俺のエベレスト。
焼肉屋を出ると、夜の尼崎は少しだけ涼しかった。
アスファルトの熱気の中に、どこかツンとした寂しい秋の匂いが混じっている。
「じゃあな天馬。明日も早いから寝坊すんなよ」
「陸さんも。玲花ちゃんに怒られますよ」
「うっ、せやな……。お互い、自分の山を登ろうや」
そう言って手を振った陸と別れ、天馬は一人で静まり返ったマンションへ戻った。
玄関を開ける。
部屋の中は、驚くほど静かだった。
壁のスイッチを入れ、エアコンのリモコンを押す。
ぶおん、と動き出した機械の音だけが、やけに大きく響いた。
天馬は鞄を机の横に置いた。
佐伯先生から渡された、あの分厚い資料が、鞄の底でずっしりと重い。
兵庫教育大学。
入学料。授業料。免除制度。奨学金。小論文。
さっきまで、陸と焼肉を食べながら笑っていた。
親方の一万円札をありがたく拝み、尼崎の神に感謝し、カルビの煙に巻かれながら、スマホに小論文の一行目を打ち込んだ。
あんなに賑やかで、温かかった。
それなのに、一人になってこの部屋に戻ると、容赦ない現実の静けさが戻ってくる。
天馬は、棚の上に置いてある小さな写真立ての前に立った。
母の写真だ。
白い肌、明るい髪。
そして、ヘーゼルの瞳。
天馬と全く同じ色の目が、写真の中で変わらずに笑っている。
天馬の母親は、いつも明るかった。
今思えば、少し明るすぎるくらいの人だった。
『学校なんか行かなくたっていいじゃん。天馬が死ぬわけじゃないし』
昔、天馬が学校で問題を起こした時。
最終的に退学が決まってしまった時。
遠い異国の山にばかりいる父親のせいで、家の中の空気が最悪だった時も、母だけはケラケラと笑っていた。
『でもさ、行きたくなったら、また行けばいいじゃん。学校って、世界に一個しかないわけじゃないんだからさ』
その頃の天馬は、本当に荒れていた。
タバコを覚え、ピアスを開けた。
髪を極限まで短く刈り込み、目つきを悪くして、誰かに先制攻撃で怖がられるような格好ばかりを好んだ。
どうせ奇異の目で見られるなら、最初から「ヤバい奴だ」と怖がられた方が、よっぽど楽だったからだ。
肌の色を見られる。
名前を聞き返される。
国籍をいちいち説明させられる。
『お父さん、エベレスト登る人なん?』
『お母さん、外国人なん?』
『西倉って、結局何人なん?』
その質問を浴びるたびに、天馬は自分が少しずつ、教室の外へ外へと押し出されていくような気がしていた。
自分の椅子だけが、みんなの輪から遠く離れていくような、あの感覚。
母は、そんな天馬のすべてを見ていた。
けれど、決して怒鳴らなかった。
悲しそうに泣くこともしなかった。
ただ、少し困ったような顔をして、天馬の指からタバコをひょいと取り上げ、窓を開けた。
『煙、くさい。私の前で吸うなら、せめて換気しなさいよ』
『……怒らへんの』
『怒ってやめるなら怒るけど、どうせやめないでしょ?』
『やめへん』
『じゃあ怒るだけ損じゃん』
母は、そういう人だった。
昼間は近くの英語教室で、子どもたちに英語を教えるパートをしていた。
発音が飛び切り綺麗で、笑うと目尻に優しいシワが寄った。
そして、父の国であるチベットへも、定期的に会いに行っていた。
一時期、日本の山岳関係のニュースで『スイートワイルドボーイ』なんて呼ばれて騒がれた、チベット人の男。
それが、天馬の父親だ。
母は、父のことがずっと大好きだった。
年に一度しか帰ってこないような、山に魂を売った男だと知っていて、それでも愛していた。
ある日、母は天馬に言った。
『ねえ、今度一緒にエベレスト行く?』
いつもの冗談みたいな軽い声だった。
けれど、そのヘーゼルの瞳は、まっすぐに本気だった。
『行かへん』
天馬は即答した。
『寒そうやし』
『まあ、寒いね』
『しんどそうやし』
『もの凄くしんどいよ』
『死ぬかもしれんやん』
母は、少しだけ切なそうに笑った。
『まあね』
『ほな行かへん』
『そっか』
母は、それ以上無理に誘わなかった。
ただ、出発の日の朝。
玄関で天馬の頭をぐしゃぐしゃと力任せに撫で回した。
『帰ってきたら、ピアスが増えてるかチェックするからね』
『勝手に見んな』
『母の権利ですー』
『うざ』
『うざくても、あんたの母親です』
――それが、最後の会話になった。
母はエベレストへ行き、二度と帰ってこなかった。
デスゾーンと呼ばれる標高で大渋滞が起き、酸素が足りなくなった。
そう聞いた。
詳しい状況は、誰も当時の天馬にうまく説明できなかった。
ただひとつ確かなのは、母の体は今も、あの世界の頂きのどこかに、冷たく残されたままだということだけ。
