ムードってなんでしたっけ。
「もう、待てない」
天馬の声は、少し掠れていた。
いつもの穏やかで低い声なのに、どこか切羽詰まったような、余裕のない響きが混じっている。
すずは、天馬の部屋のベッドの上で、小さく息を止めた。
カーテンの隙間から、夏の午後の強い光が細く差し込んでいる。
まだ、外は明るい。
窓の向こうでは、どこか遠くで蝉がジリジリと鳴く音が聞こえる。
天馬の顔が、すぐ目の前にあった。
さっきまで、向かい合って笑いながらフルーツタルトを食べていたはずなのに。
今はもう、お互いの心臓の音しか聞こえないような気がする。
「すずが欲しい」
低く囁かれたその言葉に、すずの体が一気に内側から熱くなった。
けれど、その日の朝目覚めた時、
すずはまだ、今日がそんなことになるなんて
少しも知らなかったのだ。
■■■
誕生日は、うだるような暑さの夏休みの中に訪れた。
十八歳。
すずにとって、その数字は少しだけ不思議な響きを持っていた。
急に大人になったような。でも、中身は十七歳の昨日から何も変わっていないような、そわそわとした感覚。
朝、リビングへ行くと、母がソファに座っていた。
今日は体調がいい日らしかった。薄く化粧をして、髪もきれいに整えている。
テーブルの上には、淡い水色のリボンがかけられたギフトボックスが置かれていた。
「すず」
「なに?」
「誕生日、おめでとう」
母が、とても優しい顔で笑った。
その笑顔を見ただけで、すずは胸がいっぱいになった。
「ありがとう、ママ」
「開けてみ」
すずは、丁寧にリボンを解いた。
箱を開けた瞬間、ぱあっと顔を輝かせて息を飲む。
「え、かわいい!」
中には、神戸の女の子たちにお馴染みの『ファミリア』のグッズがいくつも入っていた。
今年度限定で発売された、大人用のバレエシューズ。
やわらかな色合いの、ファミリアブルーのステンレスボトル。
小さなポーチに、ハンカチ。
すずは、バレエシューズを両手で持ち上げた。
「かわいい! ママ、これ、すごくかわいい!」
「知ってる。すず、絶対好きやと思ったわ」
「好き! めちゃくちゃ好き!」
すずは、思わず弾んだ声を上げた。
母は少し得意げに、でもどこか眩しそうに目を細めて笑う。
「去年、ちゃんと祝えなかったからね」
去年の誕生日。母は病院のベッドにいた。
手術や検査が続き、誕生日どころではなかった。すずも、祝ってほしいなんてわがままは絶対に言えなかった。
「二年分ね」
母が、静かに言った。
「十七歳だったすずと、十八歳になったすずへ。おめでとう」
すずの目に、じわりと涙が滲んだ。
「ママ……」
「泣かんといて。せっかくかわいい靴なんやから」
「うん、ありがとう」
すずは、母の横に座って、そっと細い体に抱きついた。
「ありがとう、ママ」
母の体は、病気をする前よりずっと細かった。でも、すずの背中に回された腕の温もりは、昔から何も変わっていなかった。
「今日は、めいっぱい楽しんでおいで」
「うん」
「帰る時間は、ちゃんと連絡してな」
「うん」
母が笑い、すずも涙ぐんだまま笑った。
その少しあと、伯母の紗英もプレゼントをくれた。
「はい、これ」
紗英が渡してくれたのは、シックな小さな紙袋だった。
中には、新しいレザーのポシェットが入っていた。少し大人っぽい、落ち着いたキャメル色。でも、コロンとした丸い形が可愛らしくて、すずにぴったりだった。
「え、かわいい!」
「大学生になっても使えるやつにした。ちょっと背伸びしたデザインやけど」
「嬉しい! 大切にする」
「今日はそれ持って行きなよ」
「うん!」
ファミリアの新しいバレエシューズ。
紗英からもらったポシェット。
お気に入りの可愛いシャツワンピース。
玄関の鏡の前に立つと、少しだけ自分が違って見えた。
武庫之荘行きのバスに乗る。
