夏がやってくる。
七月の教室に、玲花が静々と入ってきた。
本当に、静々と。
扉を開ける音まで、いつもより数段、上品だった。
「おはようございます」
その声を聞いた瞬間、教室中が振り返った。
すずも、天馬も、陸も、佐伯先生までもが、一斉に動きを止める。
そこに立っていたのは、たしかに白玲花だった。
でも、いつもの玲花ではなかった。
セクシーなワンレンだった髪は、眉の上でぱつんと整えられている。
いわゆる、オンザ眉毛。
長い髪は、左右にゆるく三つ編みにされていた。
化粧はしていない。
リップも、アイラインも、キラキラしたハイライトもない。
それなのに、肌は白く透き通って見えて、目元はむしろ今までよりもはっきりしていた。
清潔な水色のシャツ。
白い膝丈のスカート。
足元だけは、なぜか親の仇のように高いヒール。
そこだけは間違いなく玲花だった。
でも、全体から受ける印象は――。
『清楚』。
その二文字が、教室中の頭の上にホログラムのように浮かんでいた。
近くにいた外国ルーツの男子たちが、思わず顔を赤くしてパッと視線を逸らす。
「え」
すずは、ぽかんと口を開けた。
「玲花ちゃん……?」
玲花は、すっと顎を上げた。
「わたくし、出家いたしました」
「いや、どこの宗派やねん!」
陸が光の速さで突っ込んだ。
「キリスト系の施設に入ったからって、出家って単語はおかしいやろ! どっちかっていうとアーメンの方や!」
「俗世を離れました」
「ゴリゴリに格安私立高校来とるやないか」
「心が」
「Wi-Fi環境みたいに言うな」
天馬が低く、しかし的確に刺す。
「足元は俗世の欲望ど真ん中やん」
玲花は、カツンと高いヒールを鳴らして足元を見下ろした。
「これは、私の信仰」
「何教や」
「脚長教」
「入信条件が物理的すぎるやろ」
教室にどっと笑いが起きた。
玲花はツンと澄ました顔をしていた。
けれど、すずにはわかった。
少しだけ、雰囲気が変わった。
派手さが消えたからではない。玲花の中に、何か新しい柔らかさが増えた気がした。
前よりも、無理に明るく振る舞っていない。
それなのに、前より少し優しく見える。
「バンビ」
玲花が、すずに向かって歩いてきた。
「おはよ」
その一言で、すずの顔がぱっと明るくなった。
「おはよ!」
すずの今日の服も可愛らしかった。
夏らしい淡い黄色のワンピース。襟元には小さな白いレース。
髪は高めに結ばれていて、耳元で細い後れ毛が揺れている。
玲花が目を細める。
「今日のバンビ、めちゃ可愛い」
「ほんと?」
「うん。ひよこT卒業してる」
「ひよこTも可愛いよ?」
「あれは愛嬌。これは可愛い」
「えへへ」
すずが笑う。玲花も、ほんの少し笑う。
そして肩を寄せ合って、微笑みあった。
その二人を、隣の男子二名が仏像のような顔で見守っていた。
「あー、可愛い」
陸がぼそっと言った。
「あー、可愛い」
天馬も低く同意した。
「あんたら声に出てるで」
玲花がジト目で言うと、陸は真顔で答えた。
「出してる。朝から女子を褒めることは、健康にいい」
「何その謎理論」
佐伯先生が教卓でパンパンと手を叩いた。
「はいこんにちはー! 朝から教室の糖度が高い! バツイチの胃にはきつい!」
「先生、まだ何もしてません」
すずが慌てて言う。
「存在が甘いねん! はい着席! 夏休み前やぞ、お前ら浮かれてる場合ちゃうからなー!」
夏休み。
その言葉に、すずは少しだけ胸が弾んだ。
もうすぐ、また夏が来る。
去年の夏とは違う。母の手術があり、淡路島へ行き、玲花が倒れ、天馬と恋人になった夏。
いろんなことがありすぎた。
今年は、少しだけ穏やかに過ごせるのだろうか。
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休み時間。
四人はいつものように机を寄せていた。
玲花は、施設にいる職員のお姉さんが作ってくれたという、小さなお弁当を開けていた。
施設では三食出るけれど、学校の日はこうしてお弁当を持たせてくれるらしい。
白いご飯。卵焼き。ブロッコリー。小さなハンバーグ。
「すごい。ちゃんとしてる」
すずが言うと、玲花は少し複雑そうな顔をした。
「うん。栄養士さんの本気が見えるねん」
「おいしい?」
「おいしい」
「よかった」
「よかったけど……なんかムカつく」
「なんで?」
