さようなら、ふるさと。
ポーン。
小気味よいピアノの音が響いた。
(わ、音がずれてるやん)
すずは久しぶりに入った自分の部屋を見渡した。
机、本棚、ピアノ、箪笥。
おいてきたたくさんのものたちは、あの時のまま、静かにそこに存在していた。
久しぶりに触れたピアノの前に座り、指を当てた。
そして、毎日弾いていたピアノから感じ取れる何かが、今のすずの中にある何かと反応したのを感じて、指がクッと丸まった。
奈良県三郷町。三郷駅から急な坂道を十分ほど登った先にあるこの家は、母がローンを組んで建てたこだわりの積水ハウスだ。外観も内装もとても素敵で、すずのこの部屋なんて十畳もある。
窓を開けると、夏の終わりの風が吹き込んできた。真正面には青々とした信貴山がそびえ、少し目線を逸らすと、太陽の光を反射してきらきらと光る大和川が見下ろせる。
(あー……落ち着くなぁ)
すずは、窓枠に手をついて大きく深呼吸をした。
毎日当たり前のように見ていた景色。自分がこんなにも景色のいい、美しい場所に住んでいたのだということを、離れてみて初めて実感していた。
「おーいすず!茶入れたからこいやー」
「はあい!」
階下から聞こえる父の声。この呼び方も、この答え方も、まるで、あの頃に戻ったみたいで。
でもそうではないことを、すずは心で痛いほど感じていた。
八月の終わり。
すずは、久しぶりに奈良の実家へ帰っていた。
帰省、というほど大げさなものではない。父から連絡があったのだ。生まれた子どもに、一度会ってほしい、と。
駅を降りると、空気が少し違った。
神戸よりも、風が柔らかい。山が近い。道の向こうに見える緑が、子どもの頃から知っている色をしている。
懐かしい。でも、その懐かしさは、少しだけ胸に痛かった。
玄関を開けると、見慣れた家の匂いがした。
けれど、置いてある靴が違う。玄関マットも、傘立ても、前とは少し違っている。すずは靴を揃えながら、心の中で小さく息を吐いた。
「すず、こっちこっち」
父の声が、リビングから聞こえた。
父は、少し照れたような顔をしていた。その腕の中に、小さな赤ちゃんがいる。去年の九月に生まれた子。もうすぐ一歳になる、すずの妹。
「奈々や」
父が言った。
「ななちゃーん、お姉ちゃんやでー」
赤ちゃん――奈々は、すずを見た。
丸い頬。柔らかそうな髪。小さな手。大きな目。
すずが少しだけ顔を近づけると、奈々はふにゃっと笑った。
その笑顔は、あまりにも無防備だった。
すずの胸の奥に、奇妙な気持ちが生まれた。
可愛い。でも、苦しい。
この子は、何も悪くないんだよね。
そう思ったら、すずの肩から少しだけ力が抜けた。
「抱っこしてみるか?」
「うん」
父から奈々を受け取る。
思ったより重い。でも、腕の中に収まる重さだった。奈々は、すずの服を小さな手で掴んだ。
「ほえ」
「あ、こんにちは」
すずが小さく言うと、奈々はまた笑った。
その笑い方に、少しだけ自分に似たところを探してしまう。
目元。頬。もしかしたら、父に似ているのかもしれない。
それが、少し悔しかった。
「ミルク飲むかもしれん」
奥から声がした。父の新しい妻が、哺乳瓶を持ってリビングへ入ってきた。
「すずちゃん、よかったら」
「あ、はい」
すずは受け取り、奈々を抱き直した。
哺乳瓶を口元へ持っていくと、奈々はすぐに吸いついた。小さな喉が、こくこくと動く。
「すず、慣れとるやん」
父が驚いたように言った。
「うん。バイト先のパン屋さんの奥さんが双子ちゃん産んだから、時々世話してるねんよ」
「そうけー。すごいなぁ」
