西倉天馬です
翌朝。
すずは、ベーカリーツバメの厨房の奥で、焼き上がった食パンを無心で袋に詰めていた。
ふわりと漂う、バターと小麦の甘い匂い。
まだ熱を持っているオーブンの温もり。
表の店舗から聞こえる、トングとトレーがカチャカチャと触れ合う音や、お客さんの弾むような声。
いつもなら、この空間にいるだけで少し元気になれる。冷えた心が、オーブンの熱と一緒にじんわりと温められる気がするのだ。
でも、今日ばかりは無理だった。
もう少しで上がりの時間。それなのに、昨夜の母の拒絶するような声と、自分の叫び声が頭の中で何度もループしている。
ずっしりと重いクリームパンのトレーを持ち上げようとした瞬間、視界が急に滲んだ。
ぽろっ。
トレーの端に、透明な雫が落ちた。
「あ」
すずは慌てて作業着の袖でゴシゴシと目を拭いた。
泣くつもりなんてなかった。バイト中に泣くなんて迷惑だ。ちゃんとしなきゃいけない。
そう自分に言い聞かせれば言い聞かせるほど、堰を切ったように涙は溢れて止まらなかった。
「すずちゃん?」
奥さんの真帆が、レジの方からひょっこりと顔を出した。ふっくらした優しげな頬に、小麦粉がちょこんとついている。
真帆は、すずの様子がおかしいことにすぐに気づいた。
「どうしたん?」
「な、なんでも、ないです」
すずは慌てて口角を上げようとした。
でも、頬の筋肉が引きつるだけで、うまく笑えなかった。瞬きをした途端、目からまた大粒の涙がぼろぼろとこぼれ落ちる。
「なんでもない顔、ちゃうなぁ」
真帆は眉を下げると、すずの手から重いトレーをそっと受け取った。
「ちょっと奥で座り。ちょうどもう上がりやんか。あとはやっとくから」
「でも、まだ片付けが……」
「ええから、ええから」
厨房の隅にある、休憩用の小さな丸椅子。そこに座らされた途端、張り詰めていた糸がプツンと切れた。
すずはもう、我慢できなかった。
両手で顔を覆い、ぽろぽろと泣いた。表にお客さんがいるからと、必死に声を殺そうとすればするほど、肩が小さく震えた。
「あんたー! ちょっとレジ変わって!」
真帆が声をかけると、奥から粉まみれの店長が出てきた。店長はすずの泣き顔を見ると、何も聞かずにこくんと力強く頷き、表へ出て行った。
いつの間にか、真帆が温かいムレスナティーと、売り物の割れてしまったクッキーを持ってきてくれた。キッチンの中にあるステンレスの作業台をテーブル代わりにして、二人で向かい合う。
「……お母さんと、喧嘩した?」
真帆の柔らかい声に、すずは涙でぐしゃぐしゃになった顔のまま、小さく頷いた。
「誕生日、天馬くんと過ごすって言ったら……」
「うん」
「天馬くんのこと、いろいろ言われてしまって」
「うん」
「国籍のこととか、家族がいないこととか、土建で働いてることとか……」
言葉にして外に出すと、昨夜の痛みが鮮明に蘇り、また胸がぎゅっと締め付けられた。
「天馬くんは悪くないのに。ずっと、ちゃんと一人で頑張って生きてるのに。私のことも、すごく大事にしてくれてるのに。なのに、ママが……全部、悪いことみたいに言って……」
言いながら、すずはまた泣きじゃくった。
真帆は、うんうんと頷きながら、少し困ったように眉を下げた。
「それは辛かったねぇ」
「はい……」
「自分の大切な人のこと、悪く言われるのって、自分が言われるより何倍もしんどいよね」
「しんどいです」
「しかも、天馬くんはすずちゃんが心から大事に思ってる子やもんね」
すずは、何度も何度も頷いた。
真帆は、すずが少し落ち着くまで待ち、それからゆっくりと口を開いた。
「でもね、すずちゃん」
「はい」
「親ってね、子どもが幸せになる時にも、どうしても怖がってしまう生き物なんよ」
すずは、赤くなった目を丸くして顔を上げた。
「幸せになるのに?」
「うん」