窓の外を、ギラギラと照りつける夏の街が流れていく。
バスの揺れに合わせて、膝の上のポシェットが小さく揺れた。
新しい靴は、まだ足に馴染んでいなくて少しだけ硬い。でも、その硬さすら、今日という日の特別感を際立たせてくれて嬉しかった。
バス停に着くと、うだるような暑さの中、天馬がもう立って待っていた。
白いTシャツに、少しきれいめのネイビーのパンツ。
髪は軽くワックスで整えられている。
バスから降りたすずを見つけると、いつものように控えめに片手を上げた。
「おめでとう」
その第一声のシンプルな一言で、すずはふにゃりと笑ってしまった。
「ありがとう」
天馬は、すずの姿を頭の先から足元まで、じっと見つめた。
少しだけ目を細め、感嘆するように息を吐く。
「今日、すごく可愛い」
すずの顔が、夏の暑さとは違う理由でカッと熱くなる。
「ママと伯母さんがくれたの」
「似合ってる」
天馬は、少し間を置いて、もう一度念を押すように言った。
「全部、似合ってる。」
すずは、嬉しさと気恥ずかしさで、少しだけ俯いた。
天馬の家へ向かう道は、二人の距離が近いせいか、いつもよりドキドキして長く感じた。
部屋に入ると、すずは思わず目を丸くした。
きれいに片づいていた。普段から汚くはないけれど、今日は「チリ一つ落ちていない」と言ってもいいくらい、明らかに気合を入れて片づけられていた。
小さなローテーブルの上には、ケーキの箱。
小さな紙皿とフォーク。
冷えたペットボトルの紅茶。
そして、なぜか花屋で買ってきたらしい、小さなヒマワリとカスミソウが、ガラスのコップに挿して飾ってあった。
「……花」
「買った。花瓶ないからコップやけど」
「かわいい」
「よかった」
天馬は少しだけ照れたように、耳を赤くして目を逸らした。
ケーキは、すずのリクエスト通りのフルーツタルトだった。
何気なく言ったことを、ちゃんと覚えていてくれたのだ。
「おいしい!」
一口食べて、すずは幸せそうな声を上げた。
サクサクの香ばしいタルト生地。上品な甘さのクリーム。宝石みたいにキラキラ光る新鮮な果物。
天馬は、すずのその顔を見て、心の底からほっとしたように笑った。
「よかった」
「天馬くんも食べて」
「うん」
二人で笑い合った。
笑いながら、甘いタルトを食べた。
十八歳の誕生日。
去年は、母の病気のことばかり考えて、泣いてばかりいた。
だから、こうして涼しい部屋で美味しいケーキを食べて、好きな人に笑いかけてもらえることが、奇跡みたいに尊いことだと思えた。
ケーキを食べ終わったあと、天馬が急に姿勢を正し、真面目な顔をした。
「すず」
「うん?」
「誕生日プレゼント」
「え」
天馬は、少し緊張した面持ちで、後ろに隠していた小さな箱を差し出した。
淡い、ティファニーブルーの箱。
白いサテンのリボン。
すずは、それを見た瞬間、カチンと固まった。
「え」
「開けて」
「ちょ、ちょっと待って」
「うん」
「これ、あれだよね?」
「たぶん、すずが思ってるあれ」
「天馬くん!?」
「いいから、開けて」
すずは、震える手で白いリボンを解いた。
そっと箱を開ける。
中には、ダイヤモンドが一粒ついた銀色のネックレスが入っていた。
派手ではない、小ぶりで上品なデザイン。でも、部屋の光を受けると、控えめに、けれど確かな存在感できらりと輝いた。
すずは、しばらく言葉が出なかった。
彼が、毎日この暑い中、焼けるような太陽の下で必死に働いていることをすずは知っていた。それは生活のためであり、自分の学費のためであることを痛いくらいに知っているからこそ、このキラキラ光る宝石が、彼がいかに思いを込めて買ったのかが、すずには分かった。
「すず」
天馬は、静かに、でも力強い声で遮った。
「つけてもいい?」
すずは、答えられなかった。
答える前に、胸の奥がぎゅっと締め付けられて、涙が出そうになった。
