ありがチュ。や!〜愛してる。心から。〜
「え、今日、家を出る?」
玲花は、声を失った。
「今日です。今日あなたたちを保護します」
木村さんの声は静かだった。
玲花が黒い車に乗せられそうになった日。
そのまま、すべてが急に動いた。
学校の保健室で泣き崩れたあと、木村さんと佐伯先生と神戸市の人たちが次々に話し合い、玲花と弟たちは、その日のうちに一時保護されることになったのだ。
時計はまだ、午後16時。
木村は玲花の家で、倒れ込んでしゃべれない母親と意思疎通するのを早々に諦めた。
そして部屋を見ないようにしながら、玲花と向き合った。
そして、すずに外で待っておくように伝えると、玲花の体を確認した。
玲花は、震えながら服を脱いだ。
長い髪は美しい。
でも、浮き上がる肋の骨、その上に青く残るあとが痛々しい。
それを見て、決意するかのように立ち上がると、どこかへ電話をしに行き、そして戻ってきた。
淡々と、それでいて優しく、言葉を紡ぐ。
「今夜、あなたたちだけで家に帰すことはできません」
「で、でも明日もバイトが」
「こちらから連絡します」
「ヨンチョリは?」
「すでに小学校へ連絡して、迎えをやっています」
「ヒョンジンらは?」
「学校と連携します」
「おんまは?」
その問いだけ、声が小さくなった。
木村さんは、すぐには答えなかった。
「お母さんについても、医療と福祉につなぎます。今は、まず玲花さんたちの安全を確保します」
安全。
その言葉が、玲花には変に聞こえた。
あの家は、苦しかった。
しんどかった。
怖い時もあった。
でも、家だった。
ヨンチョリのゲームの音がして、ヒョンジンが文句を言いながら鍋を洗って、袋ラーメンを分け合って、母が奥の部屋で怒鳴っている。
それでも、家だった。
なのに、今日は帰れない。
「スマホは一時保護中、基本的に預かります」
「え」
その瞬間、玲花の顔が強張った。
「待って。スマホないと困る。弟らと連絡できへんし、陸にも、バンビにも」
「必要な連絡は、職員を通してできます」
「いや、そういうことじゃなくて」
「玲花さん」
木村さんは、玲花の目を見た。
「今は、外との連絡を整理することも含めて、あなたを守る時間です」
守る。
それなのに、奪われるみたいだった。
スマホを預ける時、玲花は手が震えた。
最後に画面を見た。
陸からの通知。
【病院行った。たいしたことない】
【玲花、今どこや】
【返事できる時でええ】
返信したかった。
したいのに、できなかった。
職員の人が、やさしい声で言う。
「大丈夫です。三日後に、今後の話し合いがあります」
三日後。
そんなに長い時間、何も言えないのか。
玲花は、スマホを預けた。
指先から、自分と世界をつないでいた細い線が、ぷつんと切れた気がした。
玲花はすずを見つめた。
すずはコクンと頷き、二人は固く抱き合った。
「すず、ありがとう。ひどいこと言って、ごめん」
すずは言葉が出なかった。
「陸たちに、私は大丈夫っていうといて」
すずは何度も頷いた。
そしてすずは、出発する車を見送った。
その夜から三日間。
玲花は音信不通になった。
事件があった翌日。
陸は、ずっと職員室の前にいたらしい。
佐伯先生が何度も帰れと言っても、動かなかった。
「松本、今日はもう動けん」
「どこにおるんですか」
「言えへん」
「なんでですか」
「守るためや」
「守るために居場所も言えへんって何ですか」
「わかる」
佐伯先生は、怒らなかった。
「お前が不安なんは、わかる」
「わかるなら」
「でも、大人に任せてくれ」
陸は、黙った。
黙ったまま、拳を握っていた。
「俺は、施設も一時保護も、簡単に信じられません」
「知ってる」
「ああいう場所で、何が起こるか、俺は知ってます」
「知ってる」
「だから」