真帆は、手元のマグカップを包み込みながら、やさしく笑った。
「子どもが泣いてる時は、抱っこしてよしよししたらええ。熱出したら、病院連れて行ったらええ。お腹空いてたら、美味しいご飯作って出したらええ。親には『やれること』がいっぱいあるんよ。でもね、恋人ができた時って……親にはもう、その子の世界の『全部』は見えへんようになるんよ」
「……」
「その相手がどんな子なんか。悲しい時にどういう言葉をかけてくれるのか。手を繋ぐ時、ちゃんとすずちゃんのペースに合わせて優しいのか。暗い帰り道、危なくないように送ってくれるのか。すずちゃんにはちゃんと見えてることが、お母さんには、まっっったく見えてへんの」
すずは、白湯のように温かい紅茶の入ったマグカップを両手でぎゅっと包んだ。
「でも……あんな言い方、ひどいです」
「うん。ひどい言い方やったと思う」
真帆は、そこははっきりと肯定してくれた。
「言葉は間違えてる。親の不安を子どもにぶつけてるだけやからね。すずちゃんが怒ったのも、傷ついたのも、当然やと思う」
「はい」
「でも、お母さんの『不安』の根っこが全部間違いかっていうと、それも違うと思うんよ」
すずは、きゅっと唇を噛んだ。
「天馬くんは、ちゃんとしてます。絶対に、私を傷つけたりしない」
「うん。すずちゃんはよーく知ってる」
「はい」
「でも、お母さんは知らんのよ」
「……」
「『悪くないこと』と、『説明しなくていいこと』は、別やと思うよ」
その言葉が、すとん、とすずの胸の奥に落ちた。
「説明……」
「うん。天馬くんが本当にちゃんとしてるなら、すずちゃんがちゃんと説明してあげたらええ。お母さんも、頭が冷えて聞く準備ができたら、きっとわかってくれるよ」
「ほんとに、わかってくれますか?」
「ほんとに、って100%の保証はできへんけどね」
真帆は少し悪戯っぽく笑った。
「でも、逃げて扉を閉めたら、わかってもらう機会も、ゼロになるやろ?」
すずは、黙り込んだ。
昨日の夜、母の言葉から、そして母の不安から逃げた。
部屋に入って、鍵をかけて泣いた。
心配してLINEをくれた天馬にも、何も返事ができなかった。
逃げた。
たしかに、自分は逃げてしまった。
「天馬くんに……言わなきゃ」
すずは、マグカップを見つめながら小さく呟いた。
「言いたくないけど」
「うん」
「言ったら、天馬くんを傷つけるかもしれないから」
「うん」
「でも、言わない方が、もっと天馬くんに失礼ですよね」
真帆は、にっこりと目を細めて笑った。
「すずちゃん、えらいね」
「えらくないです。昨日、逃げたし」
「逃げた次の日に、ちゃんと向き合おうって戻ってこれたら、それはもう十分にえらいよ」
すずは、紅茶をゆっくりと一口飲んだ。
冷え切っていた体の芯が、少しだけ温かさを取り戻していくのを感じた。
■■■
チラチラ。
横から飛んでくる視線を感じながらも、天馬はあえて視線に気づかないふりをした。自分から言ってくるのを待つべきかと考えたのだ。
すずから見ると、天馬はいつも通りだった。
いつも通り、少し眠そうな長いまつ毛を伏せてノートを開き、佐伯先生の退屈な話を聞き、すずがうっかり消しゴムを落とすと、長い腕を伸ばして拾ってくれた。
いつも通り、穏やかで優しい。
だから余計に、母の言葉を伝えるのが怖かった。
休憩時間。
すずは意を決して隣の席に椅子を寄せ、天馬の横にくっつくように座った。
天馬は、すずの強張った顔を見て、ふうとため息をつくとすずの顔に顔を近づけた。
「いいいい、今キスしにきたんじゃ‥」
「…人を痴漢魔みたいに言わないでください。
「でででもち、近くないですか!?」
「昨日、何かあった?」
すずの心臓が、どくっと跳ねた。
「……うん。バレてた?」
「返事、変やった」
「返事、したっけ」
「『着いた』ってだけ来た」
「あ」