でも、天馬は急がなかった。すずの心が追いつくまで、ちゃんと待ってくれた。
すずは、小さく頷いた。
「……うん」
天馬が、箱からネックレスをそっと手に取る。
すずは彼に背を向けた。邪魔にならないように、両手で髪を束ねてうなじを見せる。
首の後ろに、天馬の大きくて少し無骨な指が、そっと触れた。
それだけで、ビクンと心臓が大きく跳ねた。
小さな留め具が、かちりと留まる音がした。
すずは胸元を見下ろした。
華奢なシルバーのチェーンの先で、ダイヤモンドが小さく光っている。
「似合ってます」
天馬が背後から言った。
なぜか敬語だった。妙に真面目で、少しだけ震えているような、緊張している声。
すずは振り返った。
「ありがとう」
声が震えた。
「ありがとう、天馬くん」
天馬は、すずを真っ直ぐに見た。
その薄茶色の瞳は、いつもより少し深く、熱を帯びていた。
「俺は」
天馬は、言葉を探すように一度視線を落とし、またすずを見た。
「見た目もこんなで、外見だけで警戒されたり、信用されづらい風貌してるし」
「そんなことない」
「あるよ」
天馬は、自嘲気味に少し笑った。
「国籍のことも、家族がいないことも、金がないことも。普通の人より、面倒なことが多い」
「……」
「それでも、好きになってくれて、ほんまにありがと」
すずは、首を横に振りたかったが、言葉にならなかった。
「これは、俺の気持ちの証明」
天馬は、すずの胸元で光るネックレスを見た。
「天馬くん……」
「すずを、大事にしたい」
ぽろり、と涙がこぼれた。
すずは、泣き笑いのような顔になった。
「ありがと」
天馬が手を伸ばし、親指ですずの涙をそっと拭った。
その指の腹の少しざらついた感触が、たまらなく優しくて、また涙が溢れそうになる。
しばらく、二人は何も言わず、ただ見つめ合っていた。
やがて、すずは少し照れ隠しのように、明るい声を出そうとした。
「今日は、このあと何時まで大丈夫なの?」
「えっ?」
「どっか行く? 外は暑いけど、夕方になったらちょっとお散歩する? それとも、涼しいところで映画とか……」
すると、天馬の肩が、がくっと分かりやすく落ちた。
「え!?ど、どうしたの?」
「……今日は」
「うん」
「ずっと家で、…いちゃいちゃしたいです」
すずの思考が、ピタリと停止した。
「え」
天馬は、少し拗ねたような、でも真剣な顔ですずを見た。
「嫌?」
すずは、慌てて首を横に振った。
嫌ではない。嫌なはずがない。
でも、意味を理解した瞬間、足の先から頭のてっぺんまで、一気に血が上って沸騰したように体が熱くなった。
「いいいいい、嫌じゃ、ないけど、ああああのあのあのあの」
「怖い?」
「……ちょっと」
天馬は、深く頷いた。
「じゃあ、ゆっくりにする」
そう言って、天馬はすずに近づいた。
触れるだけの、優しいキスが降ってきた。
最初は、甘いキスだった。
さっき食べたケーキの味が少し残っている。
フルーツの甘さ。紅茶の香り。天馬の温かい息。
何度もしてきたはずのキスなのに、今日は何かが違った。
胸の奥の結び目が、とろとろとほどけていくようだった。
天馬の大きな手が、すずの肩に触れ、そのまま背中へと回る。
ふわりと、急に体が浮いた。
「わぁっ! なに?」
驚く暇もなく、すかさずまた唇を塞がれる。
子どもを抱っこするかのように、ひょいと抱き上げられながらキスをされて、すずは頭がくらくらと酸欠になりそうだった。
そのまま、数歩歩いて、そっとベッドへ導かれた。
押し倒される、というような乱暴なものではない。羽毛の中にゆっくりと沈み込むような、丁寧な扱いだった。
ベッドに寝転がったすずは、上に覆い被さる天馬の顔を見上げた。
近い。
近すぎる。
(こ、これは、もしかしてもしかしなくとも、天馬くん……そういう、ことやんね……?)
