俺の山のてっぺん。
「おい天馬。お前、新学期の学力テストの結果、上々やぞ」
三年生の二学期が始まって、数日後。
天馬は、進路指導室に呼び出されていた。
机の向こうには、担任の佐伯先生。
その手元には、新学期に行われた学力テストの結果表が広げられている。
英語、数学、国語、理科、社会。
主要五科目の欄に並んだ数字を見ながら、佐伯先生はにやにやを隠しきれていなかった。
「上々どころちゃう。めちゃくちゃええ。英語は当然として、国語も伸びとるし、数学も落ちてへん。理科社会もちゃんと取れてる」
「まあ、勉強しましたから」
天馬は、いつもの低い声で答えた。
驚いてはいなかった。夏休みは、ほとんど働いて、勉強して、それだけだったのだ。
朝から現場に出て、汗と土とアスファルトの匂いにまみれる。
夕方からは学校の課題をこなし、夜は単語帳を開く。休みの日も図書館へ行った。
すずと会えたのは、誕生日や吉野へ行った数回だけ。
図書館では、時々、圭太にも会った。
年下のくせに、あいつはやたらと勉強ができた。
『そこ、そう解くんじゃないです。こっちの方が早いです』
『……うるさい』
『わからないなら教えますけど』
『ムカつく』
『教わる側の態度じゃないですね』
年下に教わるのは、正直かなりムカついた。しかも圭太は、教え方が妙に的確なのだ。
ムカつく。でも、役に立つ。ムカつく。でも、わかりやすい。
その葛藤に耐えながら、天馬は素直に聞いた。わからないところは聞き返し、間違えたところは解き直した。
その結果が、今、紙の上に出ている。
「俺のクラスではダントツ一番や」
佐伯先生は、嬉しそうに言った。
「それも、歴代で見てもかなり上や。昼定時の歴代西倉ランキング第一位やぞ」
「俺しかいないランキングでは」
「細かいこと言うな」
佐伯先生は、結果表をトントンと揃え、急に真面目な顔になった。
「西倉」
「はい」
「兵庫教育大学、狙えるぞ」
天馬の動きが止まった。
「……え」
「学校教育学部。教員免許を目指すなら、最初から教育大に行く道がある」
「いや」
天馬は、すぐに視線を落とした。
「俺は、通信で取るつもりでした」
「知ってる」
「働きながら、少しずつ」
「知ってる」
「その方が現実的やし」
「それも知ってる」
佐伯先生は深く頷いた。
「でも、お前には通学の教育大を受けられる力がある」
天馬は黙った。胸の奥が、変にざわつく。
嬉しい、より先に怖かった。自分が、そんな場所を目指していいのか。
昼定時に来た自分が。現場で働きながら暮らしている自分が。父を頼れない自分が。
国籍のことを説明するだけで、いちいち少しだけ身構える自分が。
四年間、大学に通うなんて。
「金が」
天馬は、低く言った。
「金が無理です」
「そこも調べた」
佐伯先生は、待ってましたと言わんばかりに、別の資料を次々と取り出した。
大学のパンフレット。入試要項。授業料の資料。奨学金制度の印刷。
机の上に、紙がずらりと並んでいく。
「国立大学やから、私立よりは学費が抑えられる。初年度は入学料と授業料でおよそ八十二万円、次年度からは年額約五十四万や」
数字を聞いた瞬間、天馬の頭の中で計算が始まった。
貯金、給料、生活費、家賃、食費、交通費、教科書代。仕事を減らした場合の減収。体を壊した時のリスク。
全部が、一気にのしかかってくる。
「四年は無理です」
「まだ言い切るな。免除制度もある」
佐伯先生は、資料の該当箇所を指で強く叩いた。
「経済的な理由で学費の納付が難しい学生には、入学料や授業料の全額、または半額が免除される制度がある。お前の場合、ちゃんと申請すれば可能性は高い。日本学生支援機構もあるし、大学独自の制度もある」
「……」
「さらに、俺が今目をつけてるのがこれや。兵庫県教職志望者奨学金」
佐伯先生は、さらに別の紙を出した。
「地域で先生になりたい子を支援する制度や。小論文で応募して通れば、返済不要の支援が受けられる可能性がある」
「そんなの、あるんですか」