「いつもより、ずっと短い」
すずは、膝の上で自分の指先をきつく握った。
天馬は、周りに聞こえないよう、少しだけ声を落とした。
「……誕生日、止める?」
淡々と発せられたその一言に、すずの胸が激しく痛んだ。天馬がどれだけ気を遣って、身を引こうとしているかがわかったからだ。
「違う!」
思わず、教室のざわめきを切り裂くような大きな声が出た。クラスメイトが数人振り返ったが、気にしていられなかった。
すずは、天馬の膝をじっと見つめた。
天馬はそんなすずをじっと見つめた。
「止めたいんじゃない。行きたい。天馬くんの家で、誕生日祝ってもらいたい」
「うん」
「でも」
喉の奥が、きゅっと詰まった。
それでも、言わなければいけなかった。逃げないって決めたから。
「ママが……」
天馬の表情が、一瞬だけピタリと止まった。本当に、わずかな変化だった。
「ママが、何か、言うてるの?」
無表情に見えるかもしれない。でも、すずにはわかった。
天馬は、確実に傷ついていた。
「……そっか」
「違うの」
「うん」
「天馬くんが嫌とか、怖いとかじゃなくて」
「わかってる」
「本当に、そういうのじゃなくて」
「わかってる」
天馬は、いつもの低い落ち着いた声で言った。でも、その声は微かに硬く、不自然だった。
すずは、泣き出しそうになるのを必死に堪えた。
「昨日、ママと喧嘩したの。私、天馬くんのこと、ちゃんと家で話してなかったから。ずっと付き合ってることも、隠してたみたいになってて」
「うん」
「ママが急に聞いて心配するのも、わかる。でも、言い方が嫌で。国籍のこととか、家族がいないこととか、働いてることとか……そういうのを理由にして」
天馬の黒い瞳が、ほんの少しだけ揺れた。
「働いてること」
すずは、はっと口を押さえた。一番触れられたくない部分を突いてしまった気がした。
「ごめん」
「いや」
「ごめん、今の言い方」
「いい。事実やし」
天馬は視線を外し、窓の外の青空を見た。
しばらく、重い沈黙が落ちた。
すずは、その綺麗な横顔を見ていられなかった。
天馬はいつも、すずを家まで送ってくれた。バイトで遅くなれば、自分の家とは反対方向なのに、遠回りしてでも送ってくれた。
手を繋ぐ時は、歩幅の小さなすずに必ず合わせてくれた。
キスだって、すずが怖がらないか何度も確認してくれた。
『急がない』と、まるで自分に言い聞かせるように、いつも大切に扱ってくれた。
すずは知っている。天馬が、どれだけ自分を大事にしてくれていたか。
でも、それは母には一切伝わっていなかった。
天馬は、小さく息を吐いた。
「俺、自分では、ちゃんとしてきたつもりやった」
「うん」
「夜は送ったし。無理させてへんし。すずが嫌がること、絶対してないし」
「うん。してない。全然してないよ」
「でも、それでは……伝わってへんかったんやな」
すずは、何も言い返せなかった。
その通りだった。天馬の優しさと誠実さは、すずだけが知っている秘密の宝物みたいになっていた。母の目には、ニュースで見る「素性の知れない不良の外国人」という偏見のフィルターしかかかっていなかった。
「ごめん」
「すずが謝ることちゃう」
「でも……」
「俺が、ちゃんと見える形で、言葉で言ってへんかったんやと思う」
その時だった。
「せやな!言葉で言わなあかんのとちゃうか!」
ぬっと、前の席から大きな影が現れた。陸だった。
すずがビクッと肩を揺らして慌てる。
「き、聞いてたん!?」
陸は親指で自分の席を指差した。
「そら前の席やからな。丸聞こえや」
「さ、さっきまでいなかったやん!」
「まぁトイレなんかそんな何分もかからんからな。絶妙なタイミングで戻ってきた俺を褒めろ」
陸は悪びれもせず、天馬を見下ろした。
「俺、前にお前に言うたやろ。親に挨拶いるんちゃうかって」