心臓が肋骨を突き破りそうなほど鳴っている。
でも、不思議と「怖い」という感情だけではなかった。
天馬は、すずの乱れた前髪を、指先でそっと撫でて避けた。
「触っても、いい?」
「ど、どこを?」
パニックのあまり素で聞き返してしまい、聞いた瞬間、自分で顔から火が出そうになった。
天馬も、一瞬だけ面食らって固まった。
「……聞き方が、悪かった」
「ううん、私の方こそ変なこと……」
天馬は、すずから少しだけ体を離した。
距離を取る。
そのことに、すずは少し息ができて安心した反面、どうしようもなく寂しくなった。
天馬は、今まで見たことがないくらい真剣な、切実な顔をしていた。
「も、もしかして今日……!?」
天馬は、すずの真っ赤な顔を見て、ふっと肩を揺らして笑った。
「うん、俺、今日……すずとしたい」
ドクン、と心臓が大きく跳ねた。
「俺は、すずが好きだから」
天馬の声は低く、そして彼自身も少し震えていた。
「すずと、もっと近くなりたい。心だけじゃなくて、全部。……ずっと、思ってた」
すずの喉から、言葉にならない変な声が出そうになった。
ううう、と胸の中で何かが鳴る。
恥ずかしい。
怖い。
でも、嫌じゃない。
嫌じゃないどころか、ずっと紳士的だった天馬が、本当はそんなふうに自分を求めてくれていたことが、胸の奥をたまらなく熱くした。
「う…うう…」
「はは、唸ってる」
「だって!」
「いいよ、考える?」
「わ、私、男の子の前で服、脱いだことない…」
「…」
「そ、それに、そういうこと自体したことないし、映画とかでもそういうベッドシーンあったら恥ずかしくて早送りして飛ばすタイプだから、どうするかも全然知らない!」
勢い余って早口で捲し立てると、天馬は目を丸くし、それから心の底から嬉しそうに目を細めた。
「…うん、もし誰かとしたことあったら、正直ちょっと悲しかったから……嬉しい」
「初めてすぎて、手順とかわかんないから無理! ちょっと一回スマホで検索させて欲しい!」
「え」
「は、初めて、手順、マナーとかで検索させて!」
「それは、この部屋に入る前に済ませて欲しかったわ」
「だって! すすすすすするとか、天馬くん事前に一言も言わなかったから!」
「……それは、たしかにごめん」
そんなコメディみたいな会話をしながらも、天馬の指先は、すずのシャツワンピースの小さなボタンを、首元から一つずつ、プチ、プチと外していった。
「ま! え! なっななにしてるんですか!?」
「はい?」
「なんで話しながら脱がすの!?」
「あかんかった?」
すずは、両手で顔を隠したまま、指の隙間から天馬を睨んだ。
「わ、私からは無理…。恥ずかしすぎて死んじゃう……」
そう言うや否や、天馬は自分の白いTシャツの裾を掴み、躊躇いなく一気に脱ぎ捨てた。
「これでいい?」
「……っ!」
すずは、露出した天馬の体から目が離せなくなった。
服を着ていると細身に見えるのに、脱ぐと広い肩幅、引き締まった腹筋、そして土建の現場で鍛え上げられた分厚い胸板が露わになった。腕や肩には、小さな擦り傷の痕もある。男らしい体だった。
「はは、見過ぎ」
「だって……あ」
すずは天馬の胸元に、自分のもらったネックレスと同じようなネックレスが光っていることに気づいた。
「あの、それ…」
「あ、あぁこれ」
天馬はネックレスを触った。
「これは、俺の母親の。俺の親父が、母親に好きだと伝えるときに贈ったもの」
「素敵」
「ふ、すずとお揃い」
すずは、そのネックレスを凝視した。
「でも今は、このことは考えやんとって。」
天馬はネックレスを外して、ベッドサイドに置いた。
再びすずに覆い被さり、耳元で低く囁いた。
「すず、もう待てない」
すずは、ぎゅっと目を瞑った。
「すずが、欲しい」
そして、小さく、でもはっきりと答えた。
「……うん」
「ほんまに?」
「うん」
「無理してない?」
「してない」
「痛かったり、怖くなったら、すぐ言って。絶対止めるから」
「うん」
「じゃあすずも脱いで」