父は、嬉しそうに奈々の頬をつついた。
「可愛いやろ。ななちゃーん、お姉ちゃんやでー」
「すずとななか。姉妹って感じやね」
父の妻が、にこにこしながら言った。
すずは昔から、内面の心の声がとにかくうるさいタイプだった。頭の中ではあーだこーだと猛スピードで言葉が駆け巡るのに、いざ口に出そうとすると緊張してしまい、うまく喋れなくなる。
けれど、神戸での一年が、すずを少しだけ変えた。頭の中で騒ぐ言葉たちを一旦落ち着かせ、何を話すべきか、どう伝えるべきかをちゃんと選んでから、口に出せるようになったのだ。
(え、すごい。こんなに自然に『姉妹』って言葉使えるんや。まるで昔からそうだったみたいに。まるで、この家にママがいた時間なんて、最初からなかったみたいに……)
心の奥に、ドロリとした暗い影がよぎった。
この人は、この家と、父と、私たちの生活を奪った人だ。
その刺々しい言葉が、喉元まで上がってくる。
けれど、すずは小さく息を吸い込み、ぐっと飲み込んだ。ここでその言葉を投げつけて、誰が得をする? 誰も幸せにならない。奈々のミルクを飲む音だけが、平和に響いているのだから。
すずは、一番無難で、誰も傷つけない言葉を選び取った。
「そうですね」
口角を上げて、笑顔を作った。上出来だ。
「さぁさぁ、おやつですよ〜」
父の妻が、明るい声でケーキとお茶を運んできた。
テーブルの上に、綺麗な皿が並ぶ。
母が使っていた食器ではなかった。知らない皿。知らないマグカップ。知らないケーキサーバー。
見慣れた家の中に、知らないものが増えている。そのことが、すずを少しずつ遠くへ押し出していくようだった。
すずは、奈々を父に渡し、ケーキの皿を受け取った。
「ありがとうございます」
「遠いところ来てくれてありがとうね」
「いえ」
父の妻は、ずっとにこにこしていた。けれど、よく見ると、ケーキ皿を持つ手が少し震えていた。
すずは、その手を見てしまった。
この人も、怖いのかもしれない。すずが何か言うことを。責めることを。ここに座っているだけで、この人にとっても落ち着かないのかもしれない。
茶番って、こういうことを言うんやな。
すずの心の中が、少し荒んだ。
けれど、すぐに頭を振る。
(やめやめ。こういうの、良くない)
平和。平和。平和。
すずは、心の中で三回唱えた。
そして、奈々に向かって笑った。
「奈々ちゃん、ケーキはまだ食べられないねぇ」
「ほえ」
「あはは」
奈々が手を伸ばす。すずは、その小さな指に自分の指をそっと触れさせた。
柔らかい。あたたかい。
この子は何も知らない。父と母が離婚したことも。すずが神戸へ行ったことも。この家に、別の時間が流れていたことも。何も知らずに、ただ生まれてきた。
それだけなのだ。
帰り際。
玄関で靴を履いていると、父が少し言いにくそうに声をかけてきた。
「すず」
「何?」
「ママ、元気か?」
「うん。治療はまだあるけど、がんばってる」
「そうか」
父は、少しだけ目を伏せた。それから、さらに声を低くした。
「この家のローンがどうなったかだけ、聞いてくれへんか」
すずは、靴紐を結ぼうとしていた手をピタリと止めた。
ローン。今、このタイミングで。
母は病気で闘っていて。すずは久しぶりに気を遣いながらこの家に来て。奈々を抱いて、ケーキを食べて。その帰る直前の最後に、ローン。
(……ウザさMAX)
すずの心の中で、特大のテロップが出た。
(いやいやいや、なんで私がそんなん聞かなあかんの? 自分で連絡して聞けや! 今言うことちゃうやろ!)