「……言ってました」
「こういうことやろ。親からすりゃ、どこの馬の骨かわからんデカい男が大事な娘の横におるんや。ビビるのも無理ないわ」
天馬は、陸の目をじっと見た。
しばらく黙考し、そして、すっと顔を上げた。その目には、もう迷いはなかった。
「じゃあ、挨拶する」
「うん」
「今日行く」
「「「えっ」」」
すず、陸、そしていつの間にか集まっていた玲花の三人の声が見事に重なった。
「今日!?」
玲花が目をひん剥いて一番大きな声を出した。
「いや、心の準備とかあるやろ!」
「仕事休みなん、今日だけやし」
天馬は至極真面目な顔だった。
「来月まで待ったら、すずの誕生日終わる」
「いや、そうやけど! 物理的にはそうやけど!」
すずは完全にフリーズしていた。
「ママに、何も言ってない……」
「今からLINEして」
「今から!?」
「無理なら、玄関で頭だけ下げて帰る」
「それはそれで怖いから!」
玲花が、天馬の全身を上から下まで舐めるように見た。
「ちょっと待って」
「何」
「あんた、まさかその格好で行く気?」
天馬は自分の服を見下ろした。
洗いざらしの黒いTシャツ。少し色落ちしたデニム。履き潰したスニーカー。
いつも通りの、飾り気のないスタイルだった。
「だめ?」
「顔が良すぎる上に、服が作業着感ある。野性味が強すぎる。お母さんが余計ビビるわ」
「どうすれば」
玲花は、腕を組んで、すっと顎を上げた。その姿は完全に、戦の指揮を執る軍師だった。
「清潔感や。全パラメーターを清潔感に振るぞ。三宮のユニクロ行くで」
「ユニクロ」
「あと髪。ボサボサやん。ワックス」
「ワックス」
「手土産。親世代には絶対の信頼、百貨店」
「百貨店」
「オウム返しすな。行くで」
放課後。
玲花は、宣言通り完璧な軍師だった。
「まず服! 時間ないからサクサク行くでー!」
四人は三宮センター街へ向かった。
母に連絡はした。
【今日、天馬くんが挨拶に来たいって言ってる】
送信ボタンを押したあと、心臓が口から飛び出そうだった。
母からの返事は、永遠とも思える十分後に来た。
【わかった。待ってる】
感情の読めないその短い文字が、底知れず怖かった。
玲花はそんなすずの背中を、ポンと軽く叩いた。
「大丈夫。私が仕上げる」
「仕上げる?」
「天馬を」
「天馬くんを?」
「素材は一級品や。あとは好青年という皮を被せるだけや」
天馬は、されるがまま文句も言わずに玲花についていった。ユニクロに到着すると、玲花は迷わずメンズコーナーを突き進み、白いオックスフォードシャツと、ネイビーの感動パンツ、清潔感のある真っ白なスニーカーと黒いスニーカーソックスをカゴに放り込んだ。
「スーツのセットアップまではいらん。高校生やし、固すぎても逆に胡散臭い。清潔で、ちゃんとして見える『きれいめカジュアル』のテンプレや」
「はい」
「シャツはインしない。腕まくり禁止。威圧感出るから」
「腕まくり怖い?」
「あんたのその前腕の筋肉が主張すると、お母さんが『腕力で娘が…』ってなるやろが」
「……そうですか」
玲花のプロデュースは容赦なかった。
陸は横で腕を組みながら、感心したように見ている。
「似合うな」
「陸さんまで」
「いや、普通にめっちゃ似合う」
天馬が試着室のカーテンを開けて出てくると、すずは思わず息を止めた。
いつもの天馬なのに、雰囲気が全然違う。
パリッとした白いシャツが、彫りの深い顔立ちをより上品に引き立てている。ネイビーのパンツは細身で、彼の足の長さとスタイルの良さを際立たせていた。
髪はまだ整えていないのに、それだけで「きちんとした好青年」にしか見えなかった。
「……どう?」
天馬が少し照れくさそうにすずを見る。
薄い茶色の瞳と八重歯が、本当にかっこよく、それでいて可愛く思えた。
すずは、顔がカッと熱くなった。
「かっこいい」
