走って。
そして、一番の福を力ずくで取ってきた。
「すごいね」
すずが、ぽつりと言う。
「うん」
天馬が答える。
「ほんまに、とんでもない男や」
テレビの中の陸は、まだアナウンサーに囲まれていた。
『いやぁ、これはリョンファさん、テレビの前でひっくり返ってびっくりされているでしょうね!』
陸は、照れ隠しに頭を掻きながら、それでもはっきりと言った。
「驚かせたくて、死ぬ気で走りました」
その言葉に、すずの胸がまたたまらなく熱くなる。
天馬は、小さく笑った。
「陸さん、ほんまに全部『体』で取りに行く人やな」
「うん」
「一番福も、嫁も」
「言い方!」
すずは笑った。
けれど、その目には大粒の涙が浮かんでいた。
画面の中で、陸がカメラに向かって少しだけペコリと頭を下げる。
その不器用な姿を見ながら、すずは思った。
人は、誰かのために走れる。
自分だけでは怖くて足がすくんでしまう道でも。
大切な誰かを『絶対に置いていかない』と決めたなら、障害物だって飛び越えて、全力で走れるのだ。
陸が走った。
そのスピードで、玲花の未来が、眩しいくらいに光り輝いた。
今度は、すずも、天馬も、それぞれの山へ向かって走り出さなければならない。
母が、ふと優しい、包み込むような声で言った。
「すずも、天馬くんも、テレビ越しに特大の福をもらったね」
すずは力強く頷いた。
「うん」
天馬も、静かに、けれど確かな決意を込めて頷いた。
「もらいました。これ以上ないくらい」
テレビの中で、一番福の陸が笑っている。
画面越しなのに、その笑顔は冬の朝の光みたいに、最高にまぶしかった。
その日、特大の福は確かに届いた。
聖ミカエルこどもの家にも。
金本道路建設の事務所にも。
鈴木家のリビングにも。
そして、これからそれぞれの未来の山へ向かって走り出す、四人の胸の中にも。