「あるかどうかは、今から片っ端から探すんや。兵庫県、神戸市、民間、財団、教職支援、外国にルーツのある学生支援……使える制度は全部拾う。俺ら教師は、そういう泥臭い作業のためにおる」
天馬は、並べられた資料を見つめた。
数字、条件、締切、必要書類、小論文。
「俺、こういうの、通ると思えません」
「なんで」
「俺より、ちゃんとした人がいる」
「西倉」
佐伯先生の声が、少し低くなった。
「お前は、自分がちゃんとしてない理由を探すのが上手すぎる」
天馬は、はっと顔を上げた。
「お前は働いた。勉強した。成績を出した。先生になりたい理由もある。それでも足りんって言うなら、足りん分を文章にしろ。小論文や」
佐伯先生は、仮のテーマが書かれた紙を一枚、天馬の前に置いた。
『地域で学び、地域で教える若者として、あなたが目指す教師像を述べなさい』
天馬は、その文字をじっと見た。
自分が目指す先生。
頭に浮かんだのは、昔の自分だった。肌の色を見られ、名前を聞き返され、家族の話で黙る。国籍のことを説明するたびに、自分が少しずつ教室の外へ追いやられるような気がした日々。
「俺みたいな子が」
天馬は、ぽつりと言った。
「学校にいていいって思える先生になりたいです」
佐伯先生は、にっと笑った。
「それを書け」
天馬は、紙から目を離せなかった。
通信で行くつもりだった。それが一番現実的で、自分に許された道だと思っていた。
でも、もしかしたら。
「……先生」
天馬は、資料一式をぎゅっと掴んだ。
「少しだけ、考えさせてください」
「おう。逃げずに考えろ」
天馬は、胸の奥で何かが静かに燃え始めるのを感じながら、進路指導室を後にした。
■■■
その日の夜。
天馬は、金本道路建設の事務所にいた。
仕事はもう終わっている。現場用のヘルメットは棚に戻され、事務所の古いエアコンがぶおんぶおんと頼りない音を立てていた。
机の上には、佐伯先生から渡された分厚い資料が広げられている。
「で」
親方が、缶コーヒーを片手に言った。
「お前、何をそんな葬式みたいな顔しとんねん」
「葬式ではないです」
「ほな通夜か」
「違います」
陸が横から資料を覗き込んだ。
「なんやこれ、兵庫教育大?……ていうか、俺ら三人が集まって、恋愛以外の話すんの初めてちゃうか?」
「確かに」
天馬は真顔で頷いた。
「いつもは、玲花がどうとか、すずがどうとかでしたからね」
「尼崎トリオ結成以来、初の『まともな進路会議』やな」
陸が腕を組んでうなずく。
「で、どうしたんや。バンビちゃんとの愛の巣でも買うためのローン計算か?」
「違います。佐伯先生に、教育大を狙えるって言われたんです」
「おお! めっちゃええやん!」
「よくないです」
「なんでやねん」
天馬は、資料から目を離さなかった。
「金がかかります。四年間です。仕事も減らさなあかんかもしれない。もし奨学金が通らんかったら、もし途中で金が尽きたら……」
言葉にすると、胸の奥の不安が一気に重くなった。
「通信で行くつもりでした。働きながら、少しずつ。時間かかっても、そっちの方が現実的やし、安全やと思ってました。俺には、そのくらいが合ってるって」
親方は、缶コーヒーを飲んだ。
しばらく何も言わなかった。事務所の外を、夜のトラックが走っていく音がした。
陸も黙っている。
天馬は、その沈黙が少し怖かった。自分の弱さを見透かされている気がしたからだ。
「天馬」
親方が口を開いた。
「はい」
「お前の山のてっぺんがどこかは、お前が決めたらええねん」
天馬は顔を上げた。
親方は、いつになく真面目で、渋い顔をしていた。
「世間でどんだけ無理やと言われようが、お前ができると決めたなら、最後まで登りきれ」
事務所が、しんとなった。
胸の奥を、何かがまっすぐに貫いた気がした。
山。登る。
父はいつも言っていた。山は嘘をつかない。でも、登ると決めた者にしか、頂上は見えない。
天馬は、ハッとして資料を見下ろした。
自分は、金がないから、国籍が面倒だからと、登る前から自分で山の標高を下げようとしていたのだ。
「親方……」
陸が、ぽつりと言った。
「めっちゃええこと言えたんですね」
「感動しました」
