刃を研ぐ〜可愛くて、嫌になる〜
「おはようございます、俗世のみなさん……」
三年生の二学期、夏休み明け。
すずが早めに登校して参考書を開いていると、教室の後ろの扉が、ばーん! と勢いよく開いた。
白玲花が立っていた。
以前の『清楚な三つ編み出家スタイル』とは、また違う。
髪はゆるく巻かれ、ふんわりとしたハーフアップにされている。
唇には艶やかな薄いピンクのリップ。
目元には、控えめだけれど確実に『盛れている』絶妙なアイライン。
施設の厳しい規則に引っかからないぎりぎりのラインを攻め抜き、最大限に可愛いを表現している。
服は、オフホワイトの清楚なAラインのセーラーワンピース。
でも、足元はやっぱり、カツカツと音を立てる高いヒールだった。
清楚と圧倒的戦闘力が、同じ体に同居している。
「玲花ちゃん!」
すずが顔を上げる。
「バンビ、おはよ」
玲花は、すずに向かってひらりと優雅に手を振った。
その動作が妙に華やかで、教室でだらけていた男子たちが、一瞬でざわつく。
「おい、白さん、なんか今日すごない?」
「俗世に戻ってきたぞ」
「いや、前より進化してるって」
「あの施設って、もしかして秘密の美人養成所なん?」
玲花は、地獄耳でその声を聞き逃さなかった。
「違いますー。自力ですー」
すかさず返す。
その小気味よいテンポに、教室中がどっと笑いに包まれた。
すずはほっとした。
玲花ちゃんだ。
ちゃんと、私の大好きな玲花ちゃんだ。
でも、その明るい笑い方の奥に、少しだけ疲れの色が見え隠れしている気がした。
その違和感に気づいたのは、すずだけではなかった。
陸も、すぐに玲花を見た。
「玲花、お前どないしたんや。朝からそんなピリピリして」
陸は、ため息をついた。
けれど、その目は全然笑っていなかった。
心配でたまらないのだ。
玲花は、つんと少しだけ唇を尖らせた。
「陸」
「何」
「うち、もう施設出るー!!!!」
教室の空気が、ぴたりと止まった。
すずも、シャープペンを持つ手を思わず止める。
「え」
陸の声が、地を這うように低くなった。
「何言うてんねん」
「もう嫌やー!!!」
玲花は思いっきり叫ぶと、ツカツカと陸の机の前に立った。
華々しく登場した女王様のような出立ちのまま、急にイヤイヤ期の子どもみたいな顔をする。
「門限あるし! 外出許可いるし! スマホ時間決まってるし! お金もきっちり管理されるし! ヒール履いたらシスターに『足を大事になさい』って言われるし!」
「ええこと言うてるやん、シスター。めっちゃ正論や」
「陸までシスター側につくん!?」
「そこはつくやろ」
「裏切り者ー!!!!」
「俺は玲花の足首守り隊や」
「何その隊!」
玲花は、ぷいっと横を向いた。
「……ちゃんとしてる場所やってわかってる。優しい人ばっかりやってわかってる。ご飯も毎日出る。寝る場所もある。勉強する立派な机もある。感謝せなあかんって、頭ではわかってる」
「おん」
「でも、嫌や」
本当に、駄々をこねる子どもみたいな言い方だった。
でも、すずにはわかった。
施設が悪いのではない。
そこが安全で温かい場所だからこそ、自分がこれまでどれだけ歪で危ない場所で暮らしていたのかを、毎日突きつけられるのだ。
弟たちと離れて一人で眠るたびに、前の家の足音を探してしまう。
母親の理不尽な怒鳴り声すら、なくなるとふと寂しくなる瞬間がある。
玲花は、そういうぐちゃぐちゃの混乱の中にいるのだ。
「もう、陸ん家行く」
「来るな」
「即答!?」
「今は来るな」
陸は、はっきりと強い声で言った。
玲花の顔が、みるみる歪む。
「なんで!」
「俺の準備が、まだできてへんから」
「私、床で寝る」
「寝かせるかアホ」
「じゃあ一緒にベッドで寝よ♡」
陸は、ガシガシと頭を掻きむしった。
「も〜〜〜っ!!」
急に、陸が頭を抱えて呻いた。
「可愛くて嫌になるー!!!」
そして勢いよく立ち上がると、玲花をガバッと強く抱きしめた。
「俺がしっかり準備して、ちゃんと飯食わせて、雨風しのげる最高の城作ったら、俺が迎えにいくから!! それまで頼むから待っとけ!!!」
「ほんま!? 陸、大好き!!!!」
玲花が陸の背中に思い切り抱きつき返した。
その瞬間、教室中がドカンと沸き返り、ヒューヒューという口笛と盛大な拍手が巻き起こった。
まるで大団円のミュージカルのようだ。
その完璧なタイミングで、ガラッと前の扉が開き、担任の佐伯先生が入ってきた。
教室の異様な熱気と、抱き合う二人を見た瞬間、佐伯は盛大に顔をしかめた。