脳内では怒涛の関西弁ツッコミが吹き荒れたが、すずはそれを外には一切出さなかった。
(ウザさMAX…とは言えないので、黙っておこ、ニコニコ)
すずは、完璧な愛想笑いを浮かべた。
「うん。聞いておくね」
それだけ言った。
怒鳴らなかった。泣かなかった。責めなかった。
そうできた自分を、大人になったと思うべきなのか。それとも、また飲み込んでしまったと思うべきなのか。よくわからなかった。
最後に、すずはもう一度、妹を見た。
「奈々ちゃん」
名前を呼ぶと、父の妻に抱かれていた奈々がこちらを見る。すずは、もう一度抱っこさせてもらった。小さな体を、そっと腕の中に収める。
「奈々ちゃん、お姉ちゃんは、もう帰ります」
「ほえほえ」
「また会いにきますね?」
奈々は、返事の代わりに、すずの髪を小さく掴んだ。
「あはは。痛い痛い」
父の妻が、少し不安そうに見ていた。でも、それを隠すように、にっこり笑っている。
すずは、奈々をそっと渡した。
「あの」
「はい」
「ケーキ、ありがとうございました。美味しかったです」
すずは、まっすぐに言った。
争うつもりはない。そのことだけは、ちゃんと示しておきたかった。
父の妻は、一瞬だけ目を見開いた。それから、少しだけほっとしたように笑った。
「こちらこそ、来てくれてありがとう」
家を出る。
玄関の扉が閉まる音が、背中に響いた。
駅へ向かう坂道で、すずは一度だけ振り返った。
自分が育った家。ピアノの音が鳴った家。母が料理をしていた家。父が帰ってきた家。今は、奈々がいる家。
もう、自分の家ではないのかもしれない。でも、完全に知らない家にもなりきれなかった。
「……すず!!」
ふいに、懐かしい声が聞こえて、すずは声がした方向へ弾かれたように振り向いた。
駅の手前にある、見慣れた奈良交通のバス停。そこから、幼なじみの遥が小走りでこちらに向かってくるのが見えた。
少し日に焼けた肌に、着慣れたよれよれのTシャツ。昔から大人しくて、少し猫背気味の歩き方は、ちっとも変わっていない。
「うわ、久しぶりやん!……帰ってきてたんやったら、連絡してや」
遥はすずの前に立ち止まると、少し照れくさそうに頭を掻いた。
「あー、うん。ちょっと急やったから」
「そうか……」
気まずいような、くすぐったいような、特有の沈黙が流れる。
ジリジリと鳴く蝉の声だけが、二人の間を埋めていた。
神戸でのすずなら、ここで(やばい、何か喋らな!沈黙気まずい!)と脳内会議をフル回転させるところだが、遥の前では不思議と焦りがなかった。
すると、普段は控えめな遥が、珍しく大きな声を出した。
「こないだは、ごめん!」
いきなりの謝罪に、すずは目を丸くした。
「えっ?」
「俺、あの時……めっちゃ疎外感感じてしまって。なんか知らんけど、ディスってしまったわ!もう、ディスれるもんあったらディスっとけ精神で!」
「ど、どゆこと?」
すずが戸惑って聞き返すと、遥はさらに申し訳なさそうに眉を下げた。
「ほら、お前の高校のこと……俺、めっちゃディスったやん」
「あー……あれね」
すずは思い出した。
以前、遥が用事で西宮の方まで来た時のことだ。再会した途端、遥はすずが通う高校のことを「お前のとこ、めっちゃ底辺やんけ」と思い切りバカにしてきたのだ。あの時は、すずもカチンときて、少し険悪なムードのまま別れてしまっていた。
「なんか、西宮着いたらさ。街全体がめっちゃハイソな感じするし、すずも……なんか、えらい垢抜けてるしで。俺だけ取り残されたみたいで、だから、つい言うてしまったんや。ほんまに、ごめん」
遥は、自分の情けない劣等感を、隠すことなく正直に打ち明けてくれた。
大人しくて、口下手な遥が、必死に言葉を紡いでいる。
その不器用な誠実さが、なんだかすずの心の奥の、ささくれ立っていた部分にすっと染み込んでいった。
「……アホちゃう」
すずは、ふっと息を吐いて、柔らかく笑った。
「うん、あほや。自分でも引くくらいあほやった。ほんまにごめん!」
「ふっ……! あはは!」
「うん……あはは!」
つられて、遥も照れ隠しのように笑い出した。
あまりに気持ちのいい、まっすぐな謝罪。
それがなぜだかツボに入ってしまって、すずは笑いが止まらなくなった。遥も、お腹を抱えるようにして笑っている。
「ふう、あかん、お腹痛い……」
「はぁ……俺も、なんの笑いか分からんけど、笑ってもうた」
なぜだかわからないゲラ爆笑。
昔は、意味もなくよくこうして笑ったものだ。箸が転がるだけで笑う時代を、同じこの奈良の景色の中で一緒に生きてきた友達。
頭の中でぐるぐると言葉を選んだり、相手の顔色を窺ったりする「心の声のフィルター」を一切通さずに、ただ自然に話せる存在。
「おーい、はるかー!バスくるぞ!!!」
バス停の方から、遥の友達らしき男子の声が響いた。
見れば、淡い緑色のローカルバスが、坂の下からゆっくりと近づいてきている。