「だからこそ、今回は見守る側でいてくれ」
佐伯先生は、陸の肩に手を置いた。
「お前が今、怒りで突っ込んだら、話がややこしなる。白たちにとって一番いい道を作るには、今は専門の大人に動かせる時間がいる」
「……」
「三日後、話し合いがある。そこで会える」
「ほんまに?」
「ほんまに」
「先生、嘘ついたら一生恨みます」
「怖いわ」
佐伯先生は苦笑した。
「でも、嘘はつかん」
そして、三日後。
神戸市こども家庭センター。
兵庫区上庄通。
和田岬に近いその場所は、三宮の学校とも、西宮のすずの家とも、尼崎の陸の生活圏とも違う空気がした。
車を降りると、どこかに潮の匂いが混じっていた。
ヨンチョリと手を繋いで、歩く。
上の三人はどこか飄々として見えて、状況をわかっているのかいないのか、よくわからない表情をしていた。
すぐそこに海が見えるわけではない。
けれど、低い建物の向こうに、港のクレーンの影が少し見えた。
曇った空の下、遠くの方で、瀬戸内海の水面が白く光っているような気がした。
玲花は、施設の職員に付き添われて、会議室へ向かった。
廊下の窓から、外を見た。
道路。
低い建物。
玲花は、港の方へ続く空を眺めた。
会議室の外のベンチに、陸、すず、天馬が並んで座っていた。
玲花は、足を止めた。
陸も、気づいて立ち上がる。
三日ぶりだった。
たった三日。
でも、玲花には一ヶ月くらい長かった。
「玲花!」
陸の声を聞いた瞬間、玲花の胸がぎゅっと潰れた。
「陸」
次の瞬間、玲花は走っていた。
会議室の前だとか、職員が見ているとか、佐伯先生が近くにいるとか、そんなことはどうでもよかった。
陸に飛びついた。
陸は一瞬驚いたが、すぐに抱き止めた。
「おっと」
「不安で死ぬ!」
玲花は、陸の胸元に顔を押しつけて叫んだ。
「スマホ取られるし! どこにおるか言われへんし! 陸にも連絡できへんし! バンビにも言えへんし! 不安で死ぬかと思った!」
「死んでへん」
「そういう返し要らん!」
「ごめん」
「心配した?」
「した」
「めっちゃ?」
「めっちゃ」
「どれくらい?」
「仕事の段取り三回間違えた」
「それは怒られろ」
「怒られた」
玲花は、陸のシャツを握りしめたまま、泣きながら笑った。
陸の脇腹の痣はまだ痛そうだった。
頬の傷も、完全には消えていない。
「怪我」
「治ってきた」
「ごめん」
「もう聞いた」
「でも」
「白」
陸は、少しだけ腕に力を込めた。
「お前が無事なら、それでええ」
玲花は、また泣きそうになった。
玲花はすずを見つけて、また二人は抱き合った。
会議室の扉の前で、佐伯先生が咳払いをした。
「えー、感動の再会中すみませんが、会議始めます」
「空気読んで」
玲花が涙声で言う。
「読んだ上で言うてます。時間押してます」
「佐伯のそういうとこ嫌い」
「先生です」
木村さんが、少しだけ口元を緩めた。
「松本くんは、今日は会議室の外で待機です」
「え」
陸が顔を上げる。
「俺も入ります」
「今回は、玲花さんと弟さんたちの今後を決める正式な話し合いです。関係機関、学校、本人が入ります。松本くんは大事な支援者ですが、今は外で待っていてください」
「でも」
「何か必要があれば呼びます」
陸は不満そうだった。
けれど、玲花が袖を引いた。
「陸」
「何」
「待ってて」
陸は、玲花を見る。
少しだけ迷ったあと、頷いた。
「……待ってる」
「逃げんなよ」
「誰が逃げんねん」
「うち」
「お前は逃げんな」
「わかってる」
玲花は、陸の手を一瞬だけ握った。
それから離した。
陸は、会議室の外のベンチに座った。
その姿を見てから、玲花は会議室へ入った。
会議室には、たくさんの大人がいた。
神戸市こども家庭センターの職員。
木村妙子。
佐伯先生。
ヨンチョリの小学校の先生。
上の弟たちの中学校の先生。