天馬も、思わず言った。
親方は缶コーヒーを机に置き、ふっと鼻で笑った。
「アホ。これ松本人志が言うとってん」
「え」
「ああ、尼崎の神ね」
陸が即座に納得した。
「神」
天馬が呟く。
「尼崎の神の御言葉や」
親方は、なぜかドヤ顔だった。
「俺が考えたんちゃう」
「今の俺の感動、返してくださいよ」
「返さん。感動したもん勝ちや」
陸が吹き出した。天馬も、思わず笑ってしまった。
笑ったら、胸の奥の重さが少しだけほどけた。
親方は、急にいつもの顔に戻った。
「で、どうすんねん」
天馬は、机の上の資料をもう一度見た。
入学料、授業料、免除制度、奨学金、小論文。
怖い。怖さは、消えない。でも、それはもう、行かない理由にはならない。
「受けます」
天馬はまっすぐに親方と陸を見た。
「教育大、受けます。落ちても、通信で必ず免許は取ります。でも、最初から諦めるのは、やめます」
親方は、にやっと笑った。
「ほな、登れ」
陸が、天馬の肩をばんばんと叩いた。
「落ちそうになったら、ザイルくらい持ったるわ」
「陸さん、山登ったことあります?」
「ない。でも現場の足場なら日本一綺麗に組める」
「それは頼もしいですね」
すると、親方は作業着のポケットを探り、一枚の一万円札を取り出した。
それを、ぽん、と陸に渡す。
「え」
「これで焼肉でも食ってこい」
「ええっ、太っ腹!」
陸が声を上げた。天馬も目を丸くする。
「親方、いいんですか」
「ええんや」
親方は、どこか照れくさそうに顎をしゃくった。
「俺の幸せは、後輩のお前らに小遣いやることが幸せやからな」
事務所が、またしんとなった。
名言のあとに、焼肉代。山を登れと言ってくれて、腹も満たせと言ってくれる。
「親方……」
陸が、真面目な顔で言った。
「今日、二回目の感動です」
「俺もです。ほんまに、かっこいいっすね」
親方は、ふん、と鼻を鳴らした。
「アホ。これは浜田雅功のお言葉じゃ」
「え」
「ああ、尼崎の神(物理)」
陸が即座に納得した。
「また尼崎の神」
天馬が呆れる。
「尼崎、神多くないですか」
「松本と浜田やぞ。二柱おるに決まっとるやろ。拝んどけ」
陸は一万円札を両手で掲げた。
「ありがたや」
「やめろ。金に拝むな。肉に拝め」
天馬は、もう一度笑った。
怖い未来の前に、腹を満たしてもいい。
「行きますか」
「行くぞ。今日は親方のおごりや」
「若いやつは、悩む前に飯食え」
夜の尼崎の風は少し涼しく、確かな秋の匂いがした。
■■■
焼肉屋に着くと、陸は宣言通りカルビを頼み、ロース、ハラミ、タン、そして白ご飯の大を次々と網に乗せていった。
じゅうじゅうと音を立てて肉が焼ける。
脂が落ちて小さく火が上がり、香ばしい匂いが漂う。
「食え」
陸が焼けた肉を、天馬の皿にどんどん乗せる。
「自分で取れます」
「ええから食え。お前は今日から受験生や」
「陸さんも保護者みたいになってきましたね」
「俺の保護対象、多すぎんねん。玲花に、弟たちに、お前」
「俺は半分同僚ですけど」
「半分弟やろ」
天馬は、少しだけ黙って、肉を口に入れた。
熱くて、うまい。塩気と脂が、疲れた体に染み渡る。
天馬は、白ご飯を食べながら、スマホを取り出した。
メモアプリを開き、小論文のテーマを打ち込む。
『地域で学び、地域で教える若者として、あなたが目指す教師像を述べなさい』
指が少し止まる。
焼肉屋の煙。隣で肉をひっくり返す陸。親方の言葉。佐伯先生の熱。すずの横顔。
天馬は、ゆっくりと一文を打った。
『私は、学校にいていいと思えなかった子どもが、学校にいていいと思える教師になりたい。』
打ち終わると、胸が少し熱くなった。
陸が画面を覗き込む。
「ええやん」
「まだ一行です」
「一行目が一番大事やろ」
「そうなんですか」
「知らん」
「知らないのに言わないでください」
陸が笑い、天馬もつられて笑った。
自分の山のてっぺんは、自分で決める。
世間でどれだけ無理だと言われても、自分ができると決めたなら、最後まで登りきる。
十八歳の秋。
天馬の山が、ようやくはっきりと見え始めた。