玲花が満足げに頷く。
「はい合格。お買い上げ」
次に、地下のドラッグストアでヘアワックスを買った。
トイレ前の鏡で、玲花が天馬の髪をセットしようと手を伸ばすと、天馬はサッと身を躱した。
「触るな」
「何でやねん! セットしたる言うてんねん!」
「すずが嫌がったらどうすんねん」
「こんな緊急事態になんやねん! 腹立つ!」
結局、すずが恐る恐るワックスを指に取り、天馬の髪を整えることになった。
短めの黒髪を、少しだけ前髪を上げて額を出すようにセットする。すずの冷たい指先が額や耳元に触れるたび、天馬の耳がみるみる赤く染まっていく。
「動かないで」
「無理」
「なんで」
「すずが近い」
「今からママに挨拶行くんやよ? 気合い入れて!」
「だから余計、心臓が無理」
玲花が後ろで腕を組みながら白目を剥いた。
「はいはい、甘い甘い。バツイチの佐伯がここにいたら即死して灰になってるわ」
「先生を召喚しないで」
最後に、四人は神戸阪急のデパ地下へ向かった。
煌びやかなショーケースと、行き交うマダムたちの多さに、天馬は少しだけ圧倒され、身を縮めていた。
「何買えばいい……?」
「手土産は値段の高さちゃう。選ぶ側の『ちゃんと考えて選びました感』や」
玲花はショーケースを睨みつけながら真剣だった。
「すずのお母さん、今治療でしんどいんやろ。重いバターたっぷりの焼き菓子より、日持ちして、調子いい時にちょっとずつ食べられるもの。あと、箱を開けた時に気分が上がる、見た目が綺麗なやつ」
すずは驚いて玲花を見た。
いつも破天荒に見えるのに、玲花はこういう人の機微に触れる時、本当に繊細で頼りになる。
「これとかどうや」
玲花が指さしたのは、『アンテノール』の小さな焼き菓子の詰め合わせだった。
淡い上品な色の箱で、クッキーやフィナンシェが少しずつ入っている。重すぎず、でも百貨店らしい『きちんと感』があった。
天馬はすぐに頷いた。
「これにする」
「即決やな」
「俺、アンテノールの尼崎の工場で、冬休みに仕分けのバイトしたことあるねん」
「メイドイン尼崎のよしみかい!」
「それに……玲花がすずのお母さんのこと考えて選んだなら、絶対に大丈夫やろ」
天馬の真っ直ぐな言葉に、玲花は一瞬だけ虚を突かれたように照れ、ふいっとそっぽを向いた。
「……まぁな。私に任せとけ」
陸が横からぼそっと言う。
「お前、ほんま頼れる彼女やな」
「あったりまえやん」
玲花は得意げに微笑んだ。
天馬は、会計を済ませ、百貨店の紙袋を両手でしっかりと持った。
パリッとした白いシャツ。綺麗に整えられた髪。百貨店の紙袋。
完璧な好青年の出で立ち。
それでも、紙袋の持ち手を握る天馬の手には、土建の現場でできた小さな生傷やマメが残っている。
すずは、そのゴツゴツした手を見て、胸が少し苦しくなった。
その傷も、彼が一人で生きてきた証であり、天馬の一部だ。隠してほしいものなんかじゃない。誇らしいとすら思う。
けれど、母には、どうか偏見の目ではなく、怖がりの目ではなく、ちゃんと『天馬自身』を見てほしかった。
■■■
夜に近い夕方。
陸の車で送ってもらい、すずのマンションの下に到着した。
途中、眼鏡橋を渡るときに、すずはこれまでのことを思い出した。自分がどれだけ大切にしてもらってきたかを思い出し、胸がキュッとなった。これからも、二人で一緒にいたい。でも、ママは大事な家族だから。だから、今日はとても大切な日だ。
「ここからは、二人で行き」
エントランスの手前で、玲花が立ち止まって言った。
すずは振り返り、深く頷いた。
「ありがとう、二人とも」
「うん」
陸が、天馬の肩をポンと軽く叩く。
「いいか。言葉で言えよ」
「はい」
「難しいこと、綺麗事なんか言おうとせんでええ。ありのままや。」
天馬は、陸の目をまっすぐ見て頷いた。
「はい」