これから受け入れ先になる施設の担当者。
話し合いは、思っていたよりずっと現実的だった。
この三日間に、大人たちは本当に走り回っていた。
ヨンチョリの修学旅行費は、すでに支払われていた。
学校と市の制度を使い、急ぎの手続きで対応してくれたらしい。
玲花は、その報告を聞いた瞬間、机の下で拳を握った。
泣きそうになるのを、必死でこらえた。
次に、どこの施設に入るか。
兄弟をできるだけ一緒に生活させること。
学校をどうするか。
母といつ、どのような形で会うか。
話は、次々に進んでいく。
「転校させたらかわいそうです!」
中学校の先生が、声を荒げた。
玲花は驚いて顔を上げた。
先生は、上の弟たちの担任だった。
普段、玲花はあまり話したことがない。
でも、その先生は本気で怒っていた。
「ただでさえ家庭環境が変わるんです。ここで学校まで変わったら、子どもらの居場所がなくなります!」
「お気持ちはわかります」
こども家庭センターの職員も、引かなかった。
「でも、施設から現在の中学校までは距離があります。毎日の通学、安全面、朝の時間、本人たちの負担を考えると、現実的に難しい部分があります」
「でも!」
「先生だけで送迎できますか」
「それは……」
「学校だけでは支えきれないことがあります」
どちらも、責めるために言っているわけではなかった。
先生は、子どもたちの居場所を守りたい。
職員は、毎日の生活を現実として考えている。
どちらも、弟たちのためだった。
別の先生が言った。
「ヨンチョリくんは卒業が近いです。修学旅行もあります。できれば、今の小学校で卒業させてあげたいです」
「施設からは遠いです」
「それでも、あと少しなんです!」
「毎朝の通学を誰が支えるか、具体的な方法が必要です」
声が重なる。
資料がめくられる。
誰かがメモを取る。
玲花は、ぽかんとそれを見ていた。
大人が、怒っている。
言い合っている。
でも、その怒りは玲花を責めるためではない。
弟たちをどうするかで、みんなが本気で主張している。
まるで、親みたいだと思った。
親が与える愛が100だとしたら、
それをみんなが分割して担ってるかのように思った。
佐伯先生が、10。
木村先生が、10。
弟の部活の先生が、10。
担任の先生が、10。
施設の職員が、10。
陸が10。
すずが10。
天馬が10。
玲花から弟たちに、10。
弟たちから、玲花に、10。
歪なハートが、出来上がっていく。
母は、この場にはいない。
父もいない。
それでも、今この部屋には、弟たちのために本気で考えてくれる大人が何人もいた。
それが、ありがたくて。
同時に、悔しかった。
「子どもファーストや!」
突然、佐伯先生が叫んだ。
会議室が静まり返る。
木村さんが、ゆっくり佐伯先生を見た。
「佐伯先生」
「はい」
「お気持ちはわかりますが、標語みたいに叫ばないでください」
「すみません」
玲花は、思わず笑ってしまった。
すずも、少しだけ笑っていた。
空気が少しゆるむ。
その後、木村さんが言った。
「最終的には、子どもたち本人の考えを聞く必要があります」
その言葉で、話し合いの空気が変わった。
大人たちが決めるだけではなく、弟たちの意思を聞く。
「ぬな」
「うん」
職員が優しく聞いた。
「ヨンチョリくん。学校、どうしたい?」
ヨンチョリは、しばらく黙っていた。
それから、小さな声で言った。
「転校、したくない」
会議室が静かになる。
「修学旅行、みんなと行きたい。卒業も、今の学校がいい」
玲花は、唇を噛んだ。
泣きそうだった。
でも、泣いたらヨンチョリが不安になる気がして、必死でこらえた。
上の弟たちは、対照的だった。
「俺は、別に大丈夫です」
「「俺も〜」」
ヒョンジンが言った。
「転校しても、まあ、なんとかなる」