「えっもう!?」
「うん、もう」
すずは、顔を隠したまま、震える声で言った。
「か、カーテン」
「え?」
「カーテン! 閉めてください!!」
「なんで?」
「なんでって……明るいから!」
天馬は少しだけ笑った。
「わかった」
彼が立ち上がり、窓際のカーテンをシャッと閉める。
部屋の中が、少し薄暗くなった。
それでも、完全な夜ではない。夏の午後の西日が、遮光カーテンの隙間からやわらかく漏れ入り、部屋の中にオレンジ色の線を引いている。
「電気も」
「消す」
天馬は言われた通りに、部屋の照明も全て落とした。
部屋は薄暗がりの中、しんと静かになった。
ジリジリという蝉の声だけが、遠くから膜を張ったように聞こえる。
ベッドがきしむ音と共に、天馬が戻ってくる。
すずは、自分の鎖骨の間に落ちたネックレスにそっと触れた。小さな銀色の光が、熱を持った肌の上でひんやりと冷たく揺れている。
天馬は、もう一度すずの前に手をつき、覗き込んだ。
「まだ明るい?」
「……明るいです」
「…これ以上は、無理です」
「え」
「すずの顔、ちゃんと見せてください」
すずの顔が、今までで一番熱く茹で上がった。
「はっ、恥ずかしいよ」
「少しでいいから」
「無理」
「俺に見られるの、嫌?」
「嫌じゃないけど、無理」
天馬は困ったように、でも愛おしそうに笑って、すずの手首をそっと掴んだ。
「じゃあ、目、合わせるだけ」
すずは、恐る恐る、顔を覆っていた手を下ろした。
天馬の目と、視線が絡んだ。
薄暗い中でもわかる、透き通るような薄茶色の、静かな目。
そこに映っているのは、間違いなく自分だった。
逃げたいくらい恥ずかしいのに、彼から目を逸らしたくなかった。
天馬が、そっとキスをした。
さっきより、ずっと深く。熱く。
でも、決して乱暴ではなかった。
すずの呼吸のペースを確かめるように。
怖くないか、何度も無言で問いかけるように。
唇から、火照った頬へ。
敏感な耳元へ。
そして、汗ばんだ首筋へ。
彼が唇を這わせるたび、すずは自分の体がドロドロに溶けて、少しずつ自分の知らない場所へ連れて行かれるのを感じた。
けれど、それは決して怖い場所ではなかった。
天馬の手は、進むたびに何度も止まった。
すずがこくりと頷くのを待った。
すずの息が少しでも乱れたり、肩がビクッと跳ねたりすると、すぐに顔を覗き込んだ。
「大丈夫?」
「うん」
「ほんまに?」
「うん」
その言葉を口にするたびに、すずは「少しずつ自分で選んで、彼を受け入れているのだ」と思った。
誰かの雰囲気に流されるのではなく。
ただ怖いから逃げるのでもなく。
いつの間にか、服は全てベッドの下に落ちていた。
すずの白い胸元には、ティファニーのネックレスだけが光を拾って輝いていた。
天馬が好きだから。
彼の大きな手に触れられるのが、たまらなく嬉しいから。
この人と、もっと深く、一つになりたいから。
すずは、自分から天馬の広い背中に腕を回し、しがみついた。
天馬の体が、余裕をなくしたようにビクリと大きく震えた。
「すず」
「うん」
「好き」
「私も」
「絶対、怖くしない」
「うん」
堰を切ったように、天馬が貪るようにキスをしてきた。
今まで抑え込んでいた情熱が溢れ出すような、深くて、甘くて、少しだけ強引なキス。
息が詰まりそうになりながら、すずは必死に彼にすがりついた。
重なる肌から伝わる熱。
天馬の掠れた声が、耳元で甘く溶けた。
「すずのことが、ほんまに好きや……」
夏の午後が、少しずつその輪郭をなくしていく。
カーテン越しに滲むオレンジ色の光。
遠ざかる蝉の声。
微かに残るケーキの甘い匂いと、天馬の汗の匂い。
が、しかし。
ここから先、何がどうなるのか。すずの頭の中は、漫画で少しみた知識(朝チュン)と現実のあまりの乖離に、真っ白な霧がかかったようだった。
「……っ!?」
「ごめんっ」
「え、なに?天馬くん、 どこか痛い?」
「いや、俺じゃなくて、すずが…てか、ここから、俺らがどう動くかとか、わかってる?」