それ以来、父親は取り憑かれたように何度もエベレストへ向かった。
仕事だと言った。ガイドの依頼が入ったからだと言った。
けれど、天馬にはわかっていた。
父親は、母親を探しているのだ。
雪と、氷と、極限に薄い空気の中に残された、最愛の妻を。
今もずっと、標高八千メートルの世界で探し続けている。
天馬は、写真立ての前で長いこと立ち尽くしていた。
耳の奥に、親方のぶっきらぼうな声が何度もリフレインする。
『お前の山は、お前が決めろ』
山。
俺の、エベレスト。
けれど今日、その言葉は、全く別の形で天馬の前に現れた。
兵庫教育大学。
受験。奨学金。小論文。四年間という歳月。
それは、雪が吹き荒れる本物の山ではない。
酸素が薄くて息ができないわけでもない。
けれど、天馬にとっては、人生の中で出会った最も高くて険しい『山』だった。
登る前から諦めようとしていた山。
「お前には無理だ」と、誰かに言われる前に、自分自身の手で選択肢から切り捨てようとしていた山。
天馬は、写真の中の母をじっと見つめた。
「……俺、学校行くわ」
声に出してみると、少しだけ奇妙な感覚がした。
学校を退学した時、荒れていた時、母は「行かなくたっていい」と言ってくれた。
でも同時に、「行きたくなったらまた行けばいい」とも言ってくれたのだ。
「先生になりたい」
写真の母は、変わらずに微笑んでいる。
天馬と同じ色の目で、優しく。
「俺みたいな子が、学校にいていいって思える先生になりたい」
言った瞬間、喉の奥がぎゅっと熱くなって、言葉が詰まった。
もし、今ここに母が生きていたら、なんて言っただろう。
『いいじゃん、最高じゃん』
たぶん、拍手をしながらそう言う。
『でもさ、先生になったら、タバコ吸ってる不良の生徒に何て言うの?』
そうやって、意地悪く笑うに決まっている。
「……換気しな、って言う」
天馬は、小さく呟いた。
誰もいない静かな部屋で、自分の声だけがポツンと響く。
それがなんだか無性におかしくて、天馬は少しだけ笑った。
机に向かい、スマホを開く。
焼肉屋で打った小論文の一行目を、もう一度見つめた。
『私は、学校にいていいと思えなかった子どもが、学校にいていいと思える教師になりたい。』
天馬は、画面をタップし、そのすぐ下に新しい一行を書き足した。
『そのために、私はまず、自分自身が学校に戻ることを選ぶ。』
打ち終えて、しばらく画面の文字を見つめる。
怖さは、何ひとつ消えていない。
母親はもう帰ってこないし、父親は今も山に縛られている。
自分の過去だって、変えることはできない。
でも。
これから登る自分の山は、自分で決められる。
天馬は、もう一度写真立てを振り返った。
「登るわ」
小さく決意を告げると、写真の母は、やっぱり誇らしげに笑ったような気がした。
十八歳の秋。
尼崎の夜空の下で、天馬の山が、ようやくはっきりと姿を現した。
翌日の昼過ぎ。
まだ定時制の授業が始まる前の時間帯、天馬はスマートフォンを耳に当てていた。
コール音が数回響いた後、ガチャリと慌ただしい音が響く。
『はいはい、佐伯です! どないした西倉、小論文のテーマでもう白旗か?』
電話の向こうから聞こえるのは、いつも通りの軽薄で、けれど妙に安心する担任の声だ。
天馬は、ゴクリと唾を飲み込み、お腹の底から声を絞り出した。
「先生」
『おん?』
「俺、兵庫教育大学、目指します」
一瞬、電話の向こうが静かになった。
天馬は構わずに続ける。
「……ただ、俺には塾に行く金はありません。だから、勉強教えてください。小論文も、面接も、全部面倒見てください」
それは、天馬にとって最大級の「甘え」であり、同時に退路を断つための「宣戦布告」だった。
静寂の後、電話の向こうでフッと鼻で笑う気配がした。
それから、いつになく低く、けれど最高に不敵な声が返ってくる。
『――言うたやろ。お前がその気なら、俺がどこまでも伴走したるって。昼定時の教師、舐めんなよ』
佐伯先生の、ニカッと白い歯を見せて笑う顔が目に浮かぶようだった。
『明日から職員室に毎日来い。西倉専用の特等席、用意して待ったるわ。泥臭く、テッペンまで登るぞ』
「……はい。お願いします」
電話を切ると、天馬はゆっくりと深呼吸をした。
塾はない。金もない。時間も限られている。
それでも、最強の味方がついた。
この日から、西倉天馬の、本当の戦いが始まった。
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