「ほんまに?」
玲花が聞くと、ヒョンジンは少し笑った。
「もう、これ以上、ヌナが、苦しまんでええようにしたいから。」
玲花は、ハッと息を呑んだ。
もう一人の弟も、真っ直ぐに玲花を見て力強く頷いた。
「そうやで。俺ら、転校なんか、そんなもんどうってことないわ。」
軽い。
けれど真っ直ぐに言う弟たちの声に、玲花はまた泣きそうになった。
子どもなのに。
まだ、守られる側なのに。
みんな、少しずつ我慢している。
姉の重荷を、一緒に背負おうとしてくれている。
結局、ヨンチョリだけは今の小学校に通い続けることになった。
卒業まで。
その代わり、朝の通学が遠くなる。
しばらく、玲花が送迎に付き添う。
上の弟たちは、新しい中学校へ転校する。
施設は、神戸市内にある児童養護施設
――聖ガブリエルこどもの家。
キリスト系の施設だった。
会議が終わると、早々と、そこに向かうこととなった。
許可をとって、陸たちも車で追いかける。
玲花は正直、身構えていた。
白い壁。
古いけれど清潔な廊下。
窓辺に置かれた花。
小さな礼拝堂。
壁にかかった十字架。
そして、玄関で迎えてくれたのは、灰色のベールを被った年配のシスターだった。
「よう来てくれましたね」
シスターは、ゆっくりと微笑んだ。
「ここでは、まずご飯を食べます。眠ります。泣きたい時は泣いてください。怒りたい時も、怒っていいです」
玲花は、何も言えなかった。
シスターは、玲花の鞄を見た。
「重いですね」
「大丈夫です」
「大丈夫と言う子ほど、重い荷物を持っています」
そう言われて、玲花は少しむっとした。
でも、シスターは笑っていた。
「持ちますよ」
「……ありがとうございます」
部屋にいき、荷物を置く。
すずたちは、その間、玄関でずっと待っていた。
その時、すずが玄関横に、たくさんの名札が並んでいることに気づいた。
施設支援者一覧と書かれたその下に、
関西の名だたる企業名、芸能人、youtuber、個人名が並んでいた。
すずが見つめていると、それに気づいた一人のシスターが教えてくれた。
「自分達がたくさんの大人に支えられていることを知ってほしくて、一度でも支援してくれた企業様や個人様のお名前はここに刻んでいるのです。」
グリコ、
ロート製薬、
パナソニック、
任天堂、
川崎重工業、
西日本旅客鉄道、
キーエンス、
ユニバーサルスタジオジャパン、
知らない会社名も並んでいた。
「この会社やこうした大人を目指す、きっかけにもなります。」
その中に、日本生命の名前と、マークがあった。
すずは、思わず足を止めた。
(ママの会社だ……!)
母の会社。
中村楓の会社。
母が働き続けている会社。
すずは、胸が少し熱くなった。
こんなところでも、誰かの仕事が、誰かの生活を支えている。
帰り。
シスターと、姉、弟たちが並び、玄関側に、すず、天馬、陸、そして佐伯先生と木村先生が並ぶ。
「ありがとうございました。しっかりと引き継ぎます。」
シスターが手を出すと、佐伯先生が手を出した。
「いつもありがとうございます」
その一言で、これが初めてのことではないとすずは察した。
二人の間に、これまでの歴史が漂うようだった。
手を振る玲花に、すずも手を振り返した。
陸の車に乗り込む間際。
もう一度、冷夏を振り返った。
姉弟で、円陣を組むように抱き合っている姿が見えた。
まだ、何もかもが解決したわけはなかった。
それでも姉弟は、今安全な場所へと引き継がれたのだ。
■■■
その日の夜。
すずは家に帰って、母にそのことを話した。
「ママ」
「ん?」
「玲花ちゃんたちが行く施設に、日本生命のマークがあったよ。支援者の看板に」
母は、ベッドの上で少し驚いた顔をした。
「そうなん」
「うん。ママの仕事って、こういうところにもつながってるんだね」