「…ぜんぜん」
すずは、これ以上ないほど正直に答えた。 天馬は一瞬だけ表情を崩し、天を仰いで短く息を吐いた。それは呆れではなく、愛おしさと、自分自身の抑えきれない衝動との板挟みによる、苦笑に近いものだった。
「え、というかどう動くとは?」
「うーん…」
「……何かそう言う動画とか、本を見たことは、ある?」
「な、そんなもの見ません!」
「やんな。…興味とか、なかったの?」
「な、ないっていうか、機会がなかった…です。
天馬は、考えを巡らせた。
すずは一人っ子。
男兄弟もいなければ、そう言う機会もなかった。
動画も見たことがないのなら、知らなくて当然なのかもしれない…
「じゃあ、俺が教える」
「や、やっぱり一回検索してもいい?!教科書的なこと載ってるサイトとか見る!』
「ははっ」
すずのあまりの天然ボケな質問に、天馬は思わず噴き出した。
「教科書……はいらんな。俺が教えるから。実践的な授業だと思って。」
天馬は、すずの腰をしっかりと抱き寄せ、ゆっくりと、けれど確実な歩みで、未知の領域へと足を踏み入れようとした。 その瞬間、すずの体は驚きで硬直した。
「あ、待って! 天馬くん!? 何してんの!?」
「っ! ……何って、今から、だよ」
「えええええ!! まだっ心の準備が! 何か動いたよね今!? 何で動くの!?」
「…動くものなんです」
すずはバタバタジタバタし、天馬はすずの動きを封じないように、かつ自分の熱を抑えながら必死に宥める。
「……っ!すず、お願いだから落ち着いて。……っ、じっとしてて」
「だってだって、思ってたより、グイグイくるから!」
「そりゃそうやろ。……ふぅ、落ち着け(→俺)。……すず、大丈夫だから。」
天馬は、すずの額に自分の額をぴたりと押し当てた。
荒くなった吐息が混じり合う。
すずの目から、恐怖が少しずつ消えていく。天馬の真剣で、どこか必死な瞳が見えたからだ。
「……うん。」
すずが腹を括ると、天馬は再びゆっくりと、まるで壊れ物を扱うように、その先へと進んでいった。
何度も何度も「大丈夫?」「痛くない?」と確認する天馬。
そのたびに、すずは「だいじょぶ」と答える。
天馬は、すずの苦しげな顔を見て、たまらないと言うようにキスを降らせた。
そこからは、二人の間に流れる不器用なほどの愛情が、やがて呼吸を一つにさせていった。
――そして。
カーテンの隙間から漏れる光がオレンジ色に変わる頃。 部屋には、二人の甘い残り香と、静かな余韻だけが満ちていた。
「……終わった?」
シーツの中で、すずが力なく呟いた。 その声は、驚くほどかすれていた。
「……うん」
あれほど完璧に片づけられていた部屋は、今や二人の格闘の跡が至るところに残っている。
「……すごく、疲れた」
「……うん。俺も、正直……人生で一番、神経使った」
お互い、汗だくで、疲労困憊。
でも、すずの隣には天馬がいて、天馬の隣にはすずがいる。 初めての経験は、映画のようなドラマチックなものとは程遠かったけれど、二人の「初めて」としては、これ以上ないほどリアルで、忘れられない出来事になった。
すずは、力が入らない腕を伸ばして、隣にいる天馬の手をそっと握った。
「……ごめんね。へたっぴで。勉強するね?」
「……それは」
天馬はふっと小さく笑って、すずの額に優しくキスを落とした。
「……俺が一生かけて、教えたる」
そうして天馬はもう一度、すずにキスの雨を降らせた。
が、しかし。
「!?天馬くん!?何してるの!?」
「もう1回」
「えええっ!そんな何度もするものなの!?これって!!」
「すず、1回静かにして」
十八歳の夏は、まだ始まったばかりだった。
リアクションや、☆☆☆☆☆を★★★★★に変えていただけると、執筆の励みになります^^
感想、ご指摘、ブクマも大歓迎です!
毎日更新予定です。もう手元で完成したものを順番にアップしてます。
完結約束、ハッピーエンドです(^ ^)
よろしくお願いします!