「はいこんにちはー!! 夏休み明け一発目から糖度の高低差で耳キーンなるわ!! お前ら、恋愛もええけど受験生やぞー!! 離れろ!!」
******
すずは、その光景を少し離れた自分の席から見ていた。
玲花と陸。
泣いて、怒って、甘えて、諭されて、また甘える。
激しい。
まぶしい。
ラブラブという言葉を、そのまま人間にして煮詰めたみたいだった。
(うわー……すごい。あんなふうに、人前で全身で『好き』って表現できるの、ほんますごいなぁ)
すずは少し頬を赤くしながら感心していた。
でも、自分はたぶんああいうタイプではない。
隣の席を見ると、天馬は周囲の喧騒などどこ吹く風で、静かに英単語の参考書を開いていた。
すずも、自分の参考書へ視線を戻す。
英文法。
長文読解。
志望理由書。
やらなきゃいけないことは山ほどある。
シャープペンを握り直す。
ふと、天馬の大きな手が、机の下でスッと伸びてきた。
すずの指先に、そっと触れる。
すずは驚いて横を見る。
天馬は参考書から全く目を離さないまま、口パクに近い小さな声で言った。
「俺らは、こんな感じやろ?」
すずの胸の奥が、じんわりと温かくなった。
「……うん」
すずも、小さく返す。
「こんな感じ」
机の下で、ほんの少しだけ、二人の小指を絡める。
教室の真ん中では、まだ玲花が「施設の朝ごはんは健康すぎるねん!」と文句を言い、陸が「健康で何が悪いねん!」と言い返している。
「そこの小鹿とエベレストー!! 見えてんねん、隠れて手ぇ繋ぐな離れろボケー!!」
佐伯先生の容赦ないツッコミが飛んできて、すずは「ひゃっ!」と慌てて指を離した。
天馬は何事もなかったように、すまし顔で参考書のページをめくった。
******
その日の放課後。
進路指導室の前で、すずは緊張でガチガチになっていた。
今日は、保護者を交えた三者面談の日だ。
「すず、待たせたね」
「あ、ママ」
すっかり髪が短くなった母が、小走りでやってきた。
抗がん剤治療の影響で体調には波があるものの、今日は顔色も良く、ばっちりメイクをして気合いが入っている。
「では、鈴木さん、どうぞー」
佐伯先生に呼ばれ、すずと母はパイプ椅子に並んで座った。
「さて、いよいよ三年の二学期。そろそろ、具体的な受験先を決定せなあかん時期です。すず、夏休みの間に考えはまとまったか?」
佐伯先生が、真剣な顔で手元の資料をトントンと揃える。
すずは、膝の上でぎゅっと拳を握った。
心の声がうるさいすずだけれど、今日は違う。
ちゃんと頭の中で言葉を選び、自分の意志を形にして口に出すのだ。
「はい。私、教育関係に進みたいです」
「ほう」
「特に、幼児教育と心理学をしっかり学びたいと思ってます」
「おお、ええやん。何個か学校、迷っとったよな? どこか決めたか?」
すずは、まっすぐに佐伯先生の目を見た。
「神戸大学、国際人間科学部の子ども教育学科を受験します」
ぴたり、と進路指導室の空気が止まった。
佐伯先生は、手元の成績データと志望校の紙を交互に見比べ、天を仰いだ。
「……うわー。これまた、めっちゃビミョーなラインを言うてきたな、お前!」
「ビミョーですか?」
「いや、ええねんで? ええ大学や。でもな、今のすずの成績やと、偏差値的にはほんまに『スレスレ』や。倍率はだいたい二倍。つまり、二人に一人が受かって、二人に一人が落ちる」
佐伯先生は、頭をガシガシと掻いた。
「これがな、五人に一人しか受からん超難関やったら、『まぁしゃあない、記念受験やな』って諦めもつく。逆に百パー受かる滑り止めでもない。一番、受験生も教師も胃が痛くなる、ヒリヒリするラインやぞ?」
「……頑張ってみる!」
すずは、力強く宣言した。
「受験は、一月です。あと五ヶ月、死ぬ気で頑張ります」
「よし、その意気や。お母さん、どうですか?」
佐伯先生が母に話を振る。
「いいね、すごくいい! ママ、すずのやりたいこと、全力で応援するわ!」
母はニコニコと拍手をした。
佐伯は、今や! と視線ですずに合図した。
夏休み前、最後の面談の時だった。
すずは、佐伯に「うちは母子家庭だから……なるべく負担のないようにしたいんです」と相談したのだ。
佐伯は、比較的学費が抑えられ、奨学金の制度もある学校のパンフレットをすずに渡した。
そして、お母さんに話すときには、先に金額を言って安心させてあげたらいいよ、とアドバイスを送ったのだった。
すずはコクリと頷く。
母の方に向き直り、用意してきた『渾身のプレゼン資料』を頭の中で展開した。