玲花が、すずに向かってバチコンと小さくウィンクした。
「大丈夫。素材は最高に仕上げたから」
「素材って……」
「行ってこい、バンビ!」
すずは、天馬と一緒にエレベーターに乗った。
ウィーンという静かな機械音とともに、上がっていく赤いデジタル数字。
密室の箱の中で、天馬は何度も紙袋を持ち直していた。
「……緊張してる?」
すずが小声で聞くと、天馬は即答した。
「してる。めちゃくちゃ」
「ごめん」
「なんで」
「私がちゃんと話してなかったから、こんなことになって……」
「違う」
天馬は、すずを見下ろした。
「俺が、すずの親に『ちゃんとすずを大事にします』って言う、大事な機会や」
チン、と音を立ててエレベーターが止まる。
静かな外廊下を歩く。
家のドアの前。
すずは鞄から鍵を出そうとして、指先が震えてうまく掴めなかった。
その時、ガチャリと内側からドアが開いた。
母が立っていた。
病気の治療のせいで体は細く、顔色も少し悪い。
けれど、髪は綺麗に梳かされていて、普段はつけない薄いピンクの口紅もつけていた。母なりに、客人を迎える覚悟を決めていたのだ。
すずにそっくりな少し丸い目で、天馬を見上げる。
天馬は、すっと一歩下がり、深いお辞儀をした。
「お久しぶりです」
声は少し硬かった。でも、腹の底から出る、はっきりとした声だった。
「すずさんとお付き合いさせてもらっています。西倉天馬です」
母は、何も言わなかった。
目の前に立つ、背が高く、清潔感のある青年の姿に、少しだけ息を飲んだように見えた。ニュースのステレオタイプとは全く違う姿に戸惑っているようだった。
天馬は、顔を上げ、続けた。
「今日は、急に押しかけてすみません」
両手で、手土産の紙袋を差し出す。
「これ、よかったら」
「あ……わざわざ、ありがとうございます」
母が受け取る。
そして、ふうっと小さくため息をついた。
そのため息に、すずの肩がビクッと強張る。拒絶されるんじゃないか。
けれど、母はすずを見た。
「すず」
「……はい」
「昨日は、ごめんなさい」
すずは、驚いて目を見開いた。
「ママ、あんたの大事な人のこと、ひどいこと言った」
母の声は、微かに震えていた。
「自分の知らないことを、全部悪いことみたいに決めつけて言った。本当にごめん」
「ママ……」
「でも、親として、娘が心配やったのも本当なんよ」
母は、改めて天馬の目をしっかりと見た。
「だから、あなた自身の口から、話を聞かせてください」
天馬は、まっすぐ見つめ返し、深く頷いた。
「はい」
リビングに通された。
母はソファに座り、すずはそのすぐ横に座る。
天馬は、対面の一人掛けのソファに、背筋をピンと伸ばして座った。浅く腰掛け、膝の上に両手を拳にして置いている。
すずは、その大きな拳が、微かに小刻みに震えていることに気づいた。
天馬は、深く息を吸い込んだ。
「国籍は、ネパールです」
隠すことなく、一番最初にそれを言った。母が少し目を上げる。
「でも、ネパールには行ったことはありません。血は、父がチベットで、母がイギリスと日本のハーフです。でも、日本で生まれて、ずっと日本で生きてきました」
天馬の声は、淡々としていた。感情的にならず、ひとつひとつの言葉をテーブルの上に置くように、丁寧に話していた。
「母は数年前に亡くなりました。父は仕事で、日本にはほとんどいません。なので、今は一人で生活しています」
すずは、天馬の横顔を見た。
何度も聞いた話だ。でも、母の前で、彼が自分の孤独な境遇を改めて語るのを聞くと、胸が締め付けられるように痛かった。
「でも、生活はできています。母が残してくれたマンションに住んでます。生活費も学費も、自分で働いて稼いでいます。学校にも、休まず通っています」
天馬は、膝の上の拳を、少しだけ強く握り込んだ。