母は、しばらく黙っていた。
点滴の後で、顔色はまだ良くない。
でも、目が少しだけ明るくなる。
「……そっか」
「うん」
「じゃあ、やっぱり、ママ働き続けなあかんな」
「無理はだめだよ」
「無理はせえへん」
母は笑った。
「でも、働けるうちは働くわ!なんかわからんけど、誇らしいから!」
すずは頷いた。
母が会社員であること。
病人であること。
母であること。
全部がまた、ひとつにつながった気がした。
すずは、お気に入りのノートを開いた。
そこには、これまで綴ってきた目標や気持ちが書かれている。
そこに、こう書き記した。
<自分が誇れる場所で働きたい>
すずは強く、思ったのだった。
■■■
そして、ヨンチョリの修学旅行の日が近づいた。
その前日。
学校の帰り、陸が玲花の前に大きなリュックを投げた。
どさっ。
「使わせろ」
「何これ」
「リュック」
「見たらわかる」
「吉田カバン」
「よしだ……?」
「ブランドや。長く使えるやつじゃ」
陸は、少し得意げに言った。
「現場でも使えるくらい丈夫や。ヨンチョリに持たせろ」
「いや、高いやろこれ」
「俺が使ってるやつや。まだ全然いける」
「でも」
「穴空いたカバンで修学旅行行かせるよりええやろ」
玲花は、リュックを見た。
黒くて、しっかりした生地。
ファスナーも丈夫そうで、底も厚い。
ヨンチョリが持つには少し大きいかもしれない。
でも、きっと嬉しがる。
「……ありがとう」
「おう」
「陸、ほんまお父さん」
「誰がお父さんや」
「お父さん通り越して、親戚のおじさん」
「悪化してるやないか」
玲花は笑った。
笑いながら、リュックを抱きしめた。
■■■
そして、朝がきた。
修学旅行の朝だ。
まだ空が薄青い時間に、陸の車が施設の前へ来た。
窓が開き、運転席から顔を出した陸は、いつもの私服ではなく、少し塗料や汚れが染み付いたカーキ色の作業着姿だった。首にはタオルを巻き、この送迎が終わったらそのまま現場へ直行するつもりなのが一目でわかる。
「おはよ。乗れ」
玲花は、リュックを背負ったヨンチョリの手を引きながら、少し俯き加減で車に近づいた。
一時保護の慌ただしさの中で、化粧ポーチなんて持ち出せるはずもなかった。
いつものバサバサのつけまつげも、丁寧に引いたアイラインもない。完全なすっぴんだった。
陸と顔を合わせるのが恥ずかしくて、玲花は無意識にパーカーのフードを深く被り、両手で口元を隠すようにした。
「お、おはよう……」
「なんや、顔色悪いんか?」
陸が心配そうに覗き込んでくる。
「ち、ちゃうねん。見んといて」
「は? なんで」
「化粧……してへんから。つけまつげもないし、すっぴんやねん。恥ずかしいから見んといて……」
消え入りそうになる玲花を見て、陸はきょとんとした後、ふっと優しく笑った。
「アホか」
「アホって何や!」
「俺は、今のそっちの顔の方が好きやけどな」
「……え」
「ケバい化粧してるより、ずっと可愛いわ」
さらりと落とされた言葉に、玲花の顔が一気に沸騰した。
「あ!あほとちゃう!?」
「ほんまのこと言うただけやろ。ほら、早く乗れ。ヨンチョリも、遅れるぞ」
朝の車内は、少しだけ照れくさくて、あたたかかった。
窓の外を、神戸の街が流れていく。
施設から小学校までは、遠い。
前の家からなら、もっと近かった。
でも今日は、行ける。
それだけで、玲花は胸がいっぱいだった。
小学校に着くと、校門の前にはもう子どもたちが集まっていた。
大きなバッグ。
帽子。
しおり。
先生の声。
親たちのスマホ。
玲花は、ヨンチョリの襟を直した。
「忘れ物ない?」
「たぶん!」
「たぶんは怖いな」
「しおりある。財布ある。タオルある。お菓子ある」
「お菓子大事やな」
「大事!」
ヨンチョリは笑った。