「ママ、聞いて。私、この学校を選んだのには理由があるねん。神戸大学の学費は国公立の標準額やから、すごく安いんだって。しかも、家庭の経済状況によって、授業料の全額とか半額が免除される制度もあるって! 私、バイトも頑張るから、ママの負担には――」
「すず」
母が、すずの言葉を遮った。
感動で目を潤ませているかと思いきや、母はきょとんとした顔をしている。
「あんた、前から思ってたけどね。ママの給料って、毎月いくらか知ってるの?」
「え? 知らない……」
「毎月、手取りで五十万円くらいはもらってるのよ。ボーナスは夏冬合わせて二百万円はあるわ」
「「……え?」」
すずは目が点になった。
その横で佐伯も目が点だ。
「あなたの学資保険だって、生まれた時から毎月ばっちりかけてるのよ。大学行くためのお金なんて、とっくに準備できてるの」
すずの口が、ぽかんと開いた。
隣で、佐伯先生が「ええええええ!!? そんな稼いでるんすかお母さん!?」とパイプ椅子から転げ落ちそうになっている。
「しかもね」
母はふふっと笑った。
「私たちが今住んでるあの甲子園のマンション、おばあちゃんが残してくれた持ち家だから、家賃もかかってないのよ。さらに言うとね、私、今回癌になったでしょ?」
「う、うん」
「あの奈良の家、ローンも名義もママのままやったからね。がん保障付きの団体信用生命保険に入ってて、診断で残債がなくなったの。だから、奈良の家のローン、あれ全額なくなったのよ」
すずの脳裏に、先日奈良に帰った時の父の言葉がフラッシュバックした。
『この家のローンがどうなったかだけ、聞いてくれへんか』
……あ!
あの時のウザさMAXの質問、そういうことやったん!?
ローンがなくなったかどうかを、あの人は知りたかったのだ。
母の心配ではなく。
すずの心配でもなく。
自分たちが住んでいる家の、お金の心配を。
(腹立つ!!)
「その上ね」
母の暴露はまだ止まらない。
「あの奈良の家、パパが今住んでるけど、名義は私なの。だから、パパからは毎月きっちり『家賃』としてお金を回収してるの。それを養育費代わりにストックしてるから。……だからね、すず」
母は、すずの肩をぽんと叩いた。
「お金のことなんて、これっぽっちも気にしなくていいねんよ。奨学金なんて借りたら、後であなたが返すの大変でしょ? あなたはただ、勉強だけしなさい」
「え、えええええええええ!!??」
すずと佐伯先生の叫び声が、進路指導室に響き渡った。
********
帰り道。
すずは、完全に呆然としていた。
なんやったんや、私のあの涙ぐましい努力……。
図書館に通い詰め、パンフレットをかき集め、あれこれ悩みながら見つけた「できるだけ安く学校へ行ける道」。
親に迷惑をかけたくない一心で調べ上げた奨学金の制度。
まさか、親がこんなにも完璧に、そして圧倒的な財力で準備してくれていたとは思ってもみなかった。
すずは、歩きながら母の背中を思い出した。
病気になっても、弱音を吐かず、自分でお金を稼ぎ、娘の未来を守ってくれている。
しかも、すずが知るよりずっと前から。
ずっと、準備してくれていた。
すずは、心の底から母を尊敬した。
私も、大人になったら……ママみたいな親にならなあかん。
ただ優しいだけじゃない。
毎日コツコツ働いて、しっかり貯金をして、いざという時にドンッと出せる、強くてかっこいい大人になる。
そのためには、まず自分の地盤を築かなければならない。
ふと、すずの脳裏に、かつて家にお見舞いに来た、母の上司である中村さんの言葉が蘇った。
『刃を研ぐと、いいと思います』
そうだ。
これまで、すずは必死に刃を研いできた。
逃げ出したかった勉強に向き合い、わからなかった数学を解き、長文読解に食らいついてきた。
だからこそ、今、偏差値スレスレとはいえ、「神戸大学」という高い山を目指すことができる位置まで登ってこられたのだ。
「刃を研ぐ。……刃を研ぐ!」
すずは、キュッと両手の拳を握りしめた。
あと五ヶ月。
二人に一人の戦いに、絶対勝つ。
家に帰り、すずは真っ直ぐに自分の机に向かった。
ファミリアブルーのステンレスボトルを横に置き、単語帳を開く。
ページの端は、もう何度もめくったせいで少し丸まっていた。
でも、まだ足りない。
もっと読める。
もっと覚えられる。
もっと、研げる。
十八歳の秋。
すずの、本当の戦いが幕を開けた。
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毎日更新予定です。完結約束、ハッピーエンドです(^ ^)
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