「今までの私の『主食・袋ラーメン、副菜・もやし』生活は何やってん、ってなる。私の胃袋が正論で殴られてる」
陸がすかさずドヤ顔で言う。
「だから俺が何回も『ちゃんと食え』言うたやろが」
「はいはい、お父さん」
「誰がお父さんや。お前の食費まで持ったら俺の小遣い消滅するわ」
玲花は、卵焼きを一口食べた。
「……うま」
その小さな声に、すずは少し泣きそうになった。
泣きそうになったのがばれたのか、玲花がすぐに睨む。
「泣くなよ」
「泣いてない」
「目が水分」
「水分って何」
玲花はふっと笑った。
それから、急に明るい声を出した。
「で、夏休みどうする? どこか行く?」
すずは顔を上げた。
「行きたい!」
「やんな。海? 山? 都会? 映えスポット?」
「でも、玲花ちゃん、外出できるの?」
「それがなー」
玲花は箸をくるくる回した。
「外出許可がいる。あと、お小遣いが月一万円まで」
「一万円」
「ちゃんと管理される。めっちゃ管理される。私の浪費癖、マジで一ミリも信じてもらえてない」
「浪費してたん?」
「してた」
「じゃあ正しいね」
「バンビが笑顔で正論のナイフ刺してくる」
玲花は大げさに胸を押さえた。
「バイトは?」
天馬が聞く。
「八月から再開できるって。ユキさんも待ってくれてる。……店長、泣いてた。パートのおばちゃんも泣いてた。私、どんだけ愛されてたんやって思った」
「愛されてるよ」
すずが言うと、玲花は一瞬だけ目を逸らした。
「……そういうの、まだ慣れへん」
その言葉が、少しだけ胸に残った。
夏休みは、それぞれの現実の始まりでもあった。
天馬は大学の資金を貯めるためにかなり仕事を入れる予定で、陸も主任として現場が詰まっている。
すずは塾に通い始め、入試の方式選びに追われていた。
それでも。
「一日くらい、どこか行きたいね」
すずが提案し、奈良の吉野の方にある、蕎麦屋の裏の川沿いへ行く計画が持ち上がった。
「車で行けると思う。電車でも行けるけど、車の方が楽かも」
「俺、空けられる日見とく」
陸の言葉に、玲花も手を挙げた。
「外出許可、私も取る」
「修道院から?」
「聖ミカエルこどもの家や! 修道院ちゃうわ!」
「出家したって自分で言うたやん」
「設定は流動的やねん」
奈良。
少し前までは、帰りたい場所だった。今は、今の友達を連れて行きたい場所になっている。
それは、少し怖くて、でも嬉しいことだった。
---
放課後。
教室を出る時、すずはふと足を止めた。
廊下で、陸と玲花が当然のように手を繋いでいたからだ。
陸の大きな手に、玲花の細い手が収まっている。
しかも、二人ともあまりにも自然だった。
「え」
すずは思わず声を出した。
「手」
「手?」
玲花は、自分と陸の繋いだ手を見た。陸も見る。
「え、いつから?」
すずの声が裏返った。天馬も横で少しだけ眉を上げる。
「報告、受けてない」
「いや、あの」
玲花は急に早口になった。
「スマホ使用制限があるから、すずに連絡するのなかなかできなかったんよ! そういうことだから!」
言いながら、玲花はすずに向かってバチコンとウィンクした。
「そういうことって、どういうこと!?」
「そういうことはそういうこと! 詳細はまた今度!」
「今!」
「今は無理! 見てみ、陸が茹でダコみたいに顔真っ赤やから!」
見ると、陸は本当に沸点突破の真っ赤だった。
「見るな」
「見ます」
「見るな」
天馬がぼそっと、これ以上ないほど平坦な声で言う。
「よかったですね、陸さん。ついに春が来ましたね」
「お前に言われるとなんか腹立つ」
すずは嬉しくて、泣きそうになった。
ふと、天馬がすずの横に立ち、何も言わずに手を差し出した。
すずは少し照れて、その手を取った。
天馬の手は相変わらず大きくて温かい。
四人で廊下を歩く。
前を行く陸と玲花。少し後ろを歩くすずと天馬。
そこへ、職員室から出てきた佐伯先生が目撃した。
「おいおいおいおい! バツイチの前でやめろー! 手ぇ繋いで廊下を歩くなー! 眩しい! 目が焼ける!」
平和な放課後だった。
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帰りの電車。
すずと天馬は、並んで座っていた。
「すず」
「うん?」
「誕生日」
「うん」
「うちで祝おう」
すずは、ぱっと顔を上げた。
「天馬くんの家? いいの?」
「いい。ケーキ買う。昼間。俺、仕事休み取る」
「嬉しい」