それから、急に玲花に抱きついてきた。
「ぬな」
「何」
「行ってきます」
「うん。行ってらっしゃい」
ヨンチョリは、玲花の胸元に顔を擦り寄せた。
「ぬな、大好きだよ」
玲花の目に、一気に涙が溜まった。
「……ヌナもだよ」
声が震えた。
「いっぱい見てきぃ。広島」
「うん!」
「フェリーで落ちるな」
「落ちへん!」
「もみじ饅頭」
「買う!」
「写真」
「撮る!」
「よっしゃー!!!」
玲花がきつく抱きしめる。
ヨンチョリは、最後に抱きしめ返して、玲花から離れた。
リュックを揺らしながら、友達の方へ走っていく。
運動場を挟んだ向こう側。
家から近い方の校門。
そこに、一瞬、母の姿が見えた気がした。
短いスカート。
体にぴったりしたTシャツ。
派手な髪。
まるで、自分みたいな格好。
玲花は息を呑んだ。
母は、本当にそこにいたのか。
それとも、玲花が見ただけの幻だったのか。
わからない。
でも、胸が痛かった。
あなたみたいにはならない。
玲花は、心の中で強く思った。
家族を不安にさせる大人にはならない。
酒に飲まれて、子どもに背負わせる人にはならない。
絶対に。
でも。
愛している。
その言葉も、同時に出てきた。
あんな母なのに。
あんなに苦しめられたのに。
昔の優しかった母の記憶が、まだ消えない。
愛してる!心から!!
…殴られても、怒鳴れても。
愛している。。。
玲花は涙を拭いた。
隣にいた作業着姿の陸が、黙って手を差し出した。
玲花は、その手を握った。
あたたかくて、少しごつごつしていた。
「大丈夫か」
「大丈夫ちゃう」
「そっか」
「でも、大丈夫になる」
「うん」
バスが動き出した。
ヨンチョリが窓から両手を振っている。
「ぬなー!」
「行ってらっしゃい!」
玲花は、泣きながら笑って手を振った。
バスが角を曲がり、見えなくなるまで、ずっと。
見えなくなってからも、しばらく手を下ろせなかった。
陸が、時計を見た。
「こんな時に申し訳ないねんけど」
「何」
「俺、仕事やから帰る」
「台無し」
「ほんますまん。親方が待ってる」
「現実すぎる」
「施設まで送る」
「うん」
玲花は、陸の車の助手席に乗った。
シートベルトを締める。
陸がエンジンをかける。
いつものように、運転席で真面目な顔をしている。
その横顔を見たら、胸がぎゅっとした。
この人は、何度も手を離さなかった。
学校前で。
エレベーターで。
こども家庭センターの外で。
施設の前で。
今朝も、ここまで連れてきてくれた。
信号が赤に変わる。
玲花は、ふいに身を乗り出した。
陸の頬に、ちゅ、とキスをした。
「……っ!?」
陸の手が、ハンドルの上で固まる。
玲花は、顔を真っ赤にして、窓の外を見た。
「ありが、ちゅー、や」
「え」
「ありがとう、や!」
「え、いや、今の、それって」
信号が、青に変わる。
「前向いて運転して!」
「いや、でも今」
「運転!」
「はい!」
陸は、背筋を伸ばして前を向いた。
耳まで真っ赤だった。
玲花も、窓の外を見たまま、頬を押さえていた。
ヨンチョリのバスはもう見えない。
母の姿も、もう見えない。
でも、玲花の手の中には、まだ陸の手の温度が残っていた。
生活は、まだ不安定だった。
寂しさも、悔しさも、怖さも、全部残っていた。
それでも、玲花は少しだけ思った。
今日を、繋いだ。
明日も、きっと繋げる。
私には、それができる。
リアクションや、☆☆☆☆☆を★★★★★に変えていただけると、執筆の励みになります^^
感想、ご指摘、ブクマも大歓迎です!
毎日更新予定です。完結約束、ハッピーエンドです(^ ^)
実際に、施設で目にしたことのある応援企業や、活動を知っている企業様の名前を書かせていただきました。もしまた知ることができたら、追加したいです。
よろしくお願いします!