「……働いているのは、大学に行くためです」
母の顔が、はっきりと罪悪感で歪んだ。
昨日、自分が「学校にも行かずに土建で働いている」と決めつけて吐き捨てた言葉を思い出し、自分自身を恥じている顔だった。
「大学に進学して、教員免許を目指しています。小学校と、中学高校の英語の免許を取りたいと思っています」
「先生に……?」
母が、思わずといったふうに聞いた。
「はい」
「どうして?」
天馬は少し考え、ゆっくりと答えた。
「俺みたいに、見た目もルーツも複雑な子が、日本の学校にいていいって、安心して思える先生になりたいからです。……あと、普通に公務員で安定しているから、というのもあります」
その率直で現実的な言葉に、すずの喉が熱くなった。
母も、黙って聞き入っていた。
「俺は、お金持ちではありません。親に頼ることも、普通の人よりできません」
天馬は、母の目を真っ直ぐに射抜いた。
「でも、だからといって、すずさんに何かを背負わせるつもりは、一切ありません」
母の指が、膝の上でピクリと動いた。
「すずさんは、俺のことを精神的にたくさん助けてくれています。でも、俺の人生の重さを、すずさんに背負わせたいわけじゃありません。俺は俺の足で立ちます」
「……」
「昨日、心配されたと聞きました」
すずが小さく息を呑む。
天馬は、すずを責めるような顔はしなかった。
「俺がすずさんを家に呼ぶことで、お母さんを不安にさせたなら、本当にすみません」
「天馬くん……」
「でも」
天馬は、少しだけ声を強くした。
「すずさんを、大事にしていないわけではありません。遊びじゃありません」
リビングが、シンと静まり返る。エアコンの音だけが聞こえる。
「俺は、すずさんを必ず家まで送ります。遅くなったら、絶対に一人で帰しません。すずさんが嫌がることはしません。勝手に急がせません。何かするときは、ちゃんとすずさんに聞きます」
すずの顔が、一気に沸騰したように熱くなった。
母の前で宣言されると、ものすごく恥ずかしい。
でも、天馬の目は真剣そのものだった。
「でも、もしそれでもお母さんが不安なら、誕生日は一緒に過ごしません。それか、外の明るい場所で会います」
「……」
「すずさんと、お母さんが嫌な思いをしてまで、自分の我儘を通すつもりはありません。お母さんが嫌なら、やめます」
それは、「逃げない」という彼なりの最大の誠意だった。
母は、しばらくの間、天馬の顔をじっと見つめていた。
長い、長い沈黙だった。
すずは、息をするのも忘れるくらい緊張していた。
やがて母は、強張っていた肩を落とし、小さく息を吐いた。
「……逃げずに、勇気出してここへ来てくれて、ありがとう」
天馬の肩の力が、ほんの少しだけ緩んだ。
「昨日は、本当にごめんなさい」
母は、天馬に向かって、深く頭を下げた。
「知らないことを、ニュースのイメージだけで怖がりすぎました。一人で一生懸命働いてることも、悪いことみたいに言ってしまった。ごめんなさい」
「いえ……頭を上げてください」
「でも、すずのことが心配なのは、本当なんです」
「はい」
「すずは、優しい子です。自分より人のことを先に考えてしまう子です」
母は、隣に座るすずの頭を、愛おしそうに見た。
「だから、誰かの人生の苦労まで、自分がなんとかしなきゃって抱え込みそうで、それが親として怖いんです」
「はい」
「あなたが悪いと言いたいんじゃなくて、すずが無理をして壊れてしまうのが、怖い」
天馬は、その親心を受け止めるように、まっすぐ頷いた。
「俺も、すずさんが無理するのは嫌です。すずさんには、笑っててほしいです」
母は少しだけ目を細めた。
その目が、すずに本当によく似ていた。
「すずと、これからも仲良くしてあげてね」
その言葉は、確かな許しだった。
天馬は、弾かれたように背筋を伸ばした。
「はい!!」