すずは心から笑った。
その笑顔を見て、天馬の胸がぎゅっとなる。
嬉しい。でも、同時に少しだけ不安だった。
自分の家に二人きり。ちゃんとしたい。怖がらせたくない。でも、大事にしたい。
天馬は窓の外を見た。心の中で、いつもの呪文を唱える。
急がない。急がない。急がない。
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その日の夜。
すずは、夕食のあと、母に言った。
「ママー?」
「んー?」
母はソファでクッションを抱えながら、録画していたドラマをぼんやり見ていた。
治療の副作用で疲れやすいが、今日は少し顔色がよかった。
「私の誕生日なんだけど、天馬くんと過ごすことになった」
母の手が、リモコンの上で止まった。
「天馬くん? ……あの、背の高い子?」
「うん」
「え? あの、外人の子?」
すずの胸が、ちくりとした。
「外人って言わないで」
「あ、ごめん。そういうつもりじゃなくて」
母は慌てたように言った。
「え、でも、付き合ってるとかじゃないよな?」
「……付き合ってる。去年の九月くらいから」
「去年!?」
母が体を起こした。
「何あんた。冗談やろ?」
「え?」
「なんで言わへんの!?」
「ママ入院とか手術とかあったし、タイミングが……」
「それとこれとは別やろ! どこで過ごすの」
「天馬くんの家」
母の顔色が変わった。
「家? 昼間だよ。ケーキ食べるだけ」
「ケーキ食べるだけって、男の子の家で?」
「天馬くんは、そういう人じゃない」
「そういう人じゃないって、あんたがそう思ってるだけちゃうん!」
母の声が少し大きくなった。
「あんたニュース見てる? 日本にきた外人の男に、女子高生がイタズラされて捕まってんねんで!?」
「え、ええ?」
すずは息を呑んだ。
震える声で、なんとか返事をした。
「そ、その人と、天馬くんは、全く違う人やんかっ」
「その子は学校も行かんと土建で働いてんねやろ!? 親が不安になるんは当たり前やん!!」
言ってから、母の顔がわずかに歪んだ。
自分でも、ひどい言い方をしたとわかったのだと思う。
でも、一度出た言葉は戻らなかった。
その言葉は、刃物のようにすずの胸に刺さった。
悲しみより先に、激しい怒りが湧き上がった。
「て、天馬くんはずっと日本に住んでて、ちゃんと学校もきてるし働いてる!」
すずは思わず立ち上がり、言い返した。
「マ、ママの言うてることは!さ、さ、差別や!!」
「あ、あんた!何いてるの!?差別じゃない!娘にちゃんとした人と付き合ってほしいだけやんか!」
「天馬くんはちゃんとしてる!」
「ちゃんとしてるかどうかは、すずが好きやからそう見えてるだけかもしれへんやん!」
「そんな言い方しないで!」
「ママは、すずが誰かの人生を背負いすぎるのが怖いの!」
「天馬くんは背負わせる人じゃない!」
「それは、会ってないからわからへんやん!」
母の目にも涙が滲んでいた。
「ママは、すずの好きな人を疑いたいんじゃない。すずが大事やから聞いてるだけやんか! なんでママの不安に答えてくれへんの!? ママはわからんから聞いてるだけ!!!」
「〜〜〜!! もういい!! もういい!!! やめて!!!」
すずは叫んでしまった。
自分でも驚くくらい、大きな声だった。
母が、はっと息を飲む。
リビングに沈黙が落ちる。
「もう、いい」
すずは自分の部屋へ逃げるように入った。
ドアを閉めた瞬間、胸が苦しくなった。
母の不安もわかる。親心だということも。
でも、天馬を疑われるのは嫌だった。
天馬の国籍も、家族がいないことも、土建で働いていることも。
全部が偏見のフィルターを通されて、天馬の弱点みたいに言われるのが耐えられなかった。
すずはベッドに座り込んだ。
スマホが光る。天馬からだった。
【tenma:着いた?】
すずは画面を見つめた。
返事を打とうとして、指が止まる。
母には言えなかった。天馬にも、言えない。
リビングの向こうから、母の苦しげな咳が聞こえた。
すずは、スマホを握りしめたまま、声を殺して泣いた。
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毎日更新予定です。完結約束、ハッピーエンドです(^ ^)
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