「わ、やば!もう行くわ!」
遥は慌てて踵を返し、バス停に向かって走り出した。
「すず!また連絡するわ〜!!」
「うん!気ぃつけてなー!」
大きく手を振り返すすず。
遥は、バスのステップにギリギリセーフで飛び乗り、閉まるドアの向こうからもう一度、ぺこりと頭を下げて笑った。
バスが、ゆっくりと遠ざかっていく。
排気ガスの匂いが、夏の風に混じって鼻をかすめた。
神戸へ行ったばかりの頃は、遠く離れてしまって、たまらなく寂しかった。
でも、今はわかる。
自分にも、大好きな彼氏や大切な友達ができたように。
遥にも、一緒にバスを待つ友達がいて、それぞれの場所でちゃんと生きている。
お互いに環境は変わり、少しずつ大人になっていくけれど。
こうして笑い合える根っこの部分は、きっとずっと、あの頃のままなのだ。
すずは、もう一度だけバスが見えなくなった坂の先を見つめ、それから前を向いて、駅への足取りを少しだけ速めた。
帰りの電車で、すずはヘッドフォンをつけた。
音楽を流す。
窓の外に、緑の山々が見える。
電車は、神戸へ向かって走っていく。
ポーン。
今日、鳴らした音が、蘇る。
すずは、涙を流した。
声も出さずに、ただ零れ落ちる熱いものを止めることもできずに。
転校した初日。
さようならをしたあの日に、流さなかった涙が、今、溢れ出ていた。
実家のピアノに触れた瞬間、わかったのだ。
失ったものの、大きさに。
鍵盤を押すと、調律の狂ったピアノが、間抜けな音を立てた。
かつて愛し、自分を表現する一部だったはずのその音が、今の自分をあざ笑うかのように空虚に響いた。「もうお前のものではない」と、冷たく突き放された気がした。
弾けると思ってた。
頭の中では、かつて演奏した曲が完璧な旋律で鳴っている。
それなのに、指は鉛のように重く、動かない。
特技だった。毎日続けていた。
いつか保育士や幼稚園の先生にあったら、ピアノを弾くと、なんとなく思っていたのに、
指は、動かなかった。
たった一年。
引かなかっただけ。
そう思っていた。
わかっている。また練習を始めたらできるようになることは。
でもあの場所と、今まで培ってきた何かは、もう、この指に宿らない。
無能な自分を突きつけられたようで、恥ずかしさと、自分自身への憤りで胸が張り裂けそうだった。
そうして絶望して、窓辺に立った。
美しく優しい野山が、川が、優しく存在していた。
この部屋を、妹に、差し出すのだ。
どろり。
何かが、溢れ出る。
神戸へ行ってからの毎日は、ただ必死だった。
知らない街、知らない教室。母の癌、病院の無機質な匂い。
そうやって必死に走るうちに、すずは奈良の家に置いてきたはずの自分の輪郭を、少しずつ摩耗させていたのだ。
電車がガタンと大きな音を立てて、トンネルの闇へ滑り込む。
窓の外の緑の山も、川のきらめきも、すべてが闇に塗りつぶされた。
途端に、窓ガラスが鏡へと変わる。そこに映ったのは、泣き腫らして焦点の定まらない、生気のない魚のような目をした少女だった。
誰、この抜け殻のような人間は。
あんなに必死に、傷つきながらも前を向いて生きてきたつもりだったのに、その瞳には、自分の人生を放棄したような情けなさが澱んでいた。
奈々を抱いたとき感じた、あの胸の痛み。
父の家庭を否定しきれない、自分の弱さ。
そして、この泥のような自分。
電車がトンネルを抜ける。再び窓の外に都会の灯りが流れ込んでくる。
帰れない場所があることは、寂しい。でも、今はこの寂しさにしがみついている余裕すらない。
すずは、隣の座席の乗客がちらりとこちらを見たことなど、どうでもよかった。周囲にどう見られようと知ったことか。
窓に映る自分の顔をまっすぐに見つめ、その情けない瞳を射るように睨みつけた。
もう、泣くのは終わりだ。
神戸には、玲花がいる。陸がいる。天馬がいる。
彼らという「現在」が、自分のこの腐りかけた魂を、強引にでも引き戻そうとしているのを感じる。
すずはズビッと乱暴に鼻をすすり、目元を袖で拭った。
帰れない場所があるということは、寂しい。だが、それは過去に殺されかけるたびに、自分自身で作り上げてきた「大人」という殻の重さなのだ。
(今更やん、すず)
彼女は深く息を吐き出すと、窓の中の自分に向けて、一度だけ鋭く口角を上げた。
止めたはずの涙は、まだ溢れている。
それは微笑みとは呼び難い、自分自身に対する宣戦布告のような表情だった。
疲れた顔で、目を閉じる。
それでも明日は、やってくるからと、
ヘッドフォンから聞こえるピアノの音に耳を澄ませた。
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毎日更新予定です。完結約束、ハッピーエンドです(^ ^)
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