声が、部屋中に響くくらい大きかった。
すずがびくっと肩を跳ねさせる。
母も目を丸くして、少し驚いた顔をした。
天馬は、自分が大きすぎる声を出したことに気づき、すぐに耳まで真っ赤にした。
「……すみません、声デカくて」
母が、こらえきれずにふっと笑った。
「ふふっ。元気やね」
「はい……」
「そこは、小声で『はい』なんやね」
張り詰めていた空気が緩み、すずもようやく、心から安堵して笑えた。
母はテーブルの上の、アンテノールの箱を見た。
「せっかくやし、お茶入れようか。天馬くんも、時間大丈夫?」
「ママ、大丈夫? 無理しないで」
「大丈夫よ。今日は調子いいし」
母が立ち上がろうとすると、天馬も反射的にバッと立ち上がった。
「俺、やります」
「えっ? いや、キッチンの場所も勝手も知らんやろ」
「すずに聞けばできます」
母は、ますます驚いて、それから本当に可笑しそうに笑った。
「ほんまに元気で、まっすぐな子やね」
すずは、胸の奥の固い結び目が、少しずつほどけていくのを感じた。
全部が今日一日で解決したわけではない。
母の心配性が完全に消えたわけでもないし、天馬の現実が急に軽くなったわけでもない。
でも、言葉にした。
逃げずに向き合った。
天馬は、自分の足で立ち、自分の名前で、自分の人生を証明してくれた。
その日の帰り。
夜の風が心地よくなった頃、マンションのエントランスまで、すずは天馬を見送りに降りた。
「今日は、本当にありがとう」
すずが言うと、天馬は首を横に振った。
「俺が、ちゃんと自分の口で言わなあかんことやった」
「でも……ママの言葉、傷ついたよね」
「少し」
天馬は誤魔化さず、正直に言った。
すずの胸がチクリと痛む。
「ごめんね」
「でも、言ってくれてよかった」
「ほんと?」
「うん」
天馬は、すずを見下ろした。
「俺のこと、誤解されたまま、知らん顔して笑われる方が、ずっと嫌やった。……親に認めてもらえんのは、キツい」
すずは、きゅっと唇を噛んだ。天馬の真摯さに、どう報いればいいのかわからなかった。
「……誕生日」
「うん」
「どうする?」
天馬は、すずの意思を尊重するように、静かに聞いた。
すずは少しだけ考えた。
それから、しっかりと顔を上げて微笑んだ。
「行きたい」
「うち?」
「うん」
「ほんまに?」
「うん。ママにも、今日ちゃんと話したから。もうコソコソしない」
天馬は、少しだけ目を細め、声のトーンを落とした。
「ケーキ、何がいい?」
すずはふふっと笑った。
「全部」
「全部は無理。破産する」
「じゃあ……フルーツタルトがいいな」
「了解」
天馬は、白い歯と八重歯を見せて、年相応のふにゃりとした笑顔を見せた。
すずは、その無防備な顔がたまらなく愛おしくて、思わず少しだけ背伸びをした。
でも、キスはしなかった。
ここはマンションの入口だから。
もしかしたら、上の階から母が心配して見下ろしているかもしれないから。
代わりに、天馬の少しごつごつした大きな手を、両手でぎゅっと握った。
「天馬くん」
「何」
「私、ちゃんと話すね。これからは、ママにも、天馬くんにも」
「うん」
「もう、一人で抱え込んで隠さない」
「俺も」
天馬の手は、とても温かかった。
現場でできた小さな傷や、固くなった皮膚がある。
でも、その手はすずを一度だって怖がらせたことがない。いつだって、一番優しい手だ。
すずは、その手をもう一度、少し強く握った。
夏の夜の生暖かい空気が、マンションの植え込みの葉を揺らしている。
まだ、この先どうなるか、未来は何も決まっていない。
それでも、今日はたしかに、二人で一歩だけ前に進んだ。
すずは、繋いだ手の温もりを感じながら、心からそう思